城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年二月二一日            豊村臨太郎牧師
                  マルコ三章一三節〜一九節
 マルコの福音書連続説教4
   「十二人の弟子たち」 
 
 13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。
14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、
15 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
16 こうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、
17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
18 次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、
19 イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。
 
 皆さん、おはようございます。
 前回は二章から「中風の人の癒やし」の出来事を読みました。四人の友人が、寝たきりの中風の人を、イエス・キリストの元に連れてきました。イエス様は、彼らの信仰に目を留められ、中風の人に「子よ」と優しく声をかけ、「あなたの罪は赦された。」と宣言されました。彼の病を癒すことによって、イエス様は、ご自分が救い主であることをはっきりと示されたのです。
 
 イエス・キリストは、私たちの罪を赦し救う為に、この地上に人として来てくださいました。今日も、私たちに「あなたの罪は赦されました。」と宣言してくださっています。ですから、私たちは安心してイエス様を信頼し、恵みの中を歩んでゆくことができます。
 
1 福音の広がりとイエス・キリストへの反発
 
 さて、その後もイエス・キリストは、町や村々を巡り、会堂で教えられました。病の人を癒やし、悪霊に苦しめられている人を解放されました。福音は、ますます広がっていきます。
 しかし、同時に、イエス・キリストへの反発も強くなっていったのです。マルコ3章6節には、「そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。」と書いてあります。
 「パリサイ人」は、ユダヤの宗教指導者たちです。彼らは旧約聖書の律法を一生懸命に守ろうとしていました。その事自体は悪いことではありません。でも、彼らは律法を守る事のみに執着してしまっていました。律法の解釈が細分化し、それらの戒めを形式的に守ることのみが、正しいと考えるようになっていたのです。その結果どうなったかというと、心から神様を礼拝し、隣人を愛するということを見失っていました。そして、それを指摘されたイエス・キリストを目の敵にしたのです。
 「ヘロデ党」というのは、ローマ帝国に共鳴する人たちでした。当時、ユダヤは、ローマによって任命された異邦人ヘロデ王が治めていました。ヘロデ党は、ヘロデ王家を支持する政治団体のことです。ユダヤの宗教指導者であるパリサイ人とは政治的には反対の立場です。彼らもまた、イエス・キリストのもとに人々が集まり、人気が高まることを嫌いました。ヘロデ王の地位が脅かされることを警戒したのです。
 普段は敵同士である、パリサイ人とヘロデ党が手を組み、イエス様を亡き者にしようと動きはじめたのです。
 一方で、イエス様の元には、さらに大勢の人々がやってきました。3章8節には、「エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。」とあります。東西南北あらゆる場所から人々が押し寄せてきました。多くの人は病気や苦しみをかかえていました。「なんとかイエス様に治してほしい。救ってほしい。」そんな願いで、人々はイエス・キリストのもとにやってきたのです。
 
2 イエス・キリストの哀れみの心
 
 想像してみてください。これ以上、評判が広り、人々が集まれば、イエス様はますます危険になります。私がもし、イエス様の弟子だったら、「イエス様、ほどほどにしておいた方がいんじゃないでしょうか。」そんな風に考えたかもしれません。
 でも、イエス様は違いました。マタイの福音書9章36節には、イエス様が、「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」と書いてあります。
 イエス様は、どんなに自分の身に危険がせまろうとも、目の前の人々を放っておこうとはなさいませんでした。そして、そばにいる弟子たちにこう言われたのです。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9・37-38)
「目の前には、迷える羊のように苦しんでいる人が大勢いる。彼らを癒やしてあげたい、苦しみから解放してあげたい。でも、手が足りない。働き手が必要なのです。」
 そんな思いの中でイエス・キリストは十二人の弟子たちを選ばれました。イエス様の働きを担う為に、福音を一人でも多くの人々に届けるために、彼らを選ばれたのです。
 
