城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二五年五月一八日              関根弘興牧師
                  創世記二一章一節ー六節
                   
 創世記から士師記まで12
   「イサクの誕生」
 1 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」(新改訳聖書第三版)
 
 今日は、創世記20章-21章の内容を見ていきましょう。
 まず、前回までの出来事を振り返ってみましょう。アブラハムは、最初はアブラムという名前でした。アブラムは七十五歳の時、神様から「わたしの示す地に行きなさい。そうすれば、あなたは大いなる国民となり、地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と言われ、約束の地へと旅立ちました。神様は、「あなたの子孫は空の星のように増える」と約束してくださったのですが、アブラムの妻サライには、なかなか子どもが生まれません。そこで、サライは、自分の代わりに女奴隷ハガルにアブラムの子を産ませ、その子を自分の子とすることにしました。ハガルはすぐに身ごもってイシュマエルを産みました。アブラムが八十六歳の時です。しかし、アブラムが九十九歳になったとき、神様は「わたしの約束はイシュマエルではなく、サライ自身が産む子どもを通して実現する」と言われたのです。そして、「あなたの名をアブラムからアブラハム(多くの国民の父)に変えなさい。サライもサラ(人々の王女)に改名しなさい。来年の今ごろ、サラが、あなたに男の子を産む。その子をイサクと名づけなさい」とお命じになりました。それを聞いたアブラハム夫妻は、心の中で思わず笑ってしまいましたね。「高齢の自分たちに子どもができるなんて不可能だ」と思ったからです。しかし、神様は「わたしは全能の神である。わたしに不可能なことがあろうか」と宣言されました。
 そして、神様の約束の通り、今回の21章でサラが待望の息子イサクを産むことになるのですが、そのイサク誕生の前に、二つの出来事が起こりました。一つは、前回見ましたが、ソドムとゴモラとその周辺の町々が悪に満ちたため、天から降ってきた硫黄の火によって一瞬のうちに滅ぼされてしまったという出来事です。ソドムにはアブラハムの甥のロトが住んでいました。主がソドムを滅ぼそうとしておられることを知ったアブラハムは必死でロトの救いを願い求めました。そこで、御使いたちは、ロトと妻と娘たちを町の外に連れ出し、「決して後ろを振り向いてはいけない。必死で逃げなさい」と命じました。しかし、ロトの妻は、ソドムの生活に未練があったのでしょう、後ろを振り向いて塩の柱になってしまったのです。助かったロトと二人の娘は、山のほら穴の中に住み始めましたが、ロトの娘たちは、このままでは子孫を残すことができないと心配し、父のロトに酒を飲ませ、ロトが眠り込んでいる間にいっしょに寝て、子どもを産むことにしたのです。こんなことを思いつくのは、ソドムの悪い影響が染み込んでいたからでしょう。こうして生まれた姉の息子はモアブという名で、モアブ人の先祖となりました。妹の息子はベン・アミという名で、アモン人の先祖になりました。このモアブ人とアモン人は、後にイスラエルを何度も悩ます存在になっていくのです。ただ、悪い結果ばかりではありませんでした。後の時代に書かれたルツ記を見ると、モアブ人の女性ルツが神様を信じて、イスラエル人のボアズと結婚したことが書かれていますが、その子孫からダビデ王、また、イエス・キリストが生まれたのです。このルツの名は、マタイの福音書1章のイエス・キリストの系図にも載っています。このことからも、罪の満ちた世界の中に神様を信頼する人々が起こされ、それが将来の救いへとつながっていくのだという聖書の希望のメッセージを知ることができるのです。
 
