城山キリスト教会 礼拝説教
二〇二三年九月三日 関根弘興牧師
第二列王記一三章一四節〜二一節
列王記連続説教15
「エリシャの死」
14 エリシャが死の病をわずらっていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュは、彼のところに下って行き、彼の上に泣き伏して、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んだ。15 エリシャが王に、「弓と矢を取りなさい」と言ったので、彼は弓と矢をエリシャのところに持って行った。16 彼はイスラエルの王に、「弓に手をかけなさい」と言ったので、彼は手をかけた。すると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて、17 「東側の窓をあけなさい」と言ったので、彼がそれをあけると、エリシャはさらに言った。「矢を射なさい。」彼が矢を射ると、エリシャは言った。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。」18 ついでエリシャは、「矢を取りなさい」と言った。彼が取ると、エリシャはイスラエルの王に、「それで地面を打ちなさい」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。19 神の人は彼に向かい怒って言った。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」20 こうして、エリシャは死んで葬られた。モアブの略奪隊は、年が改まるたびにこの国に侵入していた。21 人々が、ひとりの人を葬ろうとしていたちょうどその時、略奪隊を見たので、その人をエリシャの墓に投げ入れて去って行った。その人がエリシャの骨に触れるや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がった。(新改訳聖書第三版)
今日読んだ聖書箇所には、北イスラエルの王ヨアシュが登場しますが、前回は、南ユダ王国のヨアシュ王についてお話ししましたね。同じ名前ですが違う人物なので注意してください。
まず、前回の復習をしましょう。南ユダの四代目の王ヨシャパテは、神様に従う王でしたが、息子ヨラム王の妻として、北イスラエルの娘アタルヤを迎えました。このアタルヤは、南ユダに異教の神々を持ち込んだ残虐な女性です。その影響を受けて、夫のヨラム王とその次に即位した息子のアハズヤ王はまことの神様に背を向け、悪を行いました。そして、アハズヤ王は、戦場で負傷した北イスラエルの王ヨラムを見舞いに行っているときに、エフーが起こしたクーデターに巻き込まれ、ヨラムと共にエフーに殺されてしまったのです。
アハズヤが死んだことを知ると、母であるアタルヤは、すぐに王の一族を虐殺して自分が王位に就きました。王の血筋を根絶やしにして権力を握ろうとしたわけです。ダビデの血筋が消滅の危機に瀕したのです。しかし、アハズヤ王の異母姉妹であるエホシェバが、アハズヤの子ヨアシュを密かに連れ出し隠しました。その時、ヨアシュはまだ一歳でした。そこで、エホシェバの夫である祭司のエホヤダが、ヨアシュを六年間、主の宮にかくまい、ヨアシュが七歳になるとヨアシュの存在を公に発表し、王に即位させ、アタルヤを処刑したのです。
幼いヨアシュ王の父親代わりであるエホヤダは、国の再出発にあたり、王とすべての民に契約を結ばせましたね。それは、「すべての者は神である主のものであり、王は神様に与えられたモーセの律法に従って民を治め、民はその王に従っていきます」という契約でした。女王アタルヤ治世では、すべてが女王の所有物であり、民は女王の命令に絶対服従を強いられ、恐怖に支配されていました。しかし、ヨアシュ王が誕生し、王も民も、詩篇100篇にあるとおり「私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊」と告白して再出発したのです。エホヤダは、それまでなおざりにされていた主の宮の様々な奉仕を復活させました。また、ヨアシュ王も、成人してから、破壊されていた神殿の修復工事を行い、まことの神様への礼拝を回復していきました。ここまでは、ヨアシュは主に信頼する熱心な王に見えました。
しかし、エホヤダが亡くなると、ヨアシュ王は次第に高慢になり、主の宮を捨て、異教のアシェラや他の神々を拝み、そのことを戒めたエホヤダの子ゼカリヤを石で打ち殺してしまったのです。そんなヨアシュの最期は、悲惨なものでした。アラム軍に首都エルサレムが攻撃され、重臣たちはみな殺され、主の宮や王宮の宝を奪われてしまいました。また、王自身が重病を患い、謀反を起こした家臣たちに殺されてしまったのです。
人はなんと弱い存在でしょう。一時的に信仰熱心になっても、いつのまにか高慢になり、神様に背を向けてしまうことがあるのですね。大切なのは、与えられた信仰を生涯保つことだということを覚えておいてください。信仰は細く長くです。
幸いなことに、主イエス・キリストによって救いを得た私たちの内には聖霊が住んでくださり、私たちが道を逸れそうなときには教え、正しい道に導いてくださいます。ですから、いつも主の御声に耳を傾け、「私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊です」と告白しながら歩んでいきましょう。
