城山キリスト教会 礼拝説教
二〇二三年七月一六日 関根弘興牧師
第一列王記二二章一三節〜一七節
列王記連続説教9
「アハブとヨシャパテ」
13 さて、ミカヤを呼びに行った使いの者はミカヤに告げて言った。「いいですか。お願いです。預言者たちは口をそろえて、王に対し良いことを述べています。お願いですから、あなたもみなと全く同じように語り、良いことを述べてください。」14 すると、ミカヤは答えた。「主は生きておられる。主が私に告げられることを、そのまま述べよう。」15 彼が王のもとに着くと、王は彼に言った。「ミカヤ。私たちはラモテ・ギルアデに戦いに行くべきだろうか。それとも、やめるべきだろうか。」すると、彼は王に答えた。「攻め上って勝利を得なさい。主は王の手にこれを渡されます。」16 すると、王は彼に言った。「いったい、私が何度あなたに誓わせたら、あなたは主の名によって真実だけを私に告げるようになるのか。」17 彼は答えた。「私は全イスラエルが、山々に散らされているのを見た。まるで、飼い主のいない羊の群れのように。そのとき、主は仰せられた。『彼らには主人がいない。彼らをおのおのその家に無事に帰さなければならない。』」(新改訳聖書第三版)
神様は、すべての人を救うために、まず、アブラハムの子孫であるイスラエルの民を見本としてお選びになりました。それは、旧約聖書に書かれているイスラエルの歴史を見ることによって、全世界の人々が神様に信頼して生きることの大切さを知り、また、そのために救い主が必要であることを知ることができるようになるためです。ですから、私たちも旧約聖書から多くのことを学ぶことができるのです。
今は、列王記を読み進めていますが、列王記には、ダビデとソロモンによって統一され繁栄したイスラエル王国が、ソロモンの死後に北イスラエルと南ユダに分裂し、それぞれアッシリヤ帝国とバビロニヤ帝国によって滅ぼされるまでの歴代の王の記録が記されています。また、次の歴代誌には、南ユダ王国の王たちの記録がさらに詳しく記されているので、そちらも参考にしながら、王たちの姿を学んでいるわけですね。
さて、前回は北イスラエルのアハブ王が、北方から攻めてきたアラムに対して二度も大勝利を収めた出来事を読みましたね。
最初に、アラム王のベン・ハダデが、おびただしい大軍を率いて北イスラエルの首都サマリヤを包囲し、「お前たちの金銀や妻や子どもたちをよこせ」と要求してきました。逆らっても到底勝ち目はありません。しかし、神様はアハブ王のもとに預言者を遣わし、「わたしは、アラムの大軍をあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう」と言われたのです。アハブは神様の指示に従って戦いに出て行き、大勝利を収めることができました。そして、その翌年、再びアラムが攻めてきたときも、神様は、またもや大勝利をもたらしてくださったのです。神様は、この二回の奇跡的な勝利を通して、御自分こそすべてを支配する生ける主であることを示してくださったわけですね。ですから、アハブは、その神様を信頼し、神様に従って謙遜に生きることを求められていたわけです。ところが、アハブは、二度の大勝利が自分の手柄であると言わんばかりに、神様を無視してアラムの王と契約を結んでしまいました。そして、そのことを預言者に厳しく叱責されると、謙虚に反省するどころが、激怒し、ふてくされてしまったのです。
アハブが勝手にアラムと契約を結んだ結果、三年間は戦いの無い状態が続きましたが、その後、アラムは再び繰り返しイスラエルを苦しめることになるのです。
1 南ユダの王ヨシャパテの即位
さて、北イスラエルのアハブ王の第四年に南ユダではヨシャパテが王位に就きました。このヨシャパテ王については、第一列王記22章と第二歴代誌17章ー20章に詳しく書かれています。
ヨシャパテは、まことの神様だけを求め、神様に従って歩むことを大切にしました。国中から様々な異教の神々の像を取り除き、つかさちや祭司たちを町々に派遣して主の律法を民に教えさせました。その結果はどうだったでしょうか。第二歴代誌17章には、「主はヨシャパテとともにおられた」(3節)、「主は、王国を彼の手によって確立された。・・・彼には、富と誉れが豊かに与えられた」(5節)、「主の恐れが、ユダの回りの地のすべての王国に臨んだため、ヨシャパテに戦いをしかける者はだれもなかった」(10節)、「ヨシャパテはしだいに並はずれて強大になり、ユダに城塞や倉庫の町々を築いた」(12節)と書かれています。ヨシャパテの治世の25年間、南ユダ王国は平和と繁栄の時代を迎えたのです。
