そして生まれた双子、先に母の胎から出てきたのがエサウです。エサウとは赤くて毛深かったので、エサウ(赤い、毛深い、の混合名
城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二五年十一月二三日            関根弘興牧師
           出エジプト記一二章三七節〜四二節
                   
 創世記から士師記まで24
   「出発」
 
37 イスラエル人はラメセスから、スコテに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約六十万人。38 さらに、多くの入り混じって来た外国人と、羊や牛などの非常に多くの家畜も、彼らとともに上った。39 彼らはエジプトから携えて来た練り粉を焼いて、パン種の入れてないパン菓子を作った。それには、パン種が入っていなかった。というのは、彼らは、エジプトを追い出され、ぐずぐずしてはおられず、また食料の準備もできなかったからである。40 イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は四百三十年であった。41 四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た。
42 この夜、主は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。         (新改訳聖書第三版)
 
 今日も出エジプト記を読み進めていきましょう。創世記の最後に登場したヨセフの時代から四〇〇年以上が経過した時代の出来事がこの出エジプト記に記されています。当時のイスラエルの民は、昔、ヨセフの時代に飢饉があり、ヨセフの父ヤコブ一族はエジプトに移住し、ゴシェンという地に住み着いていました。そして、民の数はおびただしく増えていきました。そのことを脅威に感じたエジプトの王は、彼らに過酷な労働を強いたのです。そうした時代に生まれたのがモーセでした。当時の王はイスラエルの民に脅威を感じ、生まれてくる男の子はナイルに流せ、殺せと命じていました。モーセは籠に入れられナイルの葦の茂みに置かれたのです。するとなんと王の娘が水浴のために来てその赤ちゃんを見つけ、可愛そうに思い助けたのです。そして、実の母が乳母となり、その後は、乳離れすると王宮で育てられ、あらゆる学間を吸収し、周囲からも、期待されていた人物となていきました。ちょうど脂ののりきった四十歳の時でした。モーセは自分がヘブル人であることを知っており、同胞が過酷な労働を強いられ苦しめられているのを知っていました。そんなとき、エジプト人が鞭で同胞を叩いているのを見たのです。モーセは、同胞を助け、そのエジプト人を殺し、砂に埋めてしまいました。きっと同胞は自分をヒーロー扱いにしてくれるだろう思ったことでしょう。しかし、彼の自信は、もろくも崩れていきました。それは、同胞の喧嘩の仲裁にはいったときでした。彼らは言いました。「だれがお前を俺たちのリーダーに決めたんだ」「あのエジプト人を殺したように、俺たちも殺す気か」と、モーセは結局、エジプトからも指名手配され、恐れ戸惑いながら、ミデアンの荒野へ逃げてしまったのです。そして、荒野で40年の生活を送ることになったのです。あるときのことでした。モーセは羊の群を追って、ホレブというところまでやって来ました。すると、向こうのほうで柴の中に火の炎が見えるではありませか。しかし、火で燃えているのに柴は焼け尽きていないのです。不思議な光景を見たモーセは近寄っていきました。そこで、モーセは、大きな使命を授かることになったのです。それは、エジプトに寄留している同胞を脱出させ、カナンの地へと導けというものでした。
 躊躇するモーセに、神様は「わたしは、あなたとともにいる」これがあなたへのしるしだと言われました。そればかりか、神様は、「わたしは、『わたしはある』という者である。」と示されたのです。つまり、「わたしは存在していた」「わたしは存在している」「わたしは存在し続ける」過去において、現在において、未来においていつも存在しているのだと示されたのです。しかし、モーセは心配はおさまりません。「イスラエル人たちは私を信ぜず、私の声に耳を傾けないでしょう」と訴えたのです。すると、神様は、モーセが三つのしるしを行うことができるようにしてくださいました。一つ目は、モーセが自分の杖を地に投げると杖が蛇になり、モーセが蛇の尾をつかむと、もとの杖にもどるというものです。二つ目は、モーセが手をふところに入れて出すと、その手がツァラアトに冒されて雪のようになり、もう一度ふところに入れて出すと、もとに戻っているというしるしです。第三のしるしは、ナイルから水を汲んで乾いた地に注ぐと、水が血に変わるというものです。しかし、モーセはさらに訴えました。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。私は口が重く、舌が重いのです。」「どうかほかの人を遣わしてください」と訴えのです。そこで、モーセの兄アロンをモーセの代弁者にすると神様は約束してくださったのです。このようにして、モーセは途中で兄アロンと合流しエジプトに到着しました。そして、まず最初にイスラエルの長老たちを集めて主の言葉を伝え、杖が蛇になったり、ツァラアトに冒された手が癒やされたり、水が血に変わるしるしを見せました。すると「彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した」と書かれています。同胞の理解を得ることができたわけです。そこで、今度はエジプト王のもとにいって直談判です。
 
