城山キリスト教会 礼拝説教    

二〇二六年三月一五日              関根弘興牧師

            レビ記二〇章二六節

                   

 創世記から士師記まで30  

   「聖なる民として生きる」

 

 26 あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。(新改訳聖書第三版)

 

 神様は、シナイ山でイスラエルの民に律法をお与えになり、「あなたがたがわたしに聞き従うなら、わたしの宝の民、祭司の王国、聖なる国民となる」と言われました。民が「あなたの仰せられたことに従います」と誓ったので、神様と民の間で契約が結ばれ、神様がともにおられることを示す幕屋(移動式神殿)が建てられました。人々はこの幕屋に向かって祈り、いけにえや供え物を神様にささげることになったのです。

 神様が与えてくださった律法は大きく二つの戒めに要約することができます。「あなたの神である主を愛せよ」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めです。それに基づいて、基本法である十戒と様々な細則が定められていました。十戒の第一戒からは第四戒は「まことの神様以外の神々があってはならない」「偶像を造って拝んではならない」「主の御名をみだりに唱えてはならない」「安息日を守れ」、第五戒から第十戒は「父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」「隣人のものを欲しがってはならない」というものです。十戒は、二枚の石の板に刻まれて、幕屋の奥の至聖所に置かれた契約の箱の中に納められました。

 その他の細則は、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に記録されています。レビ記は、前回お話ししたように、シナイ山のふもとで幕屋が完成してから荒野の旅を再開するまでの約五十日間の間にモーセが神様の戒めを書き記したものです。次の民数記は、荒野の旅を続ける中でモーセがその時々に人々に語った主の戒めが書かれています。そして、最後の申命記には、これからいよいよ約束の地に入ろうとする新世代のイスラエルの民にモーセが改めて神様の律法を語り、約束の地に入ってからも神様に聞き従って生きるようにと教えた内容が記録されています。今日は、そのようにいろいろな箇所に記録されている細則の内容をまとめて見ていくことにします。

 ところで、神様は、なぜ律法をお与えになったのでしょうか。それは、罪ある人間が神様とともに歩むためには「聖なるもの」である必要があったからです。今まで見てきたように、人は神様の恵みをすぐに忘れて、罪や過ちを犯してしまう弱い存在です。自己中心的で自分の欲望を満たすために人を傷つけ、混乱を引き起こすことも多いですね。ですから、神様は細かい戒めを与えて、神様の聖さの基準を教えるとともに、罪を犯してしまったときの贖いの方法や身が汚れてしまったときのきよめの方法を定めてくださいました。また、人間関係の様々な問題に対処する方法や基準を示してくださったのです。

 細則の内容を一つ一つ丁寧に見ていくと、説教何回分にもなってしまうので、今日は、大まかに分野別にまとめて見ていくことにしましょう。大きく分けると、神様への礼拝について定めた諸規定と人間関係や日常生活の問題に関する諸規定、そして、それらの戒めに違反した場合のさばき方を定めた司法に分けることができるのではないかと思います。

 

1 礼拝に関する諸規定

 

(1)いけにえとささげもの

 

@全焼のいけにえ(口語訳「燔祭」)

 これは、文字通りすべてを焼き尽くし、煙として立ち上らせるのです。祭壇の上で焼き尽くされるいけにえです。自分が神様の御前に罪ある贖いの必要な存在であることを覚え、すべてを神様にゆだね、神様のものとして聖別していただくという意味が込められています。個人が進んでささげる場合もありましたし、何らかの理由で汚れた者となった人が身をきよめるときにささげる場合もありました。ささげる人は自分の家畜の中から雄牛、または、雄の子羊か雄やぎをとって、その頭に手を置き自分の身代わりとします。その時、罪の告白もしたと言われています。そして、その家畜をほふり、部分に切り分けます。祭司はその血を祭壇のまわりにそそぎかけ、内蔵と足を水で洗い、すべての部分を祭壇の上で焼いて煙にして立ち上らせるのです。皮は祭司のものとなります。貧しい人は、家畜の代わりに山鳩や家鳩の雛をささげました。公のいけにえとしては、毎日、朝と夕に、普通の日には子羊一頭ずつ、安息日には、子羊二頭ずつが常供のいけにえとしてささげられました。また、幕屋の奉献式や祭司たちの任職式などの特別な場合にもささげられました。

 

A罪のためのいけにえ(口語訳「罪祭」)