ただ、ヨシャパテは、一つ愚かなことをしました。北イスラエルの王アハブと同盟を結んだのです。しかも、アハブ王の娘アタルヤを自分の息子ヨラムの妻として迎えました。アタルヤの母であるイゼベルは、シドンの王の娘で、北イスラエルに異教のバアル信仰を持ち込み、夫のアハブ王も巻き込んで首都サマリヤにバアルの神殿を建てさせ、宮殿でバアルの預言者たちを養い、主の預言者エリヤを殺そうとしたり、欲しいものを手に入れるためなら人殺しも厭わないという、とんでもない悪女です。その娘であるアタルヤもイゼベルに輪をかけたような悪女でした。南ユダ王家に嫁いだアタルヤは、後に、南ユダ王国に、とんでもない災いをもたらすことになるのです。
まことの神様を大切にするヨシャパテが、なぜ神様に背く北イスラエルのアハブ王家と親しい関係を持ったのでしょうか。国が繁栄するにつれて自分の知恵や力を過信したのかもしれません。あるいは、同じ先祖を持つ者同士なのだから仲良くすべきだと甘い判断をしたのかもしれません。ともかく、その結果、ヨシャパテは、無益な戦いに巻き込まれることになったのです。
2 アラムとの戦い
ヨシャパテは即位十七年目に北イスラエルのアハブ王を訪問しました。すると、アハブは大宴会を開いてもてなし、ヨシャパテに「私と共にラモテ・ギルアデに戦いに行ってくれませんか」と頼んだのです。ラモテ・ギルアデというのは、ヨルダン川東側の北東の境界線上にある町です。イスラエルの町でしたが、アラムに奪われていました。前回、アラム王ベン・ハダデは、アハブとの戦いに敗れたときに命乞いをして、「以前私の父の代に奪い取った町々をお返しします」と約束していましたね。だから、アハブはベン・ハダデを処刑せずにアラムに帰してしまったのです。しかし、その約束がなかなか果たされないので、業を煮やしたアハブは、力尽くで町々を奪い返すためにヨシャパテの力を借りようと考えたのです。ヨシャパテは「私とあなた、北イスラエルと南ユダは一心同体のようなものだからいいですよ」と答えました。ヨシャパテは人が良すぎるのかもしれませんね。ただ、ヨシャパテはこう付け加えました。「まず、主のことばを伺ってみてください。」普段から神様に従うことを大切にしていたヨシャパテらしい要望ですね。
そこで、アハブは約四百人の預言者を召し集め、「私はラモテ・ギルアデに戦いに行くべきだろうか。それとも、やめるべきだろうか」と尋ねました。すると、彼らは「上って行きなさい。そうすれば、主は王の手にこれを渡されます」と口々に答えたのです。彼らは、バアルの預言者ではありません。主の預言者として集められた人たちです。アハブは、前回、預言者エリヤに厳しく叱責されたので、ある程度反省して、主にある預言者を保護するようになっていたのかもしれません。しかし、今、ここに集められた預言者たちは、王の顔色をうかがい、王の喜ぶことだけを語ろうとする偽預言者ばかりでした。本当の預言者なら相手が誰であろうと、神様が語れと命じられることだけを忖度なしに語るはずです。
四百人の預言者が口々に耳障りのいいことだけを語っていることに違和感を覚えたヨシャパテ王は、「ここには、私たちがみこころを求めることのできる主の預言者がほかにいないのですか」と尋ねました。すると、アハブは答えました。「いや、ほかにもうひとり、私たちが主のみこころを求めることのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです。それは、イムラの子ミカヤです。」
アハブは「ミカヤは、私について悪いことばかりを預言する」と言っていますが、それは、アハブの行状が悪かったからです。人は、自分に都合のいいことを語ってくれる人、自分を持ち上げてくれる人を近づけようとします。逆に、自分に都合の悪いことや耳の痛いことを語る人を遠ざけようとしてしまいます。その結果、自分を見失ってしまうのですね。アハブは、まことの神様の真実の言葉を聞こうとしていなかったのです。
しかし、ヨシャパテが「王よ。そういうふうには言わないでください」と言うので、アハブはしぶしぶミカヤを呼びに行かせました。ミカヤを待つ間にも、四百人の預言者たちは盛んにアハブが喜びそうなことを語り続けました。ゼデキヤという預言者は、鉄の角を作り、「『この角でアラムを突いて絶滅させなければならない』と主は仰せられます」と語り、他の預言者たちも「ラモテ・ギルアデに行って勝利を得なさい」と口々に語りました。その場にいた人々は、それを聞いて、「そうだ、そうだ、そのとおりだ」と熱狂し始めたことでしょう。
