城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二三年九月一七日             関根弘興牧師
                第二列王記一五章一節〜七節
       
 列王記連続説教16
   「高慢と滅び」
 
 1 イスラエルの王ヤロブアムの第二十七年に、ユダの王アマツヤの子アザルヤが王となった。2 彼は十六歳で王となり、エルサレムで五十二年間、王であった。彼の母の名はエコルヤといい、エルサレムの出であった。3 彼はすべて父アマツヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。4 ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。5 主が王を打たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり、隔ての家に住んだ。王の子ヨタムが宮殿を管理し、この国の人々をさばいていた。6 アザルヤのその他の業績、彼の行ったすべての事、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
7 アザルヤが彼の先祖たちとともに眠ったとき、人々は彼をダビデの町に先祖たちといっしょに葬った。彼の子ヨタムが代わって王となった。(新改訳聖書第三版)
 
 前回は、長い間、預言活動をしてきたエリシャの最期の出来事を見ましたね。エリシャの生涯には、不思議な奇跡が次から次へと起こりましたが、それを通して、神様がいやし、生かし、回復し、養い、必要を満たし、すべてを支配する力のある生ける主であるということが示されたのです。
 また、前回は、北イスラエルのエフー王朝の王たちの姿も見ていきましたね。エフー王朝は、エフーの死後、四代目まで続きましたが、どの王も北イスラエルの初代の王であるネバテの子ヤロブアムの罪を犯し続けました。「ヤロブアムの罪」とは、まことの神様の代わりに金の子牛を礼拝させるという罪です。北イスラエルの王たちは、人々が南ユダのエルサレムにある神殿に行かないようにするため、金の子牛を作って国の南と北に置き、礼拝させたのです。エフーの後を継いだエホアハズ王も、金の子牛の礼拝を止めず、さらに異教のアシェラ象を立てて礼拝し、主の前に悪を行ったので、敵国アラムに攻撃され大損害を受けました。しかし、エホアハズが主に願うと、主は助けを与えてくださいました。それは、エホアハズが主の目にかなっていたからではなく、「主がイスラエルの人々が苦しんでいる姿をご覧になったからだ」と書かれていましたね。どんなに主に逆らっている人でも、苦しいときの神頼みのような祈りであっても、あわれみ深い主は耳を傾けてくださるのです。ただ、その後が肝心です。主によって助けられたら、「わたしは主をあがめていきます」という告白へとつながることが大切なのです。しかし、エホアハズも民も相変わらず主に背く道を歩んでいったのです。次に王になったのヨアシュは、死期の迫ったエリシャのもとに来て助けを願い求めたので、アラム軍を三度打ち破ることができましたが、やはり、金の子牛の礼拝を止めることはありませんでした。その息子のヤロブアム二世が王になると、北イスラエル王国は領土を拡大し、最も繁栄した時代を迎えました。しかし、それは、ヤロブアムが神様を信頼して生きたからではありません。第二列王記14章26節-27節には「主がイスラエルの民の悩みが非常に激しいのを見て、ヤロブアムによって彼らを救われたのである」と書かれています。ヤロブアムの時代に国が繁栄したのは、ただ神様のあわれみによったのです。しかし、王も人々もそのことに気づかず、背信の道を歩み続けていきました。そして、ヤロブアムの子ゼカリヤは、王となって半年後にクーデターで殺され、エフー家の血筋は途絶えてしまったのです。
 
