城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二〇年一二月一三日            豊村臨太郎牧師
                   マルコ一章九節〜一三節
 マルコの福音書連続説教2
   「イエス・キリストの登場」 
 
 9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
11 そして天から声がした。
 「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
 12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。
 
 
 皆さん、おはようございます。いよいよクリスマスが近づいてきました。今朝も、皆さんとご一緒に礼拝できることを嬉しく思っています。
 先月から、マルコの福音書を読み進めていますが、マルコ福音書には、マタイの福音書やルカの福音書のように、イエス・キリストの誕生の記事は記されていません。でも、今日、読んでいただいた箇所は、マルコの福音書の中で最初にイエス・キリストが登場される場面です。その点でクリスマスの時期に読むのにふさわしい箇所です。
 
 今日の箇所には、二つの出来事が紹介されています。
 一つは、「イエス・キリストが洗礼を受けられた」ことです。イエス・キリストは、罪のないお方ですから、悔い改めて洗礼をうける必要はありません。しかし、人々と同じ洗礼を受けられました。実は、ここに素晴らしい神様の恵みが示されているんですね。それは、「神の子イエス・キリストが、罪ある人間と同じ立場に立ってくださった。」と言うことです。
 そして、もう一つの出来事は、「イエス・キリストが荒野で誘惑を受けられた」ことです。ここからは、神の子であるイエス・キリストが、人として生きられる上での「基本方針」を知ることができます。
 今日は、その二つの出来事を、ご一緒に見ていきましょう。まずは、イエス・キリストの洗礼についてです。
 
1 洗礼を受けられたイエス・キリスト
 
 9節に、「イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。」とあります。
 先ほども言いましたように、イエス・キリストは、神様ですから罪のないお方です。悔い改めて洗礼をうける必要はありません。でも、あえて人と同じ立場にまでへりくだって下さいました。そのことを、使徒パウロは、新約聖書ピリピ人への手紙2章でこのように言っています。
 「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2章6-7節)
 
 イエス・キリストは神なるお方であるのにもかかわらず、高い所から、「救われたのならお前たちがこっちに来いよ。」ではなく、「私があなたの所に行くよ。」「私は、あなたがたと共に同じ場所に立っているのだよ。」そのように示してくださったのです。
 イエス・キリストの登場は、派手な奇跡を見せることでもなく、巧みな説教をすることでもありませんでした。まず、最初に、罪人と同じ立場に立って洗礼を受けてくださったのです。
 
 さて、イエス・キリストが洗礼を受けられた時、不思議な事が起きました。
 10節には「(イエスが)水の中から上がられると、天が裂けて…」とあります。
 実は、この「天が裂ける」という言い回しは、旧約聖書を読んでいたイスラエルの人たちにとっては、とてもなじみ深いものでした。
 例えば、イザヤ書64章1節には、「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。」という箇所があります。
 イザヤの時代はどのような時代だったでしょうか。イスラエルの人々はとても暗く苦しい状況におかれていました。まるで真っ暗闇に覆われているような、希望が見えない状況でした。
 その中で「ああ、神様、お先真っ暗です。どうか天を切り裂いておりてきてください。助けてください。」そのように叫んでいるのです。
 つまり、「天が裂ける」という表現には、神様が天から降りてきてくださり、普通では考えられない「特別なことが起こる」という意味があったのです。
 イエス・キリストの洗礼は、目に見える出来事としては、けして特別なものではありませんでした。前回お話したように、この時、バプテスマのヨハネの元には大勢の人たちが集まっていました。イエス・キリストはその人々と同じ川の水に浸かり、同じバプテスマを受けてくださったのです。
 しかし、そこに現されている意味は特別でした。罪のない神の子イエス・キリストが、罪人と同じ立場まで、へりくだって洗礼を受けられるとうことは、まさしく、イザヤ書のことばのように、「天が裂けて」神様がこの地上に降りてこられる特別なことだったのです。
 ですから、その証拠として「御霊(聖霊なる神様)が、鳩のように」(10節後半)イエス様に臨まれたのです。
 これは、旧約聖書で長い間、約束されていた「救い主」の預言の成就でした。イザヤ書61章1節には、「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。」とあります。
 ここに出てくる「主の霊」も、「御霊」も、同じ神様の聖い霊、「聖霊なる神様」のことです。この箇所は、「救い主」が来られるとき、その方の上に神様の霊が臨まれるという預言です。
 ですから、イエス・キリストが洗礼を受けられた時、聖霊が鳩のように臨まれたのは、イエス・キリストが、「まずしい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやす」救い主であることが、見える形で証明されたということだったのです。
 
