城山キリスト教会 礼拝説教    

二〇二六年三月一日              関根弘興牧師

            出エジプト記四〇章一七節〜三八節

                   

 創世記から士師記まで29   

   「幕屋の完成」

 

 17 第二年目の第一月、その月の第一日に幕屋は建てられた。

18 モーセは、幕屋を建てるとき、台座を据え、その板を立て、その横木を通し、その柱を立て、19 幕屋の上に天幕を広げ、その上に天幕のおおいを掛けた。主がモーセに命じられたとおりである。20 また、彼はさとしを取って箱に納め、棒を箱につけ、「贖いのふた」を箱の上に置き、21 箱を幕屋の中に入れ、仕切りのために垂れ幕を掛け、あかしの箱の前を仕切った。主がモーセに命じられたとおりである。22 また、彼は会見の天幕の中に、すなわち、幕屋の北のほうの側で垂れ幕の外側に、机を置いた。23 その上にパンを一列に並べて、主の前に供えた。主がモーセに命じられたとおりである。24 彼は会見の天幕の中、机の反対側の幕屋の南側に、燭台を置いた。25 そうして彼は主の前にともしび皿を上げた。主がモーセに命じられたとおりである。26 それから彼は、会見の天幕の中の垂れ幕の前に、金の壇を置き、27 その上でかおりの高い香をたいた。主がモーセに命じられたとおりである。28 彼は、幕屋の入口に垂れ幕を掛け、29 全焼のいけにえの祭壇を、会見の天幕である幕屋の入口に置き、その上に全焼のいけにえと穀物のささげ物とをささげた。主がモーセに命じられたとおりである。30 また彼は、会見の天幕と祭壇との間に洗盤を置き、洗いのために、それに水を入れた。31 モーセとアロンとその子らは、それで手と足を洗った。32 会見の天幕に入るとき、または、祭壇に近づくとき、彼らはいつも洗った。主がモーセに命じられたとおりである。33 また、幕屋と祭壇の回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうして、モーセはその仕事を終えた。34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。36 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。37 雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。38 イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。(新改訳聖書第三版)

 

 これまで見てきたとおり、モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民は、シナイ山の麓までやって来ました。神様はモーセを山の上に呼び寄せ、律法をお与えになりました。基本法である十戒と様々な細則です。その律法全体を要約すると大きく二つの戒めに要約することができます。一つは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、そして、もう一つは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めです。神を愛し、自分と隣人を愛して生きていくなら、おのずから律法を守ることになるのですね。そして、神様は「わたしの言葉に聞き従うなら、あなたがたはわたしの宝の民となる」と言われました。すると、民が「私たちは、主の仰せられたことをみな行います」と誓ったので、神様と民との契約の儀式が行われました。それから、神様は、再びモーセを山の上に呼び寄せ、今度は幕屋という移動式神殿の設計図や材料についてモーセに細かい指示を与え、神様自らが十戒を刻まれた二枚の石の板を授けてくださいました。 ところが、モーセが山に登ったままなかなか帰って来ないことに不安になった民は、モーセの兄アロンに「私たちを導いてくれる神を造ってほしい」と迫ったので、アロンは金の子牛を造ってしまいました。すると民は「これが私たちをエジプトの地から連れ上った神だ」と言っていけにえをささげ、痴気騒ぎを始めたのです。早くも神様との契約を破ってしまったのです。契約に違反したら、その責任を取らなければなりません。それで、神様はまだ山の上にいたモーセに「民を絶ち滅ぼす」と言われたのですが、モーセが必死に願い求めたので、神様は「今は滅ぼすことはしない」と約束してくださいました。

