城山キリスト教会 礼拝説教
二〇二五年八月二四日 関根弘興牧師
創世記三七章一節ー一一節
創世記から士師記まで18
「ヨセフの夢」
1 ヤコブは、父が一時滞在していた地、カナンの地に住んでいた。2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。3 イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。4 彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。5 あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。6 ヨセフは彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。7 見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」8 兄たちは彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。」こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。9 ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」と言った。10 ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。(新改訳聖書第三版)
前回は、ヤコブが伯父のラバンの家で二十年間過ごしてから、妻たち、子どもたち、多くのしもべたちや家畜たちとともに故郷に帰った後に起こった出来事を見ました。
無事に故郷に帰り、兄エサウとの感動的な再会も果たし、シェケムで落ち着いた生活を始めたヤコブでしたが、大変な事件が起こってしまいましたね。ヤコブの娘ディナが族長の息子シェケムに捕らわれ、辱めを受けたのです。シェケムはディナを愛して自分の妻にしたいと父親ハモルに願ったので、ハモルは息子シェケムとともにヤコブのもとにやって来て、ディナを嫁にもらいたいと申し出ました。しかし、ディナと同じ母親から生まれた兄シメオンとレビは、激しく怒り、復讐を決意していました。ハモルの親子に「あなたがたの町の男性が皆、私たちと同じように割礼(男性の生殖器の包皮を切り取る儀式)を受ければ、ディナを嫁にやってもいいし、これからお互いに親密に交流していくことができますよ」と持ちかけ、町中の男性に割礼を受けさせて、その傷の痛みが最も激しい時に町を襲い、すべての男性を皆殺しにして、妻たち、子どもたち、全財産を略奪してしまったのです。あまりにも残虐な行為ですね。
ヤコブは、今度は自分たちが土地の人々の恨みを買って滅ぼされてしまうのではないかと恐れましたが、神様は、ヤコブたちを守り、ベテルに導き、そこで再びヤコブに現れて祝福の約束をしてくださったのです。ヤコブは、そこに祭壇を築き、新たな出発をしました。
しかし、その後も悲しい出来事が連続して起こりました。まず、ベテルで母リベカのうばデボラが亡くなりました。次に、エフラテ(ベツレヘム)に向かう途中で、最愛の妻ラケルがひどい陣痛に苦しみ、男の子を産むとすぐに息を引き取ってしまったのです。ヤコブはその子を「ベニヤミン(右手の子、力ある子、祝福の子)」と名付けました。それから、長男ルベンがヤコブのそばめと寝てしまうという愚行を犯しヤコブを悩ませました。その後、ヤコブはヘブロンに行って、ついに父イサクと再会しましたが、そのイサクも百八十歳で世を去りました。伯父の家で苦労を重ねたヤコブでしたが、故郷に帰ってきてからも様々な苦労や悲しみを味わうことになったのですね。
しかし、これまで見てきたとおり、神様はアブラハム、その息子イサク、また、その息子ヤコブにも現れ、「あなたの子孫を星のように増やし、見渡す限りの土地を与える。そして、あなたの子孫を通してすべての国民が祝福される」という約束を与えてくださいました。彼らがどんな失敗をしても、どんな苦難や悲しみを味わったとしても、神様は、かならず約束を実現させてくださるのです。
これから「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という表現が度々出て来ますが、それは「アブラハム、イサク、ヤコブに対して、永遠の祝福の契約を結び、その契約を必ず実現させると約束してくださった神様」という意味です。そして、その神様の約束がヤコブの子孫を通してどのように実現されていくのかが、旧約聖書を全体を通して記されていくのです。
今日から読み始める創世記37章から創世記最後の50章までは、まず、ヤコブの十二人の息子、特に十一番目の息子ヨセフに焦点を当てた出来事が展開していきます。見ていきましょう。
1 ヨセフの夢
