城山キリスト教会 礼拝説教
二〇二五年五月二五日 関根弘興牧師
創世記二二章一節ー一四節
創世記から士師記まで13
「最大の試練」
1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。(新改訳聖書第三版)
前回の箇所で、アブラハムはそれまで住んでいたへブロンから南のネゲブ地方のゲラルに移住しました。そこにはペリシテ人が住んでいました。アブラハムは、最初、彼らに殺されることを警戒して、妻のサラを自分の妹だと紹介したので、サラは、ゲラルの王アビメレクに召し入れられてしまいました。しかし、神様が夢でアビメレクに警告をお与えになったので、アビメレクはサラをアブラハムに返しただけでなく、多くの家畜や奴隷と銀千枚を与え、自分の領地の好きな所に住んでよいという許可を与えたのです。
そこに滞在している時に、サラが息子イサクを産みました。神様は、ずっと以前からアブラハムに「あなたの子孫は天の星、地のちりのように増える」と約束しておられましたが、アブラハム夫妻にはなかなか子どもが生まれませんでした。そして、アブラハムが百歳、サラが九十歳になって、もう子どもを産むのは不可能だと思われた時に、遂にイサクが与えられたのです。神様は、「わたしはイサクとわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする」と言われました。神様がアブラハムに与えてくださった契約、つまり「あなたの子孫は数え切れないほど増え、約束の地を相続し、すべての人々があなたによって祝福される」という契約は、イサクに受け継がれていくのだと宣言されたのです。
1 ベエル・シェバ
さて、その後、アブラハムは、しばらくこの地方に住み続けました。21章23節ー34節には、アビメレクとその将軍がアブラハムのもとにやって来た時のことが書かれています。アビメレクはこう申し出ました。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。それで今、ここで神によって私に誓ってください。私も、私の親類縁者たちをも裏切らないと。そして私があなたに尽くした真実にふさわしく、あなたは私にも、またあなたが滞在しているこの土地にも真実を尽くしてください。」アブラハムは、神様のことを声高に語ったわけではありませんが、アブラハムの様子を見ていたアビメレクは「神がこの人とともにおられる」と感じ、この人と平和条約を結ぶべきだと思ったのですね。
するとアブラハムは「私は誓います」と言いました。ただ、解決すべき問題がありました。アブラハムが掘った井戸をアビメレクのしもべたちが奪い取ってしまったのです。そのことについて、アブラハムは抗議しました。当時、井戸は生活のための必需品です。井戸を掘り当てることは、命に直結することでした。ですから、井戸をめぐる争いがたびたび起こったのです。前回見たように、アビメレクはかなり良心的な王でしたから、自分はそのことを知らなかったと言って謝罪し、二人は平和の契約を結びました。また、アブラハムは、自分の掘った井戸が自分のものであることの証拠とするために、七頭の雌の子羊をアビメレクに与えました。それ以来、その場所はベエル・シェバと呼ばれるようになりました。「ベエル」は「井戸」、「シェバ」は「七つ」または「誓い」という意味があります。つまり、「七つの羊を証拠とした井戸」という意味と「誓いの井戸」という意味が含まれているのですね。
このベエル・シェバという地名は、これから旧約聖書に何度も出て来ます。日本全国を言い表すのに「北は北海道から南は沖縄まで」という表現を使いますが、旧約聖書では、イスラエルの国の北から南までと言いたいときには「ダンからベエル・シェバまで」という表現をするのです。
そして、21章の最後に「アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。アブラハムは長い間ペリシテ人の地に滞在した」と書かれています。アブラハム親子三人は、ようやくこの地で落ち着いて、しばらくの間、平穏無事の生活を送ることができたのです。
これまでのアブラハムの人生で、試練は十分すぎるほどありましたね。生まれ故郷を離れ、慣れない異国の地での生活が始まり、飢饉があり、また、甥のロトが敵に連れ去られたり、ロトのいるソドムが滅びたり、家庭内でもサラとハガルの確執があり、神様の約束もなかなか実現しないようにみえました。何度も失敗し、迷い、恐怖に襲われることもありました。しかし、今は百歳を越えたのですから、もう死ぬまで平穏無事な生活が続いてもいいのではないかと思ってしまいますね。しかし、22章でアブラハムは、今までとはレベルが違う尋常ではない試練に直面することになったのです。
2 最大の試練
(1)イサクを献げよ
イサクが十代になった頃ではないかと思いますが、神様は、突然、アブラハムにこうお命じになりました。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」全焼のいけにえとは、その名の通り、全てを焼き尽くすいけにえです。愛する息子を殺して焼き尽くせというのですから、こんな理不尽で恐ろしい命令はありません。そもそも聖書の中では子供をいけにえとしてささげることは、最も忌み嫌われることとされているのです。
