城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二三年六月四日             関根弘興牧師
                第一列王記一七章一節〜九節
               
 列王記連続説教6
   「主は生きておられる」
 
 1 ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」2 それから、彼に次のような主のことばがあった。3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。4 そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」5 それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。6 幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。7 しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。8 すると、彼に次のような主のことばがあった。9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」(新改訳聖書第三版)
 
 前回は、北イスラエルの王ナダブからオムリまで、そして、南ユダの王アビヤムとアサを見ていきました。
 北イスラエルは、短期間で王朝が次々と変わりましたが、一つだけ変わらなかったことがあります。それは、どの王も神様に背を向け、自分勝手な悪の道を歩んだということです。そのため、最後は一族滅亡など悲惨な結末になってしまいました。 一方、南ユダのアビヤムとアサは、神様を信頼して歩み始めました。特に、アサは、信仰回復のために国中の偶像を取り除き、すべての民と共に主に心から従う誓いを立てました。また、敵の大軍を前に絶体絶命のとき、「主よ。力の強い者を助けるのも、力のないものを助けるのも、あなたにあっては変わりありません。私たちはあなたに拠り頼みます」と告白して大勝利を得ることができたのです。しかし、アビヤムもアサも、いつの間にか自分の知恵や力を過信して、主に拠り頼む心を失ってしまったのです。それでも、主は、先祖のダビデに免じて、ダビデの王朝を継続させてくださいました。といっても、ダビデも主に拠り頼むことを忘れて、罪を犯したり失敗してしまったことが幾度もありました。しかし、そのたびに主の前に素直に自分の弱さを認め、主の方向に向きを変え、主に信頼して歩む道に立ち返ったのです。神様が求めておられるのは、完全無欠になることではなく、自分の弱さを自覚し、道を逸れてもそのたびに神様のもとに立ち返る素直で従順な心を持って生きることなのです。
 さて、今日は、北イスラエルのアハブ王の時代の出来事を見ていきましょう。アハブの父オムリは、前回見たように、首都をサマリヤに移した手腕家でしたが、「主の目の前に悪を行い、彼以前のだれよりも悪いことをした」と書かれていましたね。その息子であるアハブについては、第一列王記30節ー33節にこう書かれています。「オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行った。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。さらに彼は、サマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前のイスラエルのすべての王たちにまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行った。」北イスラエルの初代の王ヤロブアムは、民がエルサレムに行って礼拝することを阻止するために、金の子牛を造って礼拝させました。それだけでも大きな罪ですが、アハブは、さらに、異教の神であるバアルの宮を首都サマリヤに建ててしまったというのです。アハブはシドンの王の娘イゼベルと政略結婚をしたのですが、そのイゼベルが大きな影響を与えたようです。そのように神様に大きく背いて真っ暗闇のような状態になってしまった北イスラエルに、旧約聖書を代表する預言者エリヤが登場しました。
 
1 預言者エリヤの登場
 
 エリヤは、ヨルダン川の東側のギルアデ地方にあるティシュベという町の出身です。「エリヤ」という名前は、「ヤハウェは私の神」という意味です。北イスラエルの中では、金の子牛だけでなく、異教の神々や忌むべき風習が蔓延していました。ですから、まことの神様を敬う人々は、多くが南ユダに移住してしまい、北イスラエルにはほとんどいなくなっていたのです。しかし、そんな中でもなお「ヤハウェは私の神」という名前をもった預言者が北イスラエルにいたわけですね。誰も主を求める人がいないかのように見えたこの時代に、「主は生きておられる」ことを力強く知らせる預言者を主は備えてくださったのです。今日は、第一列王記の17章に記されているエリヤの姿を見ていきましょう。
 
(1)アハブ王への宣言
 
 1節で、エリヤは神様から命じられてサマリヤのアハブ王の前に行き、大胆にこう宣言しました。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」エリヤが聖書に登場して最初に語ったのは、「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」という言葉でした。「私の信頼する神様は、死んで何もできない神ではない。今も生きて働かれる神様だ」と言ったわけです。そして、エリヤは「神様は、これから二、三年は、露も雨も降らせてくださらない」と預言しました。アハブ王は、バアルやアシェラを国中で礼拝させ、多くのバアルやアシェラの預言者たちを保護していました。バアルというのは豊穣をもたらす男の神、アシェラは女の神です。バアルやアシェラが地に雨を降らせ、豊かな作物をもたらしてくれると信じられていたのです。それに対して、エリヤは「あなたがどんなにバアルやアシェラを拝んでも無駄だ。そんな偶像には何の力もないのだ。まことの神様だけが雨を降らし、豊かな作物を与えてくださる方だということを知りなさい」という挑戦のような言葉を語ったわけですね。それを聞いたアハブ王は激怒したことでしょう。しかし、神様は不思議な方法でエリヤを守ってくださったのです。
 
