城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二三年八月六日              関根弘興牧師
              第二列王記六章一五節〜二三節
       
 列王記連続説教12
   「目を開いてください」
 
 15 神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」と言った。
16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。17 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。18 アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。19 エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。20 彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真ん中に来ていた。21 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」22 エリシャは言った。「打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」23 そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。(新改訳聖書第三版)
 
 前回の5章では、アラムの将軍ナアマンに起こった出来事を見ました。ナアマンはツァラアトという重い皮膚病を患っていましたが、預言者エリシャの語った神様のことばに従ってヨルダン川に行き、七回身を洗うと、ツァラアトがいやされたのです。ナアマンは、すぐにエリシャのもとに戻り、これからは神様だけを礼拝することを誓いました。ただ、ナアマンには一つ懸念がありました。アラムに帰ると、ナアマンはアラムの王に仕えなくてはなりません。王がリモンという異教の神の神殿に入って拝むときに、ナアマンは王の腕を支えて一緒に身をかがめなければならないのです。それが許してもらえるかどうか、ナアマンはエリシャに尋ねました。すると、エリシャは「安心して行きなさい」と答えて、ナアマンを送り出したのです。
 私たちも、クリスチャンとして社会に生きる中で、ナアマンと同じような葛藤を感じることがありますね。しかし、「まことの神様だけを礼拝する」という大原則さえ忘れなければ、私たちは、それぞれが自分なりに判断して行動する自由が与えられているのです。それぞれが神様に祈りつつ、良いと思えることをしていけばいいのですね。そのとき、神様は「安心して行きなさい」と語りかけてくださるでしょう。
 さて、今日はその続きの第二列王記6章と7章から学びます。
 
1 浮かんだ斧の頭
 
 まず、6章1節-7節には、不思議な出来事が書かれています。 共同生活をしている預言者たちが、宿舎を建て直すために、材木を切り出しに出かけました。エリシャも同行しました。ヨルダン川について、木を切り倒しているときです。預言者のひとりが斧を振り上げると、斧の頭が水の中に落ちてしまったのです。しかも借り物の斧です。今ならホームセンターで買ってくれば済む話ですよ。でも当時、斧の頭の材料の鉄は高価で貴重なものでした。それで、その人は「ああ、わが主。あれは借り物です」とエリシャに向かって叫びました。それを聞いたエリシャが一本の枝を切って、斧の頭が落ちた場所に投げ込むと、なんと、斧の頭が浮いてきて、落とした人は、それを無事に拾い上げることができたというのです。
 「そんなバカな」と思いませんか。鉄の塊が浮いてくるなど不可能ですよね。普通なら、水に潜って取りに行くしかありません。それができないなら、もはや諦めるしかないのです。その場にいた預言者たちは、皆、あの大切な斧の頭は二度と取り戻すことはできないと思っていたことでしょう。しかし、主の不思議な働きによって、失ったものが回復されたのです。この出来事は、彼らにとって大きな励ましとなったことでしょう。
 当時のイスラエルは、まことの神様への礼拝が失われ、異教の神々への礼拝がはびこっていました。彼らが預言者として生きていくことには、多くの困難があったはずです。神様に仕えているのに、失望や絶望を感じることも数多くあったでしょう。大切なものを失ってしまう苦しみもたびたび味わっていたはずです。そんな彼らが、斧の頭が浮いてくるという奇跡を目の当たりにしたわけです。失ったものをもう一度取り戻すことが出来る、あきらめるしかないと思っていたことが、主にあってはそうではない、ということを教えてくれる奇跡となったのです。 この出来事は、私たちにも励ましと希望を与えてくれますね。主には不可能はありません。主は失ったものを取り戻し、もう回復は不可能だと思えることでも回復することができる方なのです。
 
2 アラム軍からの救い
 
 さて、前回登場したナアマンは、アラムの将軍でしたね。当時、アラムはたびたびイスラエルに戦いを仕掛けてきていました。その中で、主の不思議なみわざが現れた二つの出来事が6章8節から7章にかけて記されています。
 
