城山キリスト教会 礼拝説教
二〇二四年一一月一七日 関根弘興牧師
ネヘミヤ八章一節〜一二節
帰還からマラキ書まで6
「改革」
1 民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。2 そこで、第七の月の一日目に祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持って来て、3 水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。4 学者エズラは、このために作られた木の台の上に立った。彼のそばには、右手にマティテヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが立ち、左手にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカリヤ、メシュラムが立った。5 エズラはすべての民の面前で、その書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。6 エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、「アーメン、アーメン」と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。7 ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバデ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。8 彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。9 総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。「きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。10 さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」11 レビ人たちも、民全部を静めながら言った。「静まりなさい。きょうは神聖な日だから。悲しんではならない。」12 こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。(新改訳聖書第三版)
前回は、ネヘミヤ記の前半を読みました。
以前、南ユダ王国がバビロニヤ帝国に滅ぼされたとき、エルサレムの町も神殿も城壁も破壊され、住民の多くがバビロンに捕らえ移されましたが、ペルシヤ帝国の時代になると、ペルシヤの王は故国への帰還と宗教的自由を認めるおふれを出しました。そこで、まずゼルバベルたちがエルサレムに帰って神殿を再建し、次ぎに律法学者エズラがエルサレムに行って律法の教育や信仰の回復に取り組みました。しかし、その十数年後、ペルシヤのアルタシャスタ王の献酌官であったネヘミヤは、エルサレムの城壁が依然として破壊されたままで、住民は敵にそしられながら苦しい生活を送っているという報告を聞いたのです。そこで、ネヘミヤは熱心に祈り始めました。そして、三ヶ月後、王の許可を得て自分自身がエルサレムに行き、城壁の再建工事に取りかかったのです。敵の執拗な妨害工作や内部の様々な問題がありましたが、ネヘミヤは断固として工事を進めました。その結果、遂に城壁が完成したのです。ペルシヤ帝国の支配下にあることには変わりありませんが、着々と祖国復興が進められていったわけです。前回は、そこまで読みましたね。
今日は、ネヘミヤ書後半に書かれている城壁完成後の出来事を見ていきましょう。
1 律法の朗読
城壁はエルルの月、つまり、第六の月の二十五日に完成しました。その約一週間後の第七の月の一日はユダヤ暦では新年の初めの日に当たります。民は水の門の前の広場に集まってきました。そして、祭司であり律法学者でもあるエズラにモーセの律法の書を朗読してくれるように願ったのです。律法の書とは、旧約聖書の最初の五つの書、創世記から申命記までのことです。その中には、天地万物を造られた恵み深い神様がおられること、その神様に背いて罪と死に支配されるようになった人間の罪のこと、また、その人間を救おうとして神様がアブラハムとその子孫イスラエル民族を選び、エジプトの奴隷状態から救い出し、荒野で養い守り、シナイ山で律法を与え、約束の地にまで導いてくださったこと、それなのに民が何度も神様に逆らって窮地に陥ったこと、それでも神様が見捨てずにあわれみをかけてくださったことなどが記されています。エズラと律法を教える役目を担うレビ人たちは、夜明けから真昼まで律法を朗読し、解き明かしました。8節には「彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した」とあります。また9節には「民が律法のことばを聞いた時に、みな泣いていた」と書かれています。彼らは、律法の書の朗読を聞いているうちに、神様に逆らってばかりいた先祖たちの姿と自分たちの現状を重ね合わせて、心を刺されたのでしょう。
