城山キリスト教会 礼拝説教    

二〇二六年三月二九日             関根弘興牧師

                 民数記六章二四節-二六節

 

 創世記から士師記まで31  

     「新たな出発」

 

24 主があなたを祝福し、あなたを守られますように。25 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。26 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。(新改訳聖書第三版)

 

 今回は、民数記1章から12章の内容を見ていきます。

 イスラエルの民は、第一月の十五日にエジプトを出て、四十五日後の第三月の一日にシナイ山の麓に到着しました。そして、翌年、第二年目の第二月の二十日に旅立つまで、約一年近くの間、ずっとそこに宿営していたのです。その間の出来事が出エジプト記の19章から、レビ記、そして、民数記の10章10節までに記録されています。

 今まで見てきたように、シナイ山で神様は民に律法をお与えになり、その律法を守るなら、神様の宝の民として生きることができると約束してくださいました。律法全体は「あなたの神である主を愛せよ」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めに要約することができます。そして、その神への愛と人への愛を実践するために十戒や細則が与えられたのです。その細則の内容は前回見ましたね。

 イスラエルの民は律法を守って生きることを神様に誓い、神様と民の間に契約が結ばれました。そして、第二年目の第一の月の一日に幕屋(移動式の神殿)が完成し、奉献式が行われました。そのとき、「雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた」と書かれています。奉献式では各部族の長が様々ないけにえやささげ物をささげました。その内容は、民数記7章に記録されています。幕屋ができる前は、モーセは宿営の外の特別な天幕の中で主と語り合い、それが「会見の天幕」と呼ばれていましたが、幕屋が完成してからは、主は幕屋の一番奥の至聖所にある契約の箱の「贖いのふた」の二つのケルビムの間からモーセにお語りになりました(7章89節)。それで、この幕屋が「会見の天幕」と呼ばれるようになったのです。

 

1 過越のいけにえ

 

 幕屋が完成すると、こんどは、神様の命令に従って第一月の十四日の夕暮れに過越のいけにえをささげました。それが民数記9章に書かれています。神様が奇跡的な方法でエジプトから救い出してくださったことを記念するためで、律法で毎年行うことが定められている祭りです。ただ、問題が起こりました。その日に身を汚していて過越のいけにえをささげられない人々がいたのです。モーセが主にうかがうと、主は「身を汚しているか、遠い旅路にあって第一月に過越のいけにえをささげられない者は第二月の十四日にささげよ」とお命じになりました。できない者のために、主が配慮してくださったのですね。

 

2 十二部族の人口調査

 

 そして、いよいよシナイ山のふもとを旅立つ準備が始まりました。まず、第二月の一日に、神様はモーセに「部族毎に二十歳以上の軍務につくことのできる男子の人口調査をせよ」と言われました。行く手には好戦的な民族が数多くいましたし、規律正しく旅を進めていくためにも、しっかりした軍隊組織を作ることが必要だったのでしょう。そこで、神様から指名された各部族の長がモーセとアロンを補佐して人口調査を行いました。

 対象はレビ部族以外の十二部族です。レビ部族は神様に仕えるという特別な任務があったからです。創世記48章5節ー6節にあるとおり、ヤコブ(イスラエル)の十二人の息子のうち、エジプトの総理大臣になったヨセフの二人の息子エフライムとマナセは、ヤコブの他の息子と同等と見なされ、それぞれ独立した部族を作りました。それで、十三部族になりましたが、レビ部族を除いた十二部族の人口調査が行われたわけです。1章に各部族の人数が記録されていますが、46節に「登録された者の総数は六十万三千五百五十人であった」とあります。

 

3 レビ部族の人口調査

 

 神様は、レビ部族出身のモーセの兄アロンを大祭司に、その息子たちを祭司に任命なさいました。アロンの息子は四人いましたが、レビ記10章にあるように、長男ナダブと次男アビフは、自分勝手な方法で主の前に香をささげたので、主の前から出た火に焼かれて死んでしまいました。そこで、残されたエルアザルとイタマルが祭司の務めを果たしました。その祭司たちに仕えて幕屋に関する奉仕をするために選ばれたのがレビ部族です。レビ部族には特別に二種類の人口調査が行われました。

 

