城山キリスト教会 礼拝説教
二〇二六年五月三日 関根弘興牧師
民数記一六章一節〜四節
創世記から士師記まで33
「コラの反乱」
1 レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、2 会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。(新改訳聖書第三版)
イスラエルの民はエジプトを脱出し、シナイ半島の南側に位置するシナイ山の麓でおよそ一年近く宿営していました。その間に神様から律法が与えられ、神様と契約を結び、移動式の神殿である幕屋が造られ、各部族の役割が定められました。そして、第二年目の第二の月の二十日に、再び荒野の旅が始まったのです。旅の途中でいろいろな問題を起こしながらも、彼らはカデシュ・バルネアという場所までやってきました。そこは、約束の地カナンのすぐ南です。前回は、その地で起きた出来事を見ましたね。各部族の族長十二人がカナンの地の偵察に行きました。彼らは、四十日間、カナンの全土を探り、大きなぶどうの房を担いで戻って来ました。そして、「あそこは乳と蜜の流れる場所です」と報告しました。自然の豊かな恵みがあったのです。しかし、問題がありましたね。各地に強そうな民が住んでいたのです。十二人の族長のうち、ヨシュアとカレブは「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」と民を励ましました。しかし、残りの十人は「私たちがあの民のところに攻め上るのは無理だ。彼らは強くて背が高く、私たちはいなごのようにちっぽけで、彼らにもそう見えたことだろう」と悪く言いふらしたのです。それを聞いた民は「敵に滅ぼされるくらいなら荒野で死んだほうがましだ」と泣き叫び、「モーセではなく別のリーダーを立ててエジプトに帰ろう」とまで言い出したのです。すると、神様は民に厳しいさばきの言葉をお語りになりました。「あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間、あなたがたは荒野をさまよわなければならない。そして、二十歳以上の者は、ヨシュアとカレブ以外は皆、約束の地に入ることができずに荒野で死ぬ。あなたがたは、わたしに反抗することがどんな結果をもたらすか身をもって知ることになるのだ。」それを聞いた民は、今度は自分たちの力で約束の地に攻め上ろうとしましたが、神様がともにおられなかったので、あっけなく敵に追い払われてしまいました。彼らは、エジプトを出発してから約二年間、荒野の旅を続けてきて、やっと約束の地を目前にする所まで来たのに、神様を信頼しなかったために、さらに約三十八年間も荒野でさまようことになってしまったのです。しかも、約束の地に入ることができるのは、彼らの子どもたちの世代になってからだというのですね。
神様は、彼らに厳しい宣告を下されましたが、その一方で、将来の希望も示してくださいました。15章で「わたしがあなたがたに与えて住ませる地にあなたがたが入ったらこうしなさい」と言って、神様に受け入れられる聖なる者となるためのいくつかの戒めをお与えになったのです。神様を礼拝するときのいけにえのささげ方、誤って罪を犯した場合のいけにえのささげ方、また、故意に罪を犯した場合は自らに死ををもたらす結果になることを改めて教え、また、着物のすその四隅にふさを作り、そのふさに青いひもをつけ、いつもそれを見て主の命令を思い起こすように、とお命じになったのです。
さて、イスラエルの民は、カデシュ・バルネアから向きを変えて荒野の旅に戻っていきました。16章から19章には、約38年間の荒野での生活の間に起こった一つの大きな出来事が記録されています。
16章1節-2節にこう書かれています。「レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。」不満分子による反乱が起こったのです。
1 反乱を起こした者たち
反乱の中心となったのは、二つのグループでした。一つは、コラが率いるレビ部族です。レビ部族は、ゲルション族、ケハテ族、メラリ族の三つに分かれていましたが、コラは、モーセやアロンと同じケハテ族出身です。以前お話ししたように、レビ部族は、祭司を補佐して幕屋に関する仕事をするために神様が特別に取り分けられた部族です。その中でも、ケハテ族は、移動式の幕屋の聖所の中にある契約の箱や調度品や器具などの最も聖なるものを運ぶ大切な役割が与えられていました。宿営地を出発するとき、まず、祭司であるアロンの子エルアザルが聖所や至聖所の中にある品々に覆いをかけます。その後で、エルアザルの指示に従って、ケハテ族が幕屋の中に入り、聖なる品々を肩に担いで運び出すのです。しかし、次の宿営地に到着し、幕屋が設営され、ケハテ族が聖なる品々を運び入れ終わると、その後は、彼らは自由に聖所の中に入ったり、聖なる用具に触れることはできませんでした。それができたのは、大祭司アロンとその子孫だけです。また、レビ部族は、民が納めたすべての収穫物や家畜の十分の一を受け取ることができましたが、その中の十分の一を祭司に納めなければなりませんでした。つまり、彼らは、常に祭司の補助役、祭司に仕える者という役割に甘んじなければならなかったのです。もちろん、レビ部族の中には、神様に与えられた役割を喜んで行っている人も大勢いたでしょう。しかし、コラは、次第に納得がいかなくなってきたのです。どうして、アロンとその子孫だけが特別に祭司に選ばれて自分たちに指図をしているのか、彼らが幕屋の働きを独占して特別待遇をうけているのはおかしいではないか、と思い始めたのです。
