城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二四年九月一五日              関根弘興牧師
                  エズラ記五章一節〜二節
  帰還からマラキ書まで2
     「再開」
 
 1 さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。2 そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。(新改訳聖書第三版)
 
 イスラエルは最初は一つの王国でしたが、ソロモン王の後、北と南に分裂ました。北イスラエル王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、その約百数十年後、南ユダ王国はバビロニヤ帝国に滅ぼされ、エルサレムの町や神殿は破壊され、多くの人々がバビロンに連れて行かれてしまいました。しかし、神様は預言者エレミヤを通して「七十年経ったら、あなたがたを帰らせ、あなたがたの繁栄をもとどおりにする」と約束してくださったのです。それがどのように実現するのか、人々はまったく見当もつかなかったでしょう。
 しかし、紀元前五三八年に、強大な権力を誇っていたバビロニヤが一夜にしてペルシヤに滅ぼされ、ペルシヤのクロス王が覇権を握りました。クロス王は、支配下にある各民族の習慣や宗教を尊重することで忠誠心を持たせようとする政策をとりました。そこで、バビロンに捕囚となっていた各民族をそれぞれの故国に帰し、宗教の自由を保障する命令を出したのです。南ユダからバビロンに捕らえられて来ていたユダヤ人に対しては「エルサレムに帰って、神殿を再建せよ」と命じ、必要な援助を与えました。神様は、クロス王の心を動かして、エレミヤが語った約束を実現させてくださったのです。
 神様によって心を奮い立たされた人々は、ダビデ王の子孫であるゼルバベルと大祭司ヨシュアをリーダーにして故国に帰還しました。そして、まず祭壇を築いて礼拝をささげ、神殿再建工事を始めたのです。神殿の礎が据えられたとき、人々は集まって賛美し、喜びの声を上げ、涙しました。
 神様の約束が実現したのだから、これから工事は順調に進むだろうと誰もが期待したことでしょう。しかし、そうではありませんでした。その地に住んでいたサマリヤ人たちが執拗な妨害工作を仕掛けてきたのです。サマリヤ人は、以前、北イスラエル王国のあったサマリヤ地方に住んでいる人々です。アッシリヤに滅ぼされたあと、様々な民族が移住してきた結果、民族としての純粋さも宗教的な純粋さも失っていました。聖書の神様だけでなく様々な異教の神々も拝んでいたわけですね。そこに突然、南ユダの人々がバビロンから戻って来て神殿を建て始めたわけですから、サマリヤ人たちは脅威を感じたでしょう。最初は自分たちの仲間に取り込んでしまおうと考えたのか「私たちもあなたがたと同じ神様を拝んでいるから、一緒に神殿を建てさせて欲しい」と申し出ました。しかし、ゼルバベルたちは、その申し出をきっぱりと断りました。もしサマリヤ人たちの協力を受け入れたら、神殿に異教の神々が持ち込まれ、純粋な信仰が失われてしまう危険があったからです。すると、サマリヤ人たちは態度を一変し、今度は何としても神殿を建てさせまいとして、工事をしている人々の気力を失わせるために脅しをかけたり、役人を買収して神殿再建計画に反対させたりしました。そのため、工事は約十六年間も中断することになってしまったのです。ここまでが前回の内容でしたね。
 工事が中断してから、人々の神殿再建の熱意は徐々に失われていきました。様々な妨害を受けただけでなく、生活の不安もありました。旱魃によって食糧の不足にも苦しんだようです。ですから、人々は、まず今の自分の生活を何とかしなければならない、もう少し生活が落ち着くまでは神殿工事が中断したままでもしかたがない、と考えるようになったのです。
 でも、そのような彼らの姿を誰が責められるでしょう。彼らは、クロス王の布告によって勇気を持って立ち上がり、故国に帰還しました。神様が約束通りに繁栄を回復してくださるだろう、これからはすべて順調だろう、と期待していたはずです。しかし、数々の妨害や困難な生活の中で失望し、当初の志も熱意もしだいに冷めていってしまったのです。同じ立場なら、私たちもそうなったかもしれませんね。
 自分の期待通りに行かないとき、「私には理解できないけど、神様の約束を信頼じて生きていこう」というふうに考えて進んで行けたら幸いですね。しかし、私たちは弱いですから、時には「神様を信じていても何の益にもならない。信じていても無駄だ」と思って神様から心が離れたり、投げやりになったり、無関心になってしまうこともあるかもしれません。
 でも、そんな状態になったとしても、神様は決して私たちを見捨てず、私たちに呼びかけ、励まし、立ち上がらせ、導いてくださるのです。礼拝の説教を通して、聖書の言葉を通して、時には、仲間の言葉やまわりの状況を通して語りかけてくださるのですね。ですから、ともに神様を礼拝し、聖書の言葉を聞き、互いに助け合い続けていくことが大切なのです。
 神殿再建工事に熱意を失っていた人々に対しても、神様は二人の預言者を遣わして励ましてくださいました。一人はハガイ、そして、もう一人はゼカリヤという預言者です。それぞれの預言がハガイ書とゼカリヤ書に記録されています。
 
