城山キリスト教会 礼拝説教    

二〇二六年二月一五日              関根弘興牧師

             出エジプト記二四章一二節〜一八節

                   

 創世記から士師記まで28

   「金の子牛事件」

 

 12 主はモーセに仰せられた。「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう。」13 そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。14 彼は長老たちに言った。「私たちがあなたがたのところに帰って来るまで、ここにいなさい。ここに、アロンとフルとがあなたがたといっしょにいます。訴え事のある者は、だれでも彼らに告げるようにしなさい。」15 モーセが山に登ると、雲が山をおおった。16 主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。17 主の栄光は、イスラエル人の目には、山の頂で燃え上がる火のように見えた。18 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。(新改訳聖書第三版)

 

 モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民は、前回、シナイ山の麓までやってきました。その場所で、神様は、シナイ山を雷と稲妻と密雲と火の煙で覆って御自分の臨在を示し、山の麓に集まった民と契約を結ばれたのです。ただ、罪や汚れのある民が完全に聖なる神様に近づくことはできません。そこで、神様に選ばれたモーセが神様と民の仲介者の役割を果たしたのです。神様はモーセを山の上に呼び寄せ、律法をお与えになり、こう言われました。「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝、祭司の王国、聖なる国民となる。」モーセが山を下って律法と神様の言葉を民に伝えると、民はみな口をそろえて「私たちは主が仰せられたことを、みな行います」と答えました。そこで、モーセはいけにえをささげ、神様と民との間の契約の儀式を行いました。そして、民の代表である長老たちを連れて山に登り、神様のみ前で契約の食事をしたのです。

 このとき神様が与えてくださった律法には、基本法である十戒と様々な細則が含まれていましたが、大きく二つの戒めに要約することができます。一つは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、そして、もう一つは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めです。神様への愛と人への愛があれば、自然に律法を守る生活をすることができるようになるはずだということなのですね。そして、神様は、この契約を守るなら、約束の地に入って幸いな生活を送ることができると約束してくださったのです。

 ところが、イスラエルの民は契約を守るどころか、すぐに契約違反を犯してしまうことになります。それが今日の内容です。

 

1 十戒の石の板と幕屋の設計図

 

 神様がモーセに「わたしが書き記した教えと命令の石の板を授けよう」と言われたので、モーセは、アロンとフルと長老たちに民の指導監督を任せ、従者ヨシュアを連れて山に登っていきました。そして、山の上に四十日四十夜とどまることになりました。その間に、神様はモーセに、幕屋と呼ばれる移動式の神殿、その中に備える器具、また幕屋で奉仕する祭司たちの衣装や装飾品について細かい設計図や材料を示されました。また、祭司たちの任職式の手順、神様への供え物、幕屋を建てる責任者として誰を任命するかなどについても詳しくお命じになったのです。その内容は、25章ー31章に記されています。

 幕屋は神様の臨在を象徴するものです。神様は、契約を結んだ民といつもともにいることを示すために、幕屋の建設をお命じになり、「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」(25章8節)と約束してくださったのです。これからは、どこに移動しても、いつも民の宿営の真ん中に幕屋が据えられ、神様を礼拝する場となるのです。

 そして、 31章18節にはこう書かれています。「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。」32章15節ー16節を見ると、その板は二枚あって、表と裏に文字が書かれていました。そして「板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた」と書かれています。祝福の契約の基本である十戒が書かれた石の板と神様がいつもともにいてくださることを示す幕屋の設計図を与えられたのですから、何と幸いなことでしょう。ところが、そのころ、民はとんでもない状態に陥っていたのです。32章を見ましょう。

 

2 金の子牛事件

 

 モーセが山に登ったきりなかなか帰って来ないので、不安になった民は、アロンにこう要求しました。「モーセがどうなったかわからないから、私たちを導いていく神を造ってください。」すると、アロンは、民を諫めるどころか、民が持っている金の耳輪を集めて、鋳物の金の子牛を造り、その前に祭壇を築いて、「あすは主への祭りである」と宣言してしまったのです。彼らは「これが私たちをエジプトの地から連れ上った神だ」と言って、いけにえをささげて乱痴気騒ぎを始めました。

 ところで、どうして金の子牛を造って拝んでしまったのでしょうか。いくつか理由が考えられます。エジプトでの生活が長かった彼らは、まことの神様についてあまり教えられていなかったのかもしれません。また、中近東の世界では、牛は神聖な生き物、力、多産、豊穣のシンボルとして崇められていました。それに、まことの神様は目に見えず、手で触れることもできませんから、神様を運ぶ台座として金の子牛を造り、その子牛の上に神様がおられることにして拝もうとしたのかもしれません。しかし、どんな理由があるにせよ、金の子牛を造って拝むことは、神様の戒めに完全にそむくことでした。