1.モーセの葛藤
 
 モーセとアロンはパロのところに行き「私たちの民を行かせ、荒野で礼拝をさせてください、と申し出ました。すると、王は、「モーセとアロン。おまえたちは、なぜ民に仕事をやめさせようとするのか。おまえたちの苦役に戻れ。怠け者め」と、怒りながら追い返してしまいました。そして、苦役で苦しむイスラエルの民をさらに苦しめる命令を出したのです。彼らはレンガ造りをしていましたが、レンガの材料となるわらさえも自分たちで調達してレンガを作り、前と同じだけ納めよ、と命じられたのです。ですから、イスラエルの民の負担は二倍三倍になっていきました。王は、「おまえたちはなまけ者だ。なまけ者なのだ。だから『私たちの主にいけにえをささげに行かせてください』と言っているのだ。さあ、働け!」と強引に働かせたのです。
 当然、こうした事態になれば、一度は納得したイスラエルの民もすぐに文句がでてきました。モーセとアロンに「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたはパロやその家臣たちに私たちを憎ませ、私たちを殺すために彼らの手に剣を渡したのです。」と言ったのです。
 モーセは神様が遣わしたからエジプトに行ったわけです。あなたと共にいると約束してくださったから、勇気を持って王に直談判したわけです。しかし、結果は、さらにひどい苦役を招くだけでした。モーセはあの四〇年前の挫折を思い起こしたかもしれません。モーセは主に正直に言いました。「主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。私がパロのところに行って、あなたの御名によって語ってからこのかた、彼はこの民に害を与えています。それなのにあなたは、あなたの民を少しも救い出そうとはなさいません。」神様こんなのは、おかしいではありませか、と訴えたのです。
 そんなモーセに「わたしは主である。わたしはあなたがたを苦役から救い出す」と力強くお語りになったのです。しかし、モーセは、この神様のメッセージを伝えましたが、誰も聞こうとしません。また前のモーセに逆戻りです「どうしてイスラエル民が聞こうとしないのに、パロが私の言うことを聞くでしょう。私は口下手です。」と何度も告げたのです。しかし、それでもなお神様は「わたしは主である。有りてあるものだ。さあ王に告げよ」と言い聞かせてたのです。
 この時、モーセ八〇歳、アロン八三歳です。この二人が再び王の元に行って、自分達の民を荒野に出て行かせるように訴えたのです。そして、アロンが王と家臣の前に自分の杖を投げるとなんと蛇になるではありませんか。しかし、エジプトの呪法者たちも同じようにすることができました。しかし、アロンの杖が彼らの杖を飲み込んでしまったのです。でもそれを見たくらいではエジプトの王の心は全く動じませんでした。そこで、エジプト全土を揺り動かす10の災いが、もたらせていくのです。この災いは、最後の災いを除いて、超自然的なものではありませんでした。自然災害のひどいものであり、これまでもエジプトを悩ましてきたものでした。しかし、モーセたちが直談判しているこのタイミングで起こったことが奇跡なわけです。どんな災いが襲ったのでしょう。
 
2.十の災い
@ナイル川が血になる
 モーセは神様に命じられた通り、アロンに杖でナイルの水を打たせると、その水は次第に赤くなってきました。こうした現象はこれまでもあったことでした。それは、大量の赤土がナイル上流の高原から運ばれてきて、それによって、水質は悪化し、まるで赤潮のような状態になり多量の魚が死んでしまうことがあったからです。それが、このタイミングで起こったことが奇跡ですね。そして、エジプトの呪法師たちも同じ事をしたと書いてあります。ですから、エジプトの王にとっては、これは偶然の出来事だと無視したのです。
 
A蛙
 蛙が大量に発生し、川の水質が悪化し、今度は至る所に蛙が這い出てきたのです。「かえるがナイルに群がり、上って来て、あなたの家に入る。あなたの寝室に、あなたの寝台に、あなたの家臣の家に、あなたの民の中に、あなたのかまどに、あなたのこね鉢に、入る。」とある通りのことが起こりました。さすがの王様もいったんは、許可するのですが、すぐに強情になり、心を堅くなにしたのです。さあ、蛙の大量発生によって、死んだ蛙が山のように積み上げられていきました。すると、今度は、何が発生したでしょう。
 