さて、今日は、第二列王記13章-15章12節に登場する北イスラエルの王たちの姿を見ていきましょう。クーデターを起こしてアハブ家を滅ぼして王になったエフーは、アハブ家と異教のバアル信仰を滅ぼすことには熱心でした。しかし、第二列王記10章31節にこう書かれていましたね、「しかし、エフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪からはなれなかった。」
この「ヤロブアムの罪」というのは、以前にもご説明しましたが、北イスラエル王国初代の王ネバテの子ヤロブアムが犯した罪です。彼は、人々が南ユダのエルサレムにある神殿に行かないようにするため、金の子牛を二つ作り、国の南端のベテルと北端のダンに一つずつ置き、「もう、エルサレムの神殿に行く必要はない。ベテルとダンにあなたをエジプトから連れ上った神々がおられるから、そこで礼拝しなさい」と命じたのです。まことの神様ではなく、金の子牛を礼拝する、それが「ネバテの子ヤロブアムの罪」です。歴代の北イスラエルの王たちは皆、この罪を止めようとはしませんでした。エフーも金の子牛に仕えることをやめようとはしなかったのです。
そこで、主は、エフーに対してこう言われました。「あなたはわたしの命じたとおりのことをアハブ家に行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に着こう。」つまり、エフーがアハブ家やバアル信仰を滅ぼしたので、しばらくはエフー王朝が続くけれど、その王朝はエフーの後、四代目までしか続かないと言われたのです。その言葉のとおり、エフーの子エホアハズ、その子のヨアシュ、その子のヤロブアム二世、そして、その子のゼカリヤまでが王位に就きましたが、ゼカリヤは王になってわずか半年後にクーデターで殺されてしまうことになります。このエフー王朝の王たちについて見ていきましょう。
1 北イスラエル・エフー王朝二代目エホアハズ王
エフーの子エホアハズは、南ユダのヨアシュ王の第二十三年に北イスラエルの王になりました。第二列王記13章2節ー3節にこう記されています。「彼は主の目の前に悪を行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を犯し続けて、それをやめなかった。それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラムの王ハザエル、および、ハザエルの子ベン・ハダデの手にいつまでも渡しておられた。」
アラムの王ハザエルは、主君のベン・ハダデを殺して王になった人物です。エリシャがハザエルの顔を見て涙を流したほど残忍なことを行う王でした。面白いことに、ハザエルが暗殺した主君とハザエルの息子の名前は、同じ「ベン・ハダデ」ですね。列王記にはベン・ハダデというアラムの王が三人出てきます。ベン・ハダデとは、「アラムの神ハダデの息子」という意味なので、アラムの王にふさわしい名前だと考えられていたのでしょう。ハザエルが暗殺したのはベン・ハダデ二世で、ハザエルの息子はベン・ハダデ三世です。
アラム軍は、前回、南ユダのヨアシュ王の時にエルサレムを襲いましたが、今回は、エホアハズ王の時に北イスラエルを苦しめたのです。エホアハズ王は兵力が底をつき、なすすべがありませんでした。しかし13章4節にこう書かれています。「しかし、エホアハズが主に願ったので、主はこれを聞きいれられた。アラムの王のしいたげによって、イスラエルがしいたがられているのを見られたからである。」エホアハズは、主の目の前に悪を行っていた王です。しかし、そんな王であっても、主はその願いに耳を傾けてくださる方だというのです。苦しいときの神頼みのような祈りでも、神様に向かって祈るなら、聞いてくださるというのです。そして、13章5節に「主がイスラエル人にひとりの救い手を与えられたとき、イスラエルの人々はアラムの支配を脱し、以前のように、自分たちの天幕に住むようになった」と書かれています。この「ひとりの救い手」が誰であったかは、はっきりわかりません。エホアハズの次の王ヨアシュを指しているのか、あるいは、当時、猛烈な勢いで勢力を拡大してきたアッシリヤ帝国の王がアラムを攻撃してきたので、アラムは自国防衛のために北イスラエルから手を引かざるを得なくなったと考えることもできます。いずれにしろ、歴史を支配してくださっている主は、エホアハズの願いを聞き、民は平穏を取り戻すことができたのです。
