城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年一一月一五日           豊村臨太郎牧師
                   マルコ一章一節〜八節
 マルコの福音書連続説教1
   「福音のはじめ」 
 
1神の子イエス・キリストの福音のはじめ。2預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、4バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。5そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。6ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。8私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」(新改訳聖書第三版)
 
 
 今回から、基本的に第三週目に「マルコの福音書」を連続説教させていただきます。この福音書を読み進めながら、イエス・キリストの生涯をさらに深く知ってゆきたいと願っています。
 
 今回、説教の準備をするにあたって、私が初めて関根弘興先生の説教を聞いた時のことを思い出しました。今から十七年前になりますが、私が神学校を卒業し、太平洋放送協会でライフラインの働きを始めて一年目の頃でした。横浜のある教会で「ライフラインのつどい」があり、関根先生が説教されました。先生は、今のように熱く語りながら、ご自分の体験を次のように話されました。
 
 「皆さん、私が牧師になって十年目の頃、自分の説教はこれでいいのだろうかと迷いを感じるようになったのです。
 そして、ヨハネの福音書にある『イエス・キリストは恵みとまことに満ちておられた』という箇所を読み、『自分はどれだけ、恵みとまことに満ちたイエス様を語ってきただろうか』と思いました。
 パウロも『罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれる』と語っています。それを聞いた人々が、『罪が増すところに、恵みが増し加わるなら、どんどん罪を犯したほうがいいじゃないか?』と勘違いするくらいに、パウロは、キリストの恵みの大きさを語りました。
 ですから、私も同じように、そんな誤解がでるほどに『イエス・キリストの恵みとまことを聖書全体から語らせていただこうと決断したのです。」
 
 私はそのお話を聞いた時、とても感動し、嬉しくなりました。そして、自分も同じだと思ったのです。「あー、私もイエス様の恵みを、もっと受け取ってゆきたい。」当時は、まだ牧師ではありませんでしたが、「牧師であっても、なくても、自分の生涯を通して、イエス・キリストの恵みをわかちあってゆきたい。」そう思ったのですね。
 その時は、想像もしませんでしたが、十七年経ち、城山教会の副牧師にしていただきました。神様の不思議な導きを感じています。
 城山教会では、「マルコの福音書」を、もうすでに関根先生が何度も説教をされてきたとお聞きしています。でも、イエス・キリストの恵みは語り尽くせないほどに豊かだと信じていますので、私もマルコの福音書を通して、皆さんとご一緒にイエス・キリストの恵みを受けとってゆきたいと願っています。
 前置きが長くなりましたが、マルコの福音書に入っていきましょう。
 
1 著者マルコ
 
 この福音書を書いたマルコは、新約聖書「使徒の働き」十二章に登場する「マルコと呼ばれるヨハネ」という人です。彼は、イエス・キリストの十二弟子ではありませんでしたが、若い頃にイエス・キリストを直接見て知っていたようです。
 イエス・キリストが十字架につけられ、復活された後、キリスト教会ができました。マルコの家は、エルサレムにあったので、クリスチャンの集会場所となっていました。
 そんなこともあり、マルコは若い頃から、初期キリスト教会のリーダーたちと関わりを持つことができました。特に、十二弟子の一人ペテロとの関係が深かったようです。
 マルコは、ペテロがいろんな場所で伝道旅行するときに通訳として同行しました。ペテロが、「イエス・キリストは愛に満ちたお方です。イエス・キリストは慰めに満ちたお方です。私たちのために十字架にかかり復活されました。」そのように熱く語るメッセージを通訳しながら、マルコ自身も、心燃やされて「イエス・キリストの生涯」を伝えたいと願い、福音書を書いたのでしょう。
 
2 神の子、イエス・キリストの福音
 
 マルコは福音書の冒頭で「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」と書きはじめます。新聞で言えば「見出し」のようなものですね。
 最近は、紙の新聞を読まない方も多いようですが、私は紙の新聞をとっています。新聞を開いて最初に目に入るのが「見出し」です。先日は、アメリカ大統領選がありました。翌日は、まだ、結果がでませんでした。一週間くらいたってやっと「バイデン勝利宣言」という「見出し」がでました。今回はなかなか結果がはっきりしなかったので、新聞社の人もやきもきしたと思います。
 「見出し」というのは、その日、一番重要なニュースが凝縮されたものです。新聞記者が「これを伝えたい!」という意気込みが込められています。同じように、マルコは、冒頭の一節で、彼が伝えたいメッセージを凝縮しています。「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」と。
 「神の子」という表現は、聖書の中に良くでてきていますが、ここでは、「神様、そのもの」という意味で使われています。「イエス・キリストは神様だ」ということです。
 「福音」は、ギリシャ語で「良い知らせ」とか「喜びの訪れ」という意味があります。もともと戦争での「勝利の知らせ」を意味しました。王様に子どもが生まれた時、「王子誕生」を伝える時にも使われました。
 昔、ギリシャの国々では戦争が頻繁に起きました。戦いに勝利すると伝令が走ります。
 「みんな勝ったぞー」
 それを聞いた人々は、
 「やったー戦いが終わった。」と喜びます。
 戦いが終わったのですから、
 「ああもう怖がらなくてもいい」
 「捕虜になったお父さんがお兄さんが解放される!」
 「これからは自由にあれができる、これができる。」
 喜びの知らせは、自由と解放があり、安心と希望を与えるものです。そのように、「イエス・キリストの福音」は、私たちに「自由」と「解放」を、「安心」と「希望」を与える「喜びの知らせ」なのだと、マルコは宣言しているのです。
 