 しかし、山を下って、民が金の子牛の前で踊り狂う姿を目の当たりにしたモーセは、激怒して、十戒の二枚の石の板をたたき割ってしまいました。また、金の子牛を粉々にくだき、反旗を翻す者たちを粛清したのです。それから、もう一度山に登り、神様に民の罪の赦しを願い求めました。すると、神様は「あなたがたは約束の地に上って行きなさい、しかし、わたしは一緒に行かない」と言われたのです。モーセが山を下ってその主の言葉を伝えると、さすがの民も後悔し、悲しみました。これまでどれほど神様の大きな力に支えられてきたかに気づいたのでしょう。モーセにとっても深刻な事態です。神様抜きで大群衆を率いて荒野の旅を続けることなど不可能です。そこで、モーセは「あなたがともにいてくださらなければ、進んで行けません」と必死に訴えました。すると、神様は「わたしがいっしょに行こう」と約束してくださったのです。そして、再びモーセを山の上に呼び寄せ、御自身の栄光の後ろ姿を見せてくださり、モーセが用意してきた二枚の石の板にモーセ自身が十戒を書き記すようお命じになり、改めて民との契約を結び直してくださいました。そして、今日の箇所では、神様が民の真ん中にいてくださることを示す幕屋が造られることになったのです。

1 幕屋とは

 

 幕屋は聖所とか会見の天幕とも呼ばれる移動式神殿です。25章8節で神様は「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」、また29章42節ー45節では「その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。・・・そこはわたしの栄光によって聖とされる」「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう」と約束してくださいました。つまり、幕屋は神様がともにいてくださることを示す場所であり、神様と関わることのできる場所なのです。荒野の旅の間、幕屋は宿営する場所の真ん中に置かれ、別の場所に移動するときは解体して持ち運ばれました。人々はいつもこの幕屋に向かって祈り、民の代表である祭司が幕屋で感謝や贖罪のいけにえや供え物を神様にささげたのです。

 幕屋の構造やその中の備品、また、幕屋で仕える祭司の任命方法や服装、ささげ物やいけにえについては25章ー31章と36章ー39章に記されています。

 幕屋のまわりの庭は幅五十キュビト(約二十二メートル)、奥行百キュビト(約四十四メートル)で、木の枠に亜麻布の幕を掛けた仕切りで囲まれていました。庭の門は東向きです。門には青、紫、緋色の糸を使った垂れ幕が掛けられていました。

 門から庭に入ると、まず祭壇があります。アカシヤ材に青銅を被せたもので担ぎ棒が両側に取り付けられています。この祭壇の上で様々ないけにえがささげられるのです。祭壇の次には洗盤があり、祭司たちが身を清めるための水が入っています。

 その洗盤の後ろに幕屋の本体が据えられました。幅十キュビト(約四、四メートル)、奥行き三十キュビト(約十三、二メートル)です。アカシヤ材の枠で造られた枠組みの上に四種類の幕が掛けられていました。まず、亜麻布と青色、紫、緋色の糸でケルビム(神様の臨在を示す有翼天使)を織り出した幕、次に山羊の毛の幕、そして雄羊の皮のおおい、最後にじゅごんの皮のおおいが掛けられました。入り口には亜麻布と青、紫、緋色の糸で刺繍した幕が掛けられました。

 幕屋は手前の聖所と奥の至聖所に分かれています。まず、聖所に入ると、右側に供えのパンを置く机があります。アカシヤ材に純金を被せたものです。左側には燭台があります。燭台は純金一タラント(約三十四キロ)をつちで打って造られたもので、大きさはわかりませんが、台座から延びた支柱の両側に三本ずつ枝が出ていて、それぞれの先にアーモンドの花の形の燭台が形づくられていました。支柱と六本の枝の先の合わせて七つの燭台の上にそれぞれ純金のともしび皿が置かれ、純粋なオリーブ油に浸した灯芯に火をともすのです。

 聖所の奥の至聖所の入り口の前には、香をたく香壇が置かれました。朝ごと夕ごとに、この上で香りの高い香がたかれます。詩141章2節に「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように」とあるように、香をたくことは、神様への祈りを象徴的に示しています。

 そして、至聖所は、十キュビト(四、四メートル)四方の正方形で、入り口にはケルビムが織り出された幕が掛かっていました。至聖所には「契約の箱」が置かれました。これは「あかしの箱」「主の箱」とも呼ばれ、長さ二キュビト半(約百十センチ)、幅と高さは一キュビト半(約六十六センチ)で、アカシヤ材に金をかぶせたもので両側に二本のかつぎ棒が取り付けられていました。その箱の上に「贖いのふた」が置かれました。長さも幅も箱と同じで、純金製で両端に二つの金のケルビムが互いに向かい合うように置かれ、その翼がふたを覆うようになっていました。神様は25章22節で「わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう」と言われました。つまり、この「契約の箱」こそが神様の臨在の場所です。神様は、その箱の中に十戒の石の板を納めるようお命じになりました。ヘブル9章4節を見ると、「マナの入った金のつぼ」と「芽を出したアロンの杖」も入っていたようです。