(1)ドタンの包囲
 
 アラム王は、イスラエルを攻撃する場所を家来と相談して決めました。しかし、イスラエル側は、素早くその場所の防備を固めてしまうのです。それが何度も繰り返されたので、誰かが情報を敵に漏らしているとしか考えられませんでした。アラム王は怒りに燃え、「われわれの情報が筒抜けではないか。スパイは誰だ」と家来たちに詰め寄りました。すると、家来のひとりがこう言うではありませか。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」預言者エリシャが、アラム王のすべてを見通して、イスラエルの王に知らせていたのですね。「それなら、まずそのエリシャを捕まえなければならない」と考えたアラムの王は、エリシャのいるドタンに大軍を送って町を包囲しました。ドタンは、北イスラエルの首都サマリヤから北方十七キロのところにある町です。
 エリシャの召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、町がアラムの大軍に包囲されているではありませんか。絶対絶命のピンチです。しかし、召使いが慌ててエリシャに報告すると、エリシャは落ち着いて言いました。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」召使いは、エリシャが何を言っているのか理解できませんでした。彼の目には、アラムの大軍しか見えていなかったからです。あの大軍に比べたら、自分たちはまったく無力だ、勝ち目はないと思ってしまったのです。エリシャは、この召使いのために、「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください」と主に祈りました。すると、「主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」と書かれています。
 私たちは、自分たちの目で見えることだけがすべてだと思ってしまいがちですね。目に見えることだけで判断し、もう駄目だ、希望がない、絶望だ、と結論を出してしまいやすいのです。でもこの箇所を読むと、勇気が湧いてきませんか。今、見えるのは困難だけかもしれません。しかし、神様が私たちをしっかり守っていてくださるのです。神様の力に打ち勝つことのできる敵などありません。「主よ、わたしの目を開いてください」と祈っていくことは、私たちに与えられた大きな励ましです。
 エペソ1章17節ー19節で、パウロは、こう祈っています。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」心の目が開かれると、私たちに与えられている素晴らしい希望や栄光の富、また、私たちのうちに働く神様の偉大な力を知ることができるようになるというのですね。私たち信じる者一人一人のうちにおられる聖霊がそのことを味わわせてくださるのです。神様の素晴らしい恵みと偉大な力を見させていただくことができる、それがクリスチャン・ライフなのですね。
 さて、アラム軍はエリシャのもとに迫ってきました。エリシャは、主に祈りました。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」すると、主が彼らを打たれたので、彼らは急に目が見えなくなってしまいました。突然見えなくなったら、どうしようもありませんね。彼らはエリシャに言われるまま、首都サマリヤに連れて行かれました。そして、エリシャが「彼らの目を開いて、見えるようにしてください」と祈ると、彼らは見えるようになったのです。彼らは驚きました。自分たちが敵国の首都のど真ん中にいるのがわかったからです。彼らは、最初は自分たちが簡単にエリシャを捕らえることができると思っていたことでしょう。エリシャを守る主の軍勢が見えなかったからです。しかし、今、自分たちこそ主によって捕らえられた無力な存在であることを思い知ったのです。
 イスラエルの王ヨラムは、エリシャに言いました。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」それまでヨラムはエリシャの存在をあまり快く思っていなかったのではないかと思いますが、ここでは「わが父よ」と呼んでいます。ずいぶん調子がいいですね。エリシャは言いました。「打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」打ち殺すどころか、飲み食いさせて帰しなさいと言うのです。そこで、ヨラム王は、彼らのために盛大なもてなしをし、アラムに帰しました。
 ルカ6章27節で、イエス様は「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい」と言っておられます。また、ローマ12章21節には「悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい」と書かれています。今回のエリシャの姿は、私たちが平和を考えるときの大切な指針を示しています。
 6章23節には、「それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった」と書かれています。
 
