城山キリスト教会 礼拝説教
二〇二六年一月一八日 関根弘興牧師
出エジプト記一六章一節〜一二節
創世記から士師記まで26
「朝ごとに」
1 ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」4 主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。5 六日目に、彼らが持って来た物を整える場合、日ごとに集める分の二倍とする。」6 それでモーセとアロンは、すべてのイスラエル人に言った。「夕方には、あなたがたは、主がエジプトの地からあなたがたを連れ出されたことを知り、7 朝には、主の栄光を見る。主に対するあなたがたのつぶやきを主が聞かれたのです。あなたがたが、この私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何なのだろう。」8 モーセはまた言った。「夕方には、主があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」9 モーセはアロンに言った。「イスラエル人の全会衆に、『主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたから』と言いなさい。」10 アロンがイスラエル人の全会衆に告げたとき、彼らは荒野のほうに振り向いた。見よ。主の栄光が雲の中に現れた。主はモーセに告げて仰せられた。12 「わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。』」(新改訳聖書第三版)
前回は、エジプトで奴隷状態になっていたイスラエルの民がモーセに導かれてエジプトを脱出した直後の出来事を読みましたね。彼らは、主に導かれて海に面した場所に宿営しました。するとそこに、エジプト王パロが彼らをエジプトに連れ戻そうと大軍を率いて迫ってきたのです。目の前は海で逃げ場がありません。恐れ叫ぶ民に対してモーセは宣言しました。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」そして、モーセが神様に命じられた通り、杖を持った手を海の上に差し伸ばすと、強い東風が吹きつけて海が分かれ、海の真ん中に道ができたのです。民はその道を通って対岸に渡ることができました。しかし、後を追ってきたエジプトの軍勢が進んでいくと、海の水が元に戻り、エジプト軍は皆、海に飲み込まれてしまったのです。
イスラエルの民は、ついに、エジプトの束縛から完全に解放され、新しい生活に踏み出していくことになりました。彼らは、主を賛美し、荒野を進んで行ったのです。
しかし、彼らの旅は決して順調ではありませんでした。まず最初に起こったのは水の問題です。彼らはなかなか水を見つけることができませんでした。そして、三日目にようやく水のあるところを見つけたのですが、その水は苦くて飲めなかったのです。おそらく、ミネラル分が異常なほど高い硬水で、飲料水として使えなかったのでしょう。がっかりした人々は、そこをマラ(苦しみ)と呼びました。そして、モーセに不平を言い始めたのです。「俺たちは何を飲めばいいんだ。死んでしまうではないか」と。すると、主は、モーセに一本の木を示されました。モーセがその木を水に投げ入れると、水が飲めるようになったのです。ある種の木の樹皮や葉には、硬水を軟水にする効能があるようですが、主は民の不平に対して、必要を備えてしてくださり、「わたしは主、あなたをいやす者である」と示してくださったのです。
今日は、その続きで、15章27節ー17章の内容を見ていきましょう。イスラエルの民は、マラから南下してエリム、そして、シンの荒野を通り、レフィディムへと進んで行きましたが、それぞれの場所で何が起こったでしょうか。
1 エリムからシンの荒野へ