反乱の中心となったもう一つの部族はルベン部族です。ルベンは、ヤコブの十二人の息子の長男です。本来なら、ルベン部族こそイスラエルの長子の部族として民を率いるようになってもいいはずでした。しかし、ルベンは父ヤコブのそばめビルハと姦淫の罪を犯したため、長子の権利を失ってしまったのです。とはいっても、ルベンが長男であることに違いはありません。そこで、ルベン部族のダタン、アビラム、オンが不満を言い始めました。「どうして弟分のレビ部族から出たモーセとアロンがすべてを支配しているのだ、ルベン部族の我々がリーダーとなってもおかしくないはずなのに」というわけです。また、「モーセとアロンが我々を約束の地に導き入れることができなかったために、こんなふうに荒野をさまようことになってしまったではないか」という理不尽な不満も募らせていました。そこで、彼らはコラと共謀して二百五十人のリーダーたちを扇動し、モーセとアロンに刃向かったのです。この二百五十人の多くはレビ族だったようです。
2 告発の内容
彼らはこう告発しました。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」
「全会衆残らず聖なるもの」、つまり、神様のものであるというのは、その通りですね。しかし、「なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか」と言われても、モーセとアロンは「主が私たちを選ばれたからです」と答えるしかありませんね。特に、モーセは「こんなわがままな民を導くことは私には荷が重すぎます」と何度も主に訴えたぐらいですから、自分から望んで指導者になっているわけではありません。
もし、モーセやアロンが傲慢になって自分の地位や権力を濫用していたなら、批判されても仕方がありません。世の中にも、教会の中でさえも、地位や権力を濫用して思い通りに支配しようとする姿がよく見られますよね。しかし、12章3節に「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」と書かれています。それに、神様と直接語り合っているモーセは、神様に逆らい傲慢に振る舞うことがどれほど危険なことかをよく知っていました。アロンも、以前に姉ミリヤムとともにモーセを批判したことがありましたが、その時に神様からの厳しい叱責を受けましたから、神様に謙虚に従うことの大切さを思い知っていたでしょう。ですから、この二人が批判を受けるような態度をとっていたとは考えられません。
結局、この二人を批判する方の側に問題があったわけですね。コラやダタンたちの言い分は、「みんなが神様に選ばれたのだから、みんな同じような待遇を受けるべきだ。役割や権限に差があるのはおかしいではないか」というものです。教会の中でも同じような不満が出ることがありますね。しかし、聖書はどう教えているでしょうか。第一コリント12章14節、18節にはこうあります。「からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。・・・神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。」また、エペソ4章11節ー16節にはこうあります。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。・・・キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」つまり、皆、神様に選ばれた聖なる民だけれど、神様は一人一人に違う役割や働きをお与えになっているのです。コラには祭司を補佐する役割が与えられていました。ルベン部族は荒野の旅で民を守る任務を与えられていました。それぞれが神様に与えられた役割を感謝し、喜んで行っていくときに神の家が建てあげられ、成長していくのですね。ところが、コラやダタンたちは、「私は手や足では嫌だ。頭になりたい」と文句を言ったわけです。自分が偉くなって支配したいという欲望があったのですね。ローマ12章3節ー8節では、こう戒められています。「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。・・・兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」
