城山キリスト教会 礼拝説教    

二〇二六年一月四日               関根弘興牧師

            出エジプト記一三章一七節〜二二節

                   

 創世記から士師記まで25

   「遠回り」

 

 17 さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」18 それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。イスラエル人は編隊を組み、エジプトの国から離れた。19 モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。20 こうして彼らはスコテから出て行き、荒野の端にあるエタムに宿営した。21 主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。22 昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。(新改訳聖書第三版)

 

 前回は、エジプトで奴隷状態になっているイスラエルの民を救うために神様に選ばれたモーセが、兄のアロンと一緒にエジプトの王パロのもとに行って、イスラエルの民が国外に出ることを許可してください、と直談判した箇所を読みました。しかし、心頑ななパロは、貴重な労働力をやすやすと手放そうとはしませんでした。そこで、モーセは、エジプト全土を襲う災いが主なる神様から下るだろうとパロに向かって宣言しました。その宣言通り、十の災いが下りましたね。最初の九つの災いは、以前からエジプトを悩ませてきた自然災害が大規模に起こったものですが、モーセが宣言すると災いが起こり、モーセが神様に祈ると災いが終わるという、タイミングの奇跡でした。まず、ナイル川の水質が悪化して飲めなくなり、かえる、ぶよ、あぶが次々と大量発生し、多くの家畜が疫病で死に、家畜や人々が膿の出る腫物に苦しみ、激しい雹が降って家畜や植物に大量の被害をもたらし、イナゴの大軍が襲来してあらゆるものを食い尽くし、暗闇がエジプト全土を三日間覆いました。エジプトは作物にも家畜にも人々にも壊滅的な被害を受けたのです。それでもパロは頑ななままでした。頑なな独裁者のもとで苦しむのは民衆ですね。民衆の心はパロから離れていったことでしょう。そして、ついにモーセは神様から下る十番目の災いを宣言しました。エジプト中のすべての初子が一晩のうちに死んでしまう、というのです。ただ、神様はこう約束してくださいました。「羊をほふって、その血を家の門柱とかもいに塗りなさい。わたしはその血を見て、その家を通り越すので、その家には災いは起こらない。」イスラエルの民は、命じられた通りに羊の血を塗ったので、無事でした。しかし、エジプト中の王の初子から家畜の初子までが一晩で死んでしまったのです。さすがの王も「この国から出て行け」と命じざるをえませんでした。こうして、イスラエルの民は、エジプトから旅立ちました。壮年の男子だけで約六十万人、総勢約二百万人とも言われる大移動が始まったのです。

 

1 エジプト脱出のルート

 

 イスラエルの民は、神様に導かれるままに進んで行きました。13章21節ー22節にこう書かれています。「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。」神様が雲の柱と火の柱で行くべき道を示してくださったのですね。

 当時、エジプトから約束の地のあるパレスチナ地方に行くルートは三つありました。最短距離なのは地中海沿いの道で、道路が整備されていましたが、好戦的なペリシテ人の軍隊がいて、戦いが頻発していました。もう一つは、荒野の真ん中を通るルートですが、広大な荒野の中を大群衆が家畜を連れて旅するのは、ほとんど不可能でした。三番目は、葦の海に沿って南下し、シナイ半島の回りをたどるルートで、最も遠回りで何ヶ月もかかります。しかも、山地あり、荒れ地あり、野獣や山賊や好戦的な種族がいて、大変危険なルートでもありました。地中海沿いの最短距離のルートはペリシテ軍と戦いになる危険がありますが、三番目のルートも安全なわけではありません。実際、これから読み進めていくと、イスラエルの民は何度も敵からの攻撃を受けることになるのです。しかし、神様は、この一番遠回りなルートにイスラエルの民を導かれました。そして、その旅の中で様々な経験をさせ、神様がどのような方なのか、また、神様に信頼して進むことがどれだけ大切なのかを教えてくださったのです。

