城山キリスト教会 礼拝説教
二〇二六年四月一九日 関根弘興牧師
民数記一三章一七四節-二六節
創世記から士師記まで32
「カデシュ・バルネア」
17 モーセは彼らを、カナンの地を探りにやったときに、言った。「あちらに上って行ってネゲブに入り、山地に行って、18 その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。19 また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか。彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。20 土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。21 そこで、彼らは上って行き、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブまで、その地を探った。22 彼らは上って行ってネゲブに入り、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられた。23 彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。24 イスラエル人がそこで切り取ったぶどうのふさのことから、その場所はエシュコルの谷と呼ばれた。25 四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。
26 そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。29 ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」
(新改訳聖書第三版)
エジプトから脱出したイスラエルの民は、シナイ半島の南にあるシナイの麓におよそ一年以上宿営していました。その間、律法が与えられ、移動式の神殿である幕屋が完成し、様々な細かな規定が定められていきました。そしてここから出発するにあたり、神様は、人口調査をせよと、命じられたのです。それが前回の箇所でしたね。人口調査の目的は力の誇示ではありません。現状を把握し、神様が民を、これからどのように守り、ささえてくださるのかを知るために行われるものでした。そして、人口調査が終わると、部族ごとに宿営の場所が定めれました。そして、幕屋を分解し、組み立て、移動する役割をするレビ人たちの働きも定められました。いよいよ出発です。この出発にあたって、主は、モーセに祭司たちに民を祝福するように言われました。民数記6章24節-26節『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますよう に。』この祝祷を受け、出発したのです。
しかし、旅は決して順調に進んで行きませんでした。民は、すぐにでも約束の地にたどり着くと思いきやなかなか前進しないことに不平を感じたのでしょう。神様の祝福があるようにとの祝福の祈りをもって出発したのに、民から出てきたのは自分達の「不幸」を嘆くものでした。彼らは口々に「なんでこんな所に来てしまったのだ、ああ昔の生活に戻りたい」と言いはじめたのです。不満を持つ少数の声が、次第に大きくなり、仕舞には多くの民が泣き出す始末です。民は、何もなければ「食べ物がない、水がない」と文句言いました。だからマナが与えられ、水が与えらましたね。そこに感謝がうまれていいではありまんか。しかし、彼らはそれらが与えらた当初は喜びましたが、今ではこう言っていたのです。「いまはこのマナだけだ。もう食べ飽きた」と。さすがのモーセも怒り、疲れ果ててしまいました。「神様、もう私を苦しみにあわせないでください、こんなことになるならもう私を殺してください」とまで祈り叫んだのです。神様はそんな彼らにふたたび大量のうずらをあたえてくださいました。しかし、あまりにも量が多く、食中毒のようなものが発生してしまい、多くの民が命を落としてしまったのです。それに加え、モーセの姉ミリアムが兄アロンと共にモーセを非難しはじめたのです。どうしてモーセだけが神様に用いらているのか、おかしいではないか、クシュ人の女を妻にしているくせに、と言いがかりをつけたのです。嫉妬ですね。この後、ミリアムはツァラアトに冒され、7日間宿営の外に出されてしまいました。ミリアムが宿営地に戻されるまで、旅立つことをしませんでした。ミリアムにとって冷静に自分を振り返る7日間になったことでしょう。このような事が起こって、その後、民はパランの荒野に宿営しカデシュ・バルネアにやってきました。そこで主はモーセに、これから入っていくカナンの地がどのようなところなのか、部族ごとに一人づつ選び、偵察するようにと命じられたのです。
1.12人の斥候
選ばれた12人は、モーセの指示に従い、カナンの地を探るためにネゲブの山地から入り、北はレボ・ハマテのレホブまでと書かれているので、カナン全土を40日間かけて調査したのです。まず彼らはネゲブからヘブロンに入りました。ネゲブは砂漠地帯です。それを抜けるとたぶん彼らが最初に見た町となったヘブロンに着きました。このヘブロンはイスラエルの民にとっては記念すべき場所でした。なぜならこのヘブロンには、自分達の父祖であるアブラハム、イサク、そしてヤコブが葬られていたからです。斥候たちは、ついに自分達の先祖の地に戻ってきたという思いを持つことが出来たでしょう。そして、たぶん何人かに別れてだと思いますが、カナンの北方にまで偵察したのです。その帰り道だと思いますが、彼らはヘブロンの北方の谷エシュコルにやってきました。ここは、「ぶどうの房の谷」と呼ばるぶどうの産地でした。彼らはここで、ぶどうが一房ついた枝を切りとり、二人で棒で担ぎ、さらにざくろやいちじくを持ち帰り、40日の偵察を終えてカデシュに戻ってきました。
2.報告