Bぶよ(ハエの一種?)
 ぶよと訳されていますが、しらみ、ぶよ、蚊をも意味してる言葉で、ハエの小さいもののようなものだったかも知れません。これも悩ましいですね。しかし、王の心は頑ななままです。
 
Cあぶ(ハエの一種?)
 次はあぶの大量発生です。これは人を刺すハエの一種とも言われています。しかし、イスラエル民が住むゴシェンの地にはあぶの群が来なかったのです。
 
D家畜の疫病
 エジプトの王は災いが起こるといったんは約束するのですが、守ろうとしませんでした。すると今度は、大量に発生したあぶによってもたらされたのかも知れませんが、エジプトの家畜に疫病が発生したのです。家畜が死んでしまうことは、エジプト人の生活に直結していきます。そして、さらに次の災いは深刻度が増していきました。
 
E 腫物(できもの)
 モーセが、かまどのすすを両手いっぱいに取ってまき散らしたのです。すると、人に獣につき、うみの出る腫物となったのとあるのです。これも前の災害で大量に発生したあぶやぶよによって刺された傷によってもたらされたのかも知れませんが、かまどのすすを蒔いたときにこのことが起こったというタイミングの奇跡があるわけです。こうなると、王様の取り巻き連中も、モーセ達には対抗できないと考えるようになっていきました。しかし、王はまだまだ頑なでした。
 
F雹 
 すると、今度は、雹が降ったのです。降水量の少ないエジプトで雹が降ること自体珍しいことです。しかも、大きな雹によって人や家畜が死ぬほどのものとなるというのです。激しい雹がエジプトを襲いました。さすがの王様も、矛を鞘に収めればいいではありませんか。 王は、モーセとアロンを呼び寄せ、「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ。主にに祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを行かせよう。おまえたちはもう、とどまってはならない。」と言い出したのです。しかし、雨と雹と雷がやんでしまうと、すぐにまた心を頑なにしていったのです。
 
Gいなご
 そして、次の災いは、いなごの大量発生でした。中近東の国々にとっていなごは恐怖を呼ぶ名でした。いなごがエジプト全土を覆い、その地の作物をすべて食い尽くしてしまうからです。疫病や雹で家畜が被害を受け、いなごで作物に壊滅的な被害がもたらされたのです。ときどき大国の指導者というものは、民が苦しんでも、まわりの助言があっても、聞こうとしない強情なところがありますね。エジプトの王様も例外ではありませんでした。家臣たちはパロに、ついにこう言い出しました。「いつまでこの者は私たちを陥れるのですか。この男たちを行かせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか。」と進言したのです。すると王は、モーセとアロンを呼び寄せ、「壮年の男だけなら、行かせよう」と提案したのです。しかし、それはモーセが神様からあたえられた使命ではありませんでしたね。あくまでも、すべてのイスラエルの民を脱出させることだったからです。
 
H暗闇
 今度は何が起こったのでしょう。モーセが手を天に向け、伸ばすと、エジプト全土が暗闇に覆われていきました。それも3日続いたのです。これは、大量に襲ったいながを吹き去った強風によって、激しい砂嵐のようなものが起こったのでしょうね。太陽の光は遮られ、なんとも不気味な光景が地を覆ったのです。
すると王は、モーセに「行け。主に仕えよ。ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。幼子はおまえたちといっしょに行ってもよい。」と一歩譲歩しましたが、家畜はだけ残しておけ、というわけですね。でも、モーセはその提案をきっぱりと断り、主に礼拝のためにいけにえをささげるのですから、家畜も一緒に連れて行きますとと答えたのです。
 すると、王は怒り、「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」と激怒したのです。
するとモーセも負けていません。「結構でございます。私はもう二度とあなたの顔を見ません。」と、以前はおどおどしていたモーセがきっぱりと王に断言したのです。
 