(2)ケリテ川のほとり
 
 エリヤは、神様に示されてすぐにサマリヤを去り、ヨルダン川の東のケリテ川のほとりに身を隠しました。ここで神様は不思議なことを言われましたね。「わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた」というのです。「烏が養ってくれるなんてことがあるのだろうか。どこかのゴミ箱をあさって持ってくるのだろうか」と思ってしまいますよね。しかし、エリヤは神様の言葉を信頼してケリテ川に行きました。すると、数羽の烏が、朝と夕方にパンと肉を運んで来たのです。ちゃんと一日二食ですよ。神様は、時には私たちの想像をはるかに超えた方法で養ってくださるのですね。神様は烏さえ用いることがおできになります。ですから、私たちも食べ物や生活のことを過度に心配することはありませんね。
 
(3)ツァレファテのやもめ
 
 さて、干ばつが続いたので、しばらくするとケリテ川も枯れてしまいました。すると、9節で、エリヤに次のような主の言葉があったのです。「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」ツァレファテは、ツロとシドンの中間に位置する地中海沿いの町です。ケリテ川からは百キロほど離れたところです。エリヤは、この主の言葉を聴いたとき、耳を疑ったのではないかと思います。なぜなら、自分の命を狙っているアハブ王の妻イザベルがシドンの王の娘だったからです。イゼベルはバアルをイスラエルに積極的に持ち込んだ張本人でした。そのイゼベルの出身地であるシドンは、バアル礼拝の中心地だったわけです。それなのに、神様はそのシドンの町ツァレファテに行って住めと命じられたのです。しかも、「そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている」と言われたのです。烏に養われるのも不思議なことですが、やもめによって養われるというのも不思議でした。当時、やもめは、例外はあったにせよ、最も社会的に弱く貧しい存在でした。まして、干ばつで食糧難なわけですから、やもめによって養われるというのは普通では考えられないことでした。しかし、神様は、その最も弱いやもめが、旧約聖書で最も有名で力ある預言者エリヤを養うと言われたのです。
 エリヤはすでに烏に養われるという不思議な体験をしていましたから、異邦人のやもめに養ってもらうという神様の御計画も、不思議に思いながらも、すんなり受け入れることができたのかもしれません。すぐに百キロの道のりを歩いてツァレファテに向かいました。ただ、自分を養ってくれるやもめとはいったい誰のことなのか、まだわかっていなかったようです。町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいました。エリヤは、そのやもめに「水を飲ませてください」と頼みました。そのやもめが自分を好意的に受け入れてくれるかどうかを試そうとしたのかもしれませんね。すると彼女が水を取りに行こうとしたので、エリヤはさらにこう言いました。「一口のパンも持って来てください。」もしこのやもめが「なんとずうずうしい人だろう」と思って立ち去ってしまったら、神様が用意したやもめではないということになりますね。しかし、このやもめは、言いました。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」(17章12節)
 もし私がこの言葉を聞いたら「すみません。人違いでした」と言って別の人を探すのではないかと思います。しかし、エリヤは、彼女が語った最初の言葉を聞いて確信を持つことができたのではないかと思います。「あなたの神、主は生きておられます」という言葉です。これは驚くべき告白ではありませんか。彼女は、バアル礼拝の中心地であるシドンに住む異邦人でした。それなのに、エリヤを見て「あなたの神、主は生きておられます」と告白したのです。昔、神様が数々の驚くべき奇跡を行ってイスラエルの民をエジプトから脱出させ、約束の地に導き入れてくださったという出来事は、近隣の諸国にも知られていましたから、その神様に対する畏敬の念を持つ異邦人たちもたくさんいたのではないかと思われます。彼女もその一人だったのかもしれません。あるいは、ソロモン時代に多くの国々がイスラエルの支配を受けていたので、神様についてある程度知っていたのかもしれません。
 けれども、彼女が言ったとおり、家には一握りの粉とわずかな油しか残っていませんでした。彼女はそれでパンを焼いて食べたら息子とともに死のうとしていたのです。私なら「そうですか。それは大変ですね。どうぞ息子さんと最後のパンを食べてください。私は私が信じている生ける主に何とかしてくださるように祈り求めますから」と言ったかもしれません。しかし、エリヤは言いました。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」(17章13節ー14節)
 貧しいやもめのなけなしの粉とパンでまず自分のためにパンを作りなさいというなんて、エリヤはなんて自分中心なんだと思ってしまいそうですね。でも、エリヤがこう言えたのは、主が「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならない」と約束してくださったからです。やもめは、エリヤが語った主の言葉を信じ、言われたとおりに行動しました。すると、空っぽになったはずのかめとつぼの中に粉と油が満たされていたのです。シドンの人々は、干ばつの中で、バアルに必死に祈り求めていたことでしょう。しかし、ただこの貧しいやもめの家においてだけ、「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」のです。 このやもめは、「あなたの神、主は生きておられます」と告白し、主の言葉を信じて大きな意味のある応答をしました。その結果、まことに生ける主がおられ、実際の生活の中でみわざを行ってくださることを身をもって知ることができたのです。
 主は生きておられ、私たちの必要を満たしてくださる方なのですね。主は
 
