城山キリスト教会 礼拝説教
二〇二六年二月一日 関根弘興牧師
出エジプト記一九章一節〜八節
創世記から士師記まで27
「宝の民」
1 エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野に入った。2 彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。3 モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。4 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」7 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。8 すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行います。」それでモーセは民のことばを主に持って帰った。(新改訳聖書第三版)
前回は、イスラエルの民がエジプトを脱出して一ヶ月以上も荒野を旅する中で食べ物や飲み水が無いことに不安を募らせ、「なぜ私たちをこんな荒野に連れ出したのだ」とモーセに不満をぶつけたことが書かれていましたね。モーセが神様に叫び求めると、神様は、その日の夕方、うずらの大軍を飛来させて大量の肉を与えてくださり、朝にはマナというパンを降らせてくださいました。そして、それから四十年間の荒野の旅の間中ずっとマナを与えて養ってくださったのです。また、神様は、岩から水を湧き出させてくださいました。神様は、何もない荒野でもは必要なものを備えてくださる方なのですね。
しかし、その地域の遊牧民であるアマレク人が襲ってきました。モーセはヨシュアに応戦するように命じ、自分はアロンとフルとともに丘に上り、戦いの様子を眺めながら、両手を上げて神様の助けを祈り求めました。モーセが手を上げている間は味方が優勢になり、手を下げると敵が優勢になるので、手を上げ続ける必要があったのですが、モーセは疲れて手が重くなってきました。その時、両側からアロンとフルがモーセの手を支えたので、モーセはアマレク人に打ち勝つまで手を上げ続けることができたのです。私たちも、自分だけでは疲れて祈れなくなってしまうときがありますが、信仰の仲間同士、お互いに支え合うことができるのですね。
さて、今日はその次に起こった出来事を見ていきましょう。
1 義父イテロの助言
モーセたちが宿営している場所に、モーセのしゅうとであるイテロがモーセの妻とふたりの息子を連れてやって来ました。モーセの妻子は、最初はモーセと一緒にエジプトに行きましたが、途中で実家に帰っていたようです。モーセはイテロに神様がどのようにエジプトから救い出してくださったかを語りました。それを聞いたイテロは喜び、神様に感謝のいけにえをささげました。しかし、イテロには一つだけ気がかりなことがありました。モーセが多忙で過労状態にあることでした。民の間の様々な問題をモーセが一人でさばいていたのです。モーセがさばきの座につくと、民がさばきを求めて押し寄せ、朝から夕方まで並んでいました。それを見たイテロはモーセに助言しました。「これでは、あなたも民も疲れ果ててしまいます。神様を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を選んで、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長とし、小さい事件は彼らにさばかせ、大きな事件だけをあなたがさばくことにしなさい。」モーセは言われたとおりにしました。こうして、司法と行政の組織が作られたのです。モーセは神様から選ばれた優れた指導者ではありますが、自分自身の限界を知っていました。そして、他の人々の助言に耳を傾け、受け入れる柔軟さを持っていました。どうしても人に譲れない役割もありますが、他の人を信頼して任せたほうがいい役割もありますね。それを賢く判断していくことは大切ですね。
2 神様との契約
さて、19章の最初に書かれているとおり、彼らは、第三の月の新月の日、つまり、一日にシナイの荒野に入り、シナイ山のふもとに宿営しました。エジプトを出てから四十五日目です。このシナイ山の位置は、聖書の記録だけではよくわからないので、いくつかの説がありますが、最も有力な説は、シナイ半島南部にある「モーセの山」と名付けられた標高約二千三百メートルの山だというものです。
以前、この地域で、モーセは神様からエジプトにいるイスラエルの民を救い出す使命を与えられたました。その時、神様は燃える柴の中から「わたしは『私はある』という者である」「わたしはあなたと共にいる」とお語りになりましたね。そして、今、神様の約束通り、モーセはイスラエルの民と共にこの場所にやって来たのです。そして、第二年目の第二月の二十日に出発するまでの一年弱の間、彼らはずっとここに留まることになります。その間に、旧約聖書の中で特に大切な出来事が起こりました。神様から律法が与えられ、神様とイスラエルの民との間で契約が結ばれたのです。
モーセの役割は、山に登って神様の言葉を聞き、それを山のふもとにいるイスラエルの民に伝えること、そして、イスラエルの民の応答の言葉を聞き、それを山に登って神様に伝えること、つまり、神様と民との間の仲介者の役割でした。
神様は、まず、19章5節ー6節で、モーセを通して民にこう言われました。「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」すると、8節にこう書かれています。「すると民はみな口をそろえて答えた。『私たちは主が仰せられたことを、みな行います。』それでモーセは民のことばを主に持って帰った。」つまり、民が「神様に聞き従い、神様の命令を守る」という条件を満たすなら、神様は彼らを「わたしの宝、祭司の王国、聖なる国民」としてくださるという契約が、神様と民の間で結ばれることになったのです。