しかし、エズラやネヘミヤたちは、民に向かってこう呼びかけました。「きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」ネヘミヤはさらにこう言いました。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」この「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ」という言葉は、口語訳聖書では「主を喜ぶことはあなたがたの力です」、新改訳2017では「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ」と訳されています。これは、とても有名な言葉です。皆さんもぜひ覚えてください。自分の罪や弱さを認め、悲しみ嘆くことは大切ですが、そこに留まるのではなく、そんな自分をさえ愛し、赦し、祝福してくださる主がおられることを喜ぶことが大切なのです。ネヘミヤは「あなたがたは主に背いたために多くの困難を味わってきた。しかし、主がこの地に帰らせ、神殿と城壁を再建させてくださったではないか。その主が今私たちと共にいてくださる。これ以上頼りがいのある支えはないではないか。だから、主を喜び礼拝しよう。それが私たちの力となるのだから」と語ったのです。人は誰でも力を求めますが、本当の力は、主が共にいてくださることを喜び、礼拝することから生まれてくるのです。
2 仮庵の祭りと盟約
さて、二日目に、民の指導者、祭司、レビ人たちがエズラのもとに集まって律法の内容を詳しく調べました。
すると、第七の月の十五日から仮庵の祭りを行うべきこと、また、その祭りの間は仮庵に住まなければならないと書かれているのを見つけました。これは、先祖が四十年間荒野の旅をしている間、神様が食べ物と水を与えて養い、守り導いてくださったことを覚えて感謝をささげる祭りです。そこで「山で木の枝を取ってきて仮庵を作りなさい」という命令が出され、一週間の祭りが行われました。皆、祭りの間は仮庵に住み、毎日、律法の書が朗読され、八日目にはきよめの集会が行われました。長い間途絶えていた祭りが再開されたのです。「それは非常に大きな喜びであった」と書かれています。
その祭りが終わって二日後、こんどは、人々は、断食し、荒布をかぶって集まってきました。そして、罪を告白し、律法の書を朗読し、主を礼拝しました。また、9章6節ー37節に記されている長い祈りが捧げられました。「神様がアブラハムとその子孫を選び、祝福を約束し、様々な救いのみわざを行ってくださったのに、先祖たちは反抗を繰り返しました。それでも、あなたはあわれみ深く、彼らを見捨てず、彼らが叫び求めると救ってくだいました。あなたはいつも誠実なのに、私たちは悪を行いました。だから、いま他国の奴隷となり苦しんでいます」と祈ったのです。
それから、9章38節にこう書かれています。「これらすべてのことのゆえに、私たちは堅い盟約を結び、それを書き記した。そして、私たちのつかさたち、レビ人たち、祭司たちはそれに印を押した。」つまり、「神様、あなたとの契約をきちんと守ります」と押印をして誓ったのです。10章には印を押した人々のリストと盟約の内容が書かれています。盟約の内容をまとめると、10章29節にあるように「神のしもべモーセを通して与えられた神の律法に従って歩み、主のすべての命令、その定めとおきてを守り行う」という誓いなのですが、具体的な七つの項目が10章30節-38節に記されています。
@雑婚の禁止。異邦人と縁を結ぶことで異教が持ち込まれ、まことの神様から心が離れてしまうことを防ぐためです。
A安息日の厳守。安息日は、休息をとり、すべての創造主である神様の恵みに感謝する日です。しかし、当時は安息日が軽視され、仕事や商売が普通に行われていました。そこで、改めて安息日を守ることを誓ったのです。