1 ゲラルでの出来事
 
 さて、イサクが生まれる前に起こったもう一つの出来事は、20章に記されています。アブラハムは、ヘブロンのマムレの樫の木のそばに天幕を張って、そこに二十年近く暮らしていました。ところが、ソドムとゴモラが滅ぼされた後、アブラハムはどういうわけか、南のネゲブ地方にあるゲラルという町に移っていったのです。「来年の今頃、イサクが生まれる」と神様が約束してくださったのですから、わざわざ引っ越しをしなくても住み慣れた場所に落ち着いていればよいではありませんか。なぜゲラルに移ったのか、理由は書かれていないのでわかりませんが、ソドムが滅ぼされたことで何かの変化が起こったのかも知れません。または、もっとよい牧草地を求めての移動だったのかもしれません。しかし、理由はともかく、年寄り夫婦が長年住み慣れた場所から移るとなると、疲れも不安も襲ってきたことでしょう。案の定、アブラハムは、このゲラルで、二十年前にエジプトに行った時と同じ失敗を繰り返してしまったのです。20章1節-2節こう記されています。「アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、アブラハムは、自分の妻サラのことを、『これは私の妹です』と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。」ゲラルに行く前に、アブラハムはサラにこう言ったわけですね。「あなたは魅力的だから、この地の権力者は、すぐにあなたに目を付けるだろう。そして、夫の私を殺して、あなたを自分のものにしようとするかもしれない。だから、あなたは私の妹だということにしよう。」案の定、サラは、すぐにゲラルの王アビメレクに召し入れらてしまいました。ずっと待ち望んでいた子どもが来年生まれると神様が約束してくださったばかりなのに、アブラハムは自分の身を守るために嘘をつき、その結果、神様の約束を台無しにしてしまうような窮地に陥ったのです。しかし、神様は、私たちがどんな状態にいても関係なく御自分の約束を必ず守ってくださる方です。20章3節ー7節にこう書かれています。「ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。『あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。』アビメレクはまだ、彼女に近づいていなかったので、こう言った。『主よ。あなたは正しい国民をも殺されるのですか。彼は私に、「これは私の妹だ」と言ったではありませんか。そして、彼女自身も「これは私の兄だ」と言ったのです。私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです。』神は夢の中で、彼に仰せられた。『そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。』」夢で神様の警告を聞いたアビメレクは恐れ震えてしまいました。そして、すぐにアブラハムを呼び寄せて言ったのです。「あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」すると、アブラハムはこう答えました。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。」(20章11節-12節)この答えを聞くとイラッとしますね。アブラハムは素直に謝るどころか、ぐだぐだと言い訳ばかりしています。しかも「この地方には神を恐れることが全くない」などと相手に失礼なことも平気で言っていますね。「それなら、わざわざここに引っ越してくるな」と言いたくなりますね。それでもアビメレクは、アブラハムにサラを返しただけでなく、羊と牛の群れと奴隷たちを与え、自分の領地の中の好きな場所に住んでいいという許可も与えました。また、サラには銀千枚を与えました。どう見ても、アブラハムよりアビメレクの方が良心的で立派な人物に思えますね。それなのに、アブラハムが神様に祈ると、アビメレクと妻たちが癒やされてまた子を産むようになったと書かれています。神様は、失敗をし、言い訳ばかりするアブラハムを通してみわざを行ってくださったのですね。
 アブラハムは、もうすぐサラが男の子を産むと神様が約束してくださったのに、どうしてゲラルに行ったり、嘘を言ったりしてしまったのでしょうか。ある学者は、このゲラルでの出来事は、かなり以前に起こったもので、ここに挿入されているだけだと考えます。でも、皆さん、人間というのは、同じ失敗を繰り返してしまうものですね。「一度あることは二度ある。二度あることは三度ある」と言いますね。私たちも自分自身で痛いほど経験しているではありませんか。
 この出来事からわかるのは、アブラハムは完全無欠な立派な正しい人間だから神様に選ばれたわけではなく、むしろ、愚かで間違いも犯す人間だったということです。それでも、神様は御自分の救いの御計画を実現するためにアブラハムを守り導き、用いてくださいました。また、「神を恐れることがない」と思われる人の中にも、神様の言葉を聞いて従う人がいるのですね。ですから、私たちは、自分がクリスチャンで神様の救いを知っているからといって自分を誇ったり、クリスチャンでない人を下に見るようなことをするべきではありませんね。そして、欠点や過ちの多い自分なのに神様が豊かな恵みを与えてくださったこと、また、まだクリスチャンでない人々も神様が導いてくださることをいつも覚えておきたいですね。
 アブラハムは、今回の出来事を通しても、改めて自分の弱さと、神様の恵みの大きさを感じたことでしょう。
 