そこにミカヤがやってきました。ミカヤを呼びに行った使いの者は「あなたもみなと同じように良いことを述べてください」とミカヤに言いましたが、ミカヤは「主は生きておられる。主が私に告げられることを、そのまま述べよう」と答えました。そして、アハブ王が「ミカヤ、私たちはラモテ・ギルアデに戦いに行くべきだろうか」と尋ねると、ミカヤは答えました。「攻め上って勝利を得なさい。主は王の手にこれを渡されます。」四百人の預言者と同じことを言ったわけですね。ところが、アハブ王は「いったい、私が何度あなたに誓わせたら、あなたは主の名によって真実だけを私に告げるようになるのか」と怒りました。なぜでしょうか。それは、ミカヤが皮肉を込めて「そんなに行きたいなら行ったらいいんじゃないですか。神様はあなたの手にこれを渡されますよ(笑い)」という感じで語ったからでしょう。同じ言葉でも、語り口調でまったく意味は変わってしまいますね。アハブは、ミカヤが皮肉を言っていることがわかったので、怒ったわけです。
すると、ミカヤは、真実の預言を語り始めました。それが17節の内容です。「私は全イスラエルが、山々に散らされているのを見た。まるで、飼い主のいない羊の群れのように。そのとき、主は仰せられた。『彼らには主人がいない。彼らをおのおのその家に無事に帰さなければならない。』」つまり、「イスラエルはアラムとの戦いに敗れ、王が死んで、飼い主のいない羊の群れように散り散りになってしまう」というのです。
それを聞いたアハブはヨシャパテに言いました。「彼は私について良いことを預言せず、悪いことばかりを預言すると、あなたに言っておいたではありませんか。」アハブは、ミカヤの預言は信じるに値しないもので、信ずべきは四百人の預言者たちの一致した預言であると強調したのです。自分と一緒にアラムと戦うようヨシャパテを何とか説得したいと思っていたのでしょう。アハブは、あくまでも自分の計画に固執し、冷静に神様の言葉を聞こうとしなかったのです。
すると、ミカヤはさらに続けて預言しました。「私は主が御座にすわり、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。そのとき、主は仰せられました。『だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか。』・・・ひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします』と言いますと、主が彼に『どういうふうにやるのか』と尋ねられました。彼は答えました。『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』すると、『あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、そのとおりにせよ』と仰せられました。今、ご覧のとおり、主はここにいるあなたのすべての預言者の口に偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」
こういう箇所を読むと、「神様が預言者たちに偽りの霊を授けて惑わすなんてひどいじゃないか」と思ってしまう方がおられるかもしれませんね。しかし、これまでも何度もお話ししていますように、聖書は、何事も神様の許しなしに起こることはない、すべては神様の大きな主権の中にある、ということを教えているのです。また、それとともに、神様が一人一人に自分の意志で選択する自由をお与えになったことも教えています。偽りを語る預言者たちは、神様よりも王に喜ばれようとする道を自分で選択したために、偽りの預言を語る結果を自分で招いてしまったのですが、そのことも神様の許しの中で起こっていることであり、神様は、そういうこともすべて用いて、事を実現なさるお方なのです。
さて、ミカヤの言葉を聞くと、鉄の角を作って盛んに勝利を預言していたゼデキヤは激怒し、ミカヤの頬をなぐりつけ、「なぜ私が偽りの預言者で、お前がまことの預言者だと言えるのだ」と食ってかかりました。すると、ミカヤは、「いまに、あなたが奥の間に入って身を隠すときに、思い知るであろう」と答えました。アハブ王が戦死したら、その責任の一端は誤った預言をしたゼデキヤたちにあるのだから、ゼデキヤたちは人々に糾弾されるのを恐れて身を隠さなければならなくなるだろう、というわけです。
また、アハブ王は「この男を獄屋に入れ、私が無事に帰って来るまで、わずかなパンと、わずかな水をあてがっておけ」と命じました。すると、ミカヤは、「万が一、あなたが無事に戻って来られることがあるなら、主は私によって語られなかったのです。みなの人々よ。聞いておきなさい」ときっぱり宣言しました。
結局、アハブ王もヨシャパテ王もミカヤの預言を無視して、戦いに出て行きました。ただ、アハブの心の中には、ミカヤの預言が実現するかもしれないという恐れがあったのでしょう。ヨシャパテにこう言ったのです。「私は変装して戦いに行こう。でも、あなたは、自分の王服を着ていてください。」自分が変装し、ヨシャパテに王服を着せておけば、ヨシャパテが敵の標的になって、自分は助かるだろうと考えたのでしょう。ずいぶん身勝手ですね。