アブラハムは、自分の耳を疑ったでしょうね。「聞き間違いではないか。義であり愛なる神が、こんなことを命じるはずがないではないか。イサクは、神様が与えてくださった特別な子ではないか。イサクをささげたら、神様の祝福の約束を受け継ぐ者がいなくなってしまうではないか。それに、私がどれほどこの子を愛しているか、神様はご存じのはずだ。それなのにこんな残酷な命令をなさるのか」、そんな思いが次から次へと湧いてきたことでしょう。「それでもあなたは正義と愛の神と言えるのか」と叫びたくなってしまいますね。
宗教改革者のカルヴァンは、著書の中でこう述べています。「・・・いったい、父親が息子の死刑執行者となる以上に、災いなことを、人間の精神は考え出せるだろうか。これが、たとえイサクが病気で死んだとしても、アブラハムのことをもっとも悲惨は人と考えない者があろうか。・・・しかしこれがなんと父親の手によって殺されるとなれば、一切の災いの例を遙かに超えている。」その通りだと思いますね。
しかし、神様は、何の説明もなく、ただ「イサクをささげよ」とお命じになりました。それに対して、アブラハムは、どうしたでしょうか。驚くことに、「どうしてですか」と疑問を呈することもなく、抗議や抵抗をすることもなく、ただ黙々と準備を進めたのです。たきぎを用意し、ふたりのしもべと息子イサクと連れてモリヤの山に向かい、三日目に山が見えた、と書かれていますね。三日の旅はアブラハムにとってどれほど苦しいものだったでしょうか。
アブラハムはふたりのしもべを残して、イサクにたきぎを背負わせ、自分は火と刀を持ち、二人だけで山に登っていきました。山に登る途中、イサクは尋ねました。「お父さん。全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは「いけにえはお前だ」とは言えませんでした。ただ、「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」と言うしかなかったのです。そして、ついに示された場所につくと、アブラハムは、祭壇を築き、その上にたきぎを並べました。そして、イサクを縛り、たきぎの上に置いたのです。イサクは、この時は成長していますから、年を取ったアブラハムに抵抗することもできたでしょう。しかし、イサクは従順に父のなすがままなっていたようです。そして、アブラハムが刀を取ってイサクをほふろうとしたその時、主の使いがアブラハムを呼び、こう告げました。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」この声を聞いたアブラハムは、どれほど安堵したことでしょうか。アブラハムが目を上げると、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいました。アブラハムはその雄羊をイサクの代わりに全焼のいけにえとしてささげ、その場所を、アドナイ・イルエと名づけました。それは、「主が備えてくださる」という意味です。
(2)試練の意味
神様は、なぜアブラハムにこのような試練をお与えになったのでしょうか。イサクはアブラハムにとっては最愛の宝でした。「イサクは私のものだ。絶対に手放さないぞ」と思っていたかもしれません。子を持つ親なら、そんな気持ちもわかりますね。しかし、それも限度の問題で、子どもを自分の所有物のように思い、自分の思い通りにしようとしたら、問題が起こります。子どもに限らず、自分の所有物や社会的な地位、立場、役割などに固執して、握りしめ、手放せなくなってしまうということはよくありますね。しかし、必要以上に何かに執着することによって、自分自身もまわりの人々も生きづらくなってしまうことになるのです。
イサクは、アブラハムにとって大切な一人息子ではありますが、アブラハムの所有物ではありません。イサクは、神様が与えてくださった息子であり、神様のものなのです。これから、アブラハムの時代からイサクの時代へ移っていくときに、アブラハムは、神様を信頼して、イサクを手放し、神様にささげ、お委ねすることの大切さを知る必要があったのです。最愛の息子を差し出すことができるか、自分がその子を独り占めするのではなく、神様にお任せする勇気を持っているか、そうしたことが問われる試練だったのです。
旧約聖書のヨブ記に登場するヨブは、多くの試練に遭ったときに、こう言いました。「私は、裸で、母の胎からでてきた。また、裸で、私は、かしこに帰ろう。主は与え、主は、取られる。主の御名はほむべきかな。」与えてくださるのも取られるのも主です。なかなかすんなりとこう告白することは出来ませんね。でも私たちの最善を願っておられる主がおられるなら、この方を信頼し、どんな中にも、主の御名をほめたたえることのできる人生は幸いですね。
この試練の後、主はアブラハムにこう言われました。「わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、天の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」これは生きる上でのひとつの原則のように思いますね。私たちが何かに執着するのをやめて、手放し、神様にお任せするとき、神様がちゃんとささえ、豊かな約束を成就してくださるのですね。
(3)アブラハムの信仰
アブラハムは、信仰の父として大変尊敬されている人物です。その理由の一つは、紆余曲折はありながらも、「あなたの子孫は星のように数え切れないほど増える」という神様の約束を信じ続けたことでした。