 聖書の中には、神様があえて遠回りをさせたり、長い時間待たせたりなさる出来事がいくつも記録されています。モーセの生涯も遠回りでしたよね。四十歳の一番脂ののった時に大きな失敗をしてから四十年間荒野で失意の生活を送ったあと、八十歳になって神様から大きな使命を与えられたのです。

 私たちは、遠回りを嫌います。忍耐強く待つことが苦手で、即効性を求めますね。信仰生活でも「神様、信じましたよ。どうしてすぐに結果が出ないのですか。どうして、わたしの願い通りにならないのですか」と思ってしまうのです。しかし、神様は、あえて遠回りをさせたり、待たせたりなさることがあります。私たちは、その中で、自分を見つめ直し、神様の恵みの豊かさに気づき、神様がちょうどよいタイミングで最善のことをしてくださることを知り、その神様に信頼して待つことの大切さを学ぶことができるのです。

 

2 ヨセフの遺骸

 

 さて、モーセはエジプト脱出するにあたって、遙か昔四百年以上前にエジプトで活躍し、イスラエルの民をエジプトに移住させて大飢饉から救い出してくれた先祖ヨセフの遺骸を携えていきました。四百年前、ヨセフはエジプトで絶大な権力を持っていましたから、自分が死んだとき、自分の遺骸をすぐに故郷に運んで先祖の墓に埋葬するよう命じることもできたはずです。実際、ヨセフの父ヤコブが亡くなったときには、ヨセフはエジプトの大軍勢を引き連れてヤコブの遺骸を故郷に運び、そこで壮大な葬式を行って、先祖の墓に葬りましたね。しかし、ヨセフは、神様が将来必ずイスラエルの民をエジプトから約束の地に連れ戻してくださると信じていました。そして、その信仰を子孫たちに引き継いでほしいと願ったのでしょう。「自分が死んだら遺体をミイラにして保存し、神様の約束が実現するときに、すべての民とともに故郷に運び上ってほしい」と遺言を遺したのです。つまり、ヨセフの遺骸は、神様が約束したことを必ず実現し、約束の地に導き入れてくださるという信仰を表す象徴だったのです。そして、今、ついに、ヨセフが信じた通りのことが起こったのです。ですから、モーセは慌ただしく出発する中で、ヨセフの遺骸を忘れずに運び出したわけですね。

 

3 恐れ

 

 エジプトを出たイスラエルの民は、スコテ、エタムへと進んで行きました。しかし、神様は突然、不思議なことを言われたのです。「イスラエル人に、引き返すように言え。そしてミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現し、エジプトはわたしがであることを知るようになる。」

 神様はわざわざ引き返して海辺で宿営せよと言われたのです。そうすれば、エジプト王パロが「彼らは行ったり来たりして道に迷っているのだな。よし、全軍勢を引き連れて行って、彼らをエジプトに連れ戻そう」と考えるだろうというのです。それはイスラエルの民にとっては大ビンチです。しかし、その中で神様が栄光を現してくださるというのですね。モーセは、神が何をしようとしておられるのかよくわからなかったでしょう。しかし、とにかく神様の言葉に従って、引き返し、海辺に宿営しました。

 そこに、案の定、パロが大軍勢を率いて迫ってきました。パロは、イスラエルの民がエジプトを出ることをいったんは許可しましたが、奴隷としてこき使っていたイスラエル人にまんまと逃げられ、大きな労働力を失い、しかも、主を礼拝するために行くと言っていた彼らがもう二度と戻って来ないようだと気づくと、悔しさと怒りが湧いてきたのでしょう。何としてもエジプトに連れ戻そうと追いかけてきたのです。