彼らは、持ち帰ったくだものをモーセとアロン、そして会衆に見せて言いました。「遣わされた場所は、まことに乳と蜜のながれている場所でした」と。乳と蜜の流る地とは、自然の恵みが豊かで潤いがあり肥沃な場所をさす慣用句です。でも聖書では神様が与える約束の地を「乳と蜜の流れる地」と表現することがほとんどです。乾燥しきったネゲブの砂漠からヘブロンに入り、カナンの各地を見て回ったわけですから、まさに、乳と蜜の流れる地をそのまま実感したことでしょう。
しかし、調査報告はそれで終わりませんでした。それは、これから入ろうとする地は、四方八方に大きな問題がありすぎます、と報告したのです。まずヘブロンの地域にはアナクの子孫がいて、彼らは力が強く、町は城壁を持ち、到底かなう相手ではないと報告しはじめました。このアナクの子孫とは、背の高い民と言われ、大男たちが町を守っているので到底自分達には太刀打ちできないというわけです。それに、ネゲブを通ったときには、そこにはアマレク人がいました。彼らは戦い好きで、容赦なく残忍なことを行うことで有名な民でした。また、山地には、ヘテ人、エブス人、エモリ人がいました。ヘテ人は、小アジアの強大な国民で、強力な武器をもっており、その中のある人たちがこのカナンに定着していたいのです。エモリ人はメソポタミヤから来た優秀な民で、きちんとした法典をもち、力を持っていました。それでは海岸地域はどうかといえば、ここには、カナン人が住んでいました。カナン人とはカナンの地に居住する人々を指す言葉として使われることが多いのですが、海岸に住むカナン人の中には、これから度々登場する交戦好きなペリシテ人もいました。
彼らは、神様が約束された地は「乳と蜜の流れる」すばらしい土地だけど、私たちがどのルートを通って入ろうとしても到底入ることが出来ない、無理です、と報告したのです。そして、彼らは民に向かってこう言いました。
「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」13章32節−33節
3.反応
一)民の反応
さあ、これを聞いた全会衆は、大声を上げて叫び、ひと晩中泣き明かし、モーセとアロンにつぶやきはじめました。
「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」
彼らは、自分達の指導者がモーセでは駄目だ、別のリーダを立ててエジプトに帰ろうとと騒ぎ出したのです。そして、モーセを石で打ち殺そうと言い出す始末です。
2)ヨシュアとカレブ
12人の斥候の中には、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブがいました。彼らは、全体の報告を聞き、民の激しい反応を見て、自分たちの着物を引き裂いて全会衆に言いました。
「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。
もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
12人の斥候の中でこの二人だけは、神様が約束してくださったのなら、目の前がどんな困難に見えたとしても、恐れずに進んで行こう、と訴えたのです。しかし、彼らの訴えは民の心にまったく届きませんでした。
そんな民に対しては、神様は厳しく言われました。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」これは、イスラエルの民がシナイの麓にいたとき、金の子牛を作り神様に逆らった時に神様が言われたことばと同じですね。そして、その時と同じように、モーセは自分を石で殺そうとしている民のためにとりなしの祈りをささげたのです。モーセは主に言いました。主よ、もしあなたがこの民を滅ぼされたなら、回りの住民は「主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、彼らを荒野で殺したのだ。」と言うでしょう。主よ、あなたは怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす、と約束されているではありませんか。どうか、彼らを赦してください、と祈ったのです。
すると、神様はモーセのとりなしの祈りを聞いてくださり、「わたしはあなたのことばどおりに赦そう。 しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。」と言われたのです。これはどういうことかというと、こう記されています。
14章29節〜「この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決して入ることはできない。さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。・・・・ あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。」
神様は、ここにいるエジプトから脱出してきた第一世代の者たちは、みな荒野で寿命が尽き、約束の地に入る事が出来るのは第二世代の子供たちだと言われたのです。つまり、この後、あなたがたはおよそ38年近く、このカデシュ・バルネアの近隣を移動しながら生活することになっていくと、言われたのです。そして12人の斥候の中で悪く言いふらしていた者たちが疫病で死んでしまうという事が起こったのです。
すると、モーセを石打にしようとしてい民の態度が一変し、私たちは山地に上って行きますと、まったっく勝手な行動をとり始めたのです。モーセは「それは成功しない、主があなたがたのうちにおられないのだから、剣の餌食になるだけだ」と諭しました。しかし、彼らはかまわず山地に向かっていったのです。44節にこう記されています。「それでも、彼らはかまわずに山地の峰のほうに登って行った。しかし、主の契約の箱とモーセとは、宿営の中から動かなかった。山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て、彼らを打ち、ホルマまで彼らを追い散らした。」と。
4.私たちが教えられる事
