城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二五年四月二七日              関根弘興牧師
                  創世記一七章一節ー八節
                   
 創世記から士師記まで10
    「わたしは全能の神」
 1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」(新改訳聖書第三版)
 
 まず、前回までの出来事を振り返ってみましょう。
 神様はアブラムに「わたしの示す地に行きなさい。そうすれば、あなたは大いなる国民となり、地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と約束なさいました。アブラムは、その約束を信頼して、神様が示す地に向かいました。七十五歳の時です。目的地のカナンに付くとアブラムはまず祭壇を築いて神様を礼拝しました。これから、良いことが起こると期待していたでしょう。しかし、大きな飢饉が起こったのです。すると、アブラムは、あっさりと約束の地を離れてエジプトに下って行ってしまいました。しかも、美しい妻のサライを奪うためにエジプト人が自分を殺すのではないかと恐れて、サライを自分の妹だと言ってごまかしたのです。サライはすぐにエジプト王パロの宮廷に召し入れられてしまいましたが、神様は、アブラム夫妻を守るためにパロの家に災害をお下しになりました。パロはサライがアブラムの妻であることを知り、もう災いが起こらないようアブラムに多くの贈り物を与え、アブラム夫妻をエジプトから送り出しました。この出来事を見ると、信仰の父と呼ばれるアブラムにも、自己保身や恐れなど人間的な弱さがあったことがわかりますね。それにもかかわらず、神様は御自分の約束を守り、助けてくださったのです。アブラムは、以前自分が築いた祭壇の場所に戻り、神様を礼拝し再スタートしました。しかし、多くの家畜を所有するようになったアブラムのしもべたちと甥のロトのしもべたちの間に争いが起こるようになりました。そこで、ロトはアブラムと別れて緑豊かなヨルダンの低地に移っていき、ソドムの町に住むようになり、アブラムは荒れ地の中にあるヘブロンの地に移りました。やっと落ち着いたと思ったのも束の間、大事件が起こりました。ヨルダンの低地にあるソドムやゴモラなどの王たちが、北方のメソポタミヤ地方にあるエラムの王に反旗を翻したために、エラム王の連合軍がヨルダン低地に攻め込んできて、ソドムや近隣の町を略奪し、住民を連れ去っていったのです。アブラムの甥ロトと家族も連れ去られてしまいました。その知らせを聞いたアブラムは、すぐにしもべたち三百十八人を召集して、敵を追跡し、夜間の奇襲攻撃を仕掛け、ロトを含め、奪われたすべてのものや人々を取り戻すことに成功したのです。一躍ヒーローになったわけですね。しかし、アブラムは、急にバーンアウトのような状態になったようです。敵が復讐にくるのではないか、神様の約束は本当に実現するのだろうかという恐れや不安が湧いてきたのかもしれません。すると、神様は15章1節でこう言われました。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」神様は「あなたは今、恐れているけれど、わたしがあなたの盾になって、あなたを守るから心配するな」と励ましてくださったのです。そして、アブラムに満天の星を見せて「あなたの子孫は星のように数え切れないほど増える」と言われました。そして、15章6節にこう書かれています。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」アブラムは、恐れや葛藤の中で、とても信じられないと思える状況の中で、声を振り絞るようにして「信じます」と告白したのでしょう。神様はこのアブラムの「主よ、信じます」という告白を義と認められました。つまり、神様は「アブラムよ。あなたの告白は正しい」と言われたのです。また、「義と認める」という表現は、関係を表す言葉でもあります。「主よ、信じます」と告白することは、神様とまっすぐな関係を築くことなのだと聖書は教えているのです。
 さて、今日は、次の16章ー17章の内容を見ていきましょう。
 
1 サライの提案
 
 さて、神様の約束にもかかわらず、妻のサライにはなかなか子どもができません。当時は、妻に子どもができない場合は、家を絶やさないために二つの方法がありました。一つは、しもべの誰かに相続させるという方法です。しかし、神様は15章4節で「あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない」とはっきり言われましたね。二つ目は、妻の代わりに妻に仕える女奴隷に子どもを産ませるという方法です。サライは考えました。アブラムから生まれ出てくる者ということなら、私が子を宿さなくても、家のしもべの女に子供を宿らせ、その者に後を継がせてもいいではないか、同じようなことは回りでもやっていることではいか。当時の世界ではこうしたことは普通に行われていたからです。そこで、サライはアブラムにこう持ちかけました。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」
 そのサライの提案を受けたアブラムも、何の反論もせず、その提案に従ってしまいました。アブラムの一夫多妻の始まりです。
 サライの女奴隷ハガルは、すぐに身ごもりました。しかし、すぐに一夫多妻の弊害があらわれてきました。今まで忠実に仕えていたハガルが、お腹が大きくなるにつれ、女主人サライを見下げるようになったのです。そこで、サライはアブラムに八つ当たりしました。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」つまり、「私が許可したから、ハガルは妊娠できたのに、その恩を忘れて横柄な態度をとっているのは、あなたが甘やかすからですよ」と夫を責めたわけですね。しかも神様まで引き合いに出して「主が、私とあなたの間をおさばきになりますように」と言う始末です。アブラムはタジタジで、「あなたの女奴隷なんだから、あなたの好きなようにしなさい」と答えるしかありませんでした。これも無責任な言い方ですね。ここから、サライのハガルに対する陰湿ないじめが始まったのですが、アブラムはただ傍観していたようです。前回の英雄的な態度とは大違いですね。この三人の間にあるのは、嫉妬、傲慢、優柔不断などで、まったく褒められたものではありませんね。
 