アラムの王は、配下の隊長たちに「イスラエルの王を目指して戦え」と指示していました。隊長たちは、王服を着たヨシャパテを見つけると「イスラエルの王がいるぞ」と向かって行きましたが、ヨシャパテが「助けてください」と叫び求めると、「なんだ、こいつはイスラエルの王ではない」と気づいて引き返して行きました。一方、アラムの兵士の一人が何げなく弓を放つと、それが変装していたアハブに命中しました。アハブは、深手を負い、その日の夕方に死んでしまったのです。アハブがどんなに策略をめぐらしても、主の御手を逃れることはできなかったのですね。
3 ヨシャパテの反省
さて、ヨシャパテは、戦場から無事にエルサレムに逃げ帰りました。すると、預言者エフーがやって来てこう言ったのです。「悪者を助けるべきでしょうか。あなたは主を憎む者たちを愛してよいのでしょうか。これによって、あなたの上に、主の前から怒りが下ります。しかし、あなたには、良いことも幾つか見られます。あなたはこの地からアシェラ像を除き去り、心を定めて常に神を求めて来られました。」
ヨシャパテは、熱心に神様を信じ従おうとしていましたが、人間関係において適切な境界線を引くことができませんでした。アハブ王に対して、間違っていることは間違っていると言い、断るべきことは断る、ということができませんでした。それどころか、アハブと親しくし、アハブの娘を息子の妻にするほどまでの密接なつながりを持ってしまったのです。その結果、ヨシャパテは、アハブによって神様のみこころでない戦いに巻き込まれ、また、今後の南ユダ王国に大きな災いを招くことになってしまいました。
しかし、今回の戦いで、ヨシャパテは、真の預言者の言葉を真剣に聴くことがどれほど大切かを改めて思い知ったことでしょう。また、預言者エフーの厳しい言葉を聞いて、深く反省したのでしょう。この後、ヨシャパテは、南ユダ王国がさらに主に従う国になるように心を砕くようになりました。全国を回って民に主に従うことの大切さを教え、また、各地で神様の定めに従った正しい裁判が行われるように制度を整えたのです。
4 主の戦い
そんな時に、国の東や南東側にいたモアブ人、アモン人、セイル山の人々が、おびただしい大軍を率いて南ユダに戦いを仕掛けてきました。絶体絶命のピンチです。
ヨシャパテは、全国に断食を布告し、集まってきた民と共に必死に祈りました。「主よ。あなたはすべての国を支配なさる方であり、だれも、あなたに対抗できる者はありません。私たちの苦難の中から、あなたに呼ばわります。そのときには、あなたは聞いてお救いくださいます。私たちには、このおびただしい大軍に当たる力はありません。どうすればよいのかわかりません。ただあなたに目を注ぐのみです」と。すると、神殿で仕える聖歌隊の一人だったと思いますが、レビ人のヤハジエルという人が預言を語り始めました。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。・・・・この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。』」(第二歴代誌20章15節-17節)これを聞くと、ヨシャパテもすべての民も地にひれ伏して主を礼拝し、大声をあげて主を賛美しました。
翌朝、出陣するとき、ヨシャパテは、民と相談して主に向かって賛美する者たちを任命し、軍隊の最前線に配置しました。彼らが「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と喜びと賛美の声を上げ始めたちょうどそのとき、主が伏兵を設けて敵軍を襲わせたので敵は打ち負かされてしまいました。さらには、仲間同士で殺し合いも起こり、敵軍は全滅してしまったのです。ヨシャパテたちは、みなで主をほめたたえ、喜びのうちにエルサレムに凱旋しました。
ヨシャパテたちは、主を信頼し、主に賛美することによって大勝利を収めることができました。賛美する者を最前線に置くというのは、奇妙な戦い方のように見えますが、これこそ、最も強力な戦いの方法なのです。
賛美は力です。賛美とは、神様の力、知恵、恵みの素晴らしさを認めることです。神様がともにおられ、神様が私たちの必要をすべて満たし、守り導いてくださると信頼し、告白することです。詩篇22篇3節に「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」とありますが、私たちの賛美の中に神様はおられ、豊かなみわざを現してくださるのです。
先がわからない苦しみや恐れや悲しみの中で、また、困難に直面して行き詰まる中で、主は私たちにもこう語ってくださいます。「恐れてはならない。気落ちしてはならない。しっかり立って動かずにいよ。わたしはあなたとともにいる。わたしの救いを見よ。」私たちは、主に信頼してあえて賛美していきましょう。
いつも人生の最前線に賛美を据えて歩んで行きましょう。