城山キリスト教会 礼拝説教
二〇二三年一〇月八日 関根弘興牧師
第二列王記一七章一節〜六節、二四節
列王記連続説教17
「北イスラエルの滅亡」
1 ユダの王アハズの第十二年に、エラの子ホセアがサマリヤでイスラエルの王となり、九年間、王であった。2 彼は主の目の前に悪を行ったが、彼以前のイスラエルの王たちのようではなかった。3 アッシリヤの王シャルマヌエセルが攻め上って来た。そのとき、ホセアは彼に服従して、みつぎものを納めた。4 しかし、アッシリヤの王はホセアの謀反に気がついた。ホセアがエジプトの王ソに使者たちを遣わし、アッシリヤの王には年々のみつぎものを納めなかったからである。それで、アッシリヤの王は彼を逮捕して牢獄につないだ。5 アッシリヤの王はこの国全土に攻め上り、サマリヤに攻め上って、三年間これを包囲した。6 ホセアの第九年に、アッシリヤの王はサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕らえ移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に住ませた。・・・24 アッシリヤの王は、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、そして、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代わりにサマリヤの町々に住ませた。それで、彼らは、サマリヤを占領して、その町々に住んだ。(新改訳聖書第三版)
前回は、南ユダの王アマツヤ、ウジヤ、ヨタム、アハズの姿を見ていきました。アマツヤもウジヤも、最初は主に従っていたのに、次第に高慢になって、自らに災いを招いてしまいましたね。箴言16章18節に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」とあるとおりです。
まず、アマツヤ王は自分の力を過信して北イスラエルのヨアシュ王に戦いを挑み、逆に、散々に打ち負かされ、最後は謀反によって殺されてしまいました。次のウジヤ王は、国を強くし繁栄させましたが、やはり高慢になって、神殿の祭司の権威さえも自分のものにしようとしたために、主に打たれ、ツァラアトに冒されて、死ぬまで隔離生活を送ることになりました。そのウジヤの姿から高慢になることの愚かさを学んだのかもしれませんが、次のヨタム王は、「主の前に、自分の道を確かなものとした」「主の前をたゆまず歩き続けた」と書かれていましたね。何か素晴らしい業績を上げるよりも、最後まで主に信頼して歩み続けることが私たちにとって最も大切なことなのですね。ところが、次のアハズ王は、父ヨタム王と違って、まことの神様から目を背け、異教の様々な神々を礼拝し、アッシリヤの王の力に頼ろうとしました。しかし、それは「何の助けにもならなかった」と書かれていました。アハズは自分で様々なものに助けを求めましたが、肝心の神様への信頼が抜け落ちてしまっていたために、ただ混乱と災いをもたらしただけだったのです。
1 北イスラエル王国末期の王たち
さて、この前回お話しした王たちの時代に、一方の北イスラエルでは何が起こっていたのかを見ていきましょう。
前々回にお話ししましたように、北イスラエルでは、しばらくエフー王朝が続き、四代目のヤロブアム二世の時には、最も繁栄しました。しかし、次のゼカリヤ王は即位後わずか半年で、シャルムの起こした謀反によって殺され、エフー王朝は滅亡してしまいました。
謀反によって王となったシャルムは、今度はわずか一ヶ月後にメナへムの謀反によって殺されてしまいました。王となったメナへムは、自分に従わない者を容赦なく殺し、なんと妊婦たちさえも切り裂いたという残酷な王です。彼は十年間国を治めるのですが、当時は、アッシリヤ帝国が大きな脅威となっていました。そのアッシリヤの王が北イスラエルに迫ってきたとき、メナへムは、イスラエルの有力者たちからそれぞれ銀五十シェケルずつ供出させ、アッシリヤの王に銀一千タラント(三百万シェケル)を渡しました。銀五十シェケルは奴隷一人分の値段です。つまり、メナへムは、北イスラエルがアッシリヤの捕虜になる代わりに、六万人分の身代金を支払ったわけです。そこで、アッシリヤ王は引き返して行きました。
このメナヘムが死ぬと、その子ペカフヤが王となりました。しかし、そのニ年目、王の侍従であったペカが謀反を起こし、ペカフヤを殺して王になりました。ペカは、アラムの王レツィンと手を組み、南ユダを攻撃しました。第二歴代誌28章5節には、アラム軍と北イスラエル軍が南ユダに大損害を与えたことが書かれています。敗北した南ユダの王はアハズでした。先ほどお話ししましたように、アハズは、神様に背を向け、忌まわしい偶像礼拝に頼っていました。アラムと北イスラエルに攻められたときも、神様にではなく、アッシリヤに助けを求めました。アハズが、主の宮や王宮の金銀をアッシリヤ王に送ったので、アッシリヤはアラムの首都ダマスコを攻め、アラムの王レツィンを殺し、アラムを滅ぼしてしまいました。そして、さらに、北イスラエルの北部の町々を占領し、その住民をアッシリヤへ捕らえ移してしまったのです。その後、アッシリヤは、北イスラエルだけでなく、南ユダにも迫ってくるようになります。
