城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年三月二一日            豊村臨太郎牧師
                   マルコ四章一節〜二〇節
 マルコの福音書連続説教5
  「良い実を結ばせてくださるお方」 
 
 1 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。
2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。
3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
 10 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。
12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」
13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。
14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
15 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです−−みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。
16 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです−−みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、
17 根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです−−みことばを聞いてはいるが、
19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
20 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」
 
 マルコの福音書からイエス・キリストの生涯を学んでいます。今日は、4章からイエス様が語られた「種まき」のたとえをご一緒に読んでゆきます。
 聖書では、よく私たちの人生が植物の木にたとえられていますね。例えば、有名な詩篇一篇では、神様の教えを喜びとする人は、「水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1・1)とあります。ここでは「木が実る」という表現で、神様によって祝福された人生が語られています。
 そのように、今日の箇所でもイエス様は、私たちの人生が豊かな実を結ぶ為に、どうしたらよいのかということをたとえを用いて教えてくださっています。では、どんな話だったでしょうか。
 
1 種蒔きのたとえ
 
 ある時、「種を蒔く人」農夫が種蒔きに出かけました。今の日本で種蒔きを想像すると、まず畑を耕してから種を蒔きます。でも、当時のパレスチナ地方には、いくつかの種蒔きの方法がありました。ある聖書注解によると、農夫がまず種を撒いてから、それから土地を耕すという方法があったようです。
 種はいろんな場所に蒔かれました。ある種は「道ばた」に落ちました。道ばたは、農作業のために通る小道のことで、踏み固められて草も生えない場所です。そこに落ちた種は「鳥が来て食べて」しまいました。
 また、別の種は「岩地」に落ちました。土が浅く積もった岩盤の土地です。そこに落ちた種はすぐに芽を出しますが、土に根を張る十分な深さがないので、太陽が昇ると水分が足りなくなって、すぐに枯れてしまいました。
 また、別の種は「いばらの中に」落ちました。いばらの成長は穀物より早いので、先にのびて種を「ふさいでしまいました。」この「ふさぐ」は「くびをしめる」という意味の言葉です。種がいばらで窒息させられてしまう状態です。
 そして、最後の種は、「良い地」に落ちました。土には十分な深さがあり、水はけもよく、穀物にとって望ましい土地です。そこに落ちた種は、「育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になりました。」
 このたとえ話をされたイエス様は、「聞く耳のあるものは聞きなさい」(マルコ4・9)と言われました。「このたとえを注意深く聞いて、それを自分に当てはめて考えなさい。」という意味です。
 ところで、皆さんはどんな時にたとえ話をされるでしょうか。私はスポーツが好きなので、時々、サッカーや野球にたとえるのですが、家族からは「余計にわかりづらくなる」と突っ込まれてしまいます。一般的に、たとえ話は何かを説明するときに、分かりやすく、より良く伝えるために用います。しかし、11節と12節をみると、弟子たちがイエス様に、たとえの意味を尋ねたとき、イエス様は、こう言われました。
「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」(マルコ4・11-12)
 つまり、真剣に聞こうとしない人には、意味が分からないようにするために、あえて、たとえを用いているというのです。なんだか、イエス様がとても意地悪で、冷たい印象を受けます。でも、もちろんイエス様が意地悪をして、真理を隠すためにたとえ話を用いておられるという意味ではありません。イエス様がたとえ話をするのは、聞く人がそのたとえに隠された内容を、本当に求めようとするのか、たとえの意味を真剣に知りたいと願うのかという、聞く側の姿勢を試す目的があるのです。
 ですから、イエス様は「よく聞きなさい。」「耳のある者は聞きなさい。」と言われました。たとえの中にある神様の真理を知ることを熱心に求めなさいと言われたわけです。イエス様は、この話が自分の人生とどんな関係があるのか、注意深く聞ことの大切さを教えておられるのです。その上で、たとえの意味を説明してくださいました。
 
2 種まきのたとえの意味
 
 4章14節で、イエス様は、「種蒔く人は、みことばを蒔くのです。」と言われています。「みことば」は「神様のことば」、「聖書のことば」のことです。神様は、私たちが人生において、豊かな実を結ぶために、「聖書のことば」を与えてくださっています。そして、聖書のことばがどのような地に蒔かれるのか、つまり、私たちがどのような心で「聖書のことば」を受け取るのか、それによって人生の実りがまったく違ったものになってしまうのですよと、イエス様は語られているのです。
 続けて、イエス様は種が蒔かれた四つの場所について話されました。
 
