城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二五年五月四日               関根弘興牧師
                創世記一八章二〇節ー三三節
                   
 創世記から士師記まで11
   「その十人のために」
 20 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」26 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。28 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」29 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」33 主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。(新改訳聖書第三版)
 
 神様はアブラムに「わたしの示す地に行きなさい。そうすれば、あなたは大いなる国民となり、地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と約束なさいました。アブラムの子孫は空の星のように、また、地のちりのように数え切れないほどに増え広がると言われたのです。しかし、何年経ってもアブラムと妻サライには子どもができません。二人とも高齢になっていました。そこで、サライは当時の習慣に従って、自分の女奴隷ハガルにアブラムの子を産ませ、それを自分の子にしようと考えたのです。アブラムもその提案を受け入れました。女奴隷ハガルは、すぐに身ごもりましたが、自分が妊娠したことで女主人サライを見下げるようになりました。それに怒ったサライは、ハガルを執拗にいじめるようになったのです。そのいじめに耐えきれなくなったハガルは、ついに逃げ出してしまいました。しかし、行く当てがありません。荒野をさまよい、死を覚悟しました。しかし、主の使いがハガルに現れ、神様がいつもハガルを見ておられ、ハガルの声を聞いてくださることを知らせたのです。そして、傲慢な態度を改めてサライのもとに返るように、また、生まれた息子にイシュマエル、つまり、「神が聞いてくださる」という意味の名前を付けるように命じました。ハガルはサライのもとに帰り、男の子を産み、イシュマエルと名付けました。
 その後、また何年も経ちました。イシュマエルが十三歳になった時、アブラムは九十九歳、妻のサライは八十九歳になっていました。もう子どもを産むことは不可能に思えました。しかし、神様は再びアブラムに現れ、「わたしは、あなたをおびただしくふやそう。わたしがあなたの神、また、あなたの後の子孫の神となるためである」と言われたのです。また、「あなたの名をアブラムからアブラハムに変えなさい。サライの名もサラに変えなさい」とお命じになりました。「アブラム」は「高められた父」という意味で、それに「ハ」の一文字を追加して「アブラハム」となると、「多くの人々の高められた父」という意味になるのです。また、「サライ」は「私の王女」という意味ですが、「イ」がとれて「サラ」となると「王女」という意味になります。今まではアブラムの「王女」でしたが、これからは多くの人々の「王女」となるというわけです。
 その命令を聞いたアブラハムの反応はどうだったでしょうか。「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。』」と書かれています。思わず「クスッ!」と笑ってしまったというのです。もう高齢になった自分とサラに子どもができるとは、とても信じられなかったのですね。それなのに名前を変えるなんて滑稽ではないかと思ったのでしょう。そして、こう言いました。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」アブラハムは「サラが子どもを産むのはもう無理だ。イシュマエルも自分の息子だから、このイシュマエルの子孫が増え広がることによって神様の約束が成就するのだろう」と思っていたのです。
 ところが、神様は驚くことを言われました。「いや、来年の今ごろ、サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。そのイサクとわたしの契約を立てる。」ついに、具体的な約束が与えられました。「アブラハムの子孫が数え切れないほど増えて神様の祝福を受ける」という約束は、サラから生まれる息子イサクに引き継がれるとはっきり示されたのです。
 今日は、その続きの18章ー19章の内容を見ていきましょう。
 