エリムには、「十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった」と書かれています。荒野の中のオアシスです。エジプトから慌ただしく脱出して以来ずっと落ち着かない日々が続いていましたが、やっと安心して休める場所にたどり着いたのです。 しかし、いつまでもそこに留まるわけにはいきません。しばらく滞在した後、彼らはまた出発して南に向かい、第二の月の十五日、つまり、エジプトを出発してからちょうど一ヶ月後にシンの荒野に入りました。そこは荒涼とした場所です。水も食べ物もありません。モーセは、荒野で四十年間生活していたので、荒野の様子をよく知っていたでしょう。しかし、民のほとんどはエジプトから出たことがありません。潤ったエジプトの地から離れて荒涼とした荒野の旅が始まると、次第に不安になってきました。一ヶ月も旅をしてきたのに、目的地に着く気配はまったくありません。それに加えて、食糧もおぼつかなくなってきました。といって、連れてきた家畜を食べてしまったら、生活できなくなってしまいます。彼らは底知れぬ不安を感じて、モーセとアロンに責め始めました。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」彼らのこの思いは理解できますね。私も彼らの一員だったなら、同じように文句を言ったのではないかと思います。「どうして私たちを荒野に連れ出したのだ。このままでは飢え死にしてしまう。エジプトにいれば美味しいものが食べられたのに。エジプトで死んだほうがましだった」と。
しかし、実際はどうだったでしょうか。彼らはエジプトの奴隷生活に苦しみ、神様に助けを叫び求めたではありませんか。その叫びに応えて神様は、数々の不思議なみわざを行い、彼らを奇跡的な方法で脱出させてくださったのです。また、脱出後、神様は、昼は雲の柱、夜は火の柱で導いてくださっています。マラでは、神様が苦い水を甘い水に変えてくださったという経験もしました。それなのに、少し困難を味わうと、そういう神様の恵みやみわざをすっかり忘れて、文句を言い始めたのです。本当なら、「大いなる力でエジプトから救い出してくださった神様なら、荒野でも私たちを守り導き、食べ物も備えてくださることができるはずだ」と信頼してもいいはずではありませんか。つまり、彼らはモーセとアロンに文句を言いましたが、それは、神様に文句を言うのと同じことだったのです。神様を信頼せず、モーセとアロンに八つ当たりしていたのですね。ですから、モーセは民にこう言いました。「あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」
そんな彼らを、神様は見捨ててしまうこともできたはずです。しかし、神様は、忍耐強いお方です。モーセは神様から命じられて、イスラエル人の全会衆を集め、アロンにこう言わせました。「主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたから。」人々が集まると「主の栄光が雲の中に現れた」と書かれています。その栄光が具体的にどのようなものか書かれていませんが、主がともにおられること、そして、これから起こることは主がなさることなのだということを、彼らに教えるためだったのでしょう。そして、主はモーセに言われました。「わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。』」何もない荒野で肉やパンを食べて満ち足りるというのは、不可能に思えますね。しかし、神様に不可能はありません。
夕方、うずらの大軍が飛んできました。うずらは群れを成して季節風を利用して低空で飛んでくるそうです。毎年四月から五月にかけてシナイ半島を通過するのですが、ちょうど神様が宣言なさったタイミングでそれが起こったのですね。彼らはこのうずらを獲ってその肉を思う存分食べることができたのです。
翌朝、こんどは、宿営のまわりの地面に白い霜のような、うろこのような細かいものが一面に積もっていました。彼らはそれを見て「これは何だろう」と互いに言い合いました。それで、この食べ物を「これは何だろう」という意味の「マナ」と名付けたとされています。モーセは「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです」と言いました。
このマナに関しては、荒野における自然の産物なのか、それとも神様によって超自然的に与えられたものでなのか、という議論があります。自然の産物だと考える人は、シナイ半島に自生しているある樹木に寄生する昆虫の分泌液が凝固して白色の粒子になって地上に落ちたものではないかというのです。しかし、もしそうであったとしても、それが約二百万人とも言われる人々が食べられるくらい大量に、しかも、これから四十年間絶えることなく毎朝与えられるというのは、神様の超自然的なみわざというほかありませんね。まさに「天から降ったパン」なのです。