 

2 祭司の任命と役割

 

 次に神様は、聖所で仕える祭司としてアロンとその息子たちを聖別すると言われました。「聖別」とは、神様のために特別に取り分けるという意味です。祭司には神様との人との仲介者の役割があります。神様のことばを人々に教え、人々の代わりに神様の前に出て祈り、いけにえや供え物をささげ、聖所のパンやともしびを整え、香をたくのです。しかし、祭司自身も罪や弱さのある人間です。大祭司となるアロンも、モーセの最も身近にいたにもかかわらず、民にせがまれて金の子牛を造ってしまうという大失敗を犯しましたね。しかし、神様はアロンとその子孫を、民の罪の贖いのためにいけにえをささげてとりなしをする祭司として任命なさったのです。ただ、罪ある人間としてそのまま神様の前に出ることはできません。自分勝手な方法で聖なる神様に近づこうとしたら死んでしまいます。ですから、神様は、祭司となるために必要な手続きや祭司の仕事を行うときの手順、また、祭司の装束について細かく指示をお与えになったのです。特に大祭司には、民全体を代表して神様の前に出るという大きな役目がありました。契約の箱が置かれた至聖所に入ることができるのは大祭司だけで、それも年に一度だけ、第七の月の十日に民全体の罪の贖いのためのいけにえの血を携えて入るのです。罪ある人間が聖なる神様のみもとに近づくためには、入念な準備と配慮が必要だったのですね。

 

3 幕屋の建設

 

 さて、35章からいよいよ幕屋の建設が始まりました。30節ー35節を見ると、神様御自身が棟梁に任命したベツァルエルと副棟梁に任命したオホリアブを、神様は神の霊とすぐれた知恵で満たし、彼らに人を教える力を授けられたと書かれています。しかし、彼らだけではできません。多くの材料と働き手が必要ですね。そこで、モーセは「心から進んでささげる者は、幕屋を造る材料を持って来なさい」「心に知恵のある者は、幕屋建設を手伝いなさい」と呼びかけました。すると、21節ー28節には、感動した者、心から進んでする者たちが必要な材料を持って来たことが書かれています。また、36章2節には「主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべて」が集まったことが書かれています。金の子牛を拝むという大きな過ちを犯した彼らですが、幕屋建設に感動し、心から進んで協力する者たちが大勢出てきたのです。荒野のアカシヤの木は堅く、背が低く、枝分かれしているので、加工するのは大変だったでしょう。また、たくさんの糸を紡ぎ布を織る必要がありますし、宝石や金の細工も必要です。しかし、そういう仕事を喜んで担う人々が十分に備えられたのです。

 そして、36章3節ー6節を見ると、民が毎日持ってくるささげ物があり余るほどになったので、モーセが「もうささげ物を持ってくる必要はない」と布告したことが書かれています。嬉しい悲鳴ですね。前回の金の子牛事件の時は、モーセは民の姿を見て激しく怒りましたが、今回は心から安堵したことでしょう。

 さて、ここで大切なのは「心から進んで」という言葉です。神様に礼拝することも、教会を建て上げることも、ささげものをすることも、強制されてではなく、義務感から仕方なくするのでもなく、心から進んですることが大切なのですね。ピリピ2章13節に「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」とあります。神様は、私たちに何かをさせようとなさるときには、心から進んでしようとする志も与えてくださるのですね。

4 幕屋の完成

 

 さて、39章の最後に、幕屋の枠、布、備品、用具、祭司の装束など、神様に命じられたすべてのものが完成しました。今日の箇所に何度も出てくる言葉があります。それは「主がモーセに命じられたとおりである」という言葉です。神様の指示通りにすべてのものが完成したのですね。

