城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年五月十六日            豊村臨太郎牧師
                  マルコ六章三十節〜四四節
 マルコの福音書連続説教7
 「愛し、養い、いのちを与えるお方」 
 
 30 さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。
31 そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。
32 そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。
33 ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。
34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。
35 そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。
36 みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」
37 すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」
38 するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」
39 イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。
40 そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。
41 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。
42 人々はみな、食べて満腹した。
43 そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。
44 パンを食べたのは、男が五千人であった。
 
 今日は、マルコの福音書六章の後半を読んでいただきました。ここには、イエス・キリストが五つのパンと二匹の魚で、五千人以上の人々の空腹を満たされた奇蹟が書かれています。とても有名な出来事ですし、新約聖書の四つの福音書全てに記録されています。それほど、イエス様の弟子たちにとっても、強く記憶に残る出来事でした。
 今朝、ここを読む私たちにとっても大切なメッセージが込められています。この出来事の中で、
 @イエス様は、人々に愛とあわれみを示してくださいました。
 Aイエス様は、人々の現実の必要を満たしてくださいました。
 Bイエス様は、決してなくなることのない食物を約束してくださいました。
 今日は、この三つことをご一緒に考えていきましょう。
 
1 愛とあわれみを示されたイエス様
 
 @出来事の背景
 
 この出来事が起こった時、イエス様は、弟子たちと一緒に舟でガリラヤ湖を渡り、静かな所に行こうとなさっていました(6・31)。イエス様の周りには、いつも大勢の群衆が集まっていました。特に、この時は十二人の弟子たちが、イエス様に送り出されてガリラヤの村々で伝道し、帰ってきたばかりでした。イエス様は弟子たちと一緒に舟に乗って湖を渡り、しばらくの間、静かな場所で弟子たちを休ませようとなさったのです。身体を休め、神様の前に静まる時を持つ、そんな時間を過ごそうとされました。
 ところがです。多くの群衆が湖の周りを陸づたいに追いかけ、先回りして待っていました。弟子たちはきっと、「せっかく、ホッと一息、休めると思ったのに・・・。」「イエス様と水入らずで過ごせるはずだったのに・・・。」と思ったに違いありません。
 でも、イエス様はどうだったでしょうか。六章三四節を読むと、「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」と書かれてみます。
 
 A羊飼いのように
 
 聖書には、よく羊が登場します。羊はとても迷いやすい動物です。お腹が空けばあっちにフラフラ、こっちにフラフラ、すぐに迷子になります。また、羊はとても弱い動物です。自分を守るための牙も、するどい爪もありません。獣におそわれたらひとたまりもありません。ですから、羊には、羊のことを大切に守り導く羊飼いが必要です。
 この時、イエス様の目には、群衆が羊飼いからはぐれて迷い、弱ってしまった羊の群れのように映っていたのです。実際、群衆の中には病気に苦しんでいる人がいました。人々から拒絶され、孤独を感じている人もいたでしょう。前回登場した会堂管理者のヤイロや、長血の女性のように、「自分ではどうすることもできない」「イエス様の所に行けば、何か希望がみつかるのではないか」そんな思いで、集まった人々もいたでしょう。
 イエス様は、そんな群衆を決して放っておかれることはなさいませんでした。一人一人を愛を持って見つめ、深く憐れんでくださったのです。
 
 Bあわれみ
 
 ここに記されている「あわれみ」という言葉は、決して上から目線のものではありません。これは「内臓」という言葉から派生していて、「内臓がよじれるほどの痛みや苦しさを伴う感情」を意味します。
 私は、小学生の時、盲腸の手術をしたことがあります。その時は、本当にお腹が痛くて痛くて苦しかったことを覚えています。「内臓がよじれるほどの痛み」と聞くとそのことを思い出します。
 イエス様は、苦しんでいる人、悲しんでいる人、人生に迷い、どこに行くべきかわからなくなっている群衆を、まるで自分自身のことのように痛み、憐れんでくださったのです。
 私がとてもお世話になった、関西で長く牧会されている先生から、以前こんなことをお聞きしたことがありました。
「教会に信徒さんが来られて、『先生、こんな辛いことがありました。苦しいです。誰にも分かってもらえません。先生お一人でも、私の話を聞いて分かってくれたら、それでいいんです。』そのようにおっしゃることがあった。だから、精一杯、お話を聴くけれども、それでも人には限界があって、本人にしかわからないことがあるんだよ。でもね。聖書のイエス様だけは、どんな人の苦しみも、痛みも全部ご存じだから、本当に慰めだね。」
 新約聖書ヘブル書の中に、イエス様は「私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4・15)と書かれています。人としてお生まれになったイエス様は、人としてこの地上の生涯を生きてくださいました。そして、私たちが経験する、痛みも苦しみも、孤独もすべてご存じです。イエス様は心底、私達に共感してくださるお方なのです。
 それだけではなく、この箇所に「教えられた」とあるように、人々の人生を導く、確かな言葉を語ってくださいました。他の福音書の同じ箇所には、癒やしを必要としている「彼らをいやされた。」(マタイ15・30)とも書かれています。イエス様は、人々の病を癒やし、痛みや苦しみを実際に取り除いてくださったのです。
 私たちの人生にも辛い出来事が起こります。苦しみや悲しみを経験します。人生の先が見えない、迷いの中を歩んでいるような時があるかもしれません。イエス様は、そんな私たち一人一人を、ご自分のことのように憐れんでくださり、確かなみことばを語り、必要な助けを与えてくださるのです。そのことをまず第一番目に覚えたいと思います。
 