ヤコブには、二人の妻と二人のそばめが産んだ十二人の息子がいました。その中でもヤコブは最愛の妻ラケルが産んだ十一番目の息子ヨセフを特に愛していました。ラケルには長い間子供が生まれなかったのですが、ヤコブが高齢になってからやっと身ごもって産んだのがヨセフだったのです。ラケルから生まれたもう一人の息子ベニヤミンもいましたが、やはり、長い間待ちに待って生まれた最初の息子ヨセフは格別な存在だったのでしょう。ヤコブはヨセフにだけそでつきの長服を作ったりして特別扱いしていたのです。しかし、このヤコブの偏愛が、兄弟たちの間に大きな確執をもたらすことになりました。
2節には、十七歳になったヨセフが父の妻ビルハやジルパの子らと一緒に羊の群れを飼っていたと書かれていますね。父親が同じでも、正妻であるレアとラケルから生まれた息子たちと、奴隷のビルハとジルパから生まれた息子たちの間には見えない格差や差別があったのかもしれません。正妻から生まれた兄たちが奴隷の母から生まれた兄たちを見下すような態度を取っていたのかもしれませんし、奴隷の母から生まれた兄たちは鬱々とした思いを発散しようとして何か悪いことをしていたのかもしれません。ヨセフは、そういう兄たちの姿をいちいち父のヤコブに告げ口していたようです。告げ口というとイメージがよくありませんが、年若いヨセフが兄たちに注意することなどできません。父親に何とかしてもらおうと思って、正直に話しただけかもしれませんね。しかし、兄たちにしてみれば、生意気な弟が自分たちの悪口を言って父親の愛を独り占めしようとしているように思えたのでしょう。ですから、兄たちは心穏やかではいられません。ヨセフに対する憎しみを募らせていきました。「彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった」と書いてあるほどです。
その憎しみをさらに増幅させるような出来事が起こりました。 ある時、ヨセフは不思議な夢を見たので、その内容を兄たちに話しました。「見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」それを聞いた兄たちは「おまえは私たちを支配する王になるつもりなのか」と憤慨して、ますますヨセフを憎むようになりました。ヨセフも自分の夢の意味がすぐにわかったはずなのに、兄たちにそのまま話してしまうというのは、無邪気を通り越して、空気を読めない男としか思えませんね。
そして、ヨセフはもう一つ夢を見ました。それをまた馬鹿正直に父と兄たちに話したのです。「また、私は夢を見ましたよ。太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」これには、さすがに父ヤコブもヨセフを叱って言いました。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」ヤコブは、ちょっとヨセフを甘やかしすぎたな、と考えたかも知れません。しかし、兄たちは父の叱り方が物足りないと思ったかも知れませんね。ヨセフをますます妬み、憎むようになったのです。
その後、兄たちはシェケムで父の羊の群れを飼うために出かけて行きました。しかし、なかなか帰ってきません。心配したヤコブは、ヨセフに「兄さんたちや羊の群れが無事であるかを見に行っておくれ」と言って送り出しました。シェケムといえば、前回見たとおり、ヤコブの娘ディナがはずかしめを受け、その復讐のために、ディナの兄たちが町中の男性を皆殺しにするという惨劇の舞台となった場所です。ヤコブは、息子たちがあの時の仕返しを受けているのかも知れないと心配したのかもしれませんね。そこでヨセフは、兄たちを探しに出かけ、出会った人から兄たちがシェケムからドタンに移動したということを聞くと、ドタンに向かいました。まさか、そのドタンが自分のドタン場になるなどとは露にも思っていません。
一方、兄たちは遠くからヨセフが近づいてくるのを見つけると、とんでもないことを言い始めました。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」しかし、長男のルベンは「あの子を殺してはならない。穴に投げ込むだけにしなさい」と弟たちを説得しました。ルベンは、長男として弟たちに関する責任を持つ立場でした。また、以前、自分が父のそばめと姦通してしまったことに自責の念を感じていたのかもしれません。何とかヨセフが殺されないようにして、父親のところに返そうと考えたのです。
ヨセフが兄たちのところにやって来ると、兄たちはヨセフの長服をはぎ取り、ヨセフを穴に投げ込みました。「直接手を下さなくても、このまま放置すれば、ヨセフは死んでしまうだろう。いい気味だ」とでも思っていたのでしょう。兄たちは、無情にもそこで食事を始めました。