イスラエルの民は四十年間の荒野の旅の間、毎朝このマナを集めて食べることになるのですが、神様は、マナについていくつかのルールをお定めになりました。その一つ一つのルールは、私たちの信仰生活にも当てはまるように思えます。
@「毎朝、各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメル(二・三リットル)ずつを集めなさい。」
私たちも、その日に必要な恵みを、毎日新たに受け取っていく必要がありますね。また、「多く集めた人も少なく集めた人もいたのに、計ってみると、皆、一オメルだった」と書かれています。神様の恵みは、一人一人に同じように与えられているのですね。
A「それを、翌朝まで残しておいてはいけない」
このルールを無視して朝まで残しておいた人がいました。「明日はマナが降るかどうかわからないから、明日のために取って置こう」と考えたのでしょう。しかし、取っておいたマナには、虫がわき、悪臭を放ったと書かれています。その人は、明日も神様が助けてくださるかどうかわからないと思った、つまり、神様を十分信頼していなかったということですね。自分でため込んだものがあったとしても、神様への信頼がないなら役に立たないのです。イエス・キリストは「あすのための心配は無用です」と言われました。神様が日毎に必要なものを備えてくださると信頼することが大切なのです。
ただ、誤解しないでくださいね。「心配」には「必要な心配」と「不必要な心配」があるんです。「心配」は「心を配る」と書きますね。いろいろなことに心を配ること、配慮することは、毎日の生活に必要です。例えば、家族の健康を配慮して体に良い食事を用意したり、冬に備えて暖かい衣服を準備したりすることは必要です。イエス様が心配するなと言われたからと言って、何の計画もせず、必要な準備もしないなら、それはただ無謀なだけです。神様が必要なものを与えてくださるから働かなくてもいいと考えるのはただの無責任です。神様は毎日マナを与えてくださいますが、私たちはそれを集める必要があるのです。集めたマナを入れる器の準備も必要です。神様の養いに信頼し感謝しつつ、自分がすべきことはする必要があるのですね。
B「六日目には、二日分のパン、ひとり当たり二オメルずつ集め、七日目は安息しなさい。」
不思議なことに、一日目から五日目に集めたマナは、翌日までとっておくと腐ってしまったのに、六日目に集めたマナは翌日までそのまま保存できました。ですから、七日目は集める必要がありません。七日目も主のルールを無視してマナを集めに出た者がいましたが、何も見つかりませんでした。
主は言われました。「主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。」(出エジプト16章29節)
これは命令形で書かれていますが、「わたしはあなたがたが七日目は働かなくてもいいように配慮しているのだよ」ということですね。そして、「主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ」というのは、「荒野の旅の中であれやこれやと思い煩うのではなく、この旅を導くのは主ご自身であることを、落ち着いて心に留めて生きよ」ということですね。
考えて見れば、私たちもいろいろな心配や思い煩いばかりして生きています。だからこそ、主の前で安息し、落ち着いて主を信頼する時を持つことが大切なのですね。
さて、モーセは、主に命じられて、マナ一オメルをつぼに入れて保存しました。主が荒野で御自分の民を毎日養ってくださったことの記念として、子孫に受け継いでいくためです。
2 レフィディムで
次に、イスラエルの民は、主の命令によってシンの荒野から旅立ち、レフィデムで宿営しました。ここで、またしても問題が起こりました。そこには飲み水がなかったのです。民は「水がない。俺たちをここで死なせる気か」とモーセに文句を言い始めました。それどころか、モーセを石で打ち殺そうとしたのです。モーセが主に叫ぶと、主はこう言われました。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」レフィディムのすぐ近くにホレブの山(シナイ山)がそびえていました。モーセは長老たちとともにホレブの岩のところに行き、その岩を杖で打ちました。すると、岩から水が湧き出てきてたのです。
私は以前シナイ半島を旅行したとき、岩の割れ目から水が湧き出ている場所をいくつか見ました。日本では、岩からの湧き水を岩清水といいますね。美味しい水なんですよ。神様は、民に、美味しい水を湧き出させてくださったのですね。