1 預言者ハガイ
 
 ハガイ書は二章しかない短い書で、ダリヨス王第二年(紀元前五二〇年)の第六の月から第九の月の四ヶ月間の預言が記されているだけです。ハガイがどんな人物なのかはほとんど知られていませんが、長い間預言活動をしてきて、神殿再建当時には高齢になっていたのではないかと考える人もいます。ハガイの預言は、神殿再建の熱意を失っていた人々の心を大いに鼓舞するものになりました。どんな預言だったでしょうか。
 
(1)現状をよく考えよ
 
 ダリヨス王の第二年の第六の月の一日にハガイは神殿再建の熱意を失っている人々に対してこう呼びかけました。「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。あなたがたの現状をよく考えよ。」そして、人々の現状をこう指摘しました。「あなたがたは、神殿再建よりも自分たちの生活のことだけを優先しているが、その結果、生活はいっこうに良くならず、かえって飢饉で苦しんでいるではないか。あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、たべたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。」神様を無視して自分の生活を優先しても、決して満たされることはないというのですね。もちろん、自分を優先し大切にする生き方は決して悪いわけではありません。しかし、人は、神様を無視し、自分の力や知恵だけで頑張っても満足する生き方はできないのですね。
 マタイの福音書6章33節でイエス・キリストは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのもの(必要なもの)はすべて与えられます」と言われました。「神の国を求める」とは、神様の愛と真実による支配の中で生きるということです。また、「神の義を求める」とは、神様との正しい関係を持って生きるということです。つまり、救い主イエス様の十字架と復活によって罪のない者と認められ、新しいいのちに生かされていることを感謝しながら、神様との親しい関係の中で生きることなのです。つまり、どんなときにもときにはあえて神様を賛美、礼拝し続けていくとき、そこに、主がいてくださることを知り、充足感を得ることができるのです。
 ですから、神様はハガイを通してこう言われました。「宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう。」そして、「わたしは、あなたがたとともにいる」と励ましてくださったのです。 
 ハガイ1章14節にはこう書かれています。「主は、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった。」ハガイの預言に励まされた人々は長い間中断していた工事を第六の月の二十四日に再開したのです。
 