 知らずに、または、あやまって罪を犯し、後でそれが罪であることがわかった場合、情状酌量の余地のある罪の場合、様々な規定によって定められた身が汚れた場合などにささげるいけにえです。自分の罪を告白し、身代わりのいけにえをささげることによって罪の赦しを受けるのです。いけにえと引き換えに罪が赦されるという呪術的な意味ではなく、自分の罪を心から悔いて神様の赦しを求める心が大切であることを聖書は教えています。

 大祭司が全会衆の罪のためにささげる場合は雄牛、上に立つ人の場合は雄やぎ、一般の人の場合は雌のやぎか羊、貧しい人は鳩のひな二羽、それさえ無理な人は一日分のマナと同じ重さの小麦粉をささげます。大祭司の罪の場合は大祭司本人が、全会衆の罪の場合は長老たちが、一般の人の罪の場合は本人が、動物の頭に手を置いて、自分の身代わりとしてほふります。大祭司と全会衆の罪のためのいけにえの血は、大祭司が幕屋の聖所に持って入り、至聖所の垂れ幕に七度ふりかけ、垂れ幕のまえに置かれた香壇の角に塗り、残りは全部祭壇の土台に注ぎます。また、脂肪を祭壇で焼いて煙を立ち上らせ、残りの部位は宿営の外の灰捨て場で焼きます。上に立つ人々と一般の人々のいけにえの血は祭壇の角に塗り、残りは土台に注ぎ、脂肪を焼いて煙にし、残りの肉は祭司たちが聖所の庭で食しました。このいけにえは、毎年第七月の十日の贖罪の日や祭りの時、祭司の任職式でもささげられました。罪ある人間が祭司となるときには、まず罪がきよめられる必要があるからです。

B罪過のためのいけにえ(口語訳「愆祭」)

 神様のものや隣人のものに損害を与えて賠償をしなけらばならない場合にささげるいけにえです。聖所に当然支払うべきものを怠っていたり、誓いを破ったり、人の物を奪ったり、返さなかったりした場合に、雄羊一頭をささげ、損害を与えた分にその五分の一を上乗せして賠償します。いけにえの血は、祭壇の回りに注ぎかけ、脂肪を焼いて煙にし、残りは祭司が聖なる所で食べます。

 

C和解のいけにえ(口語訳「酬恩祭」)

 「感謝のいけにえ」「誓願のささげ物」「進んでささげるささげ物」の三種類があり、神様の恵みに感謝と賛美を表すものです。このいけにえは「主への食卓」「平和のいけにえ」とも呼ばれ、神様との交わり、神様との平和を表すものでもあります。いけにえの血は祭壇のまわりに注ぎかけ、脂肪は祭壇で焼いて神にささげ、胸の肉は祭司が主の代理として食べ、ももの肉は祭司への贈り物として祭司が食べ、残りはささげる人が家族、友人とともに指定された場所で食べました。七週の祭りのときにささげますが、それ以外の時もいつでも自発的にささげることができました。

 

D穀物のささげ物(口語訳「素祭」)と注ぎのささげ物

 「穀物のささげ物」は、小麦粉や大麦、種を入れないパン、せんべい、火にあぶった穀粒などです。神様との契約を表す塩を添えてささげました。通常は動物のいけにえとともにささげましたが、貧しい人が罪のためのいけにえとして、動物のかわりに小麦粉だけをささげることもありました。罪のためのいけにえを除いて、オリーブ油を混ぜ、乳香も添えてささげました。パン種や蜜(おそらく果物の蜜)は腐敗の象徴なので、混ぜることは禁じられました。穀物のささげ物は一部が祭壇上で焼かれ,残りの部分は祭司たちが聖所で食しました。

 こうしてレビ記を読んでいくとき、罪の赦しが血が流されることによってもたらされるということが徹底的に教えられいくのです。

 

(2)例祭と贖罪の日

 

 神様の恵みを覚えるため大きな三つの祭りが定められました。 一つは、春の「過越の祭り」で、エジプトから救い出されたことを記念する祭りです。傷のない雄の子羊がほふられ、肉はパンと苦菜とともに食べました。その後の一週間、種を入れないパンの祭りが行われました。

 過越の祭の安息日の翌日から七週数えた五十日目には「七週の祭り」という小麦の初穂の刈り入れの祭りがありました。ペンテコステとも呼ばれます。

 そして、秋には「仮庵の祭り」が行われました。秋の実りの収穫を感謝し、荒野の仮庵生活を記念する祭りです。後に、三大祭りの日には、国中の成年男子が国中から集まり、いけにえをささげ、礼拝しました。