さて、民はこのカデシュ・バルネアの出来事を機に、この後、三八年近く荒野をさまようことになっていきました。歩みが定まらない、まるで放浪生活のような状態に陥っていったのです。彼らはゴールを目前にしながら振り出しに戻ってしまったわけですね。彼らは、13章33節で「そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」と言っていますが、まさにいなごのようにあっちこっちと風に吹かれるように荒野の長い放浪生活となっていきました。
このカデシュでの出来事は、私たちに大切なことをおしえています。クリスチャン生活を送っていくとき、3つの応答があると思います。
1)「自分はいなごのようだ」という否定的応答
一つは、自分は「いなごのようだ」という勝手な思いこみの中で、否定的に応答していく姿です。この特徴は、いつもまわりの状況だけを見ているのです。事実を確かめようとしません。そして、神様の言葉を受け入れることが出来ないで、自分勝手な結論を出して悩んでしまうのです。しかしその結論が事実とは異なっていることも多いのですね。イスラエルの民はどうだったのでしょう。彼らは「自分達はいなごのように見えたことだろう」というい言葉にみなうなずいて、落胆してしまいましたね。でも、相手側はどう見ていたのでしょう。
このカデシュの出来事から三八年後、イスラエルの民がヨシュアに率いられてヨルダン川を渡り、エリコの町に攻め入ります。その時、エリコの町の人々がイスラエルの民をどう見ていたのかが聖書にこう記されています。
「神様がこの地をあなたがたに与えておられること―あなたがたが攻めて来るというので、私たちは恐怖に襲われており、住民もみな、震えおののいています。あなたがたがエジプトから出て来られたとき、神様があなたがたの前で紅海の水をからされたことを聞いているからです。 私たちはそれを聞いたとき、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです」(ヨシュア記2章8節−4節)
モーセによってカナンの地を偵察にいった人たちは「俺たちはまるでいなごのようだ、まったく無力だ、駄目だ」と思っていたわけです。しかし相手は、「イスラエルの民は、あの強大なエジプトから脱出し、葦の海を渡りあの荒野で養われきた民だ。偉大な神様がいつも一緒にいるのだから、俺たちは太刀打ちできない」と思っていたというのです。それも、この出来事から三八年も過ぎているのに、周りの地域の人たちに鮮明に記憶されていたわけです。
みなさん、自分を見たらまるで「いなごのようだ」とつぶやいてしまうかもしれませんね。私たちは確かに小さなひとりひとりですから。けれども、神様は、主イエス様を遣わし、私たちを愛し、赦し、永遠のいのちを与え、救いを与えてくださったではありませんか。この救いは誰も与えることの出来ないものであり、誰からも奪われるものでもありません。主は私たちの旅路を守り、ささえ、永遠の御国に至るまで、あなたを背負ってまでも導くと約束されているではありませんか。そうであるなら、主の約束に安心し、私は小さく弱い存在だけれど、主が共にいてくださるので、大丈夫です、と告白し生きていければいいですね。
人間は否定的な反応が得意です。そして、これは誰でもできる簡単な応答なのです。ちょっと状況がおかしくなると、「ああ、もう駄目だ。もうおしまいだ」と結論を出してしまうのです。少しだけ物事が思うように進まないと、まるで大きな壁がそこに立ちはだかっているかのように見えてくるではありませんか。人間が最も陥りやすい応答が、この否定的応答なんです。でも気をつけないとこうした自分で語った言葉によって人生が左右されてしまうことになることも確かなのです。あのイスラエルの民が「いなごようだ」と語り、結局、風に吹き飛ばされるいなごのように荒野をさまようことになってしまいましたね。
2)無謀な応答
カデシュにいた民は、神様のさばきの言葉を聴き、斥候の多くが疫病で死んでしまったことを見たとき、今度は無謀で勝手な応答をし始めました。それは、カナンの地へ勝手に進んで行こうとしたのです。神様が進めというなら前に進みます、ということは大切です。しかし、神様が進めと言っていないのに、勝手に行くならそれは無謀な応答となるのです。これが信仰生活の中で陥りやすい間違いなんです。ただ問題は、いま神様は私たちの耳に聞こえる声で直接語りかけることは、ほとんどありませんね。なぜなら、いまは聖書を通して語りかけてくださるからです。そこで、大切なのは、聖書に書かれていることを全体を通して理解し、受け入れていくことなのです。旧約聖書の中に戦いの出来事が記されているのだから、戦争を正当化し、爆弾を落とすなら、それはただ無謀な応答でしかありません。
なぜなら、主イエス様のこころを置き去りにしてしまっているからです。また聖書の言葉を引用し、人を傷つけ極端な行動を取るなら、それは、ただの無謀な応答なのです。世の終わりの事に関しても、聖書の預言を勝手に解釈し、現代の国々や出来事にその預言を置き換えて終末を煽ることも、無謀な応答です。無理な解釈で人を動かそうとすることは主の心ではありません。
3)約束を基にした応答
私たちは、「どうせ駄目だ」と思ってしまったり、「他の人もそう考えている」とすぐ結論を出してしまうことがあります。だから神様の約束を思い起こすのです。神様が盾となってくださり、隠れ家となってくださるのです。私たちは天地を作られ、私たちを愛してくださっている主なる神様が共にいてくださっていることに平安を見いだしていくのです。
「神様が私の生涯を支えてくださるのですから、今、置かれている状況が困難であっても、主に信頼して進んで行きます」という応答をもって進んで行きましょう。自分が駄目だと思えるときはしばしばおこります。まず自分の駄目さを弱さを認めていきましょう。勇気がなかったら、「私には勇気がありません」と素直にそれを認めればいいではありませんか。そして、 主は「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と言われます。「自分はいなごように見えるのすが、主は高価で尊いとみていてくださるのですね。そして私の弱さを覆ってくださる主イエス様がいてくださるのですから、私は力強のです」と告白して生きていきましょう。神の子どもとされている誇りを持ちながら。