そこに、イシュマエル人の隊商が通りかかりました。様々な商品をらくだに背負わせエジプトに向かう途中でした。それを見たユダは、兄弟たちに提案しました。「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」ヨセフを殺そうと息巻いていた過激な兄弟たちもその意見に賛同したので、彼らは、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚で商人に売ってしまったのです。当時の奴隷の値段は、大人は三十枚が相場ですから、半人前扱いのヨセフは二十枚ということになったのでしょう。こうしてヨセフはエジプトへ奴隷として連れて行かれることになってしまったのです。
その時、長男のルベンはそこにいませんでした。戻ってみると、穴の中にヨセフがいません。兄弟たちがヨセフを奴隷として売り飛ばしたことを聞くと、自分の着物を引き裂くほど大きなショックを受けました。もうヨセフを父のもとに連れ帰ることはできません。父に合わせる顔がありません。まさか、エジプトに売り飛ばしましたとは口が裂けても言えません。
彼らは、ヨセフからはぎ取った長服を雄やぎの血に浸して、それを父のもとに持って行き、こう報告しました。「これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください。」父ヤコブは「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ」と言って、自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、嘆き悲しみました。息子や娘たちが慰めようとしましたが、ヤコブは、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」と言って泣き続けたのです。
一方、エジプトに連れて行かれたヨセフは、パロの侍従長ポティファルに買い取られ、その家で奴隷として仕えることになりました。その後、ヨセフはどうなったのか、すぐに知りたくなりますね。ところが、次の38章には、ヨセフとまったく関係のない話が載っているのです。
2 ユダとタマル
38章の主人公はヤコブの四番目の息子ユダです。「ヨセフを殺さずに商人に売ってしまおう」と提案した人物です。このユダの家族に起こった出来事が38章に記されているのです。
ヨセフがエジプトに売られてしまったころ、ユダはヘブロンの高地から、北西の低地、のちにペリシテ人が住む低地にあるヒラという場所に下っていき、そこでカナン人の女性を妻にし、三人の男の子をもうけました。エルとオナンとシェラです。
やがて、長男エルは、タマルという女性と結婚しました。旧約聖書にはタマルと名乗る人が何人も出てきます。タマルという名前は「ほっそり」という意味のある名前で女性に人気のあった名前だったのでしょうね。このタマルと結婚したユダの息子エルについてこう記しています。7節に「エルは主を怒らせていたので、主は彼を殺した」と書かれています。エルがどんな悪いことをしたのか書かれていませんが、死ななければならないほど行状の悪い人であったようです。ですから、タマルはどれほど結婚生活に苦労したか分かりません。エルの母親はカナン人で、当時のカナン人は道徳的にかなり腐敗していたようなので、エルはその影響を受けたのかもしれません。
ところで、死んだ兄に子供がいない場合は、弟が残された兄の妻と結婚して、兄の跡継ぎをもうけ、兄の家が絶えないようにするという習慣がありました。レビラート婚と呼ばれるもので、後にモーセの律法の中で成文化されますが、ただ、強制的なものではなかったようです。
ユダは、エルの弟オナンに「タマルと結婚して兄のために子孫を残しなさい」と命じました。しかし、オナンは、兄に勝るとも劣らない悪い男でした。オナンは考えました。もし子供が出来ても、兄の子となり、兄の財産がその子にいってしまうから、自分には何の得にならないではないか、そう考えると、タマルと結婚はしましたが、ただの快楽の道具のように扱い、もてあそぶことはするけれど、決して子供が産ませないようにしたのです。それが、主の怒りを買い、なんとオナンも若くして死んでしまいました。
そうなると、三男のシェラをタマルと結婚させなければなりません。しかし、タマルと結婚したエルとオナンが次々と死んでしまったので、恐れたのが父のユダでした。ユダは、シェラもタマルと結婚すると死んでしまうかもしれないと恐れ、「シェラが成人するまで、あなたの父の家で待っていなさい」とタマルを実家に返してしまったのです。夫が続けて死んでしまったのはタマルのせいではありません。夫たちの行状の悪さが自らの死を招いたのです。しかし、タマルは、人々から死神にとりつかれて帰ってきた女と揶揄されたかも知れませんね。実家でわびしく暮らすようになったのです。
