城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二三年七月二三日             関根弘興牧師
                第二列王記二章六節〜一四節
       
 列王記連続説教10
   「エリヤの召天」
 
 6 エリヤは彼に、「ここにとどまっていなさい。主が私をヨルダンへ遣わされたから」と言った。しかし、彼は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、ふたりは進んで行った。
7 預言者のともがらのうち五十人が行って、遠く離れて立っていた。ふたりがヨルダン川のほとりに立ったとき、8 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水は両側に分かれた。それでふたりはかわいた土の上を渡った。9 渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように」と言った。10 エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。12 エリシャはこれを見て、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んでいたが、彼はもう見えなかった。そこで、彼は自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂いた。13 それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。14 彼はエリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言った。彼も水を打つと、水が両側に分かれたので、エリシャは渡った。(新改訳聖書第三版)
 
 前回は、北イスラエルのアハブ王が南ユダのヨシャパテ王を誘ってアラムと戦った記事を読みました。二人の王は、まことの預言者が語る主の言葉を無視して戦いに出てしまったのです。その結果、アハブ王は、アラムの兵士が何気なく放った矢に射貫かれて戦死してしまいました。一方、ヨシャパテ王は何とか無事に南ユダに逃げ帰ることができました。ヨシャパテは、人が良すぎるせいか、北イスラエルのアハブ王と親しくし、ずるずるとアラムとの戦いに引き込まれてしまったのです。そんな弱さがあるヨシャパテでしたが、神様に従おうとする熱心な思いを持っていました。歴代誌には、ヨシャパテが、敵の大軍に攻められて絶体絶命になったとき、民と共に主の助けを祈り求め、最前線に聖歌隊を配置して主を賛美させた結果、主が別の軍隊に敵を攻撃させて壊滅させてくださったので、南ユダは自ら戦わずして大勝利を得たという奇跡的な出来事が書かれていましたね。
 
1 北イスラエルの王アハズヤ
 
 さて、北イスラエルの王アハブがアラムとの戦いで戦死すると、息子のアハズヤが即位しました。第一列王記の最後、22章52節にこう書かれています。「彼は主の目の前に悪を行い、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの道に歩んだ。」ネバテの子ヤロブアムというのは、北イスラエル王国の初代の王ですが、民が南ユダのエルサレム神殿に礼拝に行かないように、金の子牛を作って、それを民に拝ませるという大きな悪を行いました。また、アハズヤの母イゼベルは、バアル信仰をイスラエルに持ち込み、夫のアハブ王も巻き込んで、首都サマリヤにバアルの神殿を建て、まことの神様の預言者たちを迫害しました。その息子であるアハズヤも彼らと同様に悪の道を歩んだというのです。
 そして、ここから第二列王記に入りますが、1章には、アハズヤが自分の屋上の部屋の欄干から落ちて病気になったと書かれています。なかなか回復しないので、彼は何かにすがりたいと思ったのでしょう。「アハズヤ」というのは「主が支えてくださる」という意味のある素晴らしい名前です。しかし、彼は、まことの神である主にすがろうとせずに、使者たちをエクロンに遣わし、「バアル・ゼブブに、私のこの病気が直るかどうか、伺いを立てなさい」と命じたのです。エクロンは、サマリアから南西に六十五キロほど離れたペリシテ人の町です。「バアル・ゼブブ」というのは「ハエの主」という意味です。ハエは疫病をもたらすとして恐れられていました。ですから、この神様を大切にすれば癒やされるだろうと考えられていたわけです。
 使者たちがエクロンに向かっていくと、途中で一人の人物が現れ、こう告げました。「あなたがたを遣わした王のところに帰って行き、彼に告げなさい。主はこう仰せられる。あなたが人をやって、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。」(第二列王記1章6節)使者たちは、王のもとに戻り、言われた言葉を報告しました。そして、その人物が毛衣を着て、腰に皮の帯を締めていたことを説明すると、アハズヤは、それが預言者エリヤであるとすぐにわかりました。エリヤは父アハブ王の時代から、王に対して厳しい叱責と災難を宣告してきた預言者です。そのエリヤが「あなたは必ず死ぬ」と預言したので、アハズヤは動揺し、憤ったことでしょう。五十人の部隊を遣わし、エリヤを連行してくるように命じました。五十人隊の隊長は、山の頂に座っているエリヤを見つけると、「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください」と言いました。この訳を読むと、やさしく語りかけているような感じですが、実際には「エリヤ、ただちに下りて来い」と命令したのです。「速やかに投降せよ。さもないと、こちらから行って、痛い目に遭わせるぞ」というわけです。エリヤは答えました。「もし、私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、実際に天から火が下って来て全員を焼き尽くしてしまったのです。アハズヤは、もう一度、別の五十人の部隊を遣わしました。すると、また、同じように天から火が下って部隊全員を焼き尽くしてしまいました。それでも、アハズヤは懲りずに、またもや五十人の部隊を派遣しました。今回の隊長は、これまでの経緯を知っていましたので、エリヤの前にひざまずき、必死に命乞いをしました。そこで、エリヤは、彼らとともにアハズヤ王のもとに行き、あらためて「あなたがまことの神様ではなく、バアル・ゼブブに頼ったので、あなたは必ず死ぬ」と宣告したのです。もしアハズヤがここで自分の過ちを認め、主の赦しを祈り求めたとしたら、主はあわれみを示してくださったかもしれません。しかし、アハズヤには、その謙虚さはなかったようです。王になったわずか二年後に死んでしまいました。彼には、子がなかったので、彼の兄弟のヨラムが次の王になりました。
 