B安息年の厳守。律法の書の中に七年ごとに土地を休ませ、また、すべての負債を免除して弱い者たちが再起できるようにする規定がありました。それもおざなりになっていたので、改めて遵守することを誓ったのです。
C神殿税を納める。神殿の礼拝に必要ないけにえやささげ物を用意するために毎年三分の一シェケルをささげるとういうものです。モーセの律法では二分の一シェケルと規定されていますが、民の実情に合わせた金額にしたのでしょう。
D祭壇で燃やすたきぎのささげ物を父祖の家毎に交替で用意する。
E初物と初子をささげる。穀物の初物と動物の初子は神殿に納め、また、人間の初子の代わりには金銭を納める規定です。
F十分の一をささげる。神殿で奉仕する人たちも受けた物の中から主にささげていくという誓いでした。
3 奉献式
それから、12章27節からは、城壁の奉献式の様子が記されています。中心は「賛美」でした。二つの大きな聖歌隊が編成され、ラッパや竪琴などの楽器とともに賛美しながら一組は右方向に、もう一組は左方向に城壁の上を行進し、神殿で合流しました。12章43節にはこう書かれています。「こうして、彼らはその日、数多くのいけにえをささげて喜び歌った。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜び歌ったので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。」
ここでネヘミヤ書が終われば、「めでたし、めでたし」だったのですが、そういうわけにはいきませんでした。
4 改革の行方
奉献式から十数年が経過した頃です。ネヘミヤは十二年間総督としてエルサレムにいましたが、その後、しばらくペルシヤに戻っていたようです。城壁が完成し、神殿の礼拝のための体制も整い、一段落ついたと安心していたのかもしれません。
しかし、ネヘミヤ不在の間に、神殿に仕える大祭司エルヤシブがとんでもないことを行っていました。13章4節から書かれているのですが、エルヤシブは城壁の再建を妨害していたアモン人トビヤと親密な関係を持ち、神殿の一部屋をトビヤに使わせていたのです。アモン人は「アモン人は神の集会に加わってはならない」とモーセの律法に記されるほど、神様に意図的に背を向けた民でした。そのアモン人トビヤに、本来なら、神殿の奉納物を保管するための部屋をあてがっていたのです。
それだけではありません。十数年前に印まで押して約束したささげ物が次第に行われなくなっていました。人々はいつのまにか礼拝に対する感動を失い、礼拝を軽視するようになり、祭司たちも自分の利益を優先するようになっていたのです。
さらに、人々がささげ物をしなくなると、神殿で奉仕しているレビ人たちに給与が支払われなくなり、レビ人たちは神殿から逃げ出してしまったのです。
また、安息日の規定も守られていませんでした。安息日に仕事をしたり商売することが平気で行われていたのです。
安息年の規定もありましたね。七年ごとに農地を休ませたり、負債の免除をする規定です。しかし、それも実際に守られることはなかったようです。
以前、ネヘミヤが最初にエルサレムに赴任してきたばかりの頃も、同じユダヤ人仲間なのに、金持ちが貧乏な人に担保を取って金を貸し、返済できない場合は畑や家を取り上げて生活ができないようにしたり、挙げ句の果てには息子や娘を奴隷に売らせるという無慈悲な取り立てが横行していました。ネヘミヤはこの現実を見て、問題の解決のために大集会を開き、こう告げました。「あなたがたのしていることは良くない。あなたがたは、私たちの敵である異邦人のそしりを受けないために、私たちの神を恐れながら歩むべきではないか。私も、私の親類の者も、私に仕える若い者たちも、彼らに金や穀物を貸してやったが、私たちはその負債を帳消しにしよう。だから、あなたがたも、きょう、彼らの畑、ぶどう畑、オリーブ畑、家、それにまた、あなたがたが彼らに貸していた金や、穀物、新しいぶどう酒、油などの利子を彼らに返してやりなさい。」ネヘミヤは自ら率先して模範を示し、城壁の再建も大切だけれど、困難の中にいる人たちの生活の再建も大切なのだと訴えたのです。すると、人々は「アーメン」と言って、主をほめたたえ、民はこの約束を実行した、と書かれています。そして、その後、城壁完成後に印を押して盟約を結んだときにも、人々は安息年の規定を守ると約束しました。しかし、人は、何度誓ってもすぐにその誓いを破り、自分勝手なことを繰り返してしまうのですね。ネヘミヤが何度も指導したにもかかわらず、相変わらず同胞の負債を免除することなく苦しませることが横行していたのです。