その後、かなり日が経ってから、今度は、ユダの妻が死んでしまいました。二人の息子を亡くし、長年連れ添った妻を亡くしたのです。喪が明けると、ユダは羊の群れの毛を刈り取る祭りが催されるティムナに上っていきました。それを知ったタマルは、やもめの服を脱ぎ、ベールをかぶり、遊女のふりをしてティムナへ行く道の途中でユダが来るのを待ち構えました。ユダが、三男シェラと自分を結婚させるつもりがないこと、このままでは亡くなった夫の跡継ぎを産むことはできないことを悟っていたタマルは、なんとユダによって子供を産もうと考えたのです。タマルはやもめの服を脱ぎベールをかぶり着替えて遊女の姿をしてティムナの町の入り口に座ったのです。すると、ユダはそれがタマルであることに気づかず、タマルともに一夜を過ごすことにしたのです。ユダが「報酬として子やぎを送ろう」と言うと、タマルがその子やぎが届くまでの保証として、あなたの印形とひもと杖を預かりたいと願ったのです。そこで、ユダはその品々をタマルに渡しました。こうして、タマルはユダの子供をみごもり、ふたたびやもめの服に着替えて実家にもどったのです。ユダは、その後、友人に託して子やぎを送り、自分の印形とひもと杖を取り戻そうとしましたが、「この町には遊女はいたことがない」という返事が返ってきたのです。ユダは、不思議に思いましたが、これ幸いと言うことで、何事もなかったかのような毎日を送っていたのです。3ヶ月が立った頃でした。ユダに衝撃的な知らせが届いたのです。
なんとタマルが売春をして身ごもったという知らせがユダのもとに届いたのです。ユダは激怒し、「あの女を引き出して焼き殺せ」と命じました。しかし、タマルはユダのもとに使いをやり、「この印形とひもと杖の持ち主によって、私はみごもったのです」と言わせました。その証拠の品を見たユダは、我に返って言いました。「あの女は私よりも正しい。私が彼女にわが子シェラを与えなかったから、タマルは、この方法で私の長男の子を産むしかなかったのだ。」 焼き殺せと言った勢いは消えてしまいました。こうしてタマルは双子を産みました。ペレツとゼラフです。
この暑さの厳しい中、皆さんは、さわやかな聖書の言葉を聴きたいと思ってわざわざ礼拝に来られたのではないでしょうか。それなのに、こんなドロドロとした話を聞かされるなんて、と思いますよね。なぜ聖書はわざわざこんな話を詳しく載せているのでしょうか。でも、ユダとタマルに生まれた子の名前をよく見てください。どこかで聞き覚えがありませんか。実は、このタマルとタマルの産んだ双子の息子の名前が、新約聖書マタイの福音書1章のイエス・キリストの系図の中に登場するのです。旧約聖書はへブル語、新約聖書は主にギリシヤ語で書かれましたが、ヘブル語の「ペレツ」はギリシャ語では「パレス」、「ゼラフ」は「ザラ」となります。マタイの福音書1章の系図の中には、こう書かれています。「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ・・・エッサイにダビデが生まれ、・・・キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」つまり、タマルが遊女に身をやつして産んだ息子ペレツ(パレス)の子孫から、ダビデ王、そして、救い主イエスが誕生したというのです。神様の御計画は不思議ですね。
しかも、当時の系図には普通は男性の名前しか載らないのですが、イエス・キリストの系図には五人の女性が載っています。今日出て来たタマルの他に、これから旧約聖書に登場するラハブ、ルツ、ウリヤの妻、そして、イエス・キリストの母となったマリヤです。この五人の中で、マリヤ以外の四人は皆、訳ありの女性です。タマルは今日見たように舅のユダの子を産んだ不幸を抱えた女性でした。また、ラハブは異邦人の遊女でした。また、ルツも異邦人、ウリヤの妻はダビデ王と不倫をしてソロモンを産んだ女性です。なぜ、尊い救い主の系図にわざわざ問題のある女性たちが載っているのでしょうか。
女性たちだけでなく、男性も完璧な人は一人もいません。この系図は、人間の欲望、愚かさ、哀しみの歴史そのものなのです。しかし、そんな救いようのない人間の歴史の中に救い主が来てくださったということが福音、幸いと喜びの知らせなのです。この救い主によって、私たちは神様がそのような方を知り、神様の豊かな愛とまことと恵みを知ることができます。また、この救い主が私たちと同じ人となって人の罪や汚れをすべて背負って身代わりに十字架についてくださったことによって、すべての人に本当の救いの道が開かれました。つまり、神様がアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった祝福の約束が、イエス・キリストによって本当の意味で実現することになるのです。人は皆、弱く愚かだけれど、そんな人を神様は深く愛し、救いの御計画を進め、成し遂げてくださる、そのことがマタイの福音書の救い主の系図は表しているのですね。
これからも、旧約聖書を読み進めていきながら、人の愚かさや罪深さの姿を知ることになります。しかし、それをすべておおい、救いを与えてくださる神様の大きな恵みを味わっていくことにしましょう。
次回は、エジプトに売られてから、ヨセフにどんなことが起こったかを見ていくことにしましょう。