詩篇86篇7節には、「私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが答えてくださるからです」とあります。また、詩篇50篇15節には、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう」とあります。苦しいときの神頼みは決して悪いことではありません。苦しければ神様に頼ればいいのです。しかし、その後が肝心です。「わたしは主をあがめていきます」という告白へとつながることが大切なんですね。しかし、エホアハズと北イスラエルはどうだったでしょう。13章6節に「それにもかかわらず、彼らはイスラエルに罪を犯させたヤロブアム家の罪を離れず、なおそれを行い続け、アシェラ像もサマリヤに立ったままであった」と書かれています。つまり、「主に助けを願い求め、助けが与えられたにもかかわらず、主をあがめて生きていこうとはしなかった」というわけです。そして、13章7節には「アラムの王が彼らを滅ぼして、打穀のときのちりのようにしたので、エホアハズには騎兵五十、戦車十台、歩兵一万だけの軍隊しか残されていなかった」と書かれています。詩篇1篇4節に「悪者は・・・まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ」とありますが、彼らは、主をあがめて生きることをしなかったために、まさに「打穀のときのちり」「風が吹き飛ばすもみがら」のようになってしまったのです。
しかし、13章22節ー23節には、こう書かれています。「アラムの王ハザエルは、エホアハズの生きている間中、イスラエル人をしいたげたが、主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のために、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことは望まず、今日まで彼らから御顔をそむけられなかった。」神様は、イスラエルの祖先アブラハム、イサク、ヤコブに「あなたの子孫は祝福される」と約束しておられました。ですから、どんなに神様に背く者であっても、忍耐強く、御顔をそむけることなく、みもとに立ち帰るのを待ってくださっているのです。神様は、あわれみ深い神様です。列王記には目を覆うような悲惨で残虐な光景がこれでもかというくらい出て来ます。主が良くしてくださっても、すぐに忘れてしまう王や民の姿が描かれています。しかし、それが罪ある人の現実の姿です。私たちも同じです。しかし、神様は、そんな私たちをあわれみ、恵み、私たちの叫びに耳を傾け、必要な助けを与えてくださる方です。そして、御自分の御子のいのちさえ惜しまずに与え、私たちを救おうとしてくださる方なのです。
しかし、北イスラエルの王たちの中に、その神様に立ち帰ろうとする者は一人もいなかったのです。
2 北イスラエル・エフー王朝三代目ヨアシュ王とエリシャ
エホアハズが死ぬと、その子ヨアシュが北イスラエルの王となりました。南ユダの王ヨアシュの第三十七年のことです。北も南も同じ名前の王になったわけです。
このヨアシュの時代に、五十年以上に渡って預言活動をしてきたエリシャの人生が閉じることになります。13章の後半には、エリシャにまつわる最後の記録が記されています。
エリシャは死の病をわずらっていました。どんな大きな働きをし、すばらしいみわざを行った者でも、最期は死を迎えます。それには例外がありません。そのエリシャのもとに、イスラエルの王ヨアシュがやってきて、彼の上に泣き伏して、「わが父、わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んだのです。
ヨアシュは、これまでエリシャの助言を聞いて、まことの神様に従って生きてきたわけではありませんでした。彼は、ネバテの子ヤロブアムの道から離れず、主の目の前に悪を行い続けていたのです。しかし、彼は、エリシャのこれまでの数々の働きを見聞きし、預言者として尊敬していたのでしょう。もしかしたら、エリシャが信頼し従っている神様を自分も信頼して生きていったほうがいいのではないかと迷っていたのかもしれません。どっちつかずの状態ですね。また、当時、アラムの度重なる攻撃に苦しめられていましたから、もう頼れるのはエリシャだけという思いもあったのかもしれません。そんなヨアシュは、エリシャが死の病を煩っていることを知って、エリシャを訪ねて来たのです。
ヨアシュはエリシャに向かって「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫びましたが、これは、以前、預言者エリヤが天に上げられたとき、エリシャがエリヤに向かって叫んだ言葉と同じですね。「わが父」というのは尊敬を込めた呼び方です。そして、「イスラエルの戦車と騎兵たち」とは、エリシャの存在や語る言葉には、戦車や騎兵以上にイスラエルを守る力がある、という告白です。それは、エリシャの信じる神様にこそ力があるという告白でもありました。
すると、エリシャはヨアシュに「弓と矢を取りなさい」と言うではありませんか。ヨアシュが弓と矢を持って来ると、エリシャが「弓に手をかけなさい」と言い、王が手をかけると、エリシャは自分の手を王の手の上に置いてアラムの方角である「東側の窓をあけなさい」と言ったのです。ヨアシュが窓をあけると、エリシャはさらに「矢を射なさい」と言いました。ヨアシュが矢を射ると、エリシャは「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす」と告げたのです。ヨアシュは驚いたでしょうね。これまで何度も何度もアラムに虐げられ苦しめられてきたからです。
次に、エリシャは、「矢を取って、地面を打ちなさい」と命じました。ヨアシュは、三回だけ打ってやめました。すると、エリシャは怒って、こう言ったのです。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」(第二列王記13章19節)
