城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二五年一一月二日             関根弘興牧師
              出エジプト記三章一節〜一五節
                   
 創世記から士師記まで23
   「行け、モーセ」
1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。2 すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」(新改訳聖書第三版)
 
 前回から出エジプト記に入りました。創世記では、神様は、アブラハム、その息子イサク、またその息子ヤコブの三世代に渡って、「あなたの子孫によってすべての国々が祝福される」という祝福の約束を与えてくださいましたね。神様がまずアブラハムとその子孫イスラエル人を選ばれたのは、彼らが特に優れていたからではありません。彼らの歴史を通して、神様は、すべての人間が弱く愚かな存在であること、しかし、そんな人間を見捨てずに、恵み、あわれみ、いのちの道に導こうとされる神様の深い愛と真実があることを示してくださったのです。
 さて、創世記の最後には、ヤコブの十一番目の息子ヨセフを中心とした出来事が書かれていましたね。ヨセフはエジプトに奴隷として売られてしまいましたが、不思議な経緯で王に次ぐ権力の座に就き、飢饉に苦しむヤコブ一族をエジプトに呼び寄せて養うことになりました。その時から、イスラエル人はエジプトでおびただしく増え、強い民族になっていきました。しかし、前回見たとおり、ヨセフのことを知らない王が即位しました。王は、イスラエル人に脅威を感じ、過酷な労働を強いて苦しめるようになりました。それでも、イスラエル人が増え続けたので、王はついには、生まれてくるイスラエル人の男の子をすべて殺せという非常な命令を出したのです。その頃、モーセが生まれました。両親は三ヶ月間隠していましたが、隠しきれなくなったので、防水加工を施したかごにモーセを入れてナイル川の葦の茂みに置きました。すると、ちょうどそこに王の娘が水浴のためにやって来て、泣いているモーセを見つけ、可哀想に思って、自分の子供として育てることにしたのです。その様子を見ていたモーセの姉が「ちょうどいい乳母がいます」と言って自分の母親を連れてきたので、王女は母親に賃金を払って乳母に雇いました。つまり、実の母親が乳離れするまでモーセを育てることができたのです。その後、モーセはエジプトの王宮で成長し、あらゆる学問を学びました。しかし、自分がヘブル人であることを自覚し、同胞が過酷な労働に苦しめられていることに心を痛めていました。そして、ちょうど脂ののりきった四十歳の時、モーセは、エジプト人が鞭でイスラエル人を叩いているのを見て、そのエジプト人を殺して砂に埋めてしまったのです。しかし、同胞たちはモーセのしたことを理解も支持もしてくれませんでした。「だれがお前を俺たちのリーダーに決めたんだ」「あのエジプト人を殺したように、俺たちも殺す気か」と批判したのです。しかも、王がモーセを殺人犯として指名手配したので、モーセはエジプトから逃げ出し、その後四十年間ミデヤンの荒野で羊飼いとして失意の生活を送ることになりました。王宮の快適な生活とはまったく正反対の場所です。しかし、この荒野での四十年間はモーセにとって大切な訓練の時となりました。モーセは謙遜を学び、荒野の生活についての知識や経験を身に付けました。
 聖書をみると、荒野はしばしば神のしもべを養成する教室として用いられています。私たちは、なるべく手っ取り早い方法で無駄なく結果を出そうと考えてしまいますね。しかし、神様は、ときどき、遠回りをさせ、時間がかって無駄ではないかと思われる中に私たちを置かれることがあるのです。伝道者の書11章1節に「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」という言葉があります。パンを水の上に投げるなんて無駄だ、もったいない、魚が喜ぶだけじゃないかと思ってしまいますね。しかし、無駄と思えるようなことの中に大切な意味があったことに、後で気づかされることがある、ということなのです。
 
1 モーセの召命
 
 さて、モーセの荒野での四十年間については、聖書にはほとんど書かれていません。ミデヤンの祭司の娘と結婚して息子が生まれたことぐらいです。地味で単調な四十年間だったのでしょう。しかし、突然、モーセの人生に大きな転機が訪れたのです。今日は、3章ー4章を見ていきましょう。
 
(1)神様の語りかけ
 
 モーセは羊の群れを追って神の山ホレブ(シナイ山)にやって来ました。すると、柴が燃えているのですが、いつまでたっても燃え尽きません。不思議に思ったモーセは近づいていきました。すると、突然「モーセ。モーセ」と神様が語りかけられたのです。モーセはすぐに「はい、ここにいます」と答えました。そのモーセに神様は何を言われたでしょうか。
 
@「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
 
 神様は、モーセに「ここは聖なる地だ」と言われました。そこは荒涼とした荒野です。しかし、神様がおられるなら、そこは最も聖なる場所なのです。神様は完全に聖なる方だからです。完全に聖だということは、どんなささいな罪や汚れも受け入れることはないということです。罪や汚れがある人間は、そのままでは神様に近づくことはできないのです。近づいたら死んでしまうでしょう。ですから、「ここに近づいてはいけない」と神様ははっきり言われたわけですね。
 また、「靴を脱げ」と言われましたが、これには、二つの意味が含まれていると解釈できます。一つは、神様の前に出るときには、最高の畏敬の念を持たなければならないということです。神様を軽く見たり侮ったりすべきではありません。そして、もう一つは、自分がしもべであることを受け入れなさいということです。当時、奴隷であるしもべは靴を履いていませんでした。つまり、神様は、「あなたはわたしのしもべとして、わたしを畏れ敬い、わたしに仕えよ」と言われたわけですね。
A「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
 