 イエス・キリストが水からあがられると、父なる神様の声が聞こえました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」この呼びかけには、父なる神様と子なるイエス様との親しい関係が現されています。
 イエス様は、父なる神様の愛する一人子です。そのお方の上に聖霊なる神様が臨まれました。父なる神様の語りかけがありました。ここには、聖書が教える「三位一体の神様」が現されています。「三位一体」は、とても難しい表現ですね。聖書が示す神様は、唯一のお方であると同時に、三つの位格をもっておられます。「位格」というのは、人で言えば「人格」のことです。神様ですから、「人格」とは言わず「位格」と呼びます。聖書の神様は、三つの位格を持ち、ともに共同して働かれる唯一の神様です。
 ここでも、その「三位一体」の神様が現されています。父なる神様が、子なるイエス・キリストに、「わたしはあなたを喜ぶ」とおっしゃいました。それは、父なる神様が愛してやまない一人子なるイエス・キリストによって、これからはじまる救いのみわざを、父なる神様が喜んでおられるということだったのです。
 そして、もう一つ、私がここを読んでいて心に響いたことは、そのような父なる神様は、イエス・キリストが、これから様々な働きをされるよりも前に、まず最初に「わたしはあなたを愛する」、「わたしは、あなたの存在そのものを喜んでいるよ。」と、語っておられるということです。
 ここで天の父なる神様は、イエス・キリストを、愛する一人子として、あなたを喜ぶと語られました。そして、これからイエス・キリストが、私たち一人一人を救いに導くために働きをされる、そのこと自体をも「わたしは喜ぶ」と、神様は喜んでおられるのです。
 
2 荒野で誘惑を受けられたイエス・キリスト
 
 さて、洗礼を受けられたイエス・キリストが最初に導かれた場所はどこだったでしょうか。神殿のあるエルサレムでしょうか。王様がいる宮殿でしょうか。いいえ、違いました。12節に「御霊はイエスを荒野に追いやられた。」とあります。
 イエス様が最初に行かれた場所は荒野でした。荒野と聞いて皆さんはどんなイメージを持たれるでしょうか。私は砂漠のような広くて乾いた場所をイメージします。
 一枚、「ユダの荒野」の写真を用意しました。ご覧いただいてわかるように、荒野は砂漠というよりは、小高い山や谷のような起伏のある場所です。当然、作物はほとんど実りません。とても厳しい環境です。
 ですから、聖書で「荒野」は、「人の惨めな状態」や「孤独」を指す表現としても用いられます。時に、私たちの人生を表す言葉です。そのような荒野でイエス・キリストは「サタンの誘惑を受けられ」ました。
 サタンという言葉は、「敵対する者」という意味があります。新約聖書では「試みる者」や「告発者」とも呼ばれています。ですから、聖書の中で、サタンは常に神様に敵対し、神の計画を破壊する者として描かれています。この時も、イエス・キリストの働きを出鼻から挫こうとしているわけです。
 マタイの福音書を読むと、イエス・キリストとサタンとのやりとりが詳しく書かれています。この時、イエス・キリストは40日間断食をされて、とてもお腹が減っていました。そこへサタンがやってきて誘惑しました。
 
@「あなたが神の子なら、石がパンになるように命じなさい」
 
 目の前に転がっている石をパンに変えろというわけです。お腹が減っている時のこの言葉はきついですね。
 もちろん、私たち普通の人間には石をパンに変えるなんてできません。でも、イエス・キリストは神様ですから、そうしようと思えば可能でした。サタンは、イエス・キリストの力を知っているからこそ、「さあ、奇跡の力で手っ取り早く空腹を満たせ」と誘惑したのです。
 しかし、その時、イエス・キリストは言われました。
 「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
 これは、旧約聖書の申命記の引用です。モーセが荒野を40年旅したイスラエルの人たちに語った箇所です。神様は、40年の荒野の旅で、イスラエルの人々をいつも養ってくださっていました。しかし、イスラエルの人々は、「やれ肉をだせ」「水をだせ」と、目先の必要ばかりを求めました。目に見えるものばかりを求め、自分たちの命を支えてくださっている神様に信頼することを忘れてしまっていたのです。
 そんな彼らに対して、モーセは、「荒野で生活した40年を思い出しなさい。神様はけして見放さず、いつも食べ物を与えてくださったでしょう。水をくださったでしょう。いつも『わたしに信頼しなさい』と語りかけ、私たちの命を支えてくださったではないか。そのお方を忘れないでいなさい。」モーセは、そのようなメッセージを語りました。
 私たちも、いつの間にか、目に見えるものだけを求めてしまう、そんな弱さがありますね。私なんて、そんな日々の連続です。しかし、父なる神様は、そんな私たちのことをよくご存じです。決して見捨てることなく、私たちを支えてくださるお方です。そして、聖書を通していつも語りかけてくださいます。「あなたのことを愛し、気にかけているよ。日々の必要を満たすよ。そのわたしのことばに信頼して生きていきなさい。」と、神様は語りかけてくださいます。
 イエス・キリストは、そのような「神様のことば」に信頼して生きる大切さを、ここで示してくださったのです。
 