 私たちが、この出来事を読むと、何て愚かなことをするんだと思うかも知れませんが、実は私たちも注意しなければなりません。私たちも信頼して待つことが苦手ですね。心配になって、つい余計なことをして、何とかしようとしてしまいがちです。目に見えない神様よりも目に見える指導者や物や場所に頼ろうとしてしまうこともありますね。神様を礼拝しているつもりで、いつの間にか、まったく別の物を礼拝しているということも起こってくるのです。ですから、聖書の教えを繰り返し読み、自分自身を点検することが大切ですね。

 

3 神様の怒りとモーセのとりなし

 

 民の状態をご覧になった神様は、まだ山にいたモーセに言われました。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』と言っている。・・・これは、実にうなじのこわい民だ。今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」

 前回見たとおり、神様と契約を結ぶときに、モーセはいけにえの雄牛の血の半分を主の祭壇に注ぎ、残りの半分を「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と誓った民に振りかけ、「これは主があなたがたと結ばれる契約の血である」と宣言しました。つまり「もし私が契約を破ったら、私のいのちを取られてもかまわない」という厳格な誓いをしたのです。ですから、神様との契約を破った民がその代償を払うのは当然でした。だから、神様は「彼らを絶ち滅ぼす」と言われたのです。 旧約聖書を読んでいくときには、この厳格なルールがあることを心に留めておいてください。主は常に正しいさばきをなさる方なのです。しかし、主はただ無慈悲にさばきを下す方ではありません。あわれみ深い方でもあるのです。32章11節-14節にこう書かれています。「モーセは、彼の神、主に嘆願して行った。『主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。また、どうしてエジプト人が「神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ」と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、「わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる」と仰せられたのです。』すると、主は、その民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。」主は、モーセの必死の訴えに耳を傾け、民を滅ぼすのをやめて、もう一度チャンスを与えてくださったのです。モーセのとりなしのおかげで、イスラエルの民は滅びを免れたのですね。

 

4 モーセの対応

 

 ところが、モーセが二枚の石の板を持って山を下りていくと、想像以上の淫らな光景が繰り広げられていました。民が子牛の前で踊り狂っていたのです。それを見たモーセは、怒りに燃えて、せっかく神様から授かった石の板を投げ捨て、砕いてしまいました。この民には石の板を受け取る資格がまったくないと感じたのでしょう。モーセは、また、金の子牛を火で焼き、粉々に砕き、水の上にまき散らし、民に飲ませました。罪の結果を自らが飲み干せということだったのかもしれません。

 モーセは、アロンがこの出来事の中心人物であったことに大きなショックを受けたはずです。「どうして彼らにこんな大きな罪を犯させたのか」とアロンに詰問しました。すると、アロンはこう答えたのです。「民が悪いのです。彼らが、モーセはどうなったかわからないから、代わりに導いてくれる神を造ってくれと言ったのです。それで、私は彼らから集めた金を火に投げ入れました。すると、この子牛が出て来たのです。」まったくの責任転嫁と嘘ですね。「民が悪い、モーセがなかなか帰って来ないから悪い」と言い、しかも、自分が率先して子牛を造ったのにもかかわらず、「火の中から子牛が出て来くるという不思議なことが起こったので、神様のみわざだと思ったんです」と言ってごまかそうとしたのです。

 神様は、彼らを滅ぼすことを思いとどまってくださいましたが、このままの状態で旅を続けていくことはとてもできないのは明らかでした。「モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た」と書かれています。ここで「敵」というのは、モーセに反旗を翻す者たちのことでしょう。民は分裂状態になっていたのです。そこで、モーセは思い切った手段をとりました。「だれでも、主につくものは、私のところに」と呼びかけると、レビ族が集まってきました。モーセの同族です。モーセは彼らに「主に従わず反旗を翻す者たちを打て」と命じました。その結果、反旗を振りかざす三千人もの人たちが打ち倒されたのです。そして、モーセはこう呼びかけました。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」このままでは、主の祝福を完全に失ってしまうという大きな危機感を感じていたのでしょう。

 

5 モーセのとりなしと民の悲しみ

 

 そして、翌日、モーセは民に言いました。「あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」そして、山に登って、主に訴えました。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(32章31節-32節)モーセは「私のいのちと引き換えに民の罪を赦してください」と願ったのです。自分のいのちで民の罪の贖いをしようとしたのですね。すると、主は言われました。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく」と。主は正しいさばきをなさる方ですから、罪を犯した者をただ許容することはなさいません。それぞれが遅かれ早かれ必ず自分の犯した罪に応じて主のさばきを受けることになります。しかし、「今は民とともに約束の地に行け」というのですね。ただし、彼らを導くのは神様御自身ではなく、神様の使いだというのです。その理由を神様は33章3節でこう語っておられます。「わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。」つまり、「あなたがたは約束の地に上って行きなさい、約束の地に行けるように導きは与える。でもわたしは一緒に行かない。あなたがたはわたしに従えないのだから、わたし抜きで上って行きなさい」というのです。

 モーセが山を下ってその主の言葉を伝えると、さすがの民も、これまでどれほど神様の大きな力に支えられてきたかに気づいたのでしょう。33章4節に「民はこの悪い知らせを聞いて悲しみ痛み、だれひとり、その飾り物を身に着ける者はいなかった」と書かれています。

