城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年一月三日              豊村臨太郎牧師
                   マルコ二章一節〜一二節
 マルコの福音書連続説教3
   「罪を赦す権威を持つお方」 
 
 1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。
2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。
3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
6 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。
7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」
8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。
9 中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、
11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。
12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。
 
 皆さん、おはようございます。新しい年になって最初の日曜日、今朝もご一緒に礼拝を捧げることができ感謝しています。
 昨年からマルコの福音書を連続説教させていただいています。私の場合、月に一度のペースですので、全部の箇所を順に読んでゆくのではなく、一章からはこの箇所、二章からはこの箇所というようにポイントを絞って説教させていただきます。
 前回は一章から「イエス・キリストの洗礼」と「荒野での誘惑」の箇所を読みました。
 イエス・キリストは、罪のないお方なのに、私たちと同じように洗礼を受けてくださいました。また、荒野の誘惑においては、奇跡の力を用るのではなく聖書のことばを告白することで、対処されました。そこから私たちは、神であるイエス・キリストが、「人として」この地上に来てくださり、いつも聖書のことば、神様の約束を指針として、歩まれたことを知ることができました。
 マルコの福音書を読み進めると、その後、イエス・キリストは、ガリラヤ地方の町や村々を回って福音を語り、病気の人を癒し、悪霊に苦しめられている人を解放するなど、多くの奇跡を行われたことが分かります。マルコはそのことを、1章39節で「こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。」とまとめています。
 イエス・キリストの評判は瞬く間に広がっていきました。そして、大勢の人が、イエス様がのもとへ押し寄せてきたのです。今日の箇所は、そのような背景の中で起こった「中風の人の癒やし」の出来事です。2章1節と2節をもう一度お読みします。
 
1、四人の友に連れられてきた中風の人
 
 1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。(マルコ2:1-2)
 
 ここに出てくるカペナウムはガリラヤ湖のほとりにある町でした。イエス・キリストは、主にガリラヤ地方で活動されましたが、カペナウムはイエス・キリストの活動の中心的な場所でした。
 イエス・キリストはガリラヤ地方で公の活動を始められて、すぐに何人かの弟子を選ばれました。その中には、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネという二組の兄弟がいました。彼らが住んでいたのがカペナウムでした。おそらく、今日の出来事の舞台となった家は、弟子ペテロの家だと思われます。
 イエス・キリストのうわさを聞いて、「多くの人が集まったため、家の戸口のところまで隙間もないほど」になりました。人々はイエス・キリストの話に聞き入っていました。すると突然、屋根がバリバリと剥がされて天井に穴が開きました。なんとそこから「中風の人」が寝床に寝たまま吊り下げられたのです。
 「中風」というのは、「片方がゆるむ」という言葉からきています。身体の一部分が麻痺している状態です。おそらく脳出血や脳梗塞が原因で、体を動かすことが出来なくなっていたのでしょう。言葉も自由に話せなかったかもしれません。その人が四人の友人に連れられてきたのです。
 彼らは、イエス・キリストのうわさを聞いて中風の人を直してほしいとやってきました。でも、家についた頃には、すでに人がいっぱいで中に入ることができません。イエス・キリストに声をかけるどころか、見ることもできません。私だったら、「もう今日は無理だ諦めよう。また今度にしよう。」そう言ってあきらめたと思います。でも、彼らは違いました。
 おそらく家に外階段があったのでしょう。屋根に上り、穴をあけて、中風の人を部屋の中に下ろしたのです。
 当時のパレスチナの家は、とても簡単な作りでした。屋根は平らで、木の梁の上に枝をならべ、むしろのようなものを敷いて、土で固めただけのものでした。比較的簡単に穴をあけることができたのです。
 それでも、人の家の屋根を勝手にはがすなんて、昔であろうと、今であろうとうも、普通では考えられません。考えてみてください。もし、今、礼拝中に天上から音がして穴が開いて誰かが降りてきたら、皆さんびっくりしますね。
 その場にいた人も驚きました。「なんだこいつらは。」「せっかくイエス様の話を聞いていたのに。」冷ややかな視線が、彼らに向けられたのではないでしょうか。
 
2、イエス・キリストのまなざし
 
 それではイエス・キリストの反応はどうだったでしょうか。5節を読むとこう書いてあります。
 
5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
 
 この時、家の中にいた人々は、四人の非常識とも言える行動に目をむけました。おそらく冷たい視線です。しかし、イエス・キリストは彼らの信仰に温かいまなざしを向けられたのです。
 彼らの信仰とは、どんなものだったでしょうか。ここで「信仰」と訳されていのは「ピスティス」と言うギリシャ語です。「誠実」「真実」「信頼」とも訳される言葉です。
 @他者の為の真実な姿
 彼らは、長い間、苦しんでいる友人をイエス様にあわせたいと願いました。そこには病気の友人を思う誠実さ、真実な姿がありました。自分の為というより、友人のため、他者の為の信仰といえます。
 Aイエス・キリストへの信頼と期待
 また、彼らは「イエス様なら、きっと病気の友人を治してくださるに違いない。」そう、信じていました。イエス・キリストなら、何かをしてくださるという期待です。「どうなるかわからないけど、とにかくイエス様のところに行ってみよう。人がいっぱいで中に入れないけど、屋根に穴をあけてでも、イエス様に近づいてみよう。」そのような期待です。
 私たちも、明日どうなるかわからないと思うことがあります。でも、イエス・キリストのそばに行けば、イエス・キリストが何かをしてくださる。そのように期待してもいいのです。
 イエス・キリストは、彼ら四人の誠実な姿、イエス・キリストへの期待に目を向けて、その信仰を受け止めてくださったのです。
 