(2)サマリアの包囲
 
 しかし、すぐ次の24節では、「この後、アラムの王ベン・ハダデは全軍を召集し、サマリヤに上って来て、これを包囲した」と書かれています。「あれ?」と思いますよね。
 おそらく、23節と24節の間には、何年もの時間が経過したのでしょう。アラムの兵士たちがサマリヤで盛大なもてなしを受けて本国に無事に戻ることができたので、ベン・ハダデは最初は喜んだでしょう。しかし、時間が経つと、そんなことはすっかり忘れてしまったようです。憎しみや恨みはいつまでも覚えていますが、感謝の記憶は薄れてしまいやすいのですね。ベン・ハダデは以前から繰り返しイスラエルに戦いを仕掛けていましたが、今回は、いよいよ首都サマリヤを包囲してしまったのです。
 そのころサマリヤには、ひどい飢饉がありました。そのうえ、アラム軍に兵糧攻めにされて食べ物がありません。想像を絶するほどの悲惨な状態です。25節には、「ろばの頭一つが銀八十シェケルで売られ、鳩の糞一カブの四分の一が銀五シェケルで売られるようになった」とあります。ろばは、ユダヤの社会では汚れたの動物なので、普通はその頭を食べる人などいません。それが八十シェケル、今の金額にすると約七万円で売られていたというのです。そして、鳩の糞は、普通なら燃料にするか家畜の餌代わりになるかです。それさえ食糧にしなければならなくなっていたのでしょう。一カブは一・三リットルぐらいですが、その四分の一の量が四千五百円というのですから、とんでもないハイパーインフレ状態です。
 そんな中で、とんでもないことが起こっていました。イスラエルの王が城壁の上を通りかかると、ひとりの女が「王様。お救いください」と叫びました。王は「私には何もないから、あなたを救うことができない」と答えました。しかし、彼女は、こう訴えたのです。「この女が私に『あなたの子どもをよこしなさい。私たちはきょう、それを食べて、あすは私の子どもを食べましょう』と言ったのです。それで、私たちは、私の子どもを煮て、食べました。その翌日、私は彼女に『さあ、あなたの子どもをよこしなさい。私たちはそれを食べましょう』と言ったのですが、彼女は自分の子どもを隠してしまったのです。」何とおぞましく悲惨な出来事でしょうか。
 それを聞くと王は、衝撃と嘆きのあまり自分の服を引き裂きました。王が服の下に荒布を着ているのが見えました。王は、何とかこの状態から救われるよう、願っていたようでした。しかし、神様は何もしてくださいません。今まで様々な奇跡を行ってイスラエルを救ってきた預言者エリシャも、何もしようとしません。エリシャが神様に願えば、すぐにでもこの状態から救われるはずなのに、女が自分の子を食べてしまうという、これほどの悲惨な状態に追い込まれても、エリシャは何もしようとしない、こんな事態を招いた責任はエリシャにある、という怒りで、ついに王の堪忍袋の緒が切れ、王は、こう宣言しました。「きょう、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」エリシャの首を切り落とせと命じたのです。
 しかし、今回の出来事は、エリシャの責任ではありません。
一番の責任はサマリヤを包囲していたアラムの無慈悲な兵糧攻めにあるわけです。しかし、聖書はこうしたことを招いてしまったイスラエルの王や北イスラエルの民の内面を指摘するのです。このことは、モーセの時代から警告されていました。申命記28章15節ー68節には、主に逆らって生きる人々が陥る様々な悲惨な状態が予告されています。53節ー57節には、敵に包囲された時の状態が次のように書かれています。「あなたは、包囲と、敵がもたらす窮乏とのために、あなたの身から生まれた者、あなたの神、主が与えてくださった息子や娘の肉を食べるようになる。・・・ あなたのすべての町囲みのうちには、包囲と、敵がもたらした窮乏とのために、何も残されてはいないからである。・・・ 自分が産んだ子どもさえ、何もかも欠乏しているので、ひそかに、それを食べるであろう。」このように、今回と全く同じように、敵に包囲され、このサマリヤとおなじような悲惨なことがおこることが、書かれているのです。
 繰り返しますが、この飢饉の大きな原因は、アラムの無慈悲な兵糧攻めによってもたらされました。しかし、そうした苦難の中で、自分たちの姿を見つめ直し、本当に神様を信頼し続けていくのかが問われることでもあったのです。しかし、イスラエルの王は、これ以上、神様に願っても何もいいことなどない、と考え、エリシャを殺すようにと命令したのです。