3 旧約聖書の預言の成就
 
 それでは、マルコは、イエス・キリストの福音の始まりを、どのようなエピソードからはじめているでしょうか。
 バプテスマのヨハネという人物です。
 マルコは、二節から四節で、彼について旧約聖書の預言を引用しながら紹介しています。
 
2預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、
  あなたの道を整えさせよう。
3荒野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
そのとおりに、
4バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
 
 二節の始めに、「イザヤの書」とありますが、旧約聖書のイザヤ書とマラキ書のことばが組み合わされています。当時はいくつかの聖書の預言がまとめられた聖句集のようなものがあったようです。それをマルコは、代表的な預言者「イザヤ」の名前で呼んでいます。
 では、イザヤの言葉は、元々、どのような人に語られたのでしょうか。それは、国が混沌とし悲劇的な状況の中にある人々に対して語られました。何もない荒野のような場所で、神様が救いを用意してくださるという希望のメッセージです。
 マラキの言葉はどうでしょう。マラキの時代は、ユダヤの人々が、バビロン捕囚から解放された後、エルサレムに神殿が再建されました。でも、以前の栄光とは比べものにならないものでした。ですから、人々は宗教的に、とても飢え渇いていました。国家としても、ペルシャ帝国に支配されていました。そのような状況で、語られた「神様が使者を遣わし、救いの道備えする」という回復のメッセージです。
 
 つまり、二節から四節に込められたメッセージは、「苦しく、飢え渇いた状態の中に、神様が『救い主』を起こされる。その前に、『準備をする人』が遣わされる。」という約束です。
 マルコは、旧約聖書の預言を引用しながら「神様の約束が成就した!」「私たちに喜びの知らせをもたらすイエス・キリストが来られたのです。」そして、「その道を整えるための人物、バプテスマのヨハネが現れたのだ!」と語っているのです。
 
4 バプテスマのヨハネの登場
 
 それでは、バプテスマのヨハネはどんな人だったでしょうか?六節を見ると彼の風貌はとてもユニークですね。
 
6ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
 
 この姿は、当時、荒野に住む人の特徴でした。全身キャメルレザーで、蜂蜜とイナゴを食べるって、本当にワイルドな姿ですね。ファッションセンスはどうあれ、救い主をずっと待ち望んでいたユダヤの人々は驚きました。
 「おい、知っているか?最近、荒野に、へんな奴があわれたらしいぞ。体はゴツくて、毛皮を着て、甘い蜜で煮からめた、イナゴ食ってんだよ。しかも、なんか大声で叫んでるよ。」
 「ちょっとまてよ、ひょっとして聖書に書かれている預言者じゃないか?救い主がくる前に『荒野で叫ぶ者の声がする』って書いてあるだろう!」
 人々は、彼のもとにぞくぞくと集まってきました。
 
 五節には、「そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き」とあります。
 
 ユダヤの人々は、「救い主」を待ち望んでいました。当時は、歴史的には、外国に支配され続けていました。バビロン帝国の後は、ペルシャ帝国、アレキサンドロス大王のマケドニア、そして、シリア、その後はローマ帝国です。ユダヤの人々は、外国の支配と圧制からの救い出してくださる「救い主」をずっと待ちのぞんでいたのです。でも、何百年も、その兆しはなく、神様からの直接的な語りかけも途絶えていました。ユダヤの人々は「救い主」の訪れを待ち望みながらも、失望とあきらめのような気持ちを持っていたことでしょう。
 そのような中で、聖書の預言の通りに、荒野で叫ぶバプテスマのヨハネが登場したのです。人々は彼の元に押し寄せました。
 