2 エリヤの召天
 
 さて、次の第二列王記2章には、預言者エリヤが天に召され、エリシャが後継者となった経緯が記されています。
 以前、エリヤが疲れて落ち込んでいたとき、神様は「あなたの後継者としてエリシャを備えている」と語ってくださいましたね。そこで、エリヤはエリシャを見つけ出し、自分に従ってくるように招きました。それ以来ずっと、エリシャはエリヤに仕えてきたのですが、いよいよバトンタッチする日がやって来たのです。「今日、主がエリヤを天に上げられる」ということがエリシャにはわかっていました。そこで、エリヤがエリシャに「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから」と言うと、エリシャは「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません」と言ってついて行きました。ベテルに着くと、ベテルの預言者のともがらがエリシャに言いました。「きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」当時は、各地に預言者学校のようなものがあったようです。主のことばを聞き分ける訓練をしたり、預言者としてのあるべき姿を学び、互いに励まし合いながら生活していたのでしょう。その彼らもエリヤが今日、天に召されることがわかっていたのです。するとエリシャは「私も知っていますが、黙っていてください」と答えました。次に、エリヤはエリコに向かいましたが、やはりエリシャは「私は決してあなたから離れません」と言って、ついて行きました。エリコの預言者たちも、ベテルの預言者たちと同じことをエリシャに言いました。
 エリヤは、次に、ヨルダン川に向かいました。エリシャもついて行きました。そこには、預言者のともがら五十人が遠く離れて見守っていました。ヨルダン川のほとりに着くと、エリヤは自分の外套を丸めて水を打ちました。すると水が両側に分かれたので、二人は乾いた土の上を歩いて渡りました。渡り終わると、エリヤはエリシャに言いました。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは「あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように」と答えました。別の訳では「あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」となっています。当時は、長子は二倍の分け前を受けることになっていました。親の土地や財産や家系を受け継ぐ役割があるからです。エリシャは、エリヤの一番弟子で長子のような存在です。しかし、だからといって、自分から二倍の分け前を要求するのは図々しいような感じがしますね。エリヤよりすぐれた預言者になろとする野心があるのかと思う人もいるかもしれません。しかし、考えてみてください。エリシャは、これからエリヤの働きを引き継がなければならないのです。エリヤに与えられている主の賜物を自分も受けなければ、とてもエリヤの代わりは務まらないと思ったのでしょう。だからこそ、最後まで断固としてエリヤについてきたのです。エリヤは答えました。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」エリヤは、主がエリシャを自分の後継者としてお選びになったことを知っていました。だから、これまでエリシャを身近に置き、様々なことを学ばせてきたのです。しかし、それぞれの預言者に必要な賜物を与え、どのような働きをさせるかを決めるのは、主のなさることです。エリシャの求めているものが与えられるかどうかは、エリヤではなく、主の働きによるのです。
 さて二人がなおも進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤはたつまきに乗って天へ上って行きました。そして、エリシャが「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んでいるうちに見えなくなってしまったのです。「わが父」と叫んだのは、エリヤが彼の霊的な父であったからです。また、「イスラエルの戦車と騎兵たち」と言ったのは、エリヤこそイスラエルにとって戦車や騎兵にまさる最強の存在だったということです。エリヤの語る主の言葉こそ、どんな敵をも打ち負かす力のある武器だったからです。