(1)一か月以上の男子の人口調査

 以前、エジプトを脱出するときに、神様はエジプト中のすべての初子を打たれましたが、イスラエル人の家の初子は神様に守られて無事でした。そこで神様は、3章12節ー13節で「イスラエルのうちのすべての初子はわたしのものである」と言われ、さらに「わたしはすべての初子の代わりに、レビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものである」と言われたのです。

 そして、「レビ部族の一か月以上のすべての男子を登録せよ」とお命じになりました。レビ部族は、ゲルション族、ケハテ族、メラリ族に分かれています。ちなみにモーセとアロンはケハテ族です。調査の結果、一か月以上の男子は合計で二万二千人でした。次に、神様はイスラエル人のすべての初子を数えさせました。すると、一か月以上のレビ人の数より少し多かったので、その多かった初子の贖いの代金を一人当たり五シェケルずつ祭司に渡すようにお命じになりました。

 そして、8章では、イスラエル人のすべての初子の代わりにレビ部族を神様に奉献する儀式が行われたのです。

 

(2)幕屋で奉仕する者の人口調査と役割

 それから、神様は4章で「会見の天幕で奉仕することのできる三十歳以上五十歳までのレビ族男子の人口調査をせよ」と言われました。8章24節には「二十五歳以上」とありますが、二十五歳から三十歳までは見習い期間だったのでしょう。

 神様は、レビ族の奉仕の内容も指定なさいました。宿営地を旅立つときには、まず祭司が聖所に入って契約の箱やその他の聖なる用具を布で覆い、運ぶ準備をします。それから、ケハテ族が入ってきて、祭司の指示にしたがって運びます。すべて肩に担いで運ばなければなりませんでした。次に、ゲルション族が幕やひも類を運びます。そして、メラリ族が板や柱や台座などを運ぶのです。ケハテ族の監督は祭司エルアザルで、ゲルション族とメラリ族の監督は祭司イタマルでした。幕屋の奉献式の時に族長たちがささげた六両の牛車のうち、二両がゲルション族に、4両がメラリ族に、運搬用に与えられました。

 

3 宿営の配置と行軍の順番

 

 神様は宿営の仕方も細かく指定なさいました。幕屋の正面東側にはモーセと祭司、南、西、北にはレビ部族が宿営します。 その周囲に十二部族が三部族ずつ四つの大きなグループに分かれて宿営しました。各グループの代表部族は、ユダ、ルベン、エフライム、ダンで、それぞれが幕屋の東、南、西、北に宿営しました。ユダヤの言い伝えでは、ユダの旗印は獅子、ルベンは人間、エフライムは雄牛、ダンは鷲で、それぞれ、強さ、信頼、豊穣、高貴を表していたとも言われます。それを聞いて思い浮かぶ聖書の箇所がありますね。エゼキエル書1章に神様の臨在を表す四つ不思議な生きものが登場しますが、それぞれが人間、獅子、牛、鷲の四つの顔を持っていました。また、ヨハネの黙示録4章には、天の御座に着いている方のそばに四つの生きものがいて「第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった」と書かれています。これを、四つの福音書に書かれているキリストの姿、「王」「罪を贖ういけにえ」「人の子」「天と繋がる存在」を象徴しているのではないかと考える人もいます。とにかく、ユダヤ人は、預言者エゼキエルや使徒ヨハネの見た幻と宿営の配置は何らかのつながりかあると感じたかもしれませんね。

 

4 ナジル人の誓願

 

 さて、神様は、幕屋での奉仕のためにレビ部族を聖別なさいましたが、その他に、一般の人が特別な奉仕のために一定期間、自発的に献身することがありました。「ナジル人」と呼ばれますが、それは「聖別された者」「分離された者」という意味です。民数記6章にナジル人の規定が書かれています。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない、髪の毛を切ってはならない、死体に近づいてはならないなどの戒めと、ナジル人の期間が満ちたときに主にささげるいけにえやささげ物の規定が書かれています。新約聖書では、使徒パウロやエルサレムの人々が自発的にナジル人の誓願をしたことが記録されています。また、生まれた時からナジル人として神様に選ばれた人もいました。旧約聖書では士師サムソンや預言者サムエル、新約聖書ではバプテスマのヨハネが該当するでしょう。

 