1 三人の主の使い
 
 アブラハムはヘブロンのマムレの樫の木のそばで天幕生活をしていました。ある日、アブラハムは、近くに三人の人が立っているのに気づきました。彼は、すぐにその人たちのもとに走って行き、地にひれ伏し、礼をして、「どうか、あなたのしもべである私のところに立ち寄ってお休みください」と願いました。そして、急いで妻のサラにおいしい食事を作らせ、その人たちをもてなしたのです。
 この三人が誰なのが、はっきり書かれていませんが、アブラハムは、すぐにこの人たちが神様から遣わされて来たことを悟ったようです。また、三人の内の一人は、主と呼ばれています。新改訳聖書では太文字の「主」で表記されています。これは、ヘブル語原文では神様御自身の御名を表す「やーウェ」という言葉です。ですから、この「主」と呼ばれている一人は受肉以前のキリストだったのではないかとも考えられているのです。主御自身が御使い二人を伴ってアブラハムのもとに来られたのではないかと考えられるわけですね。アブラハムは、この人たちを見てすぐに、ただ者ではないと感じたようです。そこで、地にひれ伏して、招き入れ、丁寧にもてなしたのです。
 そのアブラハムに18章10節で主がこう言われました。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」その時、サラは、天幕の入口にいて、その言葉を聞いていました。アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラは自分に妊娠の可能性がなくなっているのを知っていました。それで、サラは心の中で笑ってこう言ったと書かれています。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」前回の箇所では、アブラハムが笑ったと書かれていましたが、サラも同様に「それは不可能だ」と考えたわけですね。
 すると、主は、アブラハムにこう言われました。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
 聖書には、「そんなこと起こるはずがない」と思える出来事がたくさん書かれています。「神が言葉を発したら天地ができた」「モーセが杖を差しのばすと海が分かれて道ができた」「エリヤが祈ったら、天から火が下った」「処女マリヤが身ごもって救い主が生まれた」「十字架にかかって死んだイエスが三日目によみがえった」などなど、どれも「そんなこと起こるはずがない。馬鹿げた作り話だ」と言って笑い飛ばす人も少なくありません。
 でも、考えてみてください。もし何もないところからすべてのものを造り出すことのできる力を持つ全能の神様がおられるなら、不可能なことなど無いはずです。むしろ、神様は、人にはできないことをやってみせることによって、御自分が全能の神であることを示してくださるのです。「人にはできないことが、神にはできるのです」とイエス様は言われました。そのことを、聖書は様々な出来事を通して教えているのです。
 アブラハム夫妻も、もし若い時に息子が生まれたら、それを当たり前のこととして受け取ったことでしょう。しかし、もう無理だ、不可能だと思う時に息子が生まれたら、その息子こそ神様から与えられた約束の子どもであると確信できるでしょう。
 神様は、私たちが「もう駄目だ」思えるようなときにも、「わたしは全能の神だから、必ず約束を果たすことができる。だから、わたしを信頼しなさい」と語りかけてくださる方なのです。
 
2 ソドムとゴモラ
 
(1)アブラハムのとりなし
 
 さて、三人の人は、アブラハムの所から立ってソドムの方角に向かっていきました。アブラハムは、見送るために一緒に歩いて行きました。三人のうちの二人の御使いは、ソドムの町に進んで行きましたが、もう一人の「主」と呼ばれる方は、アブラハムとともに残り、大切なことを伝えることになさいました。「わたしはアブラハムに祝福を約束し、アブラハムによってすべての国々が祝福されるようになる。だから、このアブラハムには、これからわたしがなそうとしていることを隠さずに話しておこう」と思われたのです。そして、18章21節で、こう言われました。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」ソドムとゴモラは、緑豊かで潤ったヨルダン川の低地にありました。しかし、当時は、欲望と退廃の町になってしまっていたのです。
 アブラハムは、主がソドムとゴモラを滅ぼそうとしておられることを悟りました。しかし、ソドムには甥のロトやその家族が住んでいます。そこで、ソドムが滅ぼされないように必死に主に訴えました。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」すると、主は言われました。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」しかし、アブラハムは不安になりました。正しい者が五十人もいないかもしれないと思ったのです。そこで、「正しい者が四十人いたらどうでしょう」「三十人ならどうでしょう」「二十人いたらどうでしょう」と必死で食い下がり、「十人の正しい者がいたら、その十人のために滅ぼさない」という主の約束を取り付けたのです。主はアブラハムと語り終えると去って行かれ、アブラハムは自分の家へ帰って行きました。いくらソドムが酷い町でも、十人ぐらいは正しい者がいるだろうと思ったのでしょうね。
 