 さて、北イスラエルでエフー王朝が続いているとき、南ユダは、どうだったでしょうか。前々回、悪名高いアタルヤが王の一族を虐殺して女王に即位したとき、一歳のヨアシュだけが難を逃れ、六年後に七歳で王となったことを見ましたね。同じ時期に北イスラエルにもヨアシュという王がいたので、混同しないように気をつけてくださいね。南ユダの王ヨアシュは、後見人の祭司エホヤダが生きている間は、神殿の修復工事をするなど熱心に主に従っていましたが、エホヤダの死後、高慢になり、まことの神様に背を向けて偶像礼拝を行い、それを批判したエホヤダの息子を石で打ち殺すなどの悪行を行ったので、アラムの軍隊にエルサレムを攻撃されて多くのものを奪われ、自らは重病の床で家来に殺されてしまいました。ヨアシュは初めは信仰熱心な良い王に見えましたが、高慢になって、悲惨な最期を迎えたのです。信仰は、一時的に熱心になるよりも、一生涯かけて継続していくことが大切だということを学びましたね。
 さて、今日は、このヨアシュの死後、南ユダの王になったアマツヤ、ウジヤ、ヨタム、アハズの姿を見ていきましょう。
 
1 南ユダの王アマツヤ
 
 アマツヤのことは、第二列王記14章と、第二歴代誌25章に記されています。第二歴代誌25章2節には「彼は主の目にかなうことを行ったが、全き心をもってではなかった」と書かれています。表面的に主に従っていただけだったのですね。国が強くなって地位を確立したアマツヤは、父ヨアシュ王を殺害した家来たちを死刑に処しました。ただ、彼らの子どもたちを殺すことはしませんでした。神様の律法に従って対処したのです。
 そして、彼は、軍備を拡大していきました。自国の兵だけで三十万人の精鋭を揃えましたが、さらに、大金を投じて、北イスラエルから十万人の勇士を雇ったのです。しかし、預言者が彼のもとに来て言いました。「王よ。北イスラエルの兵士たちと一緒に戦いに行ってはいけません。主は、北イスラエルとともにおられないからです。もし、一緒に行けば、神は敵の前にあなたをつまずかせられます。」アマツヤは、軍勢の多い方が有利だと思ったのですが、いくら人数が多くても、神様に背く人々に頼るなら、それは、かえってつまずきになるというのです。詩篇33篇の16節に「王は軍勢の多いことによっては救われない」、18節に「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に」とあります。大切なのは、人数の多さではなく、少数でも主に信頼する人々が揃っているかということなのです。これは、私たちもよく覚えておくべきことですね。
 預言者の言葉を聞いたアマツヤは、「すでにイスラエルの兵士たちに支払った大金が無駄になってしまう」と躊躇しましたが、預言者に「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります」と言われ、イスラエルの兵士たちを解雇して国に帰らせる決断をしました。そして、奮い立って、残った南ユダの兵を率いて南の地域に住むエドム人を制圧したのです。
 しかし、エドムとの戦いに勝利すると、アマツヤは自信過剰になっていきました。「なんだ、わざわざ他国から兵隊を雇わなくても勝利できるではないか」と思ったのかも知れません。そして、なんとエドムの神々を持ち返り、拝み始めたのです。たくさんの神様を信じていれば、さらに強くなれるかも知れないぞ、と言わんばかりの行動でした。アマツヤというのは「主が強くしてくださる」という意味の名前です。しかし、肝心の「主」が抜け落ちてしまいました。第二歴代誌25章15節にこう書かれています。「主はアマツヤに向かって怒りを燃やし、彼のもとに預言者を遣わして、彼に仰せられた。『なぜ、あなたは、あなたの手からその民を救い出すこともできないような神々を求めたのか。』」すると、王は「それ以上預言を続けると打ち殺すぞ」と答えたのです。そこで預言者は言いました。「私は神があなたを滅ぼそうと計画しておられるのを知りました。あなたがこれを行い、私の勧めを聞かなかったからです。」箴言16章18節に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」と書かれています。まさに、この言葉を地でいっているようなアマツヤでした。
 高慢になったアマツヤは、北イスラエルを制圧しようという野心を抱くようになり、北イスラエルのヨアシュ王に使者を送って、「さあ、勝敗をきめようではないか」と宣戦布告しました。すると、ヨアシュからこのような返事が来ました。「レバノンのあざみが、レバノンの杉に使者を送って、『あなたの娘を私の息子の嫁にくれないか』と言ったが、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじった。あなたは、どうだ、自分はエドムを打ち破ったと言った。あなたの心は高ぶり、誇っている。今は、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか。」(第二歴代誌25章18節ー19節)ヨアシュは自分を杉にたとえ、アマツヤをあざみにたとえて、「戦ってもそっちが負けるだけだぞ。身の程知らずめ」とあざけったわけですね。
 自信過剰状態であったアマツヤはこの言葉に怒り、戦いが始まりました。しかし、南ユダ軍は北イスラエル軍に完全に打ち負かされ、アマツヤは捕らえられ、エルサレムの西北端の城壁約百八十メートルが破壊され、神殿と王宮の財宝が奪われ、人質まで取られてしまったのです。アマツヤの自信も誇りもプライドもすべて砕かれてしまいました。まさに、「高ぶりは破滅に先立つ」ことを示す出来事となったのです。その後、第二歴代誌25章27節に「アマツヤが主から離れた時、人々が彼に対して謀反を企てた」とあります。主に背いたアマツヤは、人々の信頼を失い、謀反によって殺害されてしまったのです。
 