3 十二弟子を選ばれたイエス・キリスト
 
 さあ、イエス・キリストの働きを担う弟子たちとは、いったいどんなメンバーだったのでしょうか。マルコ3章16節から17節には、十二人の名前が紹介されています。こういう機会ですので、まず、新約聖書から分かる範囲で、どんな人たちだったのかを見ていきましょう。
 最初にペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネという二組の兄弟出てきます。彼らはガリラヤ湖で漁師をしていました。
 @ペテロは、情熱的で思い立ったらすぐに体が動く行動派です。同時に、失敗も多い人でした。ある時、イエス様に「たとえ、牢であろうと、死であろうと、ご一緒になら、どこまでもついていきます。」そんな、勇ましいことを言いながら、イエス様を知らないと否定してしまったことは有名です。
 ペテロの兄弟Aアンデレは、あまり目立たった働きはしていないように思われますが、ペテロや何人かの弟子たちをイエス様のもとに連れてきました。福音書の中のキーパーソンとも呼べる存在です。
 BヤコブCヨハネは、ペテロとアンデレと同じガリラヤ湖で漁師をしていました。彼らはイエス様から「雷の子」と呼ばれているように、短気で血の気が多かったようです。ルカ9章では、サマリヤの人たちに対して、彼らは腹を立ててイエス様に、「私たちが天から火を呼んで、彼らを焼き滅ぼしましょうか!」といっています。
 次にピリポとバルトロマイがでてきます。福音書から読み取れる、Dピリポは、とても合理的な人物です。慎重派でもありました。イエス様が、5つのパンと2匹の魚で五千人の人々の空腹を満たされた時、ピリポは真っ先に、「そんなの無理です。彼らは自分たちで集まってきたのですから、自分たちで食料を調達すべきです。」と言いました。
 そんなピリポとよく行動を共にしていたのがEバルトロマイです。バルトロマイは、ヨハネの福音書ではナタナエルと呼ばれています。彼は哲学的で宗教熱心でした。良く聖書を読み、祈っていました。でも、最初に、ピリポからイエス様を紹介されたときには、「ガリラヤのナザレから何の良いものが出るだろうか」と、イエス様を疑いました。でも、イエス様を見て、すぐに従っていきました。
 次にFマタイという人が出てきます。マタイは、カペナウムで通行税を集める取税人でした。当時、取税人は、異邦人であるローマの権力のもと、税を取り立て、私腹を肥やしていました。ですから、ユダヤの人々は取税人を「身も心もローマに売り渡した汚れた罪人」とみなし、「ローマの犬」と呼んで軽蔑しました。
 Gトマスは、イエス様が復活されたとき、彼は間が悪くその場にいませんでした。戻ってくるとみんなが「イエス様が復活されたぞ!」と興奮しています。それを聞いたトマスはふてくされてしまいました。「俺は、指をイエス様の手にある釘の穴に差し入れ、手をわきに差し入れるまで、決して信じない。」と言ったことは有名です。
 Hアルパヨの子ヤコブと、Iタダイという人がいます。この二人は、あまり聖書には書かれていません。いろいろと調べたのですが、よく分かりません。ただ、タダイという名前には「心の温かい人」という意味があるそうです。名前の通り、優しい性格だったのかも知れません。
 J熱心党員シモンですが、「熱心党」というのは、武力革命も辞さない過激なグループでした。彼らは熱心に旧約聖書の「救い主」を待ち臨んでいました。でも、その熱心さのゆえに、武力を用いてローマ政府を倒そうとしたのです。先ほどの取税人マタイとは政治的には反対の立場です。
 そして、最後は、Kイスカリオテのユダです。「イスカリオテ」には、「都会の子」という意味があります。イエス様の弟子たちの多くはガリラヤ出身で「ガリラヤなまり」を話す人たちでした。ユダは「都会の子」と呼ばれていますから、おそらくガリラヤ出身ではなかったと思われます。彼らとは言葉遣いもセンスも違いました。財布係をまかされていましたから、数字には強かったのでしょう。
 このように見ると、イエス・キリストが選ばれた十二人の弟子たちはみんな違います。出身地も、仕事も、政治的な立場も、性格もバラバラです。そう簡単にまとまりそうなメンバーではありません。でも、イエス様は、そんな違いのある一人一人に声をかけ、呼び寄せてくださったのです。
 しかも、イエス様は、けして適当に彼らを選んだわけではありませんでした。同じ出来事が書いてある、平行箇所ルカの福音書6章12節によると、イエス様は、彼ら十二人を選ばれる前に、徹夜をして祈られたことがわかります。
 私は想像します。きっとイエス様は、弟子たち一人一人の顔を思い浮かべながら、それぞれの個性も考えながら、名前を挙げて、神様に祈られたのではないでしょうか。そして、「よし、このメンバーでいこう。」「この十二人にしよう。」と、彼らを選ばれたのです。
 
 そして、それは、今、イエス・キリストを信じる私たち一人一人にも言えることです。新約聖書ヨハネの福音書15章16節には、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」というイエス様の言葉があります。
 イエス様は、私たち信じる一人一人を選んでくださっています。それは、私たちの職業や出身地、学歴や性格の善し悪しは関係ありません。もしクリスチャンになるのに、そんな審査やテストがあったら大変です。きっと私なんて一番に落とされてしまうでしょう。
 少し前に、関根先生がローマ書から「キリストの器官」という説教をしてくださいました。私たちは、一人一人がキリストの体の器官とされています。皆、違いがあります。でも、体には多くの器官があり、それぞれが役割を果たし、健康が保たれています。同じようにイエス様にあって、一人一人が換えのきかない大切な存在です。だから、私たちは人の真似をしたり、人と比べて劣っているとか、優れているなどと考える必要はないのですね。
 