2 イサク誕生
 
 そして、21章で、いよいよ待望の息子イサクが誕生しました。「イサク」は「笑う」という意味です。この名前には二重の意味が含まれています。神様が「来年の今ごろ、サラが男の子を産む」と言われたとき、アブラハムもサラも「そんなことは不可能だ」と思って、思わず笑ってしまいましたね。その笑ってしまうような不可能なことが現実になったという意味がありますね。それから、サラは、イサクが生まれた時、21章8節で「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう」と言いました。この「神は私を笑われました」というのは、直訳すると「神は私に対して(私のために)笑いをつくられた」という意味です。つまり、神様は、サラに喜びの笑いをくださったというのです。そして、まわりの人々も神様のみわざを知って驚き、サラと共に喜び笑ったのですね。イサクという名前は、喜びあふれる笑いを表す名前になったのです。
 
3 サラとハガルの確執再び
 
 さて、イサクは順調に育ち、アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な宴会を催しました。当時の乳離れは、三歳ぐらいだったようです。その祝宴の最中、サラは、イシュマエルがイサクをからかっているのを見ました。その時、イシュマエルは十六歳か十七歳です。自分の置かれた立場や、自分の母親ハガルがこれまでどんな経験をしてきたかも知っていたでしょう。複雑な思いを持って祝宴に参加していたかもしれません。でも、相手はまだ幼いイサク坊やです。口語訳聖書では、イシュマエルがイサクと「遊ぶのを見た」と訳されています。ですから、悪気はなく、ちょっとからかっていた程度のことだったかもしれません。このことをパウロはガラテヤ人への手紙の中で「迫害した」と記していますが、それはちょっと大げさな表現ですね。普通は、高校生が小さい子をちょっとからかったくらいでは何も起こりません。しかし、母親は敏感なんです。待ちに待って生まれた我が子が少しでもからかわれていたら黙っていられません。しかも、イシュマエルはアブラハムの最初の息子ですし、イサクよりかなり年長ですから、相続権をイシュマエルに奪われてしまう心配もありました。「ここのまま放置したら、とんでもないことが起こるかも知れまない」と思い始めると止まりません。どんどんエスカレートして、サラはついに夫にこう迫ったのです。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」以前、イシュマエルの母ハガルは、アブラハムの子を妊娠してから女主人のサラを見下すようになりました。それで、サラは憤慨して、ハガルを追い出すように夫に要求しましたね。追い出されたハガルは荒野で御使いに出会い、サラのもとに帰って謙遜な態度で仕えるように諭されました。その後、イシュマエルを産んだハガルがサラに対してどういう態度を取ったかはわかりませんが、二人の間にはいろいろ確執があったかもしれませんね。そして、今回、イシュマエルがイサクをからかっているのを見て、サラの我慢が限界に達したのかもしれません。ハガルとイシュマエルの二人を追い出せと言い出したのです。
 アブラハムは非常に悩みました。イシュマエルも愛する息子です。ハガルも奴隷とはいえ、妻の一人です。しかし、神様は、アブラハムにこう告げられたのです。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」神様は、イシュマエルを守って、子孫を増やすと約束してくださったのです。そこで、アブラハムは、翌朝早く、パンと水の皮袋を与え、ハガルとイシュマエルを送り出しました。しかし、二人は行くあてなどありません。神様の約束があるとはいえ、ハガル親子の後ろ姿をアブラハムはどんな思いで見送ったことでしょう。どれほど心配だったことかと思います。
 