2 南ユダの王ウジヤ(アザルヤ)
 
 アマツヤが死ぬと、ユダの民は当時16歳のウジヤ(アザルヤ)を王に立てました。ウジヤについては、第二列王記ではアザルヤという名になっていて、ごく短く書かれているだけですが、第二歴代誌26章には詳しく記されています。彼は五十二年間国を治めましたが、主に対する姿勢は一貫していませんでした。第二歴代誌26章5節にこう書かれています。「彼は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた。」このゼカリヤがどういう人物であったのかはよくわかりません。しかし、16歳の若さで王になったウジヤの良き助言者だったのでしょう。
 ウジヤの時代には、北イスラエルではヤロブアム二世が繁栄を極めていました。それがウジヤの心を刺激したのではないかと思います。追いつけ、追い越せ、という勢いで、ウジヤは近隣諸国との戦いに次々と勝利しました。第二歴代誌25章8節には、「こうして、彼の名はエジプトの入り口にまで届いた。その勢力が並外れて強くなったからである」と書かれています。
 ウジヤは、農業を好み、各地に家畜のための水ためを掘ったり、農地や果樹園を作りました。また、エルサレムの周りにやぐらを建て、強力な軍隊を組織し、新たに考案した武器や兵器を配備しました。第二歴代誌26章15節にはこう書かれています。「こうして、彼の名は遠くにまで鳴り響いた。彼がすばらしいしかたで、助けを得て強くなったからである。」以前、ソロモンが主からの知恵と助けを受けて繁栄したように、ウジヤも主の知恵と助けを得て強くなったのです。だからこそ、主の前に謙遜に歩むことが求められていたのです。
 しかし、第二歴代誌26章16節にこう書かれています。「しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入った。」人は、力を手に入れると、要求がエスカレートしていきます。繁栄と力を手に入れたウジヤにないものは、民の礼拝の中心である神殿の中での権威だけでした。神殿では、毎日朝と夕に祭司が香をたいていました。それは、神様にささげる祈りの象徴でした。祭司が民を代表して神様に祈りを捧げるのです。神殿の中に入って香をたくことができるのは、祭司たちだけでした。神殿の管理や奉仕はすべて神様から選ばれた祭司たちが行うということは、神様から与えられた律法にはっきりと規定されているのです。神様の命令ですから、たとえ王であっても従わなくてはなりません。しかし、ウジヤは、神殿でもすべてを仕切る特権を自分のものにしたいと考えたわけです。そこで、強引に神殿の中に入り、香をたこうとしました。すると、祭司たちがウジヤの前に立ちふさがってこう言いました。「ウジヤよ。主に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。あなたは不信の罪を犯したのです。あなたには神である主の誉れは与えられません。」(第二歴代誌26章18節)しかし、ウジヤは、激しく怒り、むりやり香をたこうとしました。そのときです。突然、彼の額にツァラアトという皮膚病が現れたのです。ユダヤの社会では、ツァラアトに冒された者は、汚れた者とみなされ、社会から隔離されました。ウジヤも死ぬまで隔離されて生活することになったのです。主の助けを受けて強くなり繁栄したウジヤでしたが、彼もまた「心の高慢は倒れに先立つ」ことを示す例となってしまいました。 
 
