城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年四月十八日            豊村臨太郎牧師
                  マルコ五章二一節〜四二節
 マルコの福音書連続説教6
  「小さな信仰、大きな恵み」 
 
 21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
 25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。
29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。
31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
 35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
39 中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。
41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)
42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。
 
 マルコの福音書からイエス・キリストの生涯を学んでいます。
今日は、5章の後半を読んでいただきました。ここには、二人の女性が登場します。一人は、ヤイロという人の娘で十二歳の少女です。もう一人は、十二年間、長血と呼ばれる婦人病を患っていた女性です。同じ十二年でも、まったく違う人生を送っていた二人の女性にイエス様は出会われ、人生に救いを与えてくださいました。今日は、この出来事を通して、イエス様が私達に与えてくださっている救いについて、ご一緒に考えていきましょう。
 
1 会堂管理者ヤイロの娘
 
 さて、イエス様のもとには、いつも大勢の人が集まってきました。中には、パリサイ人や律法学者といったイエス様に敵対する人もいました。けれども多くの場合は、色々な問題や苦しみを抱えた人たちでした。
 今日登場する一人目の女性の父親ヤイロもそんな一人でした。彼は会堂管理者でした。当時のユダヤ社会には、シナゴーグと呼ばれる礼拝の場所がありました。彼はそこを管理する責任者です。会堂管理者は、単に建物を管理するだけでなく、礼拝で読まれる聖書箇所を決めたり、司会者や説教者の指名を行いました。時には、会堂の秩序を乱す恐れのある人物を追放する役目も担いました。つまり、ヤイロは宗教的にも社会的にも、尊敬されていた人でした。
 そんな彼には、十二歳になる娘がいました。当時のユダヤでは、女性は十二歳になると成人とみなされました。日本で言えば、二十歳の成人式を迎えた女性です。ヤイロは「うちの娘が成人を迎えた。おめでたいことだ。」そんな風に喜んでいたことでしょう。でも、その喜びから突き落とされるように、ヤイロの娘が危篤状態になってしまったのです。
 もともと病弱だったのか。それとも、何か突然の病だったのはわかりません。今にも息を引き取りそうな深刻な状態になってしまったのです。ヤイロはいろいろな手を尽くしました。でも病状はいっこうに良くなりません。「どうしたらいいだろうか」と悩む中で、彼はイエス様が近くに来ていることを知ったのです。病気の娘を助けたい一心で、イエス様のところに出かけていきました(22節)。そして、イエス様の足もとにひれ伏して懇願したのです。
 「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」(23節)
 当時、イエス様は安息日にはユダヤの会堂に入り、教えを語られ、病気の人たちを癒やされました。時には、宗教指導者たちの問題を厳しく指摘されました。ですから、彼らはイエス様を会堂の秩序を乱す危険人物とみなしていました。会堂管理者のヤイロにとっても、普段ならイエス様は、あまり関わりたくない人物です。
「イエスは、なんだがすごく人気があるみたいだけど、できればうちの会堂で騒ぎを起こしてほしくないな。」そんな、偏見や否定的な思いもあったでしょう。
 また、ヤイロは社会的に高い立場にあり、人々から尊敬されていました。一方、イエス様はどうでしょうか。ガリラヤの田舎町ナザレ出身の大工です。また、この時のイエス様は、旅回りの説教者、さすらいの教師とも呼べる存在です。そんなイエス様の足もとにひれ伏すのには、ブライドを捨てる必要があったでしょう。でも、彼は偏見やプライドを忘れるほど切羽詰まっていました。「自分の力ではどうしようもない。このままでは娘は死んでしまう。もうあの人にかけるしかない。」娘を助けたい一心でイエス様に助けを求めました。
 時々、私達も、自分の中にある偏見やプライドが邪魔をして、イエス様のもとにいくことを妨げることがあります。でも、本当に切羽詰まった時、自分ではどうしもできなくなった時、気がつけばイエス様に助けをもとめているときがありますね。それは、もしかしたら、「困った時の神頼み」とも呼べる姿かもしれません。でも、イエス様はそのような私達を受け止めてくださるお方です。
 実際に、イエス様はヤイロの願いに応えて、彼の家に向かわれました。ヤイロはほっとしたでしょう。「よし。これで娘は助かるかも知れない。急いで、家に向かうぞ。」大急ぎで家に向かいました。周囲にいた大勢の人々もついていきました。
 しかし、その道中のことです、想定外の出来事が起こりました。一人の人物がイエス様の前に現れたのです。今日登場するもう一人の女性です。
 