3 神様のさばき
さて、モーセは彼らから批判を受けると、ひれ伏しました。神様に訴え、指示を仰いだのですね。そして、モーセは神様の言葉を彼らに伝えました。「あしたの朝、主は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ。」そして、コラとその仲間に言いました。「あす、アロンとともに主の前でおのおの火皿を取り、その中に火を入れ、香を盛りなさい。主がお選びになるその人が聖なるものである。レビの子たちよ。あなたがたが分を越えているのだ。」さらにこう批判しました。「神様が幕屋の奉仕をするためにあなたがたを選び、みもとに近づけてくださったのに、不足があるのか。さらに、祭司の職まで要求するのか。アロンは神様に選ばれたから祭司の役割を果たしているだけなのに、なぜ彼に対して不平を言うのか。それは、神様に不平を言うのと同じだ。」
また、モーセはルベン族のダタンとアビラムに使いをやって呼び寄せようとしましたが、彼らはこう言い送ってきました。「あなたは私たちを乳と蜜の流れるエジプトから連れ出して荒野で死なせようとしているのに、まだ私たちを不当に支配しようと君臨している。乳と蜜の流れるカナンの地を私たちに与える約束が実現できないのに、いつまで皆をだまそうとしているのだ。私たちはもうついていかない。」カナンの地に入れなかったのは、自分たちが神様に逆らったからなのに、全部モーセの責任であるかのように批判したのです。さすがのモーセも激しく怒りました。今度ばかりは「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。彼らの祈りや願いを聞かないでください」と神様に訴えました。彼らのためにこれまで大変な苦労をし、彼らのために神様に必死でとりなしの祈りをしてきたのに、それがまったく認められていないのですから。
さて、次の朝、会見の天幕の前にモーセとアロン、コラとその仲間たちが集まりました。コラは、全会衆をそこに集めてモーセとアロンに逆らわせようとしました。そのとき、突然、主の栄光が現れ、モーセとアロンに告げました。「この会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまうから。」しかし、ふたりはひれ伏して言いました。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」すると主は、モーセに「全会衆に、コラとダタンとアビラムの天幕から離れるようにと言え」とお命じになりました。
モーセは長老たちを従えてダタンとアビラムの所に行き、人々に「この悪者どもの天幕から離れなさい。あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから」と命じました。人々が離れ去り、ダタンとアビラムが家族と共に自分たちの天幕の入り口に立ったとき、モーセは宣言しました。「もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の会う運命に彼らも会えば、私を遣わされたのは主ではない。しかし、もし主がこれまでにないことを行われて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみに下るなら、あなたがたは、これらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」(16章29節ー30節)そして、続けてこう書かれています。「モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。」
一方、幕屋の前で火皿に香を焚いた者たちについては、35節にこう書かれています。「主のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした。」主はアロンの子エルアザルに「死んだ者たちの青銅の火皿を集めて打ち伸ばし、祭壇の被金とし、イスラエル人のための記念とせよ」とお命じになりました。今後、アロンの子孫でない者が祭司になろうとして災いを招くことがないようにするためです。
ところで、ここでは「コラに属するすべての者」が地にのみ込まれたと書かれていますが、それはさばきの大きさを表す誇張表現で、コラ族全員が滅ぼされたわけではありませんでした。民数記26章11節には、この事件に関して「しかしコラの子たちは死ななかった」と書かれています。コラの子たちは、後に、主の宮で門衛や歌うたいの働きをしました。詩篇には「コラの子たちのマスキール」と表題がついている詩篇がいくつもあります。マスキールとは「教示する歌」「教える歌」という意味があるようです。例えば42篇「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」、46篇「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも」などは有名ですね。コラの子たちは、神殿で民を教え、励ます働きをするようになったのです。