 エリシャは自分の着物を二つに引き裂きました。それは悲しみの表現でした。またエリヤの身から落ちた外套を拾い上げました。外套は預言者の職務を象徴するものです。エリシャがその外套を持ち、「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言ってヨルダン川の水を打つと、水が両側に分かれました。エリヤと同じことが起きたのです。これによって、エリシャがエリヤの後継者となったこと、主がエリシャとともにおられることが示されたのです。
 見守っていた預言者たちは、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言い、エリシャを丁重に出迎えました。彼らもエリヤがたつまきに乗って天に上って行った光景を目撃したようです。しかし彼らは「私たちの仲間五十人をあなたのご主人を捜しに行かせてください。主の霊が彼を運んで、どこかの山か谷に彼を投げられたのかもしれません」と言いました。エリシャが「人をやってはいけません」と言っても、彼らはあきらめきれず、五十人を派遣して三日間捜し回りました。しかし、エリヤを見つけることはできませんでした。この預言者たちは、エリシャと同じように、エリヤが天に上げられる光景を見たのですが、その意味を理解していなかったのです。
 どんな優秀な人もいつかは去って行きます。しかし、主の働きは継続していくのです。それを受け入れることは大切です。人を尊敬することは大切ですが、その人がいなくなったときに、その人の影をいつまでも追いかけてしまうことがよくありますね。その人のスピリットを受け継ごうとか、その人が言い残したり書き記した言葉に従っていこうとか、いつのまにか、その人を、聖書と同等か、それ以上の存在に祭り上げてしまう危険があるのです。それは、預言者たちがエリヤの影を求めて山や谷を捜し回ったのと同じようなものですね。
 しかし、エリシャは、エリヤが去って新しい時代が始まったことを理解していました。エリヤとエリシャが外套でヨルダン川の水を打ったとき、水が分かれましたね。これと同じような出来事がこれより以前に二回ありました。最初は、モーセとイスラエルの民がエジプトを脱出するとき、モーセが杖を差しのばすと海の水が分かれたので、その間にできた道を通って進んで行くことができました。また、モーセの後継者ヨシュアがイスラエルの民を約束の地に導き入れるとき、ヨシュアに命じられて契約の箱を担いだ祭司たちが先頭を進みましたが、その祭司の足がヨルダン川の水ぎわに浸ったときに川が分かれ、民はかわいた地を渡って約束の地に入ることができたのです。つまり、水が分かれて渡ることができたという出来事は、大きな時代の分岐点に起こり、新たな時代の始まりを象徴するものでした。また、ヨルダン川の水が分かれたことによってヨシュアがモーセの後継者として認められたように、今回の箇所では、エリシャがエリヤの後継者として認められたのです。
 さらに、この出来事は、これからのイスラエルの歴史の中で預言者の働きが非常に大切なものとなっていくことを象徴的に示すものとなりました。王も民も真の預言者たちの語る主の言葉に聞き従うことがどれほど大切なのかということが、このあとの歴史を通してさらにはっきりと示されることになるのです。
 
3 エリシャの働きの開始
 
 さて、第二列王記2章19節からは、エリヤの後継者となったエリシャの様々な働きが記されています。
 
(1)水のいやし
 エリコの町は、水が悪いために作物が育ちにくく、家畜の流産も多くありました。町の人々に相談されたエリシャは、水の源に塩を投げ込んで、「主はこう仰せられる。『私はこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない』」と宣言しました。すると、水が良くなったのです。不毛な状態を新しく造りかえてくださる主の働きが示されたのです。
 