北イスラエルの王ペカは、その後、謀反を起こしたホセアに殺されてしまいます。このホセアが北イスラエル最後の王となるのです。
2 北イスラエル王国の滅亡
ホセアの時代に、アッシリヤ帝国は、さらに力を増し、もはや誰も逆らうことができない強国となっていました。アッシリヤは北イスラエルに貢ぎ物を要求してきました。貢ぎ物を治める限り国の安全を保証するというわけです。しかし、ホセアはアッシリヤに服従しなければならない状態を何とかしようと、エジプトの力を頼りました。エジプトに使者を送り、アッシリヤに貢ぎ物を納めるのをやめてしまったのです。すると、アッシリヤの王はホセアが謀反を企んだと見なし、ホセアを逮捕し投獄しました。そして、サマリヤを占領し、住民をアッシリヤに捕らえ移し、代わりに、各地の住民を連れてきてサマリヤに住まわせたのです。これは、アッシリヤがいつも占領地に対して行うやり方でした。占領地の住民を他の地に移し、別の民を連れてきて代わりに住まわせることによって、民族のアイデンティティーを失わせる混血政策を行ったわけです。こうして、ホセア王の第九年(紀元前七二二年)に北イスラエル王国は滅亡し、民族としての独立性も失ってしまいました。さらに、様々な地域から移住してきた人々が様々な神々を持ち込み、また、イスラエルが拝んでいた神様も拝まなければならないということで自分勝手な方法で礼拝したので、この地域は宗教的にも以前よりさらに混沌とした状態に陥ってしまったのです。民族的にも宗教的にも純粋さを保てなかったということで、サマリヤの人々は、新約聖書の時代になってもユダヤの人々から侮りの対象となってしまうことになります。
さて、旧約聖書の十二小預言書の一つに「ホセア書」がありますが、ホセアは、北イスラエルのヤロブアム二世の時代から北イスラエル滅亡の寸前まで活動していた預言者です。たまたま最後の王ホセアと同じ名前ですが、「主は救い」という意味の名前です。ホセア王は、名前と違って主ではなくエジプトに救いを求めて滅びを招きましたが、預言者ホセアは、エジプトに救いを求める愚かさを指摘し、主に立ち返る必要があることを語り続けました。ホセア14章1節、4節ではこう語っています。「イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。・・・ わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。」預言者ホセアは、主に立ち返りさえすれば、主は赦し、解決の道を備えてくださると熱心に語り続けたのです。しかし、誰も耳を傾けようとはせず、結局、北イスラエルは滅びてしまったのです。
3 滅びの原因
第二列王記17章7節-8節には、北イスラエルが滅びた原因が書かれています。「こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。」彼らの滅亡の原因は、背信でした。彼らは、奇跡的なみわざによって自分たちをエジプトの奴隷状態から救い出し、約束の地に導いてくださった神様への感謝と信頼を忘れ、神様との契約に背き、神様の警告を無視し続け、神様の救いを受け取ろうとしなかった結果、自らに滅びを招いてしまったのです。
これまで列王記を読んできて、皆さんは、「どうして王様も民もこんなに簡単に神様に背を向けて、別のものに頼ってしまうのだろう」と疑問に思ったのではないかと思います。彼らの姿を見ると、人がいかに弱く自分勝手なものであるかと考えさせられますね。彼らはなぜ簡単に神様に背いてしまったのでしょうか。
詩篇73篇1節ー12節にこう書かれています。「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。・・・見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、友を増している。」この詩篇の記者は、神様を信頼していない人々が裕福で繁栄して幸せそうに生活している姿を見ました。また、神様を信頼している人が苦しみや悲しみを味わう姿も見ました。「神様は、心のきよい人に慈しみ深いはずなのに、現実は真逆ではないか」「神様を信じても意味がないのではないか」と感じてしまったのです。
歴史を見ても、神様に背を向ける国や王が驚くほどの繁栄を成し遂げることがあります。当時、最も力を持っていたアッシリヤ帝国も神様に背を向けている筆頭の国ですね。今でも、神様を信じている人が嘲られ、神様に背を向けている者たちが安らかにしている現実を見ることがあります。そうした姿を見ると、信仰とは何かを考えさせられてしまいますね。