5 祭司の祝祷

 さて、人口調査が終わり、組織も整い、再出発の時が近づいてきたとき、主は、祭司が民を祝福するための祈りの言葉を授けてくださいました。6章24節-26節に記されている大変有名な祝祷です。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」神様は「彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう」と約束してくださいました。

 

6 出発

 

 モーセは主に命じられて銀のラッパを二本作らせ、祭司に吹かせました。ラッパの鳴らし方によって、「族長だけ集まれ」「全会衆が集まれ」「宿営を出発せよ」「敵との戦いに出陣せよ」などの合図をするのです。また、神様は、喜びの日、例祭と新月の日にもラッパを鳴り渡らせるようお命じになりました。

 さて、9章13節ー23節に書かれているように、幕屋が完成してからは、昼は雲、夜は火のようなものが幕屋の上にとどまっていました。イスラエルの民は、雲が幕屋にとどまっている間はそこに宿営をつづけ、雲が幕屋を離れて上ると旅立ち、雲がとどまると宿営しました。「彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った」と書かれています。

 シナイ山の麓に着いてから約一年後の第二月の二十日、10章11節で、ついに雲があかしの幕屋から離れて上りました。いよいよ出発の時が来たのです。ラッパが吹き鳴らされ、彼らは神様に指示された順番通りに旅立っていきました。@ユダの宿営、A幕を運ぶゲルション族と板を運ぶメラリ族、Bルベンの宿営、C契約の箱と聖所の器具を運ぶケハテ族、Dエフライムの宿営、Dダンの宿営の順番です。ゲルション族とメラリ族が次の宿営地に先に到着して、ケハテ族が到着するまでに幕屋を組立てることになっていました。

 ここで興味深いことが10章29節ー32節に書かれています。モーセの妻チッポラの父ミデヤン人レウエルの息子、つまり、モーセの義理の兄弟ホバブがそれまで一緒にいたようですが、自分の生まれ故郷に帰ろうとしました。すると、モーセは「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから。私たちといっしょに行ってくだされば、主が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです」と必死に引き止めたのです。

 これを読むと疑問に思いませんか。モーセはいつも神様と直接語り合うことができました。そして、神様が行く道を示し、旅を守ると約束してくださっているのです。それなら、ホバブの助けは必要ないのではないでしょうか。私たちは、この点で勘違いしやすいのです。もちろん神様だけに信頼して進むことは大切です。しかし、神様は、様々な方法を通して、時にはこの世の状況や神様を知らない人々をも用いてみわざをなさるのです。ですから、頑なに拒絶するのではなく、神様が備えてくださったいろいろな人や物や環境を感謝して受け入れ、必要な助けを受けながら、神様の示す方向に進んでいくことが大切なのですね。モーセはそのことをよく知っていたのです。

 さて、イスラエルの民は神様に指示された順番に旅立ちましたが、10章33節に「主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した」とあります。必要な時には契約の箱が先頭を進んだのですね。申命記31章8節に「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない」とある通りです。

 

7 道中に起こった問題

 

 イスラエルの民は、シナイ山を旅立ってから12章の最後にパランの荒野に着くまで、何ヶ所かで宿営をしたようです。その旅は順調とは行きませんでした。11章ー12章には、旅の途中でいろいろ問題が起こったことが書かれています。

 

(1)タブエラで

 まず11章1-2節にこう書かれています。「民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた。」民は荒野の旅に我慢できなくなって神様の恵みを忘れ、「なんでこんな所にきてしまったのだ。昔の生活に戻りたい」と不平を言ったのでしょう。主の火がどのようなものだったのかわかりませんが、雷に打たれたのかもしれませんね。その場所は「燃える」という言葉から「タブエラ」と名付けられました。

 

(2)キブロテ・ハタアワで

 しばらく進むと、また問題が起こりました。彼らの中に混じっていた異邦人たちが激しい欲望にかられて不満を言い始め、それがイスラエル人にも伝染して、大声で泣き叫び始めたのです。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」