 それから、第七月の第一日は、全き休みの日であり、第七月の十日は「贖罪の日」が定められました。大祭司が年に一度、いけにえの血を携えて至聖所に入り、全会衆の罪の贖いをするのです。

 そして、七年ごとに農地を休ませる安息年ありますが、それが七回巡った翌年の第五十年目はヨベルの年と言われ、第七月の十日に雄羊の角(ヨベル)の笛を鳴り響かせ、前年休ませた農地を続けて休ませます。ヨベルの年には、売却されていた土地はすべて無償で売主に返され、貧困のため身売りしていた人は無償で解放されるのです。神様に与えられた最初の状態に戻し、土地も人も神様の所有であることを確認する年として定められました。

 

2 社会生活に関する諸規定

 

@食品衛生法

 食べてよいきよい動物と食べたり触れたりすると汚れる動物が細かく規定されました。細菌感染を防ぐための衛生的な側面から区別されたものもありますが、食生活を通して「聖さ」と「汚れ」を区別し取り分けることの大切さを教えるものでもありました。

 

A伝染病予防法と保健衛生法 

 人、衣服、織物、編み物、革製品、家などに発生するツァラアトと呼ばれる皮膚病のような伝染病の広がりを予防するための規定がありました。また、様々な漏出がある場合の規定や、女性が出産後に引きこもる期間を定めて母体保護の役割を果たした規定もあります。

 

B風俗、風紀、異教的行為取締り法

 異教や異民族の影響を受けて起こる性的混乱や人身御供、自傷行為などを禁じる規定です。また、まじない、卜占、霊媒、口寄せも厳しく禁じられました。

 

C社会福祉法と生活保護法

 貧しい人、やもめ、みなしご、在留異国人、しもべ、奴隷など社会的弱者についての様々な配慮が規定されています。「畑を収穫した後の落ち穂や取り残した実は、貧しい人々が集めることができるようにそのままにしておきなさい」「貧しい雇い人の賃金はその日のうちに支払いなさい」「奴隷や僕を休ませるために七日目は休みなさい」「ろう者や盲人を侮ってはならない」「やもめの着物を質に取ってはならない」「生活に必要なひき臼を質に取ってはならない」「貧しい兄弟が必要なものは惜しまずに十分貸し与えなければならない」「三年ごとにその年の収穫の十分の一を全部持ち出し、相続地を持たないレビ人や在留異国人やみなしごややもめに食べさせなさい」「祭りの時、貧しい人々にも飲み食いさせてともに喜びなさい」「同胞が貧しくなったら、住み込みの雇い人として扶養しなさい」などの規定がありました。

 

D結婚、相続に関する規定

 夫が妻に身勝手な扱いをすることや結婚生活を破壊する姦淫などの行為を禁じています。また、どの妻の子であっても必ず長子を跡継ぎにすること、また、兄弟のひとりが死んでその妻に子がない場合は、他の兄弟が子供を産ませて、その子に死んだ兄弟の名を継がせること、レビラート婚といいます。また、先祖代々の土地を売ったり、地境を移してはならないという規定もあります。

 

Eその他、「土地を七年おきに休ませ、ヨベルの年には二年連続で休ませなさい」という農地保護法、「転落防止の手すりを付けなさい」という建築基準法、「正しい秤を使いなさい」という公正取引法、「同胞から利息を取ってはならない」という利息禁止法など、正義と配慮を教える様々な規定がありました。

 

3 司法

 

 司法制度としては、「部族毎にさばきつかさとつかさたちを任命すること」「町囲みのうちで、さばきかねるものは、主の選ぶ場所に上り、レビ人の祭司たち、または、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、その判決に従う」と規定されています。

 さばく者の心得として「さばきを曲げてはならない。弱い者におもねり、強い者にへつらってはならない。人をかたよって見てはならない。イスラエル人も在留異国人も同じさばきをせよ。賄賂をとってはならない。正義を追い求めよ」とあります。 また、刑罰の内容としては、厳しい内容がでてきます。神様を冒涜し、神様以外のものを拝み、安息日を守らず、父母をのろい、故意の殺人や姦淫を犯す者などは石打で死刑になります。ただし、「一人の証言だけで死刑にしてはならない。二人または三人の証言によって死刑判決を下した場合は、まず証人に手を下させる」と規定されています。