(4)やもめの息子の死
 
 ところが、大きな悲劇が起こりました。このやもめの息子が病気になり、ついに息を引き取ってしまったのです。18節で 彼女はエリヤに詰め寄りました。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」こんなことなら、あの時、最後のパンを作って食べて息子と一緒に死んだ方がよかった。あなたが私たちを助けてくれたのは、もっとひどい苦しみを味わわせるためだったのですか、と訴えたのです。身近な者の死に直面すると、大きな悲しみや喪失感、そして、なぜこんなことが起こってしまったのかという不条理に直面しますね。しかも、粉と油が尽きることがないという奇跡を行ってくださった神様が、なぜ息子を死なせてしまったのか、私を罰するためなのか、いったん喜ばせておいて、どん底に突き落とすなんてひどい、というやり場のない思いをエリヤにぶつけたのでしょう。エリヤもこの息子の死の理由がわからなかったようです。しかし、自分を養ってくれていたやもめのために、できるかぎりのことをしようと思ったのでしょう。息子の遺体をやもめのふところから受け取り、屋上の自分の部屋に抱えて上がりました。抱えて上がることができたということは、その子はまだ幼かったのかもしれませんね。そして、エリヤは、その子を自分の寝台に横たえると、主に祈って言いました。「私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」そして、三度、その子の上に身を伏せて、「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください」と祈ったのです。この「三度」というのは、文字通り「三度」だったかもしれませんが、「何度も何度も」という意味にもとれる言葉です。ともかく、エリヤは、必死に繰り返し祈り求めたのです。すると、「主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った」と書かれています。エリヤは生き返った子どもを抱いて降りてきて母親に渡しました。母親は、言いました。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」(17章24節)この出来事を通しても、「主は生きておられる」と知ることができたのです。
 
2 覚えておきたいこと
 
 今日、私たちはこれらの出来事を通して三つのことを覚えておきましょう。
 
(1)主が生かし、備えてくださる
 
 今、私たちは、歴代の王の記録を読み進めていますね。ソロモンや歴代の王たちは、多くの財宝を手に入れ、国が繁栄して強くなると、皮肉なことに、「主は生きておられる」と告白しなくなってしまいました。いのちも、必要なすべてのも、神様が与えてくださったものなのに、それを忘れ、富や権力が自分を守ってくれるかのように錯覚してしまったのです。
 マタイ6章27節で、イエス様は「あなたがたのうちだれが、心配したからと言って、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」と言われましたね。いのちを与えることのできるのは神様だけです。そして、マタイ6章33節では「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と約束されています。詩篇23篇1節にも「主は私の羊飼い、私はとぼしいことがありません」とあります。また、詩篇34篇10節には「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」とあります。神様を信頼し歩んでいくなら、神様は日々必要なものを、しかも、私たちのとって益となるものを備えてくださると約束されているのです。時には、エリヤが烏や貧しいやもめに養われたような不思議なことが私たちにも起こるかもしれませんが、もし起こらなくても、毎日の生活すべてが主から与えられた奇跡だということを覚えましょう。
 
(2)主は誰でも用いることがおできになる
 
 今回、主は烏と貧しい異邦人のやもめを用いてエリヤを養ってくださいました。普通なら、烏は人の食べ物をとっていきますが、持ってくることはありません。やもめは助けられる立場です。ところが、今日の箇所では、その関係が逆転しているのです。烏ややもめに養われるというのは、プライドがあるとなかなか受け入れられませんね。「助ける人は強くて立派な人」「助けてもらうのは弱い人」というような感覚を持ってしまうからです。けれども、神様は、私たちを互いに助け合う存在として造られました。そして、神様はどんな人でも、烏でさえも、用いることがおできになるのです。大きな働きをする人もいるし、目立たない働きをする人もいますが、どれも主の目には大切な働きです。エリヤは、次回も華々しい活躍をしますが、その陰には、名も無き貧しいやもめの支えがあったのです。
 前回、アサ王は「主よ。力の強い者を助けるのも、力のないものを助けるのも、あなたにあっては変わりありません」と告白しましたが、これは戦いの時だけでなく、私たちが互いに助け合うときも同じです。主は、すべての人に助ける力をお与えになることができます。だから、自分が弱いと思っている人でも誰かを助けることができるのです。また、自分は強いと思っている人も助けてもらう必要がある時には、喜んで助けを受ければいいのです。ですから自分はこれもあれもできない、と自らを制限することは必要ないのです。私たちは、互いに助け合う中で、主が生きておられることを味わわせていただきましょう。
 
(3)主は応えてくださる
 
 主が生きておられるということは、私たちの祈りに応答してくださるということです。やもめは、息子が死んだとき主に叫びました。エリヤも必死で祈り求めました。私たちも、「主よ、どうしてですか。」「主よ、助けてください」と躊躇なく叫べばいいのです。主はその叫びを聞き、その時々にふさわしい方法で応えてくださるからです。それによって私たちは「主は生きておられる」ということを知っていくのですね。
 私たちは、エリヤと同じ神様を信じ、礼拝しています。エリヤを助けた神様は私たちも助けてくださいます。時には、助けが思いもよらないところから来ることもあるでしょう。これからどのようにして生きていこうかとため息が出るような困難なときもあるでしょう。その困難の中でも「そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない」という主の不思議なみわざを経験させていただきましょう。