4 神の使い
 
 ハガルとイシュマエルは、荒野をさまよい歩き、やがて、パンも水も尽きてしまいました。もう死を待つしかありません。ハガルは、息子の死ぬのを見たくなかったので、息子から離れて座り、声をあげて泣きました。しかし、21章17節から、こう書かれています。「神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。『ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。 行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。』神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。」
 神様が少年の声を聞かれたと書かれていますね。以前お話ししましたが、イシュマエルという名前は「神は聞きたもう」という意味でしたね。イシュマエルにしてみれば、大人の身勝手さのために酷い仕打ちを受けたと思ったかもしれません。アブラハムとサラにあっさり見捨てられてしまったのですからね。しかし、天の父は、決して見捨てることなく、イシュマエルの声を聞き、瀕死の状態から救い出し、イシュマエルとともにいて、たくましく成長させてくださったのです。イシュマエルには十二人の息子が生まれ、それぞれに部族を形成していきました。イサクの神は、イシュマエルの神でもあったのですね。
 この後、イサクとイシュマエルの仲はさぞ険悪だったのではないかと思ってしまいますね。音信不通でいっさい交流しなくなってもやむを得ません。でも、そうではなかったのです。たとえば、イシュマエルの娘の一人が、イサクの息子エサウの妻となっています。また、25章8節-9節にはこう書かれています。「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。」この短い葬儀の記録を読むと、なんだか心暖まる感じがしますね。様々な確執がありましたが、イサクの神はイシュマエルの神、イシュマエルの神はイサクの神であり、二人とも同じ神様の守りの中で成長したのだと思わされるからです。
 
5 新約聖書の視点
 
 さて、新約聖書で、パウロは、「人は律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められる」ということを何とか人々に理解して欲しいと願い、繰り返し書き記していますが、ガラテヤ人の手紙の中では、イサクとイシュマエルを例に挙げて説明しています。
 アブラハム夫妻は、神様の約束の実現が待ちきれず、自分たちの方法で息子を得ようとして、サラの女奴隷ハガルに息子を産ませました。それがイシュマエルです。一方、イサクは、アブラハム夫妻がもう自分たちには不可能だという状態になったときに、神様から与えられた約束によって神様の力によって生まれた息子です。つまり、イシュマエルは人間の力や努力によって(肉によって)生まれたものの象徴であり、イサクは神様の力、つまり、聖霊の働きによって生まれたもの象徴なのです。
 自分の力や知恵や努力や熱心で神様の律法を守って救いを得ようとする人は、いつまでも律法に縛られた奴隷のような生き方を続けるしかありません。自分の力で律法を完全に守ることなど不可能だからです。いつまでたっても神様から義と認められることはできません。自分の力で神様との親しい関係を回復することが出来る人は一人もいないのです。
 だからこそ、神様は、イエス・キリストを送ってくださいました。誰でもただイエス・キリストを信じることによって、義と認められ、聖霊のみわざによって新しく生まれ、神様との親しい関係の中で生きていけるようになり、律法の束縛から解放されて自由に生きる者とされるのです。
 パウロは、キリストを信じた人々に対して「私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです」と書いていますが、それは、「私たちは、人間の思惑や力によって生まれた奴隷ハガルの子イシュマエルのような存在ではなく、ただ神様の約束と聖霊の働きによって生まれた自由の女サラの子イサクのような存在なのだ」という意味なのです。
 ヨハネの福音書1章12節ー13節では、ヨハネもこう書いています。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
 ただし、覚えておいていただきたいのは、神様は、イサクの神であるだけでなく、イシュマエルの神でもあることです。神様は、すべての人の神です。すべての人を愛しておられ、すべての人の声を聞き、必要を備え、御自分のみもとに招きたいと願っておられます。そして、だからこそ、ここにいるひとりひとりをイエス・キリストを信じ、聖霊によって新しく生まれた者としての人生を歩むことができるようにしてくださったのです。誰でも、イエス・キリストによって、律法や罪や死の力に支配された奴隷状態から解放され、神様の愛の中で自由に生きることができるということなのですね。
 そのことを心から感謝しつつ、さらに旧約聖書を読み進めながら、神様の恵みの豊かさを味わっていきましょう。