2 ハガルの逃亡と神様の約束
 
 さて、サライのいじめに耐えきれなくなったハガルは、ついに逃げ出してしまいました。身重の状態で荒野をさまようことになったのです。どこにも頼るところがなく、このままではのたれ死んでしまうでしょう。ハガルは、女主人に横柄な態度をとったことを後悔していたかもしれません。そんなハガイが荒野の泉のほとりにたどり着いたとき、「主の使いが彼女を見つけた」と書かれています。主の使いは、こう尋ねました。「あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」すると、ハガルは「私の女主人サライのところから逃げているところです」と答えました。どこから来たかは言えましたが、どこへ行くのかは答えられなかったのです。行くあてがなかったからです。
 すると、主の使いは、「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」と促しました。サライのもとに帰ると、どんないじめが待っているかわかりません。しかし、このままでは行き倒れになってしまいます。どちらを選ぶにしても大きな葛藤です。そんなハガルに主の使いは、神様の約束を伝えました。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」そして「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから」と言ったのです。「イシュマエル」とは「神は聞きたもう」という意味です。荒野のただ中で希望を失いかけていたハガルの声を神様が聞いてくださったという意味の名前です。ハガルは、後に、息子の名前を呼ぶたびに、この経験を思い起こしたことでしょう。
 ところで、主の使いは続けてこう語りました。「彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」このイシュマエルの子孫から後のアラブ人が生まれたと言われるのですが、今日のイスラエル人とアラブ人との紛争はこの時すでに預言されていたとも言えるかもしれませんが、どちらの先祖もアブラムであり、神様はどちらも愛しておられることを、私たちは忘れてはいけません。また、神様が最終的な平和をもたらしてくださるという希望があることを覚えましょう。
 16章13節-14節にこう書かれています。「彼女は自分に語りかけられた主の名を『あなたはエル・ロイ』と呼んだ。それは、『ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは』と彼女が言ったからである。それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。」この「エル・ロイ」とは、「神は見たもう」という意味で、「ベエル・ラハイ・ロイ」は、「生きて見ておられる神の井戸」という意味です。ハガルは、荒野で生きる希望も力も失いかけた時、聞いてくださる神様、見ていてくださる生ける神様がおられることを知り、勇気を振り絞ってアブラム夫妻のもとに帰って行きました。そして、生まれた息子にイシュマエルと名付けたのです。私たちも私たちの声を聞き、私たちの状態を見て必要を備えてくださる神様がおられることを大切に心に留めておきたいですね。
 
3 アブラムからアブラハムへ
 
 イシュマエルが生まれた時、アブラムは八十六歳でした。その十三年後、九十九歳になったとき、主がアブラムに現れ、お語りになりました。その内容が17章に書かれています。
 
(1)全き者であれ
 
 神様はまず「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と言われました。新約聖書のマタイの福音書5章48節では、イエス様も「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われましたね。そう言われても、普通は「私には無理だ」と思いますよね。
 しかし、「全き者であれ」「完全でありなさい」というのは、何の落ち度も欠点もない完全無欠な人になれ、という意味ではありません。聖書が教える完全な生き方とは、神様との親しい関係を保ち続ける生き方のことです。私たちは失敗したり挫折したり過ちを犯すことがたくさんあります。でも、そんな私たちを愛し、赦し、導き、豊かな祝福を与えてくださる神様に感謝し、信頼して歩むこと、また、神様の約束がなかなか実現しないように思えても、なお、全能の神様が必ず約束を実現させてくださることを信じて希望を持って歩むこと、それが全き者としての生き方なのだと聖書は教えているのです。
 
(2)永遠の契約
 
 そして、神様は、「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。・・・そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。」と言われました。
 契約の内容は、「わたしは、あなたをおびただしくふやそう」「わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える」というものです。そして、その目的は「わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となる」ためであるというのです。
 子孫と土地の約束と契約の儀式は、すでに前回行われましたね。ですから、今回の箇所で改めて「契約を立てる」と言われているのは、「契約を確認する」とか「契約を発効する」という意味ではないかと考えられています。
 そして、契約がいよいよ実行に移されるにあたって、神様は、アブラムに二つのことをお命じになりました。
 