 そして、40章17節に「第二年目の第一月、その月の第一日に幕屋は建てられた」とありますが、これは、神様がモーセにこの日に幕屋を組み立てるようにお命じになったからです。エジプトを出たのが第一年目の第一の月の半ばですから、約一年が経っていました。

 幕屋を建て終わると、モーセは特別に調合されたそそぎの油を幕屋とその中のすべてのものと祭壇と洗盤に注いで聖別しました。また、アロンとその子らを水で洗い、聖なる装束を着けさせ、油を注いで祭司に任命しました。すべて、主の命令通りに行ったのです。

 すると、40章34節にこう書かれています。「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」神様は、御自分が幕屋の内にあって民とともにいてくださるということを、目に見える形で示してくださったのですね。

 

5 レビ記へ

 

 幕屋が完成し、いよいよ荒野の旅を再開する時が迫ってきました。出エジプト記最後の40章36節ー38節にはこう書かれています。「イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。」神様が荒野の旅を導いてくださったのですね。申命記31章8節に「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない」とある通りです。

 しかし、彼らは、幕屋完成後すぐに旅立ったわけではありませんでした。民数記10章11節には「第二年目の第二月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立った」とあります。幕屋が組み立てられたのが、第一月一日でしたから、その約五十日後に出発となったわけです。その五十日の間に、次の書であるレビ記がモーセによって記されたと考えられています。レビ記には、幕屋や礼拝やささげ物、また信仰生活、社会生活に必要な細かい規定が書かれています。これから神の民として生きていくためのルールです。その内容は、次回見ていくことにしましょう。

 

6 新約聖書から理解する

 

 さて、今日の内容は私たちにはあまり関係ないような気がしますね。今は、幕屋はありませんし、契約の箱ですら、歴史の中で行方がわからなくなってしまいました。祭司もいないし、罪の贖いのためのいけにえをささげることもありません。なぜでしょうか。幕屋の目的がすべてイエス・キリストによって成し遂げられたからです。

 幕屋について、ヘブル9章24節に「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです」とあります。モーセたちが造った聖所は本物の模型にすぎないというのですね。ということは、幕屋だけでなく、幕屋に関係ある様々なことも、本物を指し示す模型だということです。

 例えば、幕屋では毎日、動物のいけにえをささげる必要がありましたが、イエス・キリスト御自身が完全ないけにえとして十字架について御自身をささげてくださったので、私たちはもはや動物のいけにえを繰り返しささげる必要がなくなりました。

 また、キリストが十字架上で息を引き取られたとき、神殿の幕が真っ二つに裂けたと書かれています。これは至聖所の入り口に掛けられた幕のことです。神様の臨在の場所である至聖所に入れるのは大祭司だけ、それも年に一度だけで、入る前には身をきよめ、入念な準備と最新の注意を払い、罪の贖いのいけにえの血を携えていく必要がありました。しかし、今はどうでしょうか。ヘブル10章19節ー20節にこう書かれています。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは,イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」キリストが私たちの罪を完全に贖い、私たちを完全に聖なるものとしてくださったので、神様と私たちを隔てる幕はなくなり、今では、いつでも自由に神様に近づくことができるようになったのです。

 そして、イエス・キリストを信じ受け入れた者の内には聖霊が宿ってくださいます。ですから、第一コリント3章16節には「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」と書かれています。神の幕屋は、信じる者の内にあるのです。契約の箱はどこかにいってしまいましたが、私たちの内に宿っておられる聖霊なる神様が進むべき道を教え導き、養い、成長させ、心から進んで神様に信頼し生きていくことが出来るように変え続けてくださるのです。

 そして、この世のいのちが終わった後には、天に幕屋が用意されています。黙示録21章3節-4節にはこう書かれています。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」つまり、私たちはこの世に生きているときも、天に召されてからも、いつも神の幕屋とともにあることができるのです。何と嬉しいことでしょう。

 さらに、エペソ2章21節-22節には、「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」つまり、イエス・キリストを信じる人々はともに建て上げられて聖なる神様の宮とされるのですね。

 今では、私たち一人一人が幕屋であり、教会も幕屋であり、いつかは天の幕屋に入ることができます。神様がいつもともにいて「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と語りかけてくださいます。その神様とともにこの世の旅を天に至るまで歩んでいきましょう。