そして、もう一つは、今回の試練のときにアブラハムがどのように考えたかということです。新約聖書のヘブル11章19節にこう書かれています。「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。」神様は、イサクを通して子孫が星のように増えると約束してくださいました。それなのに、ここでイサクが死んだら、その約束は成就されません。そこで、アブラハムは、「私がイサクを全焼のいけにえとしてささげても、神様はイサクをよみがえらせてくださるに違いない」と考えていたというのです。だからこそ、思い切って息子をささげる決心をしたのでしょうね。
アブラハムの生涯を見ると、人生の転機となった出来事が起こるたびに、神様について深く知ることができるようになったようです。ロトが敵に捕らえられた時、アブラハムは敵を追跡し、奇襲攻撃をかけてロトたちや奪われたものをすべて取り返しましたね。その時、「いと高き方」が勝利に導いてくださったと告白しました。この神様以上の高みに座す者は誰もいないと告白したのです。また、もう高齢になって子どもを産むのが不可能に思われたアブラハム夫妻に、神様は「わたしは全能の神である」と言い、イサクを与えてくださいました。神様にとって不可能なことは何もないということをアブラハムはイサクの誕生を通して知ったのです。また、ベエル・シェバでアビメレクと平和の契約を結んだときには、アブラハムは神様を「永遠の神」と呼びました。人間同士の契約はときどき変更されたり、破棄されることもあります。しかし、私たちの信じている神様は永遠の神です。約束されたことは永遠に変わらないのです。アブラハムは、年を取るごとに、神様の姿を知り続けていきました。そして、このモリヤの山で、神様は「アドナイ・イルエ 備えてくださるお方」であることを知ったのです。アブラハムはイサクに「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」と言っていましたね。その時は、まだどうなるかまったくわかりませんでした。しかし、イサクをほふろうとし、御使いに止められたとき、角をやぶにひっかけている雄羊がいたのです。それをイサクの代わりにささげました。主は、イサクの身代わりに全焼のいけにえとなる羊を備えてくださったのですね。
イエス様は、マタイ6章33節でこう言われましたね。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」主を信頼し歩んでいくとき、試練があります。しかし、その中で、主が備えてくださる方であることを知ることができるのですね。
ちなみに、歴代誌を読むと、このモリヤの山は、後にエルサレムの神殿が建てられた場所であったことがわかります。
3 サラの死と埋葬
このモリヤでの出来事からしばらくして、アブラハムたちはヘブロンに戻ったようです。そのヘブロンでサラは百二十七年の生涯を閉じました。アブラハムは嘆き悲しみました。そして、サラを埋葬するために、土地の人々にこう申し出たのです。「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。」(23章4節)すると、人々は「無償で私たちの最上の墓地に葬ってくださっていいですよ」と提案しましたが、アブラハムはそれを丁寧に断りました。あとで問題が起こることを懸念したのかもしれません。そして、アブラハムはエフロンの畑地の端にあるマクペラのほら穴を買わせてほしいと申し出ました。交渉の結果、エフロンはほら穴だけでなく、ほら穴のある畑地全体を銀四百シェケルで売ることを承諾しました。当時の相場からすれば、かなりふっかけられた高値です。しかし、アブラハムはエフロンの言う金額で畑地とその中にあるほら穴を買ったのです。この取引は、あとあと文句が出ないように、人々の目の前で行われました。こうして、エフロンの畑地とマクペラのほら穴が正式にアブラハムの所有となりました。アブラハムが生涯で所有したのは、その土地だけでした。神様はアブラハムの子孫にカナン全土だけでなく、エジプトの川からユーフラテス川までを与えると約束してくださいましたね。しかし、アブラハムが実際に手に入れたのは、ほんのわずかな土地だけでした。この世の基準で判断するなら成功者ではありません。
しかし、アブラハムは、神様の約束を近視眼的に考えなかったのです。「神様がこの地を与えると約束してくださったのだから、ここは俺たちのものだ」などとは主張しませんでした。力尽くで無理矢理奪おうともしませんでした。それどころか、その土地の人々と盟約を結び、協力しながら生活しましたね。また、その土地の慣習に従って必要な手続きを踏んで墓地を購入しました。神様の約束を無理矢理自分の力で実現させようとはしなかったのです。私たちも神様が約束してくださったと言って、自分の属する社会のルールやそこに住む人々を無視して勝手に振る舞うべきではありません。ローマ12章18節でパウロは「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と勧めています。神様の約束は、神様が必ず実現してくださるのですから、私たちは、今与えられた場所で平和を保ちながら生活していくことが大切なのです。繰り返しますが神様の約束があるからといって、社会のルールを無視して行動をするのは間違いです。気をつけたいですね。
ヘブル11章8節-10節にこうあります。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」アブラハムは天の都を待ち望んでいたというのですね。 私たちも、この世の生涯を従順に歩みつつ、天の都を仰ぎ望みながら、いと高き神、全能の神、永遠の神、備えてくださる神に信頼して歩んで行きましょう。