 また、「証人は不当な証言をしてはならない」「双方の言い分が違う場合は、神の前で祭司やさばきつかさが判断する」とあります。また、「故意ではない殺人を犯した者が、復讐する者に殺されないように逃げ込める場所を設ける」ことが定められました。そして、「むち打ちの刑では四十以上打ってはならない(それ以上打つと死んでしまうかもしれないから)」「父が子供のため子供が父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは自分の罪のためである」「隣人を心の中で憎むのではなく、ねんごろに戒めよ。復讐してはならない。同胞を恨んではならない」「死刑になった者を神に呪われた者として木につるすときは次の日まで木に残して置いてはならない」などの規定もありました。

 その他に妻が不貞を働いたかどうか判別する手順、殺された死体が見つかったが犯人がわからない場合の手続き、損害賠償が必要な場合の賠償方法などが詳しく定められています。

 

 以上のような律法の内容を見ると、約三千四百年前の時代にも関わらず、公正で、弱者にも配慮した内容であることに驚きを感じます。現代の法律の基本となるような規定もあります。

 しかし、聖書を読み進めていくとイスラエルの民は「神様を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」という律法の基本精神を忘れ、表面的に律法を守るだけだったり、平気で律法を無視して生きるようになっていったのです。そんな彼らに神様は預言者たちを遣わして、繰り返し呼びかけられました。

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア6章6節)「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6章8節)旧約聖書を読むと、「人は自分の力で律法を守って神様の聖なるものとなることは不可能だ」ということがよくわかってくるのです。

 

4 新しい契約と新しい戒め

 

 法律の世界では、後法優越の原理というものがあります。たとえば、日本の憲法も新憲法が出来たとき、旧い憲法は失効するのです。これは旧約と新約の関係も似ているのです。

 旧いモーセによって与えられた律法はイエスキリストによってすべて成就し今は失効したといえるのです。ですから、いま私たちは動物の犠牲を捧げることをしませんね。なぜならイエスキリストが私たちの罪のために十字架についてくださり、罪を全て背負ってくださり、完全な罪の赦しの贖いを成し遂げてくださったからです。ですから、旧約聖書に書かれているいけにえを行わないのです。それにともない祭司に関する規定も失効しました。食べ物の規定はどうでしょう。衛生管理のために注意することは必要ですが、いまこの規定を守っている人はいません。なぜなら、神様ご自身が私たちを聖なるものとして区別し、取り分けてくださっているからです。そして、イエス様ご自身がすべて口に入るものは清いと宣言してくださったからです。しかし、それでは旧約聖書の律法はすべて不要になったのかと言えば、そうではありません。神様を愛し、自らを愛し、人を愛するこの原則は決して失われることはないのです。このバランスをきちんと理解しないと、信仰生活は律法的になってしまったり、戒めを守れないことに対して、自分を不必要に責めてしまったりするのです。

 

 旧約にある不完全な動物のいけにえは、何度もささげなければなりませんでしたが、キリストは御自分を完全ないけにえとして、ただ一度十字架につき、その血によって私たその背後にイエスキリストに成し遂げられた身代わりの十字架の事実があります。ですから私たちは赦された罪人とされているのです。しかし、何度も罪の中に迷い込んでしまうことがありますね。だから、罪を素直に言い表し、赦されていることを覚えて生きていくのです。こう記されています。

1ヨハネ1章9節「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあるとおりです。

 モーセの時代に結ばれた古い契約は、「律法を守れば、神様の宝の民、祭司の王国、聖なる国民となる」というもので、動物の血によって契約が結ばれました。しかし、人々はその契約を守ることができませんでした。しかし、今ではイエス・キリストの十字架の血によって新しい契約が結ばれました。イエス・キリストを信じる者は「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」(第一ペテロ2章9節)となるのです。そして、キリストは新しい戒めを与えてくださいました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)という戒めです。そして、その戒めを守れるように、聖霊が私たちを内側から変えてくださるのです。

 

 レビ記20章26節の「あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである」という神様の約束はイエスキリストによって実現したのですね。

 私たちは毎週こうして主を礼拝しています。レビ記にあるような特別ないけにもささげることはしていません。

 それでは今、私たちがささげるものは何でしょう。ヘブル13章15節に「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」とあります。

 神様を礼拝し、神様のすばらしい恵みのみわざに心からの賛美をこうしてささげるのです。