(3)アブラムへの命令
 
@改名の命令
 
 まず、神様は、「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである」とお命じになりました。「アブラム」とは「高められた父」という立派な名前です。その名前にハを一文字追加して「アブラハム」となると、「多くの人々の高められた父」という「多くの」が追加される名前になるんです。アブラムにしてみれば、「冗談でしょ」と言いたい思いだったかもしれません。もう九十九歳になったのに、生まれた子どもはイシュマエルだけです。これから子どもが生まれる可能性は限りなくゼロに近いのに、そんな名前に変えたら、ご近所の笑いの種にされるだけではありませんか。
 それだけではありません。神様は、こうも言われました。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」「サライ」は「私の王女」という意味ですが、イがとれて「サラ」となると「王女」という意味になります。今までアブラハムの「王女」だったのが、これからは多くの人々の「王女」となるというわけです。不妊だったサラが多くの子孫を産むというのですね。それを聞いたアブラハムの反応はおもしろいですよ。「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。』」正直と言えば正直ですね。そして、言いました。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」もうイシュマエル以外の子どもが生まれるはずはないから、イシュマエルの子孫が増え広がるのだろうと思っていたのです。しかし、神様は驚くことを言われました。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。・・・来年の今ごろサラがあなたに生むイサクと、わたしの契約を立てる。」ついに、具体的な約束が与えられました。一年後にサラが息子を産むというのです。神様の契約が目に見える形で実行されることになったわけですね。
 
A割礼の命令
 
 神様のもう一つの命令は「割礼」でした。「あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない」とお命じになったのです。「割礼」というのは、当時のこの地方の風習として広く行われていたもので、男性の包皮の一部を切り取るというものです。しかし、ここで神様が割礼をお命じになったのは、アブラハムとその子孫たちが神様の民であることを示すという象徴的な意味がありました。アブラハムは、その日のうちに、自分や息子イシュマエルだけでなく家中の男子に割礼を受けさせました。この時以降、割礼は、神の民であることを示す大切な儀式となったのです。
 しかし、その後の歴史を見ると、割礼は単なる儀式にすぎなくなっていきました。肉体に割礼のしるしだけをもって自分たちは神の民だと自負し、結局、神様に従わない人々がたくさん出てきました。それでは本当の神の民とは言えませんね。それなのに「私は割礼を受けたから神の民だ」と誇り、割礼を受けていない他の民族を見下す人々が多かったのです。そんな人々に向かって、預言者エレミヤはこう呼びかけました。「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行いのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」(エレミヤ4章4節)「見よ。その日が来る。・・・その日、わたしは、すべて包皮に割礼を受けている者を罰する。すべての国々は無割礼であり、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」(エレミヤ9章25節ー26節)エレミヤは、表面的に割礼の儀式を行うことよりも、頑なな心に割礼を受けて、神様に心から従うことが大切だと繰り返し語ったのです。
 また、新約聖書では、パウロもこう書いています。「御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ229)、「神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。」(ローマ330節)、「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5章6節)、「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」(コロサイ211節) つまり、神様を信じ、方向を変え、救い主イエス・キリストをこころに迎え入れ、生きていくことこそ心に割礼を受けた人々、まことの神の民であり、アブラハムの子孫であり、神様の祝福を受けることができるのだと聖書は教えているのですね。
 ただ。アブラハムの時代は、まだ、神様の救いの全貌が明らかにされていませんでした。ですから、様々な儀式や出来事を通して、後に来られる救い主や神様の救いと祝福の御計画のことが象徴的に示されたのです。アブラハムに命じられた割礼の儀式も、単に肉体に割礼を受けるだけでなく、心にも割礼を受けて、素直に神様に従うことが大切であることを象徴的に教えるものだったのですね。
 神様は「全能の神」、エル・シャダイです。神様にとって不可能なことは一つもありません。
 次回、アブラハム夫妻も息子イサクの誕生を通してそのことを経験することになります。
 アブラハム夫妻を見ると、立派なことをする一方で、愚かな失敗をしたり、無責任で自分勝手な行動をしてしまうこともあるごく普通の人間であったことがわかります。信仰も勇気もあるけれど、弱さや欠点もありました。しかし、右往左往しながらも、失敗を繰り返しながらも、神様を信頼して生きたアブラハムの信仰の姿が、聖書では賞賛されているのです。何だかとても励まされますね。
 アブラハムを導き続けてくださった恵み深くあわれみ深い神様が、今、アブラハムの信仰の子孫である私たちとともにおられることを覚え、感謝しつつ歩んで行きましょう。