 皆さんはどう思いますが。荒野の旅の間ずっと神様は毎日マナを与えてくださいました。水がないと文句を言ったときは、水を湧き出させてくださいました。肉がないと文句を言ったときは、うずらの大軍を送ってくださいました。それに彼らは多くの家畜を連れていましたから、その乳も飲めるし、和解のいけにえや過越のいけにえをささげるときには、肉を食べることもできました。必要なものは十分与えられていたのです。ですから、彼らは空腹で困っていたからではなく、与えられたものに満足できずに欲望を膨らませ、あれも欲しい、これも欲しい、と文句を言い始めたわけですね。さらに、神様がくださった食べ物であるマナに感謝するどころか「こんなものは食べ飽きた。もっと食欲をそそるものが食べたい」と軽蔑し、「エジプトにいたほうがよかった」とわめいたのです。つまり、神様の今までの恵みをすっかり忘れて、神様を批判したわけですね。

 その姿を見て、神様が激しくお怒りになったのは当然ですが、モーセも憤慨のあまり主に訴えました。「あなたは、なぜ私にこの民を導く責任を負わせたのですか。私の子供でもない民をなぜ世話しなければならないんですか。私には彼らの要求に応えることはできません。もう無理です。いっそ私を殺してください。これ以上、私を苦しませないでください。」

 すると、神様は、長老七十人を集め、モーセの上にある霊を分け与え、彼らがモーセの責任を分担するようにしてくださったとあるので。

 また、神様はモーセに、イスラエル人にこう言えとお命じになりました。「主が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐きけを催すほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう』と言ったからだ。」モーセが驚いて「成人男性だけでも六十万人いるのに一か月も肉を食べさせることなど不可能ではないですか」と尋ねると、主は言われました「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」

 主が風を吹かせると、海の向こうから運ばれて来たうずらの大軍が落ちてきて、宿営の回りの広大な地域一面に約二キュビト(約八十八センチ)の高さに積み重なったと書かれています。これは誇張表現かもしれませんが、とにかく大量のウズラです。民はうずらをたくさん集めて食べました。しかし、11章33節ー34節にこう書かれています。「肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打った。こうして、欲望にかられた民を、彼らがそこに埋めたので、その場所の名をキブロテ・ハタアワ(欲望の墓)と呼んだ。」欲望のままに生きることの愚かさを戒める出来事となったのです。

 

(3)ハツェロテで

 次の問題は身内から起こりました。モーセの姉ミリヤムがアロンとともにモーセがクシュ人の女をめとっていたことを非難しました。このクシュ人の女とは、以前モーセが荒野で失意の生活をしていたときに妻にしたミデアンの祭司の娘チッポラのことだと考えられます。「なぜイスラエル人と結婚しなかったのだ」と非難したのでしょう。しかし、それは口実にすぎません。モーセだけが神様と親しく話すことができることに嫉妬し、モーセの姉と兄である自分たちが弟のモーセの指図に従わなければならないことに不満を募らせ、難癖をつけたのでしょう。それに対してモーセは反論しませんでした。12章3節に「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」とあります。その時、主が突然、モーセとアロンとミリヤムを会見の天幕の入り口に呼び出し、雲の柱の中にあって降りて来られ、ミリヤムとアロンに言われました。「もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」主が去って行かれたとき、ミリヤムはツァラアトに犯されて(皮膚病)のようになり七日間、宿営の外に締め出されてしまいました。

 嫉妬はどの世界でも起こります。大切なのは嫉妬を感じたときにどうするかです。誰かが主に大いに用いられているように見えたら、それを喜び、また、自分も同じように主に愛されていることを思い起こして感謝することが大切ですね。

 

 さて、民数記という書名は、1章と26章で二回人口調査が行われたことに由来します。最初はシナイ山から新たな出発をするとき、二回目は四十年間の荒野の旅を終えて約束の地に入る前に各部族に相続地を割り当てるときでした。神様が人口調査を命じられたのはこの二回だけです。後にダビデ王が人口調査を行いましたが、神様に叱責されました。神様よりも人数に拠り頼み、力を誇示しようとしたからです。人は目に見えない神様よりも、目に見える人数に頼ろうとしてしまいがちです。教会も、人数の多い少ないで評価してしまうことがありますね。でも、詩篇33章16節に「王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない」とあります。数を追い求め、力を誇るのではなく、主に信頼して歩むことが大切なのですね。人生に問題は次々と起こりますが、いつも主が教えてくださった祝祷のとおり、主が私たちに御顔を向け、祝福し、守り、恵みと平安を与えてくださることを祈りつつ、歩んで行きましょう。