 この「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という呼び名は、この後も繰り返し使われます。どういう意味があるのでしょうか。神様はアブラハム、イサク、ヤコブに「あなたの子孫を大いに増やし、あなたの子孫によってすべての国々が祝福されるようにする」と約束されましたね。神様は、ここでモーセに「わたしこそアブラハム、イサク、ヤコブに祝福の約束を与えた神であり、その約束を実現する力のある神なのだ」と宣言なさったわけです。
 
B「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。」
 
 もちろん神様は、ずっと以前からイスラエル人がエジプトで苦しんでいることをご存じでした。「それなら、なぜすぐに助けてくれないんですか。見て見ぬ振りをしてるんですか」と私たちは言いたくなりますね。
 神様は、私たちに自由意志を与えてくださいました。どんな状況でも神様に信頼して歩む道を選ぶか、それとも、「もうだめだ、終わりだ」とあきらめて神様への期待を捨てて投げやりに歩む道を選ぶか、神様は私たちの心をご覧になるのです。また、神様は、私たちを成長させるために様々な訓練をしてくださいます。私たちが自分の足でしっかり立って進んで行けるように、時には何の手出しもせずに見守りながら歩んでくださることもあるのです。そして、私たちが倒れそうになった時には、かならず支えてくださいます。歩けないときには背負ってくださいます。だから、私たちは、どんな状況の中にあっても神様に信頼して歩んでいくことができるのです。神様は私たちの嘆きや痛みを見、叫びを聞きながら、ちょうどいいタイミングで助けの手を差しのばしてくださるのですね。
 イスラエル人たちは、最初はエジプトで満足して生活していたでしょう。もう神様の約束の地に帰る必要はない、神様に頼らなくても自分の力で大丈夫と思っていたかもしれません。しかし、苦しみの生活が始まり、それが何十年も続く中で、もう神様に頼るしかないという切実な思いを持つようになり、神様に叫ぶようになったのです。つまり、イスラエルの民の中で、神様の救いを心から受け入れる準備が整うまで神様は待っておられたのですね。一方、モーセも荒野での四十年の間に、神様に用いられやすい人物になる訓練を受けました。そして、今、いよいよイスラエルの民をエジプトから救い出すちょうど良い時がやって来たのですね。そこで、神様はモーセに「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」とお命じになったのです。
 
C「わたしは、あなたとともにいる」
 
 しかし、モーセは、尻込みしました。自分はとてもその器ではないと思ったのです。すると、神様は「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである」と言われました。モーセ自身に力や知恵や才能があるかは問題ではありません。モーセが弱くて自分の力では何もできなくても、ただ神様がともにいてくださるだけで十分なのだというのです。
 新約聖書の使徒パウロは、自分の病が癒やされるように何度も祈りました。しかし、第二コリント12章9節で主はパウロにこう言われたのです。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」この「わたしの恵みは、あなたに十分である」という言葉は、リビングバイブルでは「わたしは、あなたとともにいる。それで、十分ではないか」と訳されています。私たちは弱くても失敗してもいいのです。すべてのものを造り、支配しておられる愛と恵みに満ちた神様がともにいてくださるのなら、それで十分ではありませんか。
 モーセは、それまでの荒野での四十年間、神様から見捨てられてしまったかのように感じていたかも知れません。しかし、神様は、モーセを見守っておられ、今までもこれからもいつもともにいてくださるのです。それに気づいたモーセは「今、私はイスラエル人のところに行きます」と答えることができたのですね。
 
D「わたしは、『わたしはある』という者である」
 
 しかし、モーセには気がかりなことがありました。今の自分がエジプトに行って「私はあなたがたをエジプトから連れ出すために神様に遣わされて来ました」と言っても、同胞のイスラエル人たちに信用してもらえないのではないかということです。以前の若く前途有望で地位も力もある自分なら、みんな耳を傾けてくれたかもしれません。しかし、今の自分は殺人犯として逃げ出し、荒野でうだつのあがらない生活を送っている羊飼いにすぎません。かえって「あなたを遣わしたという神は、どんな神か」と追求されるでしょう。その時、何と答えればいいのですか、とモーセは神様にたずねました。すると、神様は、 「わたしは、『わたしはある』という者である。あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」
 「わたしはある」というのは、とても不思議な名前ですね。これは、「わたしは存在していた」「わたしは存在している」「わたしは存在し続ける」、つまり、過去、現在、未来において永遠に存在しているという意味です。神様は、いつでもどこでも、いつも存在しておられる方だという意味なのです。
 これ以降、「わたしはある」という言葉は、天地を創造し、アブラハム、イサク、ヤコブの神となられた神様の御名として理解されるようになりました。この間、豊村先生も説教してくださいましたが、ヨハネ8章58節でイエス様は御自分についてこう言われました。「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」新改訳二〇一七では「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」と訳されています。これは、イエス様が「わたしは永遠の存在者であるまことの神である」と宣言されたということなのです。だから、それを聞いたユダヤ人指導者たちは「あなたは自分を神だと言って、神を冒涜するのか」と怒り狂ったわけですね。
 さて、神様は続けてモーセに言われました。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」つまり、神様は「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに約束したとおり、あなたがたをエジプトから救い出し、約束の地へ上らせる神である」ということをイスラエルの民に伝えるようモーセにお命じになったのです。
 