しかし、実は、大切なのは、信仰のあり方なのです。もし「自分の利益のために神様を信じよう」という信じ方なら、思うようにいかないと、「何の得にもならないから信じるのを止めてしまおう」「別のものに乗り換えた方がいい」という方向に簡単に向いてしまいます。神様を自分勝手に都合のいいように利用しようという自分本位の態度が根本にあるのですね。そういう態度を続けていく結果はどうでしょうか。詩篇73篇17節ー19節にはこう書かれています。「私は、神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った。まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。まことに、彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされましょう。」つまり、どんなに繁栄していたとしても、自分が上手くいくことのみを求めていく自分本意な信仰生活は、自からをすべりやすい所に置いていることにほかならない、というのです。自分の得になるか損になるかという自分本位の土台は、とても脆いものなのですね。
では、本来の信仰のあり方とは、どのようなものでしょうか。それは、神様御自身、神様の御性質そのものに信頼するということです。神様が私たちを愛し、最善を行ってくださること、そして、神様がすべてを支配し、時にかなって適切なことを行ってくださることを信頼して生きていくのです。自分の損得に関係なく、神様とともに生きていこうとするのです。そういう神様御自身への信頼こそが、本来の信仰の姿であり、揺らぐことのない人生の土台となるのです。
4 南ユダの王ヒゼキヤ
さて、北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされたとき、南ユダではヒゼキヤが王になっていました。ヒゼキヤの父アハズは、前回も見たとおり、最悪の王の一人でした。当時最も忌み嫌われたモレクの神を礼拝し、アッシリヤにより頼み、エルサレムの神殿の主の祭壇を脇にどかして、代わりに異教の祭壇を据え、エルサレムの町かどの至る所に異教の神々の祭壇を作りました。まことの神様に完全に背を向けていたのです。
しかし、息子のヒゼキヤは違いました。第二列王記18章5節には、「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」と書かれているほどの王でした。このヒゼキヤについては、第二列王記18章ー20章と第二歴代誌29章-32章にかなり詳しく書かれています。
ヒゼキヤは、即位するとすぐに、父の時代に持ち込まれた、様々な偶像や異教の礼拝の場所を取り除き、打ち壊しました。また、第二列王記18章4節には「モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた」と書かれていますが、これは、民数記21章に出てくるものです。イスラエルの民は、エジプトを脱出して荒野を旅している途中、神様の恵みを忘れて文句や不平を言い始めました。「そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ」と書かれています。民はモーセのもとに来て、「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください」と懇願しました。モーセが主に祈ると、主は「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」と言われたのです。そして、不思議なことに、蛇にかまれた人が、モーセの作った青銅の蛇を仰ぎ見ると、命が助かったのです。それ以来、その青銅の蛇は大切に保管されていたのですが、人々は次第にこの青銅の蛇そのものに不思議な力が宿っているかのように礼拝するようになっていました。異教の偶像と同じようなものになってしまっていたのです。そこで、ヒゼキヤはその蛇を打ち砕き、まことの神様だけを礼拝することの大切さを示したわけです。これはなかなか勇気のいる行為ですね。私たちも、注意する必要がありますね。教会に飾られた十字架、聖人の像や絵画などの特定の物や場所を特別なものであるかのように考え、礼拝してしまうなら、それは間違いなのです。
ヒゼキヤはまた、父の時代になおざりにされていた主の宮を修理してきよめ、まことの神様を礼拝するための奉仕者を整えました。そして、民を集めて主の前にいけにえをささげ、あらためて主に従う契約を結びました。
また、ユダだけでなく、北イスラエルの地域にいる残りの民にも使いを遣わし、こう呼びかけました。「イスラエルの人たちよ。アブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち返りなさい。そうすれば、主は、あなたがたに残された、アッシリヤの王たちの手をのがれた者たちのところに、帰って来てくださいます。あなたがたは、父祖の神、主に対して不信の罪を犯したあなたがたの父たち、兄弟たちのようになってはいけません。あなたがたが自分の目で見ているとおり、主は彼らを恐怖に渡されたのです 今、あなたがたは、自分の父たちのようにうなじのこわい者であってはなりません。主に服従しなさい。主がとこしえに聖別された聖所に入り、あなたがたの神、主に仕えなさい。そうすれば、主の燃える怒りがあなたがたから離れるでしょう。あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたの兄弟や子たちは、彼らをとりこにした人々のあわれみを受け、この地に帰って来るでしょう。あなたがたの神、主は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません。」そして、共に集まって主に過越のいけにえをささげようではないか、と呼びかけたのです。