 それに気づいたイスラエルの民は非常に恐れて主に叫びました。前には海、後ろにはエジプトの大軍勢、逃げ場がありません。彼らは、モーセにくってかかりました。「あなたは、私たちをこの荒野で死なせるのか。エジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたんだ。ここで死ぬよりエジプトに仕えているほうがよかった。」彼らは、少し前に、エジプトで神様の数々の力あるしるしを目の当たりにしたばかりです。やっと奴隷状態から解放されて約束の地に帰ることができると喜び勇んで出発したはずです。しかし、大きな困難に直面するとすぐに「昔のほうが良かった」と嘆き、神様がともにおられることを忘れて「私たちはここで死んでしまう。もう絶望だ」と文句を言い始めたのです。

 そんな彼らにモーセは14章13節でこう宣言しました。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

 モーセは、非常に大胆に語っていますね。自分を批判する多くの人々に対して毅然とした態度をとっています。しかし、面白いことに15節では、神様がモーセにこう言っておられます。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。」おもしろいですね。モーセは民の前では消して弱さを見せません。リーダーが毅然としていなければ、民はすぐに動揺してしまうからです。しかし、だからといってモーセが強かったわけではありません。絶体絶命の状況の中、同胞たちからは批判や不満の声を浴び、モーセ自身も恐れや不安や動揺を感じていたことでしょう。自分の力ではどうにもなりません。人に頼ることもできません。モーセにとって頼れるのは、神様だけでした。だからこそ、主に向かって叫んだのです。そして、神様に叫ぶとき、神様は、応えてくださいます。そして、必ず脱出の道を備えてくださるのです。それを確信していたからこそ、モーセは民に対して「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」ということができたのですね。

 中国に宣教に行ったハドソン・テイラーという宣教師は、こう言いました。「悪魔はあなたの周りに垣をめぐらすことができる。しかし、屋根をつけることはできない」と八方塞がりでどうしようもない状況に陥ったとき、どこにも逃げ道がないように思われる時でも、「上は開いている」、つまり、神様に向かって叫び、神様の助けを受けることができるというのですね。

 「人」とは、ギリシャ語で「アンスローポス」と言います。「上を見上げる者」という意味です。人は、神様を見上げて生きる存在なのですね。私たちは、ともすれば下ばかり見たり、横ばかり見たりしがちですが、上を見上げながら生きるときにこそ、人としての本来の生き方ができるのですね。

 詩篇62篇1節には「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」とあります。八方塞がりでも、恐れず、慌てず、黙って主の助けを待つことが大切なのですね。

 

4 道が開かれる

 

 さて、モーセが主に向かって叫ぶと、主はこうお命じになりました。「イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。」

 そのとき、今までイスラエルの民の前を進んでいた雲の柱が、後ろに移動し、イスラエル人とエジプト軍の間に入って暗闇で覆い、一晩中エジプト軍が近づいてくるのを防いだと書かれています。その間に何が起こったでしょうか。モーセが杖を持った手を海の上に差し伸ばすと、一晩中強い東風が吹いて海の水が分かれ、海の真ん中に道が現れたのです。その道を民はいっせいに進み始めました。夜明け前のできごとです。いつ風が止んで道がなくなってしまうかわかりません。しかし、エジプト軍から逃れるためには進むしかありません。民は必死で進んで行ったことでしょう。

 夜が明けるころ、エジプト軍も後を追って海の中の道に入ってきました。すると、主は、「エジプトの陣営をかき乱された。その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた」と書かれています。そのとき、主はモーセに言われました。「あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ。」モーセがその通りにすると、水はもとに戻り、エジプト軍は海に飲み込まれて全滅してしまったのです。

 無事に海を渡り終わった民は、ついに、エジプトの束縛から完全に解放され、新しい生活に踏み出していくことになりました。彼らは、主を賛美し、また、モーセの姉のミリアムと女達はタンバリンを手に取り、踊りながら歌いました。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた」と。

 この出来事は、神様の救いをみわざを示す記念として、後の時代に繰り返し語り継がれていきました。

 イザヤ43章16節〜19節には、こう書かれています。「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。『彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。』」