I初子の死
 こうした一連の災いが続く中で、こんなことが書かれています。「主はエジプトが民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの国でパロの家臣と民とに非常に尊敬されていた。」と。国から脱出しようとしている彼らですから、酷いことを言われてもいいはずです。でも、彼らは、好意を得ていたというのです。頑なな王に嫌気を差す人たちや搾取されている人が周りにもいたと言うことなのかも知れません。ですからそんな王に毅然と立ち向かうモーセとアロンに好感を持つ人たちもいたのでしょうね。そのおかげでエジプトを出発するイスラエルの民は「銀や金の飾り物」を受け取ることが出来るようになったというのです。
 さあ、王の顔を二度と見ませんと、断言して王の下を去ったモーセですが、この後、決定的な出来事が起こるのです。これまでの9つの災いは、自然現象と結びつけることが出来たものでした。しかし、一〇番目の災いはそうではありませんでした。それは、エジプト中の初子が家畜に至るまでみな死ぬ、というものでした。王様の強欲と頑なさは、エジプトに大きな悲劇を運ぶことになったのです。さすがの王様もこの災いを目の当たりにして、これ以上、心を堅くにしていたら自分の命まで失いかねないと思ったのです。そして、「全部連れて行け、一刻も早く出て行け」と彼らを追いだしたのです。
 私たちはモーセのこの最後の災いのことを読むと、戸惑います。いくらなんでもエジプト中の赤ちゃんまで殺すとは酷いのではないかと思うからです。しかも、王様は心が頑なでしたが、回りのエジプト人たちはイスラエルの人たちに好意を持ち始めていたのです。ですから、ますます戸惑うわけです。これから出エジプト、ヨシュア記を読んで行くと、私たちには理解できない戦いのことなどが何度も出てきます。その時に、自分の判断基準で、「だから聖戦はいいのだとか、戦争は正当化してもよいのだと」と勝手に決めつけてはいけません。聖書には、私たちには理解できない、不可解と思えることが出てきます。判断を保留せざるを得ないこともたくさん記されているのです。こうしたことはしっかり理解しておきましょう。
 ただこの災いでひとつわかることは、「エジプトの初子が取られた」ことは、苦役に苦しむ民を解放し自由にする決定的な出来事となったということです。
 
3.過越
 一〇番目の災いがもたらされようとしているとき、イスラエルの民にモーセとアロンはこう告げました。「この月をあなた方の始まりの月としなさい」と。これから新たなスタートが開始されるというわけです。そして、羊を用意して、それをほふり、その血を、家の二本の門柱と、かもいに、それをつけなさい、と命じたのです。そして、その肉を食べ、種を入れないパンと苦菜を添えて急いで食べ、いつでも出発できるようにしておきなさい、と。
 イスラエルの民は、言われた通りにしました。その夜、エジプトの地では初子が打たれたのです。それは、エジプトのすべての神々に対するさばきでもあったと聖書に記されています。
そして、こう記されています。出12章13節−14節「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。」
 このようにして、エジプトの奴隷生活から彼らはついに脱出することが出来たのです。そして、この出来事を記念し、毎年、過越祭りというものが開かれていくようになりました。
 こうして、イスラエルの民は、旅立ち、幼子を除いて、徒歩の壮年の男子だけで約六十万人の人たち、総勢二〇〇万とも言われる大移動が始まったのです。
 
 さて、この出エジプトの出来事は、救いとは何かということを、教えてくれます。
 聖書が救いという言葉を使うとき、その意味は多岐にわたっています。でもいずれも、人間を不幸にする圧迫や苦しみ、脅威、危険から解放し、自由をあたえ、その人が幸いだと頷くことのできる人生を与えることを意味しているんです。今読んでいる出エジプト記は、エジプトで奴隷状生活を強いられ苦しめられていたイスラエルの民が、モーセによってエジプトから脱出していく壮大なストーリーです。つまり救いというもののひとつの側面は、奴隷状態からの解放と自由というものなのだということを教えているわけです。そして、そのために、過越の犠牲があったという事実が必要だったわけです。
 私たちは新約聖書を読む、理解できることがあります。それは、イエスキリストが来てくださり、どうして十字架について血を流し死なれたのかが、見えてくるのです。キリストの十字架の犠牲によって、その血によってわざわいから過ぎ越されていき、それが新しい記念の出発となるということに繋がっていくわけです。
 
さあ、ついにイスラエルの民は出発しました。彼らがエジプトに滞在していた期間は四百三十年であった、と記されています。出 12章42節「この夜、主は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。」と書かれています。
 詩篇一二一篇新「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。眠ることもない。」と書かれているとおりです。そして、それはイエスキリストを信じ主の民とされている私たちヘの約束でもあるのです。
 
 次回は、出発した途端、待ち受けていた困難の数々を見ながら、御一緒に人生を考えていきましょう。