A「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい」
 
 次にサタンはイエス・キリストをとても高い場所に連れていって言いました。
 「お前が神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてあるだろう。」
 「普通なら死んでしまうような場所から飛び降りて、もし生還したら、それを見た人々は、お前が神の子とだと簡単に信頼するだろう。そうすればお前が成し遂げたい働きが、簡単に達成することができるぞ、ほらやってみろ。」そのようにサタンは挑発したわけです。
 もし、イエス・キリストがサタンの言う通りにしたらどうだったでしょうか。高いところから飛び降りて生還したら、人々は驚き、それこそヒーロー扱いしたかもしれません。
 しかし、イエス・キリストは言われました。
 「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
 イエス・キリストは「神様を自分勝手に試してはいけない」と言われました。自分の力を見せつけ、人々の注目を集めるために、神様を試すなんてもってのほかだということです。
 この後、福音書を読むと、イエス・キリストは多くの奇跡をなさいます。病気で苦しんでいる人を癒やされました。イエス・キリストの話を聞こうと集まってきた五千人以上の人たちの空腹を満たされました。しかし、イエス・キリストは、決してパフォーマンスや、ご自分の力を見せつけるために奇跡をなさいませんでした。いつも人々を愛し、仕え、養い導くための奇跡をされたのです。
 
B「ひれ伏して私を拝め、世のすべての栄華を与えよう」
 
 最後に、サタンはイエス・キリストに、この世のすべての国々と栄華を見せて誘惑します。
 「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部お前に与えよう。」「私を神と崇めろ。そうすれば、手っ取り早く、この世界のすべてを従わせることができるぞ。私と手を組もうじゃないか。」
 これは、あからさまな偶像礼拝の誘惑です。「目的が達成できれば、手段はいいじゃないか。」そんな御利益宗教的な誘いですね。
 イエス・キリストは、それに対して、厳しい口調で言われました。
 「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」そう言って、はっきりと拒否されたのです。
 私たち日本人は、多くの場合「誰を礼拝するのか。」よりも、「どんな御利益があるのか。」を優先してしまいやすいかもしれません。自分の願いを叶えるために、何かを拝むという姿勢です。でも、人間の欲にはきりがありませんね。仮に一つの願い叶っても、次は別の願いを求めます。もし願いが叶わなかったら、別の神様に乗り換えてしまうかもしれません。しかし、そこに本当の心の満足や、人としての幸せはあるでしょうか。
 聖書は、私たち人間の幸せは、世界を創造し、私たちを愛してくださっている、唯一の神様を礼拝すること、そのお方との正しい関係の中にあると、教えているのです。
 
 さて、この「荒野の誘惑」において、イエス・キリストは、私たちが人生の荒野を、どのように生きてゆけば良いのかという、大切な指針を示してくださっていますね。
 それは、神様に信頼し、神様の約束である、聖書のことばを告白して、生きるということです。
 イエス・キリストは、三回の誘惑すべてにおいて、神の子としての力、特別な奇跡を使われませんでした。すべて、私たちと同じ「人として」、聖書のことばで対処されました。神様のことばを思いおこし、告白されたのです。
 私たちはみんな生きている中で、それぞれ荒野のような場所に導かれることがあります。誰にも頼ることができない孤独や苦しみを経験することがあります。試練や誘惑にも合います。でも、イエス・キリストは私たちと同じように、いや私たちに先立って、すでに荒野を経験してくださいました。
 新約聖書へブル人への手紙4章15節に、「私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」と書かれている通りです。
 イエス・キリストは、「すべての点で、私たちと同じように」経験してくださいました。その上で、私たちに、このように生きてゆけばいいのですよと、身をもって示してくださり、語りかけ、一緒に歩んでくださるのです。
 
 さらに、この荒野でのイエス・キリストの姿は、神の子であるイエス・キリストが、人として生きられる上での「基本方針」でもありました。
 @イエス・キリストは、いつも父なる神様のことばの通りに行動されました。
 Aイエス・キリストは、自分のために奇跡を行うことはありませんでした。人々を愛し、人々に仕え、人々を養い導くために行動なさいました。
 Bイエス・キリストは、いつも父なる神様との親しい関係を土台として、人として歩まれたのです
 これらの姿もは、私たちがそれぞれの人生を歩む上での「指針」でもありますね。
 私たちの現状も、弱さも、すべてをご存じのイエス・キリストは、私たちと共にあゆみ、励まし、助けてくださるお方です。
 このクリスマスの時、そのようなイエス・キリストの登場を喜びつつ、続けてイエス・キリストの生涯を、マルコの福音書から学んでゆきましょう。お祈りします。