 ヨラム王は、エリシャのもとに使者を使わし、こう言わせました。「見よ。これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか。」こんなひどいわざわいを与える主の言葉など、もうこれ以上、聞こうとも思わないし、期待もしない、だから主の言葉を語るお前ももう必要ない、と吐き捨てたのです。
 エリシャは、その使者が自分の首をはねるために遣わされてきたことを知っていました。そこで、戸を開けずに、言いました。「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」
 上等の小麦粉七・六リットルが九百円、大麦十五・二リットルも九百円で買えるようになるというのです。超ハイパーインフレ状態が一夜にして解消するというのですから、とても信じがたい話ですね。それを聞いた王の侍従は言いました。「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」神様だってそんなことができるはずがない、と言って、信じようとしなかったのです。すると、エリシャは彼に宣告しました。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」
 さて、町の門の入り口に、ツァラアトに冒された四人の人がいました。彼らは互いに言いました。「ここに座っているだけでは死んでしまうし、町に入ったところで食べ物がないから死んでしまう。それなら、いっそのことアラムの陣営に入り込もう。そこなら食べ物があるから生きのびられるかも知れない。もし殺されても、どうせ死ぬのだから同じことだ。」
 そこで、彼らは、夕暮れになるとアラムの陣営に行ってみました。すると、驚くことに、そこにはだれもいません。主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、アラム兵たちは「イスラエルの王がヘテ人の王たちやエジプトの王たちを雇って襲ってくるのだ」と勘違いして、馬もろばもすべての荷物もそのまま残して大慌てで逃げ去ってしまったのです。
 ツァラアトを患う人たちは、陣営の中で食べたり飲んだりし、銀や金や衣服を持ち出して隠しに行くことを繰り返しました。しかし、ふと気づいてこう言ったのです。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、言って、王の家に知らせよう。」
 彼らは町に行って、門衛を呼び、アラムの陣営の様子を伝えました。門衛たちは驚いて王に報告しました。すると、王は、「これはアラムが私たちを町からおびき出すためのわなだ」と疑いました。すると、家来の一人が、「偵察する者たちを遣わしましょう。彼らは、どうせこの町にいても死んでしまうのですから、もしアラムに殺されても同じです」と提案しました。そこで偵察隊が派遣されました。彼らはアラムの陣営がからっぽなのを確認してから、念のためヨルダン川まで追跡しました。すると道の至る所にアラムが慌てて逃げるときに捨てていった衣服や武具が落ちていたのです。
 戻ってきた偵察隊の報告を聞いた王は、町の門を開きました。すると、民はアラムの残していったものを持ち運び、小麦粉も大麦もエリシャの預言通りの安値で売られるようになったのです。
 一方、エリシャのことばを信じなかった侍従は、門の管理をしていましたが、殺到する民に踏みつけられて死んでしまいました。すべてエリシャの預言のとおりになったのです。
 さて、今日の箇所は、信仰生活の一つの側面を教えています。不可能と絶望にしか見えない状況にあっても、目が開かれることによって見えてくる世界があるということです。
 ドタンでアラムの軍勢に囲まれたとき、エリシャの召使いは、目が開かれて、天の軍勢を見ることができました。アラムに包囲されて飢餓に苦しむ人々は、一夜にして状況が一変するのを見ました。
 どんなに行き詰まっても、絶望的であっても、不可能に思えても、私たちを支え、導き、道を開いてくださる主がおられることは大きな希望であり励ましですね。心の目が開かれて、主の偉大さを見せていただくことのできる生涯をこれからも歩んでいきましょう。