3、イエス・キリストのことば
 
 そして、彼らの信仰に応答するように、今度は「中風の人」に目をむけ、「子よ」と声をかけられます。
 @「子よ。」という呼びかけ
 これは、父親が息子にかけるようなとても親しみと愛情のこもった言葉です。福音書を読むと、イエス・キリストは、「子よ」や、「娘よ」という呼びかけをないます。特に、病気や苦しみの中にある人々に対して、愛と親しみを込めて、そのように呼びかけてくださっています。
 A「あなたの罪は赦された」という宣言
 そして、続けてイエス・キリストは中風の人に、「あなたの罪は赦された。」と言われました。
 この時どうして、イエス・キリストは罪の赦しを宣言されたのでしょうか。もし、私が友人の一人なら、「あなたの病は癒やされた。」とか、「さあ起き上がりなさい。」そんな言葉を期待したと思います。ところが、イエス・キリストは病気の症状に対してではなく、まず「あなたの罪は赦されました。」と言われたのです。
 実は、当時のユダヤ社会では、病気は何らかの罪と関係していると考えられていたんですね。あるユダヤの有名なラビ(教師)の教えにはこんな言葉がありました。「罪がなければ死はない。なんらかの違反がなければ苦痛もない。病人はその罪をゆるされるまでは病から立ち上がれない。」
 イエス・キリストの弟子たちも、ヨハネの福音書9章で、生まれつき目の見えない人について尋ねました。「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(ヨハネ9:2)
 これらの言葉から読み取ることができるように、当時のユダヤの人々は、病気の原因には罪があると考えていたのです。私たち日本人も少しわかるような気がします。因果応報と言う言葉がありますが、自分の身に何か悪いことが起こった時、「あれが原因じゃないか。」「あんな悪いことしたからじゃないか。」そのように考えてしまうことがありますね。
 きっと、「中風の人」も悩んでいたに違いありません。「どうして、病気になってしまったのだろうか。」「あの過ちのせいだろうか。」「あの律法を守らなかったからだろうか。」病の床に伏しながら、毎日天井を見つめては、繰り返し繰り返し自分を責めていたことでしょう。
 人にとって罪悪感というのは、とってもやっかいです。どんな人にも消したい過去や忘れたい過ちがあります。でも、自分で消そうと思っても消すことができません。忘れようと思っても、心に沸き上がってきます。まるで心が縛られているような状態です。
 この時、中風の人の病が何らかの罪と関係していたかどうかはわかりません。しかし、彼自身が自分の犯してきた過去の過ちや、罪を原因と考えて、罪責感によって心が縛られていたことは確かだと言えます。
 イエス・キリストは、そのような彼の心の奥底にある一番の問題、心の平安を失わせてしまっている罪に目を留められました。そして、「あなたの罪は赦されました。」と宣言し、彼の心を解放してくださったのです。
 このイエス・キリストの赦しの宣言は、決して口先だけではありません。新約聖書ペテロの手紙第一 1章24節には、「(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と書いてあります。
 旧約聖書イザヤ書53章4節、5節にも、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。
 イエス・キリストの赦しの宣言は、この後、十字架ですべての人の罪を背負い、身代わりとなって死んでくださることによって保証されているのです。イエス・キリストは、ご自分の十字架を根拠として、「わたしが命をもって、あなたの罪を償う。あなたは赦された。安心しなさい。」と、力強く宣言してくださったのです。
 