(2)預言者を呪う者たちへのさばき
 次に2章23節ー25節にこう書かれています。「エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、この町から小さい子どもたちが出て来て、彼をからかって、『上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭』と言ったので、彼は振り向いて、彼らをにらみ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂いた。」これを読むと「えっ!」と思ってしまいますね。小さな子どもにからかわれたぐらいで彼らを呪うなんて大人げないと思いますよね。しかし、この「小さい子ども」と訳される言葉は、少年から青年までを指す幅広い言葉なんです。また、ベテルは、初代の王ヤロブアムが作った金の子牛の礼拝の中心地でした。たぶん、この人たちは金の子牛の礼拝に携わる預言者の見習いのような若者たちだったのではないかと考えられます。彼らは、主の預言者であるエリシャを集団でからかったのでしょうね。「上って来い」と言ったのは、金の子牛の祭られる礼拝の場所に上ってこい、という挑戦の意味なのかも知れません。彼らはただエリシャをからかっただけでなく、エリシャを遣わした主を侮る行為をしたのです。その結果、熊にかき裂かれてしまったのですね。私たちは、主を不必要に怖がる必要はありません。神様は愛と恵みにあふれる方ですから。しかし、神様を侮り冒涜することは、自らにさばきをもたらす結果になるということを心に留めておくべきです。
 
(3)モアブとの戦いにおける水の奇跡
 北イスラエルの王となったヨラムは、南ユダのヨシャパテ王を誘ってモアブとの戦いに出ました。ヨシャパテは、以前にヨラムの父アハブ王に誘われてアラムとの戦いに行き、苦い経験をしたにも関わらず、またもヨラムの誘いに乗って共に出陣したのです。しかし、彼らは回り道を通ったために水が不足し、窮地に陥ってしまいました。そこで、ヨシャパテの提案で、王たちは、近くにいた預言者エリシャのもとに主のみこころを求めに行ったのです。エリシャはヨラム王に言いました。「私が仕えている万軍の主は生きておられる。もし私がユダの王ヨシャパテのためにするのでなかったなら、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう。」そして、エリシャはこう預言しました。「主はこう仰せられる。・・・『風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、獣もこれを飲む。』これは主の目には小さなことだ。主はモアブをあなたがたの手に渡される。」その預言のとおり、朝になると水が流れてきて地が水で満たされました。彼らは窮地を脱し、モアブを打ち破ることができたのです。
 
(4)油のつぼ
 ある時、預言者仲間の妻がエリシャに訴えました。「夫が死にました。借金が返せないので、ふたりの子どもが奴隷にされてしまいます。」その女性の家には油のつぼが一つあるだけでした。エリシャは「近所からできるだけ多くの空の器を借りてきて、借りた器に油を注ぎなさい」と言いました。すると、つぼからどんどん油が出て来て、すべての器がいっぱいになったのです。彼女は、その油を売って借金を返し、残りのお金で生活していくことができました。
 
(5)シュネムの女性の息子を生き返らせる
 シュネムの町に、いつもエリシャをもてなしてくれる裕福な女性がいました。その女性は子どもがいませんでしたが、エリシャの預言によって男の子が生まれました。ところが、数年後にその子が急に頭痛を訴え、死んでしまったのです。女性は、急いでエリシャのもとに行き、エリシャを死んだ子どものもとに連れてきました。エリシャが子どもとふたりきりになって、主に祈り、子どもの上に身をかがめると、その子は生き返ったのです。
 
(6)預言者たちの食べ物に起こった奇跡
 預言者たちは、飢饉で食べ物がなかったので、野の草を煮て食べようとしましたが、毒草が混じっていて食べることができません。一緒にいたエリシャが麦粉を釜に投げ入れると、毒が消えて食べられるようになりました。
 また、ある人がパンを持って来てくれましたが、そこにいた百人もの人々にはとても足りません。しかし、エリシャの指示でパンを配ると、皆が食べて、パンがあり余ったのです。
 
 エリシャは、考えられないような奇跡の一つ一つを通して「主は生きて働かれる」ことを深く確信していきました。人々もエリシャの働きを通して、そのことを知っていきました。今、私たちはエリシャと同じような経験をすることはないかもしれません。しかし、同じ主が今も生きて働いておられます。癒やし、必要を満たし、希望を与えてくださる生ける主のみわざを、それぞれの生活の中で豊かに味わわせていただきましょう。