@道ばた
 
 15節で「みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです--みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。」(マルコ4・15)とあります。
 道端に落ちた種は、実を結ぶことができません。なぜならば、道というのは踏み固められていて、芽を出すことができないからです。芽を出さないとどうなるか、鳥がやって来て種を全部食べてしまうのです。
 これは、自分の持つ考えや、主義主張によって、心が道ばたのようにカチカチに固まっている状態です。自分の考えだけに凝り固まってしまって、聖書の言葉が語られても、受け入れる余地がない状態です。
 また、イエス様は鳥をサタンと言われています。以前、イエス様が荒野で誘惑を受けられた箇所で少し触れました。サタンという言葉には、「敵対する者」という意味があります。サタンは神様に敵対し、イエス様の働きを邪魔しようとする者です。
 聖書のことばを聞いても、それよりも、もっとよいものがあるかのように目をくらまそうとします。「イエス・キリストを信じるだけで救われるなんて都合がよすぎる。馬鹿らしい。信じるに値しない。」そんな風に種をもちささろうとするわけです。
 
A岩地
 
 そして、二番目は岩地に落ちた種です。岩地に落ちた種は、土が浅くて根を深く張ることができないので、芽を出しても、すぐに太陽の熱で枯れてしまいます。イエス様は、「こういう人は、みことばを喜んで受け入れるけれど、困難や迫害があると、すぐにつまずいてしまうという特徴を持っている。」と言われています。「喜んで受け入れる」というのは、聖書のメッセージを聞いて「すばらしい!」と感動するけれども、表面的にだけ受けとるということです。「イエス様を信じたら、病気が治って、仕事も上手くいって、すべて順調なら言うことはない。でも、困難が襲ってきて、不幸になるなら、もう信じるのはやめよう。」そのように、自分の利益だけ考えてしまう人のことです。
 
Bいばらの中
 
 そして三つ目はいばらの中です。イエス様はこう言われています。「いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです−−みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」(マルコ4・18-19)
 「世の心づかい」は、別の箇所では「思い煩い」「生活における思い煩い」とも表現されています。また、いつの時代にも、富の惑わしがあります。様々な誘惑や欲望も満ちています。人生をよくない方向に導く価値観もありますね。「いばらの中」に落ちた種というのは、そういったもので、「聖書のことば」に信頼することを忘れてしまう状態のことです。
 
C良い地
 
 そして、最後にイエス様は良い地に落ちた種についておっしゃいました。「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」(マルコ4・20)「良い地に蒔かれる」というのは、聖書のことばを聞いて受け入れることです。同じ出来事が書かれているマタイの福音書では「みことばを聞いて悟る人」と言われています。
 「悟る」という言葉は、別に特別な悟りを開くとか、深い知識を得るという意味ではありません。それを聞いて「なるほど、そうなのか」と「語られているとおりに理解する」という意味があります。聖書のことばを聞いて「なるほど」と、素直に受け入れる人、その人は人生において豊かな実を結ぶことができるというのです。
 でも、皆さん、どうでしょうか。ここまでイエス様が語られたことを聞いてどう思われますか。私は正直、自分の心が良い地だとはとても思えません。道ばたのように固かったり、岩地のようであったり、いばらが生え放題になっているような、そんな心だと感じてしまいます。それが、正直な思いです。
 でも、実は、神様はそんな私たちのことを、すでによくご存じなのですね。ローマ人への手紙3章10節には、次のような有名な言葉があります。
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」(ローマ3・10)
 つまり、初めから「良い地」である人など一人もいないということですね。みんな雑草だらけ、岩地のように堅く、いばらに覆われた「荒れ地」なのです。そして、自分で努力して、精進して、「良い地」になることなんてできないのです。
 
3 良い地にしてくださるお方
 
 でも、安心してください。神様はそのことを良くご存じです。その上で、神様ご自身が荒れ地のような私たちの心を良い地にしてくださると約束してくださっているのです。
 
@固い土地をやわらかくしてくださる神様
 
 旧約聖書エゼキエル書11章19節には、このように書かれています。「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」(エゼキエル11・19)
 つまり、わたしたちは固い心なのですが、神様ご自身がその固い心をやわらかくしてくださるということです。神様は、私たちの人生の中でいろいろな出来事を通して、農夫が土地を耕すように、私たちの心を柔らかくしてくださいます。もしかしたら、それは試練や苦しい出来事を通してかもしれません。そんな中で、自分の限界を感じたり、弱さを教えられたり、固い心がやわらかくされる。私たちそれぞれにそんな経験があるのではないでしょうか。
 また、私たちは毎週こうやって礼拝を捧げています。その中で、神様を心から賛美するとき、「賛美の中に住んでくださる主」ご自身が、私たちの心に触れてくださいます。聖書のことばを受け取ることができるように、柔らかくしてくださるのです。そのように神様は固くて荒れ放題の私たちの心を、柔らかい良い地にかえてくださるのです。私たちが信じる聖書の神様はそういう神様なのですね。
 