4、律法学者たちの反応
 
 さて、続いてマルコは、この出来事の一部始終を見ていた、ある人たちの反応を記します。それは、律法学者と呼ばれる人たちです。
 律法学者は、旧約聖書の専門家のことです。自分たちは誰よりも聖書に精通していると自負している人たちでした。この時、彼らはイエス・キリストのうわさを聞きつけて、わざわざエルサレムからガリラヤまで様子を見にきていたのです。
 彼らは、律法学者として、人々に間違った教えが広がらないように異端取締役を自負していました。旧約聖書の教えを守るための取り締まりですから、動機としては悪いものではありません。彼らは時間と労力を使い、遠くエルサレムからガリラヤまで、人々がる聖書の教えから逸脱してはいけないという正義感をもって、やってきていたのです。
 彼らにとって、イエス・キリストの「あなたの罪は赦されました」という言葉は、見過ごせないものがありました。旧約聖書には、罪を赦すことができるのは、神お一人だと書かれているからです。「罪を赦す権威があるのは、神だけだ。罪の赦しの宣言するなんて、自分を神だと言っているのと等しい!神への冒涜だ!」というわけです。
 もちろん、「罪を赦す権威があるのは神様だけだ。」という律法学者の考えは間違っていません。でも、彼らは重要なことを見落としていたのです。それは、目の前におられるイエス・キリストが、罪を許す権威をもっておられる、神であるお方、聖書に預言された救い主だという可能性です。彼らは、あくまでもイエス・キリストを、人としか見ることができなかったのです。
 先ほどの四人とは対照的です。四人の友人は、聖書のことはよく知らなかったかもしれません。しかし、イエス・キリストを期待し、信じていました。「このお方は、力ある真実なお方だ。何かをしてくださるに違いない。」そう考えながら、家の外から、屋根を剥がして、イエス・キリストに近づこうとやってきました。
 一方、律法学者たちは家の中で、「俺たちは律法の専門家だ!」「エルサレムからやってきたんだぞ!」おそらく自らの権威を振りかざしながら、部屋の中心にドスンと座って、陣取っていたに違いありません。家の外に病人がいても、席を譲り、中にいれさせようともしませんでした。
 彼らは聖書を教えながら、その中心である「神を愛し、隣人を愛しなさい。」という姿から、かけ離れていました。彼らの心は、聖書に示されている神様の心から遠く離れてしまっていたのです。そして、目の前に立っておられる、神が遣わされた救い主、イエス・キリストが分からなかったのです。
 イエス・キリストは、そのような律法学者たちの心を見抜かれました。そして、彼らの心を浮き彫りにするような質問をなげかけられます。
「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。」(8節、9節)
 イエス・キリストの質問を聞いて、彼らはこう考えますね。「そりゃ、『あなたの罪は赦された』と言うほうが簡単でしょう。だって目に見えないから。もし、『起きて、床を担いで歩け』といった場合、実際そうならなければ、すぐに嘘がばれる。だから、『罪が赦された』と口で言う方がごまかせる。実際、お前は、そうやって人々を惑わし、自分を神と信じさせようとしているんだろ。」
 そのように考える律法学者たちに、イエス・キリストは、続けておっしゃいました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床をかついで家に帰りなさい。」(10節、11節 新共同訳聖書)
 
 ここでイエス・キリストはご自分を「人の子」と呼んでおられます。旧約聖書を読んでいたユダヤ人にとって、ピンとくる表現でした。彼らにとって、「人の子」とは、終わりの日に来られる「救い主」を意味していたからです。
 つまり、ここでイエス・キリストがご自分を「人の子」と呼ばれたのは、「わたしこそ、神から罪を赦す権威を与えられた救い主なのだ」という宣言だったのです。
 そして、イエス・キリストの言葉の通りに、中風の人は起き上がりました。床を取り上げ、みんなが見ている前を出ていきました。律法学者たちは驚いたでしょう。四人の友人たちは大喜びです。そして、家中の人々が神様を崇め、賛美したのです。
 イエス・キリストは、ご自分の宣言通りに中風の人を癒すことによって、ご自分が「罪を赦す権威を持つ救い主」であることを証明されたのです。
 
5、イエス・キリストの励まし
 
 今日の出来事でイエス・キリストは、四人の友人の信仰に目を留められました。「イエス様のところに近づきたい。」「イエス様なら、きっと何かをしてくださる。」そのような彼らの期待を信仰として受け止めて答えてくださいました。
 そして、中風の人には、「子よ。」と優しく声をかけ、「あなたの罪は赦された。」と力強く宣言されました。
 実はマタイの福音書9章にも同じ出来事が記されています。そこでは、イエス・キリストが、もう一言「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」語っておられます。ここで言われている「しっかりしなさい」という言葉は、「内側から自信を持たせる。」という意味があります。ですから、聖書の他の箇所では、「安心しなさい」、「勇気をだしなさい」とも訳されているのです。
 イエス・キリストは、罪悪感に苛まれ、病に苦しみ、生きる勇気がなくなっていた中風の人に、「安心しなさい、あなたの罪は赦されたのですよ。勇気をもって、立ち上がって生きていきなさい」と語られたのです。
 そして、この箇所に記されているイエス・キリストの温かいまなざしと、力強いことばは、今日、私たち一人びとりにも向けられています。
 イエス・キリストは、全ての人の罪を赦す為に、この地上にきてくださいました。十字架という確かな根拠をもって、私たち一人びとりに「わたしが身代わりとなって、あの十字架にかかりました。」「あなたの罪は赦されました。」と宣言してくださっています。
 そして、「立ち上がりなさい。安心して、勇気を持って、生きてゆきなさい。」と、今日も私たちに、優しく力強く、語りかけてくださっています。このイエス・キリストに信頼し、その恵みの中を、今週もご一緒に歩んでいきましょう。お祈りします。