2 長血を患っていた女性
 
 この女性は十二年間ずっと長血(婦人病)に苦しんでいました(25節)。彼女は病気を直してもらおうと、多くの医者に診てもらいました。でも、一向に良くなりませんでした。マルコは、わざわざ「この女は多くの医者からひどい目にあわされて、自分の持ち物をみなつかい果たしてしまった」と記しています(26節)。
 今も昔も、いろんな怪しい治療法がありますね。当時、ダチョウの卵の殻を灰にして持ち運ぶなど迷信じみたものもありました。女性は、いろいろなお医者さんのところに行っては、そのような治療法をためしました。でも、治療費を取られるばかりで病気は少しも良くなりません。そして、健康だけでなく、ついには財産も失ってしまったのです。
 それに加えて、当時のユダヤ社会では、女性特有の出血のある場合は、宗教的にその期間は汚れた者とされていました。その人に触れる者、その人が使ったものに触れるものさえ汚れてしまうと考えられていました(レビ15・25)。つまり、彼女は、病気の性質上、いろんな助けを受けたくても、人々から拒絶され、孤独の中にいたのです。
 健康をそこない、財産も失い、周囲には頼れる人もいない。この先の人生に全く希望が見えない状況の中で、彼女もまたイエス様の噂を聞いたのです。「イエスという方は、病気の人、人々から汚れていると言われて、誰も近寄らない人に触れて、癒やされたそうだ。また目の不自由な人の目を見えるようにし、歩けなかった人を歩けるようにされたらしいぞ」。
 どこにも希望を持つことのできなかった彼女は、イエス様の噂を聞き、「この人しかいない」「イエス様にお会いしたい」と思い始めました。「イエス様の着物にちょっとでもさわれば、病気が直るかも知れない。」そう考えたのです。そして、群衆に紛れてイエス様に近づきました。こっそりイエス様の服に触れたのです。その瞬間、なんと十二年間ずっと治らなかった彼女の病が癒されたのです。5章29節には、彼女が「すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことをからだに感じた」(29)とあります。彼女は、イエス様に触れた瞬間にいやされたのです。そして、誰にも気づかれないように、人混みの中を立ち去ろうとしました。
 その時です。「だれがわたしの着物にさわったのですか。」イエス様の声が聞こえました。彼女は、ドキッとしたでしょうね。側にいた弟子たちは言いました。「イエス様、こんなに群衆があなたに押し迫っているのです。『だれがさわったのか』なんてわかりませんよ。」それでも、イエスは周囲を見回して、「いや、確かに今、わたしから力が外に出て行ったのだ。触ったのはだれか。」そう言って、その人物を探すことをやめませんでした。イエス様は、ご自分の力を、癒やしを一方的に与えて終わりではなかったのです。イエス様が求めておられるのは、双方向の関係、顔と顔とを合わせた一対一のやりとり、人格的な関わりです。
 イエス様の様子を見た彼女は、おそるおそる前にでてきました。「ああ、なんて言われるだろうか。汚れた自分がイエス様に触れるなんて。怒られるに違いない。でも、正直に話そう。」彼女は自分の病について、これまで経験してきた苦しみ、そして、今、起こった出来事を真実に話ました。イエス様はどう言われたでしょうか。
 「娘よ、あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(34)
 なんて優しい語りかけでしょうか。ここには三つの語りかけがあります。
 