モーセはその場所をマサ(試み)、またはメリバ(争い)と名付けました。それは、民が「主はここにおられるのか」と疑い、批判したからです。
3 永遠のパンと水
さて、マナが与えられた出来事と岩から水が湧き出た出来事は、不平を言う頑なな民にさえパンと水を与えてくださる神様の恵みの深さと偉大さを示す記念として代々語り継がれていきました。ただ、マナは食べてもまたお腹が空きますね。岩から出た水を飲んでもまた喉が渇きます。肉体の空腹や渇きを一時的に満たすことができるだけでした。
しかし、新約聖書には、永遠に飢えることも渇くこともなくなるパンと水が与えられたことが書かれています。それは、イエス・キリストのことです。イエス様は、こう約束してくださっています。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6章35節)「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4章14節)人生の荒野を旅する私たちに、神様はいのちのパンといのちの水を与えてくださっているのですね。
4 アマレクとの戦い
さて、水を得てほっとしたのも束の間、レフィディムにいるイスラエルの民に次の試練が起こりました。アマレク人が襲ってきたのです。アマレク人はシナイ半島を移動しながら生活する遊牧民です。神を恐れぬ好戦的な民です。岩から水が湧き出たことを知って、奪いに来たのかもしれません。一方、イスラエルの民は、特別に訓練された軍隊があるわけではありません。エジプトの奴隷生活から逃げてきたばかりの民です。しかし、攻められたら、自衛のために戦わざるを得ませんでした。
モーセは、従者のヨシュアに、アマレク人と戦いに出るよう命じました。このヨシュアは、後にモーセの後を継いでイスラエルの民を約束の地に導き入れることになる人物です。
一方、モーセとアロンは、フルという側近を連れて丘の頂きに登り、情勢を眺めていました。モーセは戦いの間ずっと両手を挙げて神様の助けを祈り求めました。すると、「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった」というのです。敵に勝つためにはモーセは手を上げ続けていなければなりません。しかし、次第に手が重くなってきました。そこで、そばにいたアロンとフルがモーセを石に座らせ、両側からモーセの手を支えたので、モーセは日が沈むまで手を上げ続けました。その結果、ヨシュアはアマレク人に打ち勝つことができたのです。
モーセはその場所に祭壇を築き、それを「アドナイ・ニシ」と呼びました。「主の御座の上の手」または「主はわが籏」という意味です。主が私たちのために戦い、勝利させてくださるのですね。
このアマレクとの戦いでは、モーセが手を上げているときは優勢になり、手を下げると劣勢になりましたね。これは、困難に対処するときに祈りが大切であることを象徴的に示しています。でも、一人では祈りに疲れてしまうことがありますね。そんな時は、誰かの支えが必要なのです。信仰生活は、お互いに助け合うことによって継続されていくのです。自分が祈れないときには、遠慮無く誰かに「祈ってください」と頼めばいいのですね。
ところで、これから読み進んでいくと、イスラエルと他民族との戦いの記事がたくさん出て来ます。それを読むと、「神様はイスラエルをえこひいきしているのではないか」と勘違いする方もいるかもしれませんが、そうではありません。神様は、すべての人を愛しておられ、御自分の与える救いをすべての人が受け取ってほしいと願っておられます。しかし、神様は正しく聖なる方でもありますから、悪を行う者には公平なさばきを下されるのです。今回のアマレクは自らの悪によって滅びを招きました。また、イスラエルの民も、これから神様に背いて様々な悪を行ってしまうことになるのですが、その結果、神様のさばきを受けることになるのです。
でも、神様のさばきをむやみに恐れる必要はありません。私たちは欠けも弱さもありますが、ただ神様を信頼して歩んでいけばいいのです。たとえ神様に背くことがあったとしても、そのことに気づいて神様のもとに立ち返るなら、神様はいつでも喜んで赦し、受け入れてくださいます。
神様は、荒野でイスラエルの民に必要な糧と水を与え、敵に勝利させ、不平や不満ばかりの民を忍耐強く導いてくださいました。その同じ神様が、今日、私たちともにいて人生の旅を導いてくださっています。その神様に信頼して進んで行きましょう。