 私たちも時々、神様に冷たく突き放されたように感じることがあるかもしれません。しかし、それがきっかけとなって、自分の状態に気づき、改めて神様の大切さを認識し、神様を礼拝する心を取り戻すことができるようになるのですね。

 ところで、モーセは、いつも宿営の外の離れた所に天幕を張って、それを「会見の天幕」と呼んでいました。後に神様から命じられて造ることになる幕屋が完成すると、それが「会見の天幕」と呼ばれるようになるのですが、それ以前は、この仮の天幕の中でモーセは主と語り合ったのです。33章9節、11節にはこうあります。「モーセが天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。」「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」この「顔と顔を合わせて」というのは「身近で親しく」という意味です。この天幕の中で、モーセは主と語り合っていたのです。

 モーセは、神様から「わたしは、あなたがたのうちにあっては上らない」と言われてしまったことに衝撃を受けていました。神様抜きで大群衆を率いて荒野の旅を続けることなど不可能です。これからどうしたらいいのかという心配と不安でいっぱいになりました。そこで、会見の天幕に入って神様に懇願したのです。「前を行く使いを遣わしてくださると言われても、私一人では無理です。あなたが私を選び出して、この民を連れ上れとお命じになったのですから、あなたがともにいて、あなたの道を教えてください。この国民があなたの民であることをお心にとめてください。」すると、主は「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう」と言ってくださったのです。

 そしてモーセはさらに念を押すように言いました。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。 私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」つまり、「荒野の旅が守られ、約束の地に無事に入るためには、あなたがこの民とともにいてくださることを示すことが必要なのです。そうでなければ、この旅を成し遂げることはできません」と言ったのです。すると主は「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」これで安心ですね。神様が一緒に行くと約束してくださったのですから。

 

6 再契約と主の栄光

 

 しかし、モーセは持ち前のしつこさが取り柄です。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください」と願いました。すると、主は言われました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。・・・あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」また、こうお命じになりました。「前のと同じような二枚の石の板を切り取って、朝シナイ山に登って、山の頂でわたしの前に立て。」そこで、モーセが二枚の石の板を持って山に登ると、主が雲の中にあって降りて来られ、モーセとともに立ち、モーセの前を通り過ぎるとき、こう宣言されました「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」ここで、「恵みは千代、咎は四代」とありますが、千代は四代より遙かに長いですね。つまり、「神様は正しいさばきをなさる方だから、罰すべき時は罰せられるが、あわれみ深く、情け深い方なので、神様に立ち返る人々の咎やそむきや罪を豊かな恵みをもって赦してくださる」ということなのです。モーセはその言葉に力を受けて、ひれ伏してお願いしました。「どうか主が私たちの中にいて、進んでください。どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてください。」すると、主は、「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民すべての前で、地のどこにおいても、また、どの国々のうちにおいても、かつてなされたことのない奇しいことを行おう。あなたとともにいるこの民はみな、主のわざを見るであろう」と約束してくださいました。そして、改めて、神様だけを礼拝するよう命じ、民が破ってしまった契約を結びなおしてくださったのです。モーセは、山の上で四十日四十夜、主とともにいて断食し、自分で石の板に十戒を書き記し、それを持って山を下りました。

 

 山を下りてきたモーセを見た民は驚き恐れました。モーセの顔の肌が光を放っていたからです。モーセは民に神様の言葉を語り終えると顔に覆いをかけました。その時から、モーセは会見の天幕に入って主と話す時は覆いを取り、出て来て顔の肌が光を放っている間に民に主の言葉を語ってから、再び顔に覆いをかけるようになりました。でもモーセの顔に現れた栄光は一時的なもので、すぐに消えてしまうものでした。

 

 それでは消えることのない栄光はどこにあるのでしょう。昔モーセが授かったたくさんの戒め、専門用語だと「律法」といいますが、それは、私たちに、自分達は細かな戒めを守ることが出来ない罪人だということをわからせてくれるものになりました。そのように人を罪人だとわからせてくれる律法にさえモーセの顔を輝かせた栄光があるなら、その罪を赦し、神様と親しい関係を築くことが出来るすばらしい救いには、消えることのない栄光があると新約聖書に約束されているのです。

 パウロは第二コリント3章18節でこう書きました。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」キリストを信じる私たちは、内に宿ってくださる聖霊の働きによって、主の栄光を反映させながら主と同じ栄光の姿に変えられていくのです。

 そのことを専門用語で「栄化」と呼びます。私たちは、自分で頑張って律法を守ろうとするからではなく、主の恵みのみわざによって、顔の覆いを取りのけられ、主の栄光を反映させながら生きることができる者とされているのですね。律法が与えることのできなかった永遠の救いを、キリストが与えてくださったからです。その素晴らしい恵みを覚え、感謝しつつ、主が共に歩んでくださることを喜び楽しみに歩んでいきましょう。