(2)二人の御使いの訪問
 
 一方、二人の御使いは夕暮れにソドムに着きました。門のところに座っていたロトは、この二人を見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて拝み、自分の家に泊まるようにしきりに勧め、ご馳走を作ってもてなしました。ロトも、この二人が普通の人と違うことを感じたのでしょう。すると、町の者たちが若い者から年寄りまでこぞってロトの家を取り囲み、「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ」と叫び始めました。異常なまでの性的欲望、性的倒錯に満ちた町であったことがわかりますね。ロトは外に出て、家の戸口をしめ、客人を守ろうとしてこう言いました。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。お願いですから。私にはまだ男を知らないふたりの娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」このロトの提案も異常なものですね。人々の欲望を満たすために娘たちを差し出すというのですから。ソドムの常軌を逸した世界に長く暮らしていたロトは、まわりの影響を受けて倫理的基準がおかしくなっていたようです。
 この出来事から、ソドムという言葉は性的倒錯の象徴として使われるようになりました。ただし、現代の同性愛や性同一障害の問題を、このソドムの状態と同じように見なすのは間違いだと私は考えています。ソドムの人々は、際限の無い欲望のままに、人としての限度を遙かに超えた悪を行っていたからです。
 さて、ロトが要求に応じないので、怒り狂った群衆はロトに襲いかかろうとしました。しかし、突然の目潰しをくらい、目が見えなくなってしまったのです。その隙に、御使いたちはロトを家の中に引き入れて戸を閉めました。そして、ロトにこう言ったのです。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」(19章12節-13節)
 ロトは、ここで初めてこの町が滅ぼされることを知り、すぐに娘の婿たちに知らせに行って町から出るように促しました。しかし、誰も真剣に聞こうとはしませんでした。
 19章15節から、こう書かれています。「夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。『さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。』しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。──主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」
 ロトは、ためらっていましたから、本当はソドムとともに滅ぼされてもしかたない状態でした。しかし、主があわれみによってソドムから連れ出してくださったのですね。それだけではありません。御使いは、ロトに言いました。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」そう言われたら、すぐに御使いの指示に従って山を目指して逃げていけばいいと思いますね。神様は、私たちに何かをお命じになる時には、その命令に従うことができるように必要な力や助けを与えてくださるのですから。ところが、ロトは「私は山まで逃げるのは無理です。あそこの小さな町に逃げさせてください」とごねて、身勝手な要求をしました。それでも、御使いは怒らずに、ロトの要求を受け入れ、「あなたがあの町に逃げ込むまで待とう。あの町は滅ばさない」と約束してくれたのです。なぜ神様はロトに対して、このように寛容な取り扱いをしてくださったのでしょうか。19章29節にこう書かれています。「神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」アブラハムは、ロトのためにずっと祈り続けていたのでしょう。ロトたちが助けられた背後にアブラハムの真剣な祈りがあったのですね。私たちも誰かのために祈ること、また、誰かに祈られていることの大切さを覚えたいですね。
 
(3)ロトの子孫
 
 さて、ロトがツォアルという小さな町に逃げ込んだとき、主は、ソドムとゴモラの上に、硫黄の火を降らせ低地全体の町々と住民と植物をみな滅ぼされてしまいました。実際、この地には、硫黄や瀝青や天然ガスや石油が埋蔵されていましたから、何かのきっかけで噴出した地底のガスに火が付いて大爆発が起こったのかもしれません。ロトと娘たちは助かりました。しかし、ロトの妻は、御使いたちの命令に背いて、うしろを振り返ったので、塩の柱になってしまったと書かれています。ソドムの生活に未練があって振り返ってしまったのでしょう。助かったロトと二人の娘は、ツォアルの住民に危害を加えられるのを恐れ、その町を出て、山のほら穴の中に住み始めました。そこで、何とも後味の悪いことが起こります。
 ロトの娘たちは、この山の中では誰とも出会えず、結婚して子孫を残すことができないと心配し始めました。そして、父親のロトに酒を飲ませ、ロトが眠り込んでいる間にいっしょに寝て、子どもを作ろうと決心したのです。そんなことを考えて実行してしまうのは、ソドムの悪い影響が染み込んでいたからでしょうね。19章36節ー38節にはこう書かれています。「こうして、ロトのふたりの娘は、父によってみごもった。姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。」このモアブ人とアモン人は、後にイスラエルを何度も悩ます存在になっていくのです。ただ、悪い結果ばかりではありませんでした。後の時代に書かれたルツ記を見ると、モアブ人の女性ルツが神様を信じて、イスラエル人のボアズと結婚したことが書かれていますが、その子孫からダビデ王、また、イエス・キリストが生まれたのです。このルツの名は、マタイの福音書1章のイエス・キリストの系図にも載っています。神様は、人種、民族に関係なく、誰でも神様を信じる人々を祝福してくださるのですね。
 今日の箇所のロトの姿を見ると、とても褒められた人物ではないように思えますね。悪に満ちたソドムの町に住み着き、御使いに「真剣に逃げなさい」と言われてもためらい、新たな生活を建て上げることができずに、娘たちに子どもを産ませてしまうことになったのですから。ところが不思議なことに、第二ペテロ2章6節ー8節にこう書かれているのです。「また、(神は)ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」 ここではロトが「義人」と呼ばれているのです。確かに、ロトは、主の使いをもてなしましたし、ソドムの混乱状態を嘆いていたでしょう。しかし、義人と言われるほど立派な人だったとは思えませんね。しかし、ここで言う「義人」とは、完全無欠な正しい人という意味ではないのです。ロトは、御使いを受け入れました。また、御使いに手をつかまれて町から連れ出されたときに、その手を振りほどきませんでした。それが、大切なのですね。私たちもロトと同じく愚かさや弱さがありますね。でも、神様を受け入れ、信頼するとき、神様は私たちを「義人」と呼び、手を取って救いに導いてくださるのです。その主のあわれみを覚えて今週も歩んで行きましょう。