(2)先のものよりまさる栄光
 
 工事再開からひと月ほど経過した第七の月の二十一日に、ハガイは再び預言をしました。その日は、仮庵の祭りの最終日で、人々はエルサレムに集まってお祭り気分になっていたことでしょう。神殿の工事の進み具合を見学した人たちもいたでしょう。しかし、工事はあまり進んでいないし、規模も期待したほど大きくありません。破壊される前のソロモン王が建てた神殿を知っている高齢者の中には「ソロモンのあの神殿に比べたら、なんとちゃちな建物なんだ。こんなみすぼらしい神殿なら建てないほうがいいのではないか」というような批判や不平も出て来たようです。しかし、神様はハガイを通してこう約束してくださったのです。「この神殿は、ソロモンの神殿に比べたら、無いに等しいように見えるかもしれない。しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。私の霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。わたしはこの宮を栄光で満たす。この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。わたしはまた、この所に平和を与える。 」どんなに豪華な神殿よりも、主の栄光が満たされた神殿のほうが優れているというのですね。大きな励ましではありませんか。
 ところで、以前にもお話ししましたが、聖書の預言の多くには重複した意味が含まれています。神様は「わたしはこの宮を栄光で満たす。この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう」と言われましたが、それは、ゼルバベルたちの再建する神殿のことでもありましたが、それが本当の意味で実現するのはイエス・キリストが来られてからになります。
 ゼルバベルたちが再建した神殿は、数百年のちの新約聖書の時代には、ヘロデ王によって何十年にもわたって修復工事がなされた結果、豊富な金と白く輝く大理石が遠くまで光を放つ絢爛豪華なものになっていました。しかし、その中では、祭司たちや商売人たちが私腹を肥やし、真実の礼拝の姿が失われていました。金と大理石の輝きはあっても、主の栄光の輝きを見ることはできなかったのです。その神殿の様子を見たイエス様は憤りを覚え、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」と言われました。これは、イエス様が後に十字架にかかり、死んで三日目によみがえることを意味していました。つまり、よみがえられたイエス様こそ神様の栄光に満ちた、まことの神殿なる方だということなのです。そして、第一コリント3章16節で、パウロはイエス・キリストを信じる人々に対してこう書いています。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」イエス様を信じる私たちの内には聖霊が宿ってくださっているので、今では私たちが神殿とされているというのですね。「生ける神の神殿にしては、みすぼらしくてちゃっちいな」という声が聞こえてきそうですね。でも、どんなに人が冷やかそうが、あざけろうが、神様は「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう」と約束してくださっているのです。私たちが主を礼拝していくとき、主は私たちのうちに栄光をあらわしてくださるというのですね。
 ハガイは「見かけは関係ない。そこにまことの礼拝があれば主が栄光を現してくださる」と預言したのです。
 
2 預言者ゼカリヤ
 
 もう一人の預言者ゼカリヤは、神殿工事再開の二ヶ月後から預言を始め、約二年間にわたって人々を励ましました。ゼカリヤ書には、同時代の人々へのメッセージの他に、将来来られる救い主についての預言、また、終末に起こる出来事についての預言が記されています。
 その中に、特にゼルバベルたちにとって大きな励ましになったのではないかと思われる言葉があります。
 