エリシャは理由なくただ怒る預言者ではありませんから、エリシャが怒った理由はヨアシュの態度にあったのでしょう。ヨアシュは、東の窓を開けて矢を放ったり、矢で地面を打つことが、どのように勝利に結びつくのか、半信半疑であったかも知れませんね。もしヨアシュが真剣に主の助けを願い求めていたのなら、エリシャが「もう十分だ」と言うまで、矢で地面を打ち続けていたことでしょう。しかし、ヨアシュは、矢を打ちつけながら、こんな事に意味があるのだろうか、これがどうして勝利と結びつくのだろう、本当にアラムに勝利することができるのだろうかと、思っていたのかもしれません。結局、彼は、これ以上打ってもあまり意味がないのではないか、このぐらいで十分ではないか、と思ってやめてしまったのです。そうしたヨアシュの心の状態にエリシャは怒ったわけですね。
でも私たちもヨアシュと同じように思ってしまうことがないでしょうか。本当に主が助けてくださるだろうか、いくら祈っても無駄ではないか、主は私の声など聞いてくださらないのではないか、と思ってすぐに諦めてしまうことがあるのですね。
でも、聖書が教えているのは、主が約束してくださることに対しては、遠慮せずに大胆に求めればいいということです。詩篇81篇10節で神様は、こう言われました。「わたしが、あなたの神、主である。・・・あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」また、ヨハネ16章23節で、イエス様はこう約束してくださいました。「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」また、マタイ7章7節では、「求め続けなさい。そうすれば与えられます。捜し続けなさい。そうすれば見つかります。叩き続けなさい。そうすれば開かれます」と言われました。私たちは遠慮することなく神様に助けや救いや恵みを祈り求めることができるのですね。
ただ、誤解しないでください。私たちが祈り求める時間の長さや熱心さに応じて神様が何かを与えてくださるということではありません。また、私たちが自分勝手に求めるものを何でも与えてくださるという意味でもありません。神様は私たちが求める前から私たちに必要なもの、私たちにとって益になるものをご存じで、神様の方から与えようとしておられるのです。その愛に溢れる父なる神様に信頼し、神様が必ず何とかしてくださると期待し続けることが大切だといういうことなのですね。
さて、このあと、エリシャは死んで葬られましたが、その墓でも不思議なことが起こりました。人々がある人を葬ろうとしていたとき モアブの略奪隊が来たので、あわてて遺体をエリシャの墓に投げ入れて去って行きました。その遺体がエリシャの骨に触れると、生き返ったというのです。
これまで見てきたとおり、エリシャの生涯には、不思議な奇跡が次から次へと起こりました。人を癒やし、生き返らせ、悪い水を良くし、壺の油は尽きず、水の中に沈んだ斧が浮かび、敵の大軍を退け、飢饉状態が一夜にして解消されました。神様は、いやし、生かし、回復し、養い、必要を満たし、敵を含めすべてを支配する力がある生ける主であるということがエリシャを通して示されたのです。それは、来たるべき救い主の働きをあらかじめ示すものともなりました。
さて、イスラエルの王ヨアシュは、エリシャの預言通り、アラムを三度打ち破り、イスラエルの町々を取り返しました。また、戦いを挑んできたユダの王アマツヤを打ち負かし、アマツヤを捕らえてエルサレムに連れてきて、エルサレムの西北の城壁を壊し、神の宮と王宮の財宝と人質を取って、サマリヤに帰りました。このユダの王アマツヤについては次回見ていくことにしましょう。
5 北イスラエル・エフー王朝四代目ヤロブアム二世と五代目ゼカリヤ
さて、ヨアシュの次の王ヤロブアムは、北イスラエル初代の王ヤロブアムと区別するためにヤロブアム二世と呼ばれていますが、ヤロブアム一世から始まった金の子牛を拝むという罪をやめることはありませんでした。しかし、このヤロブアム二世の時代に北イスラエルは最も繁栄し、領土はアラムの支配地域であったダマスコの北方から南は死海の近辺まで広がったのです。ですから、彼はこの世の王としては成功者です。しかし、第二列王記14章26節-27節にこう書かれています。「主がイスラエルの悩みが非常に激しいのを見られたからである。・・・主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。」ヤロブアムは、神様を信頼し生きたわけではありません。しかし、主は、御自分の民の激しい悩みを見て、あわれみ、ヤロブアムを用い助けてくださったのです。しかし、王も人々もそのことに気づかず、背信の道を歩み続けていきました。そして、ヤロブアムの子ゼカリヤは、王となって半年後にクーデターで殺され、エフー家の血筋は途絶えてしまったのです。
その後の北イスラエルは、クーデターが繰り返されて混乱を極め、台頭してきたアッシリヤ帝国の脅かしに苦しむことになります。北イスラエルは、主に立ち帰ることなく、滅亡への道を進んでいくことになるのです。