3 南ユダの王ヨタム
 
 ウジヤがツァラアトになって隔離されてからは、その子のヨタムが王の代理を務め、ウジヤが死んだ後、王に即位しました。このヨタムについては、第二列王記15章32節ー38節と第二歴代誌27章に書かれています。エルサレムの門や城壁の増改築を行ったこと、ユダの山地に町々を建て、森林地帯に城塞とやぐらを築いたこと、また、アモン人に勝利し、貢ぎ物を納めさせたことが簡単に書かれているだけで、とくに脚光を浴びるような王ではありませんでした。しかし、第二歴代誌27章2節には「彼はすべて、主の目にかなうことを行った」とありますし、6節には「このように、ヨタムは勢力を増し加えた。彼が、彼の神、主の前に、自分の道を確かなものとしたからである」と書かれています。この「自分の道を確かなものとした」というのは、新共同訳では「たゆまず歩き続けた」と訳されています。これまで、最初は良くても、力を持ち始めた途端に高慢になって主から離れてしまう王がたくさんいましたね。しかし、ヨタムは、主に信頼する道を最後までたゆまず歩き続けたのです。「継続」の大切さですね。信仰は細く長くです。もしかしたら、ヨタムは父ウジヤが高慢になって不遇の晩年を送った姿を見て、主の前に謙虚に歩むことの大切さを学んだのかもしれませんね。ヨタムは、これまで登場した王様としては大変珍しく、生涯にわたって主の目にかなう誠実な歩みを続けていったのです。
 ただ、第二列王記15章35節には「ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも高きところでいけにえをささげたり、香をたいたりしていた」とあります。この「高き所」は、神殿ができる前は、神様に礼拝する場所として使われていましたが、神殿ができてからは、次第に偶像礼拝の場所に代わっていきました。ヨタム王が主に従って歩んでいても、民の中には偶像礼拝が続いていたのです。ですから、第二歴代誌27章2節には「民はなお滅びに向かっていた」と書かれています。また、第二列王記15章37節には「そのころ、主はアラムの王レツィンとレマルヤの子ペカをユダに送って、これを攻め始めておられた」とあります。北イスラエル王ペカについては次回お話しする予定ですが、ペカは、アラムの王とともに南ユダを攻略しようとしていたのです。ですから、主の前をたゆまず歩き続けたヨタムの時代にも、国内外に不穏な情勢が続いていたのですね。
 