では、神様が「わたしの宝、祭司の王国、聖なる国民となる」と言われたのはどういう意味でしょうか。
@わたしの宝
「宝」と訳される言葉は、「最も高価なもの」という意味です。「あなたは私にとって最も大切な存在だ」ということですね。
A祭司の王国
祭司は、神様と民の間の仲介者です。民に対して神様の言葉を伝え、神様がどのような方かを教え、神様の赦しやきよめを宣言します。また、民の代わりに神様の前に出て祈り、民の代わりに感謝と賛美のささげものやいけにえ、また、罪の贖いのためのいけにえをささげてとりなしの祈りをします。ですから、「祭司の王国」とされるということは、世界中のすべての人々に神様のことを教え、また、すべての人々のために祈って、神様とすべての人の仲介者となる存在だと言うことです。
神様は、まずイスラエルの民を見本としてお選びになり、イスラエルの民の歴史を通して、神様がどのような方か、また、どのようにすれば神様の宝の民となることができるのかを、すべての人に示そうとなさったのです。
B聖なる国民
「聖い」とは「神様の所有として取り分けられた」という意味です。つまり「聖なる国民」とは「神様のものとして特別に取り分けられた民」という意味です。例えば、ここにギターがありますね。私がこのギターを所有したなら、このギターは関根弘興の所有物であり、関根弘興の聖なるギターとなるわけです。値段が高いか安いか、傷があるか無いかなどということは関係ありません。私が所有すれば、私の聖なるギターとなるのです。ギターにとって最高の幸せは何でしょうか。ギターのことをよく知っていて、ギターの良さを最大限に引き出す演奏ができる人に所有されることでしょうね。私たちも、私たちのことを最もよく知っておられ、人として最もふさわしい生き方へと導くことのできる神様に人生の所有権を握っていただけば、それ以上の安心はないではありませんか。
さて、民が「私たちは主が仰せられたことを、みな行います」と答えたことをモーセが神様に報告すると、神様は、正式な契約の準備のために、モーセを通して民にこうお命じになりました。「身をきよめて、三日目のために準備しなさい。三日目に、わたしは民全体の目の前でシナイ山に降りてくる。山の周囲に境を設け、だれもその境に触れたり、山に登ったりしないように注意しなさい。山に触れる者は必ず死ぬ。」つまり、神様が御自分の臨在を目に見える形で民に示してくださるけれど、罪や汚れのある人間が完全に聖なる神様にむやみに近づこうとすると死んでしまうから注意しなさいと警告なさったのです。19章16節ー18節にこう書かれています。「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。」
それから、主がモーセを呼ばれたので、モーセはアロンとともに山に登って行きました。そして、神様は、20章から23章までに書かれている律法をモーセに与え、「これらの戒めを守り、主に仕えなさい」とお命じになったのです。
モーセが民のもとに行ってその律法の内容をことごとく民に告げると民はみな声を一つにして「主の仰せられたことは、みな行います」と誓いました。そこで、モーセは主の言葉を書きしるし、山の麓に祭壇を築き、十二部族を意味する十二の石の柱を立て、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ、その血の半分を祭壇に注ぎかけ、残りの半分は、民に注ぎかけ、「これは、主があなたがたと結ばれる契約の血である」と宣言しました。それから、モーセと兄のアロン、アロンの二人の息子、それに長老七十人が山に登りました。24章10節-11節にこう書かれています。「彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。」神様との契約のしるしとして、民の代表者が神様の前で飲み食いをしたのです。
3 十戒
では、神様がお与えになった律法とは、どのような内容だったでしょうか。まず、20章2節から17節には、基本法とも言える有名な十戒が書かれています。その後に、いろいろな細則が続いているのですが、細則の内容は後でまとめてお話するつもりです。今日は、十戒についてだけ見ておきましょう。
十戒は、大きく二つの部分に分けられます。第一戒から第四戒までは神様との関係について、第六戒から第十戒までは人間関係についての戒めです。
まず、第一戒「あなたには、わたしのほかに、他の神々があってはならない」、第二戒「あなたは、自分のために、偶像をつくって、拝んだり、仕えてはならない」、第三戒「あなたは、主のみ名をみだりに唱えてはならない」、第四戒「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」とあります。これは、まことの神様だけを信頼し、礼拝し、神様を侮ることなく、いつも敬い、静まって神様の恵みを覚える時を持ちながら生きていきなさいということです。
まことの神様を見失った人間は、いつも自分の生き方や将来に漠然とした不安を抱えているので、神様に代わるものを求めて、様々な神々を造り出してきました。当時の世界にも様々な神々がありました。中には、神殿娼婦といかがわしい行為をしたり、幼児をいけにえにするような忌ましい宗教もありました。木や石を拝んだり、動物を神として拝んだり、金銭を神としたり、無神論を神としたり、自分自身を神とする人々もいます。
人は、信じているものに束縛され、支配されます。何を礼拝するかによって、人生観も価値観もすべてが変わってしまうのです。ですから、何を神とするか、ということが人生にとってもっとも大切な問題です。聖書は、天地万物を造られた全地全能の神様がおられ、しかも、その神様が一人一人を深く愛しておられると教えています。そして、神様は、本来の生き方を見失い、迷い、疲れて、傷ついている一人一人に対し、「わたしを信頼し、わたしに聞き従いなさい。わたしはあなたに、恵みを祝福を豊かに与えることができる神なのだから」と呼びかけててくださっています。その神様を信頼し、神様ととともに生きていくことが人として最も幸いな生き方だということを第一戒から第四戒は教えているのです。