A乾いた土地に水を与えてくださる神様
 
 また、神様は、乾いた土地に水を、潤いを与えてくださるお方です。旧約聖書のイザヤ書にはこう書かれています。
「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」(イザヤ43・19ー20)
 神様は、荒れ地のように渇いた土地に水をわき出させ、川を流し、良い地にしてくださいます。聖書で水というのは、イエス・キリストを信じる一人一人に与えられる聖霊なる神様のことです。新約聖書ヨハネの福音書で、イエス様はこのように言われました。
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。(ヨハネ7・37ー39)
 御霊(聖霊なる神様)は、イエス・キリストを信じる私たちの心に宿ってくださいます。そして、私たちの心に潤いを与え、聖書のことばを受け入れやすくしてくださるのです。ですから、もし、私たちが聖書のことばを聞いて、「確かにそうだ」とうなずくことができるなら、それは聖霊なる神様が私たちの内に住み、生きて働いてくださっていることなのです。
 
B良い実を結ばせてくださる神様
 
 更に神様は、私たちに良い実を結ばせてくださいます。良い実とは聖書のことばを通して神様が私たちに与えると約束してくださっている、愛であり、喜びであり、平安です。
 私たちが聖書から「わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している。」という神様の約束を聞くとき、「ああ、私を大切に思ってくださっている神様がおられるのだ」と、私達の心に神様の愛の実が実ります。
 また、孤独や苦しみを経験するとき、イエス様のことば「わたしはあなたを捨てて孤児にはしません。」「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいます。」という約束を聞くなら、「どんな時もイエス様が離れず、ともにいてくださるんだ。」そんな安心が与えられます。神様は私たち一人一人の荒れ地のような心に、みことばの実を結ばせてくださるのです。
 私にもそんな経験があります。私は、昨年の8月から城山教会に来させていただきました。その一年前に、関根先生から「城山教会に来ないか。」と、声をかけていただきました。
 とても、嬉しい誘いでした。同時に、自分で大丈夫だろうかという思いも湧き上がってきました。こう見えて結構小心者なんです。新しい環境に踏み出すのは勇気がいります。住む場所も変わって、教会も、働きも変わる。そういう点で不安も感じたんですね。また当時、自分にとって苦しく孤独を感じるような出来事も経験していました。心がとっても乾いていたんですね。本当に荒れ地のような心でした。
 でも、ちょうどその頃に読んでいた聖書が心に響いたんですね。イザヤ書の43章1節2節でした。
「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。』」(イザヤ43・1-2)
 この箇所を読んだとき、「ああ神様が私を形造ってくださったんだ。神様は私の名を呼んでくださっているんだ。川を渡るような、怖さを感じるかもしれないけど、神様がともにいてくださるから流されないのだ。イエス様が私の手をしっかりと握り導いてくださるんだ。」そのような安心が与えられました。固くなっていた私の心を神様が耕してくださり、聖霊が乾いていた心を潤してくださいました。そして、一歩踏み出す勇気が与えられたんですね。
 
 一番最初にパレスチナ地方の種まきの方法をお話しました。日本の場合は、まず畑を耕し土地を用意してから、実りが期待できる場所に種をまきます。でも、当時のパレスチナには、まず種をばら撒いてから土地を耕すという方法があったと言われています。そのように、農夫である神様は、「聖書のことば」を、荒れ地のような固い心にも、一見、実りの可能性が見えないような乾いた心にも蒔いてくださいます。
 そして、みことば蒔いて終わりではありません。父なる神様ご自身が手間暇かけて耕し、石を取り除き、草を抜き、良い地に変えてくださいます。更に、聖霊なる神様が私たちのうちに潤いを与え、イエス・キリストの愛と平安、みことばの実を、私たちの人生に結ばせてくださるのです。このお方に信頼し、今週もご一緒に歩んでいきましょう。