 神様が海の中に道を設けて救い出し、イスラエルの民を新しい人生へと導いてくださった出来事は、私たちにも大切なことを教えています。私たちも、それぞれが神様に導かれ、赦しの命の中に招かれ救いの恵みに預かる者となりました。その私たちにも神様はこう言われるのです。「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。」これから、読み進めていくと、イスラエルの人々は約束の地に向かって荒野を旅していく中で様々な困難や試練を経験することになります。しかし、それと同時に、神様の恵みや素晴らしいみわざも経験することになるのです。私たちも同じです。神様に導かれて新しい人生をスタートした後に、様々な困難を経験するでしょう。時には、心配や恐れに圧倒されそうになることがあるかもしれません。八方塞がりでどうしようもない状態に陥ることがあるかもしれません。でも、神様は、海にも荒野にも道を備えて導き、荒れ地に川を設けて決して渇くことのないようにしてくださるのです。神様が私たちの人生に新しい事をしてくださいます。ですから、私たちは、希望をもって進んでいくことができるのですね。

 新しい年がスタートしましたが、私たちの主は、昨日も、今日もいつまでも変わることのないお方です。そのお方が、「恐れるな。しっかり立って、あなたのために行われる主の救いを見よ」「私は新しいことをする」と約束してくださっているのですから、「主よ、今年もあなたを信頼し生きていきます」と告白つつ、主の導かれる道を歩んでいきましょう。

 

5 マラの水

 

 さあ、自由になったイスラエルの民の新しい旅が始まりました。しかし、順調な旅だったかというと、そうではありませんでした。

 まず最初に直面した問題が、15章22節から書かれています。 荒野の旅が始まってから三日間、彼らは、水を見つけることができませんでした。水がなければ生きていくことができません。彼らは次第に不安になってきたことでしょう。でも、やっと水のあるところにたどり着きました。彼らは大喜びしました。しかし、それもつかの間、その水は苦くて飲むことができなかったというのです。おそらく、その水はミネラル分が異常なほど高い硬水で、飲料水として使えなかったのでしょう。がっかりした人々は、そこをマラ(苦しみ)と呼びました。そして、モーセに不平を言い始めたのです。「俺たちは何を飲めばいいんだ。死んでしまうではないか」と。

 そう言われても、モーセにはどうすることもできません。しかし、モーセは、誰に訴えたらいいか知っていました。25節にこう書かれています。「モーセはに叫んだ。すると、は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。」ある種の木の樹皮や葉には、硬水を軟水にする効能があるようです。主は、そういう効能のある木をモーセに示されたのかもしれません。これからの旅に役立つ大切な知恵でもありますね。

 そして、15章25節-26節にこう書かれています。「その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。『もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。』」

 ここで主がモーセに授けたおきてと定めの内容は、詳しく書かれていませんが、「主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら」と書かれていますね。

そして、そうすれば「エジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない」と約束されています。たしかに、エジプトは神様に対して頑なだったために、大きな災害や病を味わうことになりました。しかし、神様の声に耳を傾け従うなら、そのような災いは下さることはないというのですね。これは、神様に信頼し生きていったなら病気にも災いもないということではなく、さまざまな困難にあったとしても、「わたしは主、あなたをいやす者である」と約束される主がいてくださるというすばらしい約束なのです。

これから見ていくとわかりますが、イスラエルの民は、荒野の旅の中でも、約束の地に入ってからも、何度も神様に背くことを繰り返していきます。神様に従おうと思っても従えない人間の弱さが旧約聖書を通して記録されています。

そして、そういう人間の姿を通して「人はいくら頑張っても神様の戒めを完全に守ることはできない。だから、救い主が必要なのだ」ということが示されていくのです。

そして、新約聖書の時代に救い主が到来することによって、私たちの神様は、「わたしは主、あなたをいやす者である」ということがはっきりとわかってくるのです。

 イエス・キリストは、私たちにいやしをもたらし、新しい人生を与え、こう約束されました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4章14節)

 私たちは、人生の様々な困難の中でも、決して尽きることのないいのちの水の泉を与えられていることを感謝しつつ、上を見上げて新しい年を進んで行きましょう。