 
5 バプテスマのヨハネの叫び
 
 人々が彼の元にくると、バプテスマのヨハネは叫んでいました。「悔い改めなさい!」マルコは、シンプルに書いていますが、マタイの福音書を読むと、彼がとても厳しいことを言っています。当時の宗教指導者たち、宗教的にとても熱心な人々に対して、「マムシのすえたち!」「悔い改めにふさわしい実を結びなさい!」と激しく叫んでいます。
 ヨハネが叫んだ「悔い改め」とは、どのような意味でしょう。それは、「百八十度向きを変える」という意味があります。「本来いるべき場所に戻る」つまり、「神様のもとに立ち返る」ということです。
 当時、ユダヤの人々の中には、「救い主」を待ち望みながら、こう考える人もいたのです。
 「俺たちは神に選ばれた民だ、だから『救い主』さえくれば、イスラエルの民である俺たちは、自動的に神様の祝福の中に入ることができる。」そのような高慢がありました。
 実際の生活はどうだったでしょう。神様への礼拝は形式主義に陥っていました。人への愛が冷めていました。神様が本来願っておられる姿からかけ離れていたのです。
 ですから、ヨハネは、「神様の方に向きを変えなさい」、「生きた方を変えなさい。」と叫んだのです。
 ヨハネの言葉に多くの人が心打たれました。
「あー、私は確かに、神様から背を向けてしまっている。」「神様へ誠実さと愛、人の愛がさめている。」そう自覚した多くの人が集まり、悔い改め、バプテスマを受けたのです。
 すると今度は、こう考える人もあらわれました。
 「おい、バプテスマのヨハネこそ、『救い主』なんじゃないか?きっと彼が俺たちを救い出してくれるにちがいない。」
 聖書の預言通りに現れて、荒野で力強く、メッセージを語るわけですから、「この人こそ救い主だ!」と思っても仕方ないですね。でも、ヨハネは、はっきりと否定しました。
 
 7彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。」
 
 あれほどに確信と自信に満ちたヨハネが、「自分より力のある方がこられる。」「その方の靴の紐をとく値打ちもない。」と弱気な言葉を言うのです。「靴紐をとく」というのは、奴隷の仕事でした。つまり、「私は奴隷以下です。」「足下にも及びません。」ということですね。
 ヨハネは素晴らしい人でした。人々を悔い改めに導きました。でも、自分よりもさらに優れた方が来られるといっているのです。続く八節で、こう語っています。
 
 8私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
 
 「聖霊のバプテスマ」という表現は、聖書の中に何度か出てきます。そして、いくつかの意味があります。このテーマだけで一回の説教では語りつくせないほど豊かな内容です。
 この箇所でバプテスマのヨハネがいっている「聖霊のバプテスマ」の内容は、バプテスマのヨハネの働きである「水のバプテスマ」との比較で理解することが、とても大切です。
 この時、ヨハネが授けた「水のバプテスマ」は、どういうものだったでしょうか。それは、人々に罪の気づきを与え、神様に赦していただくために、方向転換を促すことでした。その証しとして、「バプテスマ」を授けました。それは、罪を赦す権威と力をもつお方を、迎える道備えでした。
 そこに「力ある方」が来られ「聖霊のバプテスマ」をさずけてくださるのです。ここで言われている「聖霊のバプテスマ」の内容は、「神様の霊によって、罪が完全に聖められ、完全な救いが与えられる」ということです。これは神の子であるイエス・キリストにしかできない働きです。イエス・キリストは、神様の偉大な力によって、悔い改める人の内に働き、罪を聖め、完全な救いを与えてくださるお方なのです。
 ここにおられる多くの皆さんは、すでにイエス・キリストを信じ、告白されましたね。ですから、このお方によって、聖霊の力によって、完全な救いの中に入れられたということなのです。
 バプテスマのヨハネは、だから「私にはそんな力はありません。」と言いました。「後に来られるイエス・キリストこそが、私たちを完全に救ってくださるお方です。私は、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。」と、告白したのです。
 
 いかがでしょう。今日のバプテスマのヨハネの登場を読むとき、みなさんそれぞれに感じる部分があるのではないでしょうか。
 マルコは、ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民がバプテスマのヨハネのところへ行ったと記しています。少し誇張された表現かもしれませんが、多くの人々がやってきたということです。その中には、私たち「マルコの福音書」を読むも一人一人も含まれているように思うのです。
 今日は、イエス・キリストをすでに信じておられる方がほとんどだと思いますが、皆さんが初めて教会にこられた時、どうだったでしょうか。「確かに、自分のうちに神様に背をむけているような部分がある。」そのように感じられたのではないでしょうか。
 私もそうでした。「確かに、自分の中にどうしようもない罪がある。神様に背いている。」でもそのことを自覚できたことは、恵みでした。自覚してはじめて、神様の方に方向転換することができ、イエス・キリストをお迎えすることができたからです。
 荒野のような、私たちの心に道が備えられ、その道を通り、力ある方、神なるイエス・キリストが来きてくださいました。そして、完全な救いを与えてくださったのです。
 この福音、良い知らせを感謝しつつ、マルコの福音書を、ご一緒に読み進めて行きましょう。
 お祈りします。