 @イエス様は、彼女に「娘よ」と呼ばれた。
 
 これは、父親が娘にかける親しみと愛情のこもった呼びかけです。当時、他人の大人の女性には使わない呼びかけでした。みんなに見放され、孤独の中にいた女性に、イエス様は愛と親しみを込めて語りかけられた。以前、マルコ2章に出て来た中風の人にも、イエス様は「子よ」呼びかけてくださいました。同じようにこの女性に対しても「娘よ」と優しく語りかけられたのです。
 
 Aイエス様は、「あなたの信仰があなたを直した」言われた。
 
 彼女は、イエス様の噂を聞き、イエス様に近づいて触れただけです。「イエス様なら何とかしてくれるのではないだろうか。」そう思って人混みにまみれてイエス様の着物に触れただけです。でも、イエス様はそのような彼女のイエス様への期待と、小さな行動を「信仰」と呼んでくださったのです。そして、「そのあなたの信仰が、私に対する思いが、あなたの病を癒やし、救ったのですよ。」と言われたのです。
 
 Bイエス様は、「安心して帰りなさい。」と言われた。
 
 これまで彼女に対して「安心しなさい」などと言ってくれる人がいたでしょうか。いいえ。いませんでした。医者からも見放され、人々からは「汚れた者」と遠ざけられていました。彼女の人生に「安心」を与えてくれる存在などいなかったのです。でも、イエス様は「安心しなさい。健やかでいなさい。」そう語りかけ、彼女の心に「安心」を与えられたのです。
 
3 ヤイロの娘の癒やし
 
 さて、どのくらいの時間が経過したでしょうか。横で見ていたヤイロは焦ります。「イエス様、お願いです。早く私の家に来てください。」そんなヤイロに追い打ちをかけるように、悲惨な知らせがとどきます。家から使いがやってきて、「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」と告げたのです(35節)。
 「ああ、間に合わなかった。娘は死んでしまった。」ヤイロは絶望に突き落とされます。ところが、イエス様はヤイロに向かって「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われました(36節)。そして、彼の家に向かわれたのです。
 家に着くと人々が泣き悲しんでいました。彼らに対しても、イエス様は言われました。「あの娘は死んだのではない。眠っているのだ」(39節)。それを聞いた泣いていた人たちは、「なんだこのイエスという人は、何て馬鹿なことを言うのだろう。娘はもう死んでいるのだ。眠っているなんて冗談じゃない」と、あざ笑います。でも、イエス様はあざ笑う人々の中を通り抜けて、娘のいる所に入って行かれました。
 そして、彼女の手を取り「タリタ、クミ」と言われたのです。これは、「少女よ。起きなさい」という意味です(40-41節)。また、「タリタ」は「娘よ」とも訳される言葉です。この呼びかけは、日常の中で父親や母親が、朝、娘を起こすときの、普通の呼びかけでもあります。イエス様は、優しく愛を込めて、まるで朝、父親が娘を起こすように、彼女の手をとり、「娘よ。起きなさい」と呼びかけられたのです。
 すると、どうでしょう。死んでいた少女が起き上がり、生き返ったのです。マルコはその少女が十二歳だったと記しています(42節)。
 
4 イエス様が癒やされた二人の女性
 
 さて、今日登場した二人の女性。十二年間病に苦しんだ女性と十二歳の少女。同じ十二年という歳月でも、全く違った十二年でした。長血を患っていた女性は病に苦しみ、財産を失い、人々から汚れた者と見なされていました。孤独と失望の十二年です。一方ヤイロの娘は、社会的立場のある両親に育てられ、愛情をいっぱいに受け、守りの中で生きてきた十二年です。とても対象的です。
 でも、そんな二人に共通していることがあります。それは、自分の力では、自分を救うことができない状態だったということです。一人は医者に見放された人であり、もう一人は死んでしまった人です。要するに、二人はどちらも「自分では、もうどうすることもできない。お手上げ。」という姿です。でも、イエス様は、その二人の人生を救ってくださったのです。
 この出来事から、今日私達は、イエス様が与えてくださる救いについて、大切な二つのことに目を留めることができます。
 