Eエジプト王と対決せよ
 
 それから、神様はモーセにこうお命じになりました。「王のところに行き、『荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神にいけにえをささげさせてください』と言え。」荒野への三日の道のりの旅とは、エジプトの国境警備隊の目の届かない所まで行くことです。そんなことを王が許可するはずはありませんね。神様はそれを知っておられたので、続けてこう言われました。「しかし、エジプトの王は強いられなければ、あなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中で行うあらゆる不思議で、エジプトを打とう。こうしたあとで、彼はあなたがたを去らせよう。わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたは出て行くとき、何も持たずに出て行ってはならない。女はみな、隣の女、自分の家に宿っている女に銀の飾り、金の飾り、それに着物を求め、あなたがたはそれを自分の息子や娘の身に着けなければならない。あなたがたは、エジプトからはぎ取らなければならない。」
 
2 神様のしるしと備えと試練
 
 神様は「わたしはあなたとともにいて不思議なみわざを行う」と約束してくださいましたが、モーセはまだ心配で、「イスラエル人たちは私を信ぜず、私の声に耳を傾けないでしょう」と訴えました。
 すると、神様は、モーセが三つのしるしを行うことができるようにしてくださいました。一つ目は、モーセが自分の杖を地に投げると杖が蛇になり、モーセが蛇の尾をつかむと、もとの杖にもどるというものです。エジプトでは蛇は神として崇められていましたから、このしるしは、エジプトの神々に打ち勝つ力を与えられたことを示すものです。二つ目は、モーセが手をふところに入れて出すと、その手がツァラアトに冒されて雪のようになり、もう一度ふところに入れて出すと、もとに戻っているというしるしです。ツァラアトに冒されたら人は汚れた者と見なされ、自分ではどうすることもできません。しかし、神様はそのツァラアトさえも癒やす力を持っておられるのです。第三のしるしは、ナイルから水を汲んで乾いた地に注ぐと、水が血に変わるというものです。ナイルはいのちと繁栄の源です。しかし、その水が血に変わってしまうというのは、神様には大帝国エジプトをも滅ぼす力があることを示すものでした。
 これだけのしるしを行う力が与えられたら、安心してもいいはずですね。しかし、モーセはさらに訴えました。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。私は口が重く、舌が重いのです。」これは、もともと雄弁ではないという意味でもあるでしょうし、エジプト語を長い間使わなかったので忘れてしまったということかもしれません。イスラエルの指導者達を説得したり、エジプト王と対決して語る自信がなかったのです。そんなモーセを神様は「わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう」と励ましてくださいましたが、モーセは「どうかほかの人を遣わしてください」と懇願しました。すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がった、と書かれていますが、神様は「もういい、お前には頼まん」とは言われませんでした。モーセの兄アロンをモーセの代弁者にすると約束してくださったのです。神様がモーセに伝えた言葉をモーセがアロンに伝え、アロンが人々や王に語るという方法を備えてくださったのですね。神様は、モーセの弱さを見て見捨てるのではなく、かえってモーセの弱さを補ってくださったのです。
 そして、神様が「エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていたものは、みな死んだ」と言われたので、モーセはついに決心し、妻や息子たちを連れてエジプトに出発しました。
 ところが、4章24節ー26節に不思議な出来事が書かれています。途中の一夜を明かす場所で主がモーセを殺そうとされたというのです。しかし、妻のチッポラが自分の息子に割礼を施し、切り取った包皮をモーセの両足につけると主はモーセを放されたと書かれています。難解な箇所ですね。以前、神様は、アブラハムに神の民のしるしとしてイスラエル人の男子は皆、割礼を受けるようにとお命じになりました。しかし、モーセはまだ自分の息子に割礼を施していなかったのですね。聖書を見ると、神様は、人を用いる前に大きな恐怖や試練をお与えになることがあるようです。アブラハムも暗黒の恐怖を味わったことがありました。モーセは、ここで、これから何があっても、自分のいのちを賭しても神様に忠実に従っていこうとする覚悟を決めるよう迫られたのかもしれませんね。
 さて、モーセは途中で兄アロンと合流してエジプトに到着しました。そして、まず最初にイスラエルの長老たちを集めて主の言葉を伝え、杖が蛇になったり、ツァラアトに冒された手が癒やされたり、水が血に変わるしるしを見せました。すると「彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した」と書かれています。 これで、同胞の理解を得ることができました。次はエジプト王との対決です。それは、次回、見ていくことにしましょう。