それから、第五戒「あなたの父と母を敬え」、第六戒「殺してはならない」、第七戒「姦淫してはならない」、第八戒「盗んではならない」、第九戒「あなたの隣人に対して、偽りの証言をしてはならない」、第十戒「あなたの隣人のものを、欲しがってはならない」というのは、人間関係を破壊する行為を禁じる戒めです。
新約聖書でイエス様は、旧約聖書の律法についてこう言われました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」律法全体と預言者、つまり、旧約聖書全体が教えていることを要約すると、この二つの戒めにまとめることができるのだということです。心から神様を愛し、隣人を自分と同じように愛することが戒めの本質なのですね。
神様が戒めることは、あるべき関係が破壊されていく行為です。たとえば、殺してはいけないとありますが、これは、不法に殺してならない、ということです。これは、決定的に人との関係が破壊するものとなります。姦淫をしてはならない、とありますが、これは夫婦関係を破壊するのです。盗みも、悪意ある偽りの証言も人の心を傷つけ、生活を混乱させてしまうのです。むさぼりも同じです。これが大きくなると、他人を犠牲にしてまで欲するといいうことに繋がっていくのです。
ですから後半をまとめると「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」との言葉に凝縮されるのです。唯一の主を愛し、自分を愛するように隣人を愛すること、これが人生の生きる上での基本法だと聖書は教えているのですね。
しかし、問題は、私たちは、また、イスラエルの民も、そんなふうに神様や人を愛することがいつもできるのかということです。戒めを守りますと口ではいっても本当に守れるのか、という問題が起こるのです。
4 旧い契約と新しい契約
神様はイスラエルの民に律法をお与えになり、「この律法を守れば、あなたがたは幸いな人生を送ることができる」と言われました。すると、民は「主の仰せられたことは、みな行います」と誓い、神様と契約を結びました。彼らは、その誓いを果たすことができたでしょうか。まったくできませんでした。これから旧約聖書を読み進めていくと、民は何度も何度も神様に背き、そのたびに自らの上に災いを招くことになります。神様は、何度も預言者を通して民に警告を与え、御自分に従うようにと呼びかけられるのですが、民は一時的に神様に立ち返っても、すぐに逆らうことを繰り返し、結局、イスラエルの王国は滅びてしまうことになります。そのイスラエルの歴史を見ると、人は自分の力で神様の律法を守ることは不可能だということがはっきりわかってくるのです。そして、神様の宝の民となるためには、どうしても救い主が必要だということがわかってくるのです。それで、パウロは、ガラテヤ3章24節で「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました」と書いています。神様の律法が守れない自分、つまり、神様も隣人も心から愛することのできない自分の姿を自覚することによって、私たちは、キリスト(救い主)の助けが必要であることがわかるからです。
神様は、そのことを最初からわかっておられました。だから、旧約聖書で人の弱さと救い主の必要性を徹底的に教えた上で、救い主イエスを私たちのもとに遣わしてくださったのです。
イエス・キリストが十字架について、私たちのそむきの罰をすべて代わりに受けてくださったので、私たちは、すべての罪が赦され、聖なる者として神様に受け入れていただくことができるようになりました。また、三日目によみがえられて今も生きておられるイエス・キリストを信じ受け入れることによって、私たちの内側に神様の聖霊が住んでくださるようになり、私たちを、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛することができる者へと変え続けてくださるのです。聖霊の助けによって、私たちは自由に意志を働かせて、まことの愛を実践していくことができる者へと成長していくのですね。
ですから、ペテロは、第一ペテロ2章9節-10節で、キリストを信じた人々に対してこう書き送っています。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」
イエス・キリストを信じるひとりひとりは皆、神の民、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民とされます。それは、自分が立派だからでも、神様の律法をきちんと守れるからでもなく、ただキリストを信じることによって神様の宝の民とされるのです。聖書はそれを新しい契約と呼んでいます。
旧約聖書では「律法を守れば、神様の宝の民となる」という契約が結ばれましたが、その契約の条件を満たすことができる人は誰もいませんでした。しかし、神様は私たちに新しい契約を与えてくださいました。「イエス・キリストを信じれば神様の宝の民となる」という契約です。旧い契約では動物の血が用いられましたが、新しい契約ではキリスト御自身の血が流されました。旧い契約では、人が自分の力と意志で条件を満たさなければなりませんでしたが、新しい契約では、ただイエス・キリストを信じることによって、不完全な者ですが、神の愛に生き、愛に生きる者へと変えて変えられ続けていただくことができるのです。それが、どれほど素晴らしいことなのか、これからも聖書を読み進めながら味わっていきましょう。