「過越のいけにえ」は、イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から解放されたことを記念するものです。イスラエルの民がエジプトから出ていくことを認めようとしないエジプトの王に対して、神様は、十の災いを下されましたが、十番目の災いは、一晩のうちにエジプトのすべての初子が死んでしまう、という災いでした。ただ、神様は、この災いを下す前に、「子羊の血を門柱と鴨居に塗ってある家は、さばきを下さずに通り越す」と約束してくださったのです。その約束を信じて羊の血を塗ったイスラエルの民の家には何も起こりませんでしたが、神様を信じなかったエジプト中の家の初子は、パロの長男から家畜の初子に至るまで一晩のうちに死んでしまったのです。この災いの結果、イスラエルの民は、エジプトから追い出されるようにして脱出することができました。そして、この主の救いのみわざを覚えておくために、毎年、過越のいけにえをささげる祭りを行うようにと律法に規定されました。しかし、ヒゼキヤの時代まで、長い間行われていなかったのです。
そこで、ヒゼキヤは、改めて主の偉大な救いのみわざを思い起こすために過越のいけにえをささげようと民に呼びかけました。過越のいけにえは、本来は、第一の月の十四日にささげることになっていましたが、民数記9章10節ー11節には、もし何らかの事情で第一の月にささげることができなければ、第二の月の十四日にささげてもいいことになっていました。ヒゼキヤは、いけにえをささげる祭司たちや民の準備が十分出来ていなかったので、第一の月ではなく、第二の月に過越のいけにえをささげ、その後の一週間は、律法の規定通り種を入れないパンの祭りを行うことにしたのです。これは、エジプトを脱出した民が種をいれないパンを食べたことを記念する祭りです。
ヒゼキヤから遣わされた使者たちのの呼びかけを聞いた北イスラエルの残された人々の多くは、彼らを物笑いにし、嘲りましたが、心ある人々がへりくだってエルサレムに上ってきました。そして、南ユダの人々はどうだったかというと、第二歴代誌30章12節には、「ユダには、神の御手が望み、人々は心を一つにして、主のことばのとおりに王とそのつかさたちの命令を行った」と書かれています。その結果、盛大な祭りが行われ、祭りはさらに一週間延長して行われました。第二歴代誌30章26節ー27節には、こう書かれています。「エルサレムには大きな喜びがあった。イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの時代からこのかた、こうしたことはエルサレムになかった。それから、レビ人の祭司たちが立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まい、天に届いた。」
ヒゼキヤは、何か特別な新しいことを行ったのではなく、まず礼拝の回復から始めていきました。そして、主の律法に従い生きていくように制度を整え、民を導いていったのです。ヒゼキヤは、これまでのどの王よりも主を愛し、主に従う王様でした。第二列王記18章6節ー8節にはこう書かれています。「彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。主は彼とともにおられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた。彼はアッシリヤの王に反逆し、彼に仕えなかった。彼はペリシテ人を打ってガザにまで至り、見張りのやぐらから城壁のある町に至るその領土を打ち破った。」ヒゼキヤが神様に信頼した結果、敵に対しても堅く立つ力を与えられたのです。
一方、北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされてしまったことが書かれていいます。12節にその理由が書かれています。「これは、彼らが彼らの神、主の御声に聞き従わず、その契約を破り、主のしもべモーセが命じたすべてのことに聞き従わず、これを行わなかったからである。」
ここに同じ時代の北イスラエルの王たちと南ユダの王ヒゼキヤの対照的な姿を見ることができます。北イスラエルの王たちのように神様を自分の利益のためにだけに利用しようとするなら、その人生の土台は危ういものなのです。しかし、ヒゼキヤはこうした中で、神様を心から礼拝し、信頼し王としての働きを始めたのです。
とはいえ、ヒゼキヤにまったく問題が無かったわけではありませんでした。この後、アッシリヤ帝国の脅威が次第に南ユダに迫ってきて、ヒゼキヤは大きな試練に直面することになります。そのとき、どう対処していったのか、そしてその後どのような歩をしていったのかを、次回見ていくことにしましょう。