また、異教の外国人との結婚に関しては、エズラもネヘミヤも厳しく戒め、人々も「異邦人と縁を結ぶことはしない」と繰り返し誓っていました。しかし、その舌の根も乾かないうちに誓いを破っていたのです。しかも、大祭司エルヤシブの孫でさえも、城壁再建を妨害したホロン人サヌバラテの娘をめとっていたのです。
ネヘミヤは、こうした一つ一つのことに激しく怒り、断固とした処置を行いました。トビヤを神殿から追い出し、神殿から逃げ出していたレビ人たちを連れ戻して給料がきちんと支払われるようにし、人々には、決められたささげ物を行うように命じ、安息日を守るように厳しく戒め、異教の外国人との結婚した者たちを懲戒処分にしました。
私たちは、エズラ記やネヘミヤ記を読むと、律法を守ることの大切さを教えられます。しかし、同時に、「必ず守ります」と熱心に誓っても、印を押して「アーメン」と連呼しても、すぐに道を逸れてしまう人々の姿が繰り返し記されているのです。
聖書が教える「罪」とは、的外れの状態、脱線している状態、神様との関係がずれている状態のことです。ずれた状態の人がいくら「戒めを守ります」と誓っても、実際にはできません。神様との関係がずれていたら、神様が願っておられるような生き方はできないのですね。
ネヘミヤもそのことを実感していたでしょう。どんなに誓わせても、厳しい処分を下しても、人はすぐ道を逸れてしまうということ、また、自分の力で人を神様に従わせることは不可能だということを思い知らされていたのではないでしょうか。ですから、最後の13章で繰り返しこう祈っています。「私の神。どうか、このことのために私を覚えていてください。私の神の宮と、その務めのためにしたいろいろな私の愛のわざを、ぬぐい去らないでください。」(14節)「私の神。どうか、このことにおいてもまた、私を覚えていてください。そして、あなたの大いなるいつくしみによって私をあわれんでください。」(22節)「私の神。どうか私を覚えて、いつくしんでください。」(31節)ネヘミヤは、人の力や努力には限界があること、神様のあわれみといつくしみがどうしても必要であることを知って、切実に祈り求めたのでしょう。
パウロは、ガラテヤ3章24節-25節で素晴らしいことを記しています。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。」神様が律法を与えてくださったのは、私たちに自分の弱さや限界を悟らせ、神様のあわれみがなければ救われないことを教え、キリスト(救い主)が必要であることをわからせるためでした。人は律法を完全に守れば、神様に義(正しい者、神様との関係が回復された者)と認められます。しかし、それができる人はだれもいません。そこで、神様は救い主を送ってくださいました。今では、イエス・キリストを信じ、受け入れるだけで、律法を守れないという罪の負債から解放され、義と認められる道が開かれたのです。
ネヘミヤが人々に守らせようとした安息年の規定を思い出してください。七年ごとにすべての負債が帳消しにされ、新しい生活を始めることができるという規定です。この規定は、実は、「私たちがキリストによって罪の負債を無条件に免除され、新しい人生を始めることができるようになる」という神様の恵みを暗示するものだったのです。それが新約の時代にイエス・キリストが来られることで実現しました。イエス様が十字架について私たちの罪の負債をすべて肩代わりしてくださったおかげで、私たちはイエス様を信じるだけで負債から解放され、新しい人生を歩むことができるようになったのです。エペソ1章7節に「この方(キリスト)にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです」とあるとおりです。
ですから、ネヘミヤ書の最後の「私の神。どうか私を覚えて、いつくしんでください」という祈りは、新約聖書の時代へと繋がる魂の叫びとも言えるでしょう。人の罪を赦し、神の前に義とされ、親しい関係の中に導くものは、人間の頑張りや努力ではなく、「主のあわれみといつくしみ」に頼るしかありません。
ですから神様はあわれみに満ちた救い主を遣わしてくださったのです。
今、イエス・キリストを信じる私たちの内には聖霊が宿ってくださり、私たちを新しいいのちによって生かし、成長させ、心から神様を喜び、神様に従って歩むことが出来る者へと変え続けてくださっています。それは、私たちの力や努力や功績によるのではなく、神様のいつくしみとあわれみのみわざなのです。そのことを覚え、新しい週も歩んでいきましょう。