(1)「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」
 
 4章6節に、こう書かれています。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。」
 自分の目的を実現させるために権力が欲しいと願う人はたくさんいます。権力を握って上から指示をすれば人々を従わせることができるし、不満を持つ人がいても権力によって黙らせることができるからです。ですから、この世の支配者は、何とかして絶大な権力を握ろうとするのです。
 ゼルバベルも「もし自分にもっと大きな権力があれば、神殿再建がスムーズにできるだろうに」と思ったかもしれません。しかし神様は、ゼルバベルに「わたしの宮は、人間の権力によって建てるのではない」と言われたのです。
 また、ゼルバベルは「神殿再建がうまく進まないのは、自分の能力が足りないからではないか」と悩んでいたかもしれません。しかし、神様は「わたしの宮は、人間の能力によって建てるのではない」とも言われたのです。
 といっても、実際に神殿を建てるためには、設計したり、土木工事をしたり、石を切り出したり、彫刻をしたりする人の能力は必要ですね。だから、神様は一人一人に様々な能力を与えてくださっています。しかし、神様は「あなたがたにどんな能力があったとしても、その能力をわたしが用いるのでなければ良い働きはできない」と言われるのです。
 どんなに高いギターでも、弾き手によっては残念な音しか出せませんね。逆に安いギターでも、上手な弾き手ならそのギターの良さを最大限に引き出すことができます。大切なのは弾き手なのです。ですから「私には何の能力もない」とか、「もっと能力があれば大きな働きができるのに」と考えなくてもいいのです。神様が必要なときにそれぞれの能力をちゃんとひきあげて事を行ってくださるからです。
 神殿の工事は敵の妨害にあって中断していました。しかし、その敵の行動や思いも神様は支配しておられます。もし工事が順調に進んでいたら、ゼルバベルたちは「自分たちの能力によって神殿を建てることができた」と勘違いしてしまったかもしれません。神様は、工事を中断させることによって、神殿が人の権力や能力によって建てられるのではなく、ただ神様のみわざによって建てられるのだということを学ばせようとなさったのではないでしょうか。
 聖書の中には、人間が自分の力の限界を自覚したときに神様がすばらしいみわざを現してくださったという出来事がたくさん記されています。物事が順調に進むと、人はすぐに高慢になって自分の力を誇り、神様なしでもやっていけると勘違いしてしまいがちです。だからこそ、自分の限界を思い知る経験をすることが私たちにとって、とても大切なのですね。
 そして、私たちが自分の限界を自覚したとき、神様は「あなたの権力や能力によってではなく、わたしの霊によって成し遂げる」と言ってくださるのです。神様は目に見えない、霊なるお方です。それは、いつでもどこにでも存在することができる方だということですね。また、神様は、天地万物を創造し、すべての権力と能力の源なる方です。その神様が神殿再建を成し遂げると保証してくださったのですから、これほど確かなことはないですね。ゼルバベルたちは、この預言を聞いてどんなに励まされたことでしょうか。
 先ほど、私たち一人一人が生ける神の神殿とされているとお話ししましたが、それも、私たちの権力や能力とは関係なく、神御自身のみわざによるのです。私たちはそれぞれどこかでイエス様の福音を聞き、イエス様を信じる決心をし、永遠のいのちが与えられ、神の子供、神様が宿る神殿とされましたが、そのすべての背後には神様の聖霊の働きがあったのです。ですから「自分の権力や能力によって今の私があるのだ」と誇れる人はだれもいないのですね。
 
(2)「大いなる山よ。ゼルバベルの前で平地となれ」
 
 それから、4章7節にはこう書かれています。「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」すばらしい言葉でありませんか。神殿を再建しようとしていたゼルバベルたちの前に、反対や妨害の大きな山がそびえていました。しかし、神様は、その大いなる山に向かって「平地となれ」と命じておられるのです。
 
(3)「ゼルバベルの手が、それを完成する」
 
 続けて、9節で神様はこう約束してくださいました。「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。」
 人々は神殿工事がなかなか進まないので、ゼルバベルの指導者としての資質に疑問を持っていたかもしれません。「いつか、もっと優れた権力者、特別な能力を持った人物が登場すれば、神殿再建も可能だろう」と思っていたかもしれません。
 しかし、神様は、もっと後の時代ではなく、今の指導者ゼルバベルのもとで神殿は完成するのだ。だから、奮い立って工事に取りかかれ、と励まされたのです。ゼルバベル自身も自信を失っていたかもしれませんが、この神様の言葉で大いに力づけられたことでしょう。
 
 こうして、失望、無関心、あきらめの中にあった人々は、ハガイとゼカリヤの預言に励まされて神殿工事を再開しました。
 私たちも自分の力では動かせない山に阻まれることがあります。自分に権力や能力がないことに失望することもあるでしょう。しかし、私たちの人生も、教会も、神様の霊によって建て上げられていくのです。ですから、私たちは「恵みあれ、恵みあれ」と賛美しながら礼拝を続けていこうではありませんか。