4 つぶやく民
さて、これで反乱は収まったかというと、そうではありませんでした。今度は、全会衆がモーセとアロンに対して「あなたがたは主の民を殺した」と詰め寄ったのです。とんでもない言いがかりですね。会衆は、今回の出来事から何も学んでいなかったのです。その時、会見の天幕を雲がおおい、主の栄光が現れました。そして、主はモーセに「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしがこの者どもを絶ち滅ぼすから」と言われたのです。そして、すぐに神罰が始まり、民が次々に死んでいきました。モーセはアロンに命じました。「急いで火皿に祭壇の火を入れ、香を盛り、会衆のところに持って行って、かれらの贖いをしなさい。」アロンが火皿を持って会衆の真ん中に走って行って香を焚いたとき、神罰はやみましたが、一万四千七百人が死んでしまったのです。
5 アロンの杖
今回のようなことが二度と起こらないように、神様は17章でこうお命じになりました。「各部族の族長は自分の名前を書き記した杖を持って来なさい。レビ部族の杖にはアロンの名を書き記しなさい。」そして、こう言われました。「あなたはそれらを、会見の天幕の中のわたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」モーセが杖を集めて、契約の箱の前に置くと、翌日、アロンの杖だけがつぼみをだし、花を付け、アーモンドの実を結んでいました。モーセはすべての杖を会衆の前に持って来て見せました。神様はモーセにこう命じられました。「アロンの杖を契約の箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」
アロンの杖を見た会衆は、納得して落ち着いたでしょうか。いいえ、彼らは、こんどは恐れて言いました。「ああ、私たちは死んでしまう。私たちは滅びる。みな滅びる。主の幕屋にあえて近づく者はだれでも死ななければならないとは。ああ、私たちはみな、死に絶えなければならないのか。」しかし、神様は最初から、民がむやみに神様に近づいて死ぬことがないように祭司制度を定めてくださったのですよね。そこで、神様は、18章ー19章であらためて、祭司とレビ人の職務や報酬について、また、汚れた者が主の幕屋を汚すことがないようにするためのきよめの方法について、お語りになりました。祭司は、罪ある者、汚れた者がむやみに幕屋に近づいて死ぬことがないように、民に代わって主に対する務めを果たす役割があり、いけにえをささげて民の罪を贖い、罪の赦しを祈り、とりなしをし、神様と民の間の仲介者となるために選ばれました。神様はアロンに「わたしはあなたがたの祭司職を賜物の奉仕として与える」と言われました。そして、レビ人も幕屋での奉仕をするために、神様に選ばれたのです。彼らがいるおかげで、人々はむやみに主に近づいて死んでしまうことがないわけですね。
そして、神様は、祭司とレビ人に対する報酬を確認し、相続地についても言及なさいました。将来、約束の地に入ると、各部族に相続地が割り当てられます。しかし、祭司を含むレビ族には相続地は与えられません。主は18章20節でこう言われました。「あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。」神様が選ばれたのだから、神様のほうで最後の最後まで責任を持ってくださるというわけですね。神様の言われたとおり、約束の地に入ってから、レビ族は各部族の相続地の中の町々を与えられて、分散して住むようになります。
さて、神様は、レビ部族に「わたしがあなたの相続地である」と言われましたが、後に、国が滅びてイスラエルの民が各地に散らされてしまったとき、人々は「主こそ私の受ける分です」と告白しました。哀歌3章22節には「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む」とあります。「すべてを失ってしまったけれど、私たちには神様がおられる。神様から日々の恵みと養いを受けることができるのだ」と告白したのです。また、新約聖書には、「キリストを信じる人々は、聖なる者、神の祭司とされ、御国を受け継ぐ者、決して朽ちることのない天の資産を受け継ぐ者とされている」と書かれています。私たちは、神様に選ばれた祭司として大胆に神様に近づき、「主よ。あなたこそ私の受ける分です」と告白することができるのですね。
次回は、イスラエルの民が四十年の荒野の旅の最後に、再びカデシュ・バルネヤに戻り、そこからいよいよ約束の地に上っていく様子を見ていくことにしましょう。