 @イエス様に対する小さな信仰が救いに導く。
 
 最初の女性に対して、イエス様は、「あなたの信仰があなたを直した。」言われました。「直した」は「救った」と同じ言葉です。では、彼女を救いに導いた信仰とは、どんな信仰だったでしょうか。
 繰り返しになりますが、彼女は「イエス様なら何とかしてくれるのではないだろうか」そう思ってイエス様に近づき、こっそり着物に触れただけです。それはイエス様に対する淡い期待だったかもしれません。でも、彼女は自分ではどうしようもない中で、小さな一歩を踏み出したのです。弱っていた手を伸ばしました。イエス様は「そのあなたの小さな信仰が、私に対する期待が、あなたを救ったのですよ。」と言われたのです。
 私達は「信仰」と聞くと、それぞれにいろいろなイメージをもちます。立派な行いをするとか、沢山学んで成長するというような。でも、彼女の姿は、立派でもなければ、宗教的な行いをしたわけでもありませんでした。ただ、「イエス様の着物にふれたら治るのではないだろうか」そう期待して、イエス様に触れたのです。
 私達も、人生の中でいろんな問題や苦しみに直面することがあります。自分ではどうしようもない状況に置かれることがあります。その中で、長血の女性のように「ああ、イエス様なら何とかしてくださるんじゃないだろうか」そのように思うことなら、期待することなら、できるのではないでしょうか。そのような、イエス様に対する小さな小さな信仰をもって歩んでゆくとき、生きて働いてくださるイエス様の力を体験することができるのです。
 
 Aイエス様の救いは、一方的な恵み
 
 長血の女性も、ヤイロの娘も、自分ではどうすることもできない状況に置かれました。特に、ヤイロの娘はイエス様に触れることさえできませんでした。だって、死んでしまったのですから。イエス様に、近づくことも、声を上げて助けを求めることもできませんでした。父親であるヤイロは、イエス様に熱心に求めました。でも、娘が死んでしまったことを聞いて、さすがに失望しました。死んでしまった娘を救うことはできませんから。でも、イエス様の方から彼女の所に来てくださり、その手をとり「少女よ。おきなさい」と語りかけ、彼女を死から救い出してくださったのです。
 実は、福音書の中で、死んだ人を生き返らせるという奇跡は、そんなに沢山でてくるものではありません。イエス様は、その生涯の中で、何人かの人を生き返らせることをなさいましたが頻繁ではありませんでした。
 ですから、福音書の中で死んだ人を生き返らせるという奇跡には、特別な意味が込められているんですね。それは、イエス・キリストが、私たち人間にはどうすることもできない死の解決をあたえるお方であることを、象徴的に示しているのです。
 この時、イエス様は言われました。「子どもは死んだのではない。眠っているのです。」つまり、イエス様にとって、肉体の死は眠っているにすぎないということです。
 私たち人間は、どんな人も必ず死を迎えます。誰一人死から逃げることはできません。でも、イエス様にしてみれば、それは眠っているにすぎないのです。
 ヨハネの福音書11章25節でイエス様はこう言われました。「わたしは蘇りです、いのちです、わたしを信じる者は死んでもいきるのです。」(ヨハネ11・25)この約束の通り、イエス様は、やがてイエス様を信じる一人びとりを復活させてくださいます。永遠の救いを与えてくださるのです。
 そして、この救いは、ただ恵みによって与えられますす。長血の女性は何か立派なことをしたでしょうか。いいえ、ただイエス様に触れただけです。ヤイロの娘は自分で行動できたでしょうか。いいえ。イエス様の方から彼女の所にゆき、癒やしてくださったのです。
 そのように聖書が約束している救いは、ただイエス様からの一方的な恵みなのです。今日の招きの言葉で読まれました。エペソ人への手紙2章4節、5節に書かれてあるとおりです。
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、−−あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです−−」(エペソ2・4-5)
 このイエス・キリストの大きな恵みの中に入れられていることを感謝し、今週もご一緒に歩んでいきましょう。