4 南ユダの王アハズ
 
 ヨタムが死ぬとその子アハズが王となりました。このアハズは父ヨタムと違って、とんでもない悪い王様の一人として数えられています。第二列王記16章と第二歴代誌28章にその悪行の数々が記されています。20歳で王となったアハズは、バアルの神や当時最も忌み嫌われたモレクの神を礼拝し始めました。モレクの神は、ミルコムとも呼ばれますが、その神殿には、雄牛の頭を持った青銅の像が手を突き出して立ち、モレクの信者たちは、その手の上に子供をのせ、下から火をたいていけにえとしたのです。モレクの祭司たちは、太鼓をたたき続けて、子供の叫び声を消し、両親の悲しみを和らげたのだそうです。聖書の中で最も忌み嫌うべきものとして記されているのがこのモレク礼拝でした。昔、繁栄を極めたソロモン王は、妻たちが持ち込んだモレクの神のために、エルサレム南西のベン・ヒノムの谷のトフェテにモレクの神殿を造りました。そのことで主の怒りを招いたわけですが、アハズは、ソロモンが繁栄したのはモレクの神殿を造ったからではないかと考えて、ソロモンと同じような繁栄を手にするためにモレク礼拝をしたのかもしれません。
 しかし、その結果はどうだったでしょうか。第二歴代誌28章5節にこう書かれています。「彼の神、主は、彼をアラムの王の手に渡されたので、彼らは彼を打ち、彼のところから多くのとりこを捕らえて行き、ダマスコへ帰った。彼はイスラエルの王の手にも渡されたので、イスラエルの王は彼を打って大損害を与えた。」アラムの王レツィンとイスラエルの王ペカによって大損害を受けたのです。特に北イスラエル軍は、一日のうちにユダの勇士たち十二万人を殺し、王の子や補佐官を殺し、女や子どもたち二十万人をとりこにし、多くの分捕り物と共にサマリヤに連れ去ったのです。殺されたユダの勇士十二万人については「彼らはその父祖の神、主を捨て去っていた」(第二歴代誌28章6節)と書かれています。アハズ王だけでなく、兵士も民も主に背をむけていたのですね。
 しかし、28章9節ー15節に興味深いことが書かれています。サマリヤに戻って来た北イスラエルの軍勢の前に預言者オデデが現れ、こう告げたのです。「見よ。あなたがたの父祖の神、主がユダに対して憤られたため、主はあなたがたの手に彼らを渡された。ところが、あなたがたは天に達するほどの激しい怒りをもって彼らを殺した。今、あなたがたはユダとエルサレムの人々を従えて自分たちの男女の奴隷にしようとしている。しかし、実はあなたがた自身にも、あなたがたの神、主に対して罪過があるのではないか。今、私に聞きなさい。あなたがたが自分の同胞をとりこにしたそのとりこを帰しなさい。主の燃える怒りがあなたがたに臨むからです。」すると、彼らは、オデデに従って、とりこの世話をし、衣服と食事を与え、傷を負っている者の治療をし、弱い者のためにはロバを用意して、南ユダの北端の町エリコに連れて行って解放したのです。北イスラエルの人々は南ユダの惨状を目の当たりにして、主の怒りが自分たちにも下ることを恐れたのでしょうね。
 しかし、それでもアハズの心は主から離れたままでした。アラムと北イスラエルに攻められたアハズは、主に助けを求めるのではなく、当時、猛烈な勢いで勢力を拡大していたアッシリヤの王に助けを求めたのです。アハズが主の宮と王宮の宝物倉にある金銀をアッシリヤ王に送ったので、アッシリヤ王はアラムのダマスコに攻め上り、アラム王レツィンを殺しました。
 そのアッシリヤ王に会うためにダマスコに行ったアハズは、そこにある祭壇を見て、それと同じものを作らせ、エルサレムの神殿に置きました。この祭壇がアッシリヤから持ち込まれたものなのか、アラム王が使っていたものなのか、はっきりわかりませんが、ともかくアハズは「この神様を礼拝すれば、アッシリヤやアラムのような力を持つことができるだろう」と考えたのです。まったく節操のない王ですね。しかも、アハズは、まことの神様にいけにえをささげる祭壇を脇にどかし、ダマスコの祭壇に似せて作らせた祭壇を中心に置き、そこですべてのいけにえをささげるように命じたのです。さらにアハズは、神の宮の器具を取り払い、主の宮の戸を閉じ、エルサレムの町かどの至る所に異教の神々の祭壇を作り、ユダの町々に異教の神々のための高き所を作りました。
 アハズは、強国の神々を拝み、アッシリヤ王が喜ぶことをすれば助かるだろうと考えていたようです。しかし、その後、アッシリヤはたびたび南ユダを悩ますことになるのです。第二歴代誌28章21節にあるように、アハズのやったことは「何の助けにもならなかった」のです。
 詩篇37章5節には「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」、詩篇62篇8節には「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」とあります。私たちは、主を信頼する道をたゆまず歩き続け、主の助けを受けながら、ゆるぎないものとさせていただきましょう。