4 弟子を選ばれた目的
 
 さて、そのようにイエス・キリストは、十二人の弟子たちを選ばれました。14節と15節には、彼らを選ばれた三つの目的が書かれています。
 
14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、15 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(マルコ3・14-15)
 
@イエス様は「弟子たちをそばに置かれた」
 
 職人の世界では、弟子は師匠と多くの時間を過ごします。その中で、弟子は師匠から良いものを受け取り、体験的に学ぶことができます。イエス様も、弟子たちをご自分のそばに置かれました。弟子たちは、イエス様のそばで福音を聞き、イエス様の愛を体験的に知っていったのです。
 私たちは、神様に選ばれたひとりひとりです。同じようにイエス様のそばに置かれた一人一人です。今日も賛美で歌いました。
「主がみ手を伸ばして、涙をぬぐい、つまづきから引き上げてくださる。」「主がそばにいてくださるから」
 本当にその通りなのです。こうして、私たちは礼拝を通して、主がともにいてくださることを味わうことができます。
 それだけでなく、私たちの日常生活のすべて、何をしている時でも、どんな場所にいる時も、イエス様はいつも一緒にいてくださるお方です。イエス様は、私たちを励まし、慰めてくださるお方です。そのことを私たちは聖書から教えられているのです。
 
Aイエス様は「弟子を遣わされた」
 
 ここまでマルコの福音書を読んで学んできましたが、イエス・キリストは「神の子」であると同時に、「人として」この地上に来てくださいました。それは、私たちと同じ「人として」の限界の中に生きてくださったということです。
 イエス様は、食事をしなければ、空腹を感じられました。長旅をすれば疲れも感じられました。人として生きられたイエス様の体は一つですから、当然、一度に複数の場所にゆくことはなさいませんでした。
 ですから、イエス様は弟子たちを通して福音を伝えられたのです。イエス様と共に過ごし、イエス様のことをよく知っている彼らを通して、福音を伝えようとされたのです。
 そのように考えると、十二人の弟子たちがバラバラで個性的なメンバーだったことも理解できます。みんな同じでないからこそ、職業や出身地、一人ひとりの背景が違ったからこそ、それぞれに遣わされる場所があり、彼らでしか届くことのできない人々がいたのです。
 
Bイエス様は「弟子に、悪霊を追い出す権威を持たせた」
 
 そして、イエス様は弟子たちに悪霊を追い出す権威を持たせられました。聖書の中には悪霊という言葉が出てきます。悪霊は、私たち人間を「神様から引き離そうとする存在」です。ある時は、人の心を責め、混乱させ、恐れを与えます。そして、最終的に、私たちを神様から、その愛から引き放そうとするのです。
 でも、心配は要りません。聖書を読むと悪霊の存在を恐れる必要はないことがわかります。マタイの福音書28章18節でイエス様は、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」とおっしゃいました。イエス様は、何にも勝って優れたお方、権威あるお方です。だから、悪霊を恐れる必要はありません。
 また、パウロも、ローマ書の中で、どんな力も、私たちを「主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはでき」(ローマ8・39)ないと宣言しています。
 ですから、悪霊を恐れる必要は全くありません。イエス様に信頼し、イエス様がともにいてくださるなら、天においても地おいても一切の権威を持っておられるイエス様が、私たちを守ってくださるからです。
 イエス様は、そのような権威を弟子たちにお与えになりました。しかし、それは、彼らに何か特別な能力が与えられたということではありません。何にも勝るイエス様によって悪霊を退ける権威が、弟子たちに与えられたのです。
 
 さて、今日の箇所でイエス・キリストは十二人の弟子を選ばれました。「12」という数字は、旧約聖書のイスラエル十二部族と重なります。イスラエルというのは、神様に選ばれた祝福の民のことです。
 そして、新約聖書では、イエス・キリストを信じる者の集まり、つまり教会が「神のイスラエル」と呼ばれています。パウロはガラテヤ書で、教会のメンバーのことを「神のイスラエル」と呼んでいます。
 十二人の弟子たちは、後にイエス様を裏切ったイスカリオテのユダが抜けますが、もう1人選ばれ、十二人になりました。彼らは、イエス様の十字架と復活を世界中に伝えていきます。それが教会(神のイスラエル)の始まり、礎となりました。ですから、イエス様が十二弟子を選ばれた目的は、イエス様が私たち一人一人を選ばれた目的でもあるのですね。
 イエス様は、私たち一人一人を選び、そばに置いてくださっています。どんな時も、私たちの側にいて「わたしがいるから大丈夫。」そのように語りかけてくださっています。イエス様が共にいてくださること、それは、まさに福音です。
 イエス様は、私たちが生活している、それぞれの場所に私たちを遣わし、福音を分かち合う者としてくださっているのです。
 ですから、「イエス様、いつもそばにいてくださって、ありがとうございます。」「私が、今いるこの場所に、あなたが遣わしてくださっていることを感謝します。」そんな祈りをささげながら、今週も、歩んでまいりましょう。