2 現実の必要を満たされたイエス様
 
 さて、二つ目のポイントですが、イエス様は五千人以上の群衆の空腹を実際に満たしてくださいました。
 
 @五千人の空腹を満たされる
 
 ある人は、この箇所を読んで、「いやー、たった五つのパンと二匹の魚で五千人も食べさせられるわけない。きっと人々がイエス様のお話に感動して、満腹になった気持ちがしたんでしょう。」あるいは、「実は、みんな懐に弁当を隠し持っていて、後になって、それを出したんでしょう。」そのように理解する人もいます。
 でも、決してそうではありません。最初に述べましたが、この出来事は新約聖書の四福音書すべてに書かれています。マタイも、マルコも、ルカも、ヨハネも、この出来事を確かに目撃した弟子たちの証言に基づいて、「人々が実際に食べて満腹した。十分に食べた。」と記しています。イエス様は、お腹が減っていた人々が食べたいだけ、あり余るほど十分な食べ物を与えてくださいました。彼らの現実の必要を、実際に満たしてくださったのです。
 私たちがイエス・キリストを信じるということは、単に心が満たされて終わりではありません。私たちは、毎週の礼拝で「主の祈り」を祈ります。その中で「日々の糧をあたえたまえ」と祈ります。それは、決して心の糧だけのことではなりません。日々の糧は現実の糧です。私たちはともすれば、「心のことは心のこと、現実のことは別もの」というように考えてしまいがちです。でもイエス様は、私たちの日々の糧を、現実の必要を、実際に満たしてくださるお方です。みなさん、それぞれにそのような経験があるのではないでしょうか。私にもあります。
 私は、牧師家庭、しかも、七人兄弟、九人家族の大家族で育ちました。決して裕福とはいえませんでした。ある時、当時の教会堂が古く手狭になったので、建物を壊して、新しい会堂を建てることになりました。それに伴い牧師館も壊すので、引っ越して仮住まいをしたのです。子どもでしたから、あまり詳しくはわかりませんでしたが、当時は経済的に厳しかったようです。その頃のことです。ある日、自宅に大きな30キロの米袋が届けられたのですね。大家族ですから、一月も経たないうちになくなってしまうわけですが、お米がなくなりかけた頃に、また新しい米袋が届きました。そして、なくなりかけたらまた届く。なくなりかけたらまた届く。それが、ずっとずっと続いて、なんと会堂建築が終わるまでの十ヶ月間、我が家では一度もお米を買うことがなかったんですね。子どもながらに、「イエス様ってすごいな。確かに日々の糧を与えてくださるんだな。」と実感しました。
 もちろん、何でもかんでも、私たちが願うもの、全てが与えられるということではありません。でも、イエス様は私たちの日々の糧を、現実の必要を確かに満たしてくださるお方です。
 
 A五つのパンと二匹の魚を通して
 
 イエス様は、たった五つのパンと二匹の魚という僅かな食物を通して、大勢の人のお腹を満たされました。ヨハネ六章を読むと、それは少年のお弁当、しかも、当時、粗末な食べ物だった大麦のパンだったことが分かります。おそらく、少年は自分のお弁当をイエス様に食べてもらおうと差し出したのでしょう。イエス様はそれを受け取り、天を見上げて祝福し、人々に配られました。するとどうでしょう。男性だけで五千人、女性や子供も含めたら一万人以上いたかもしれません。大勢の人々が十分に食べて、満腹しました。余ったパン切れを集めると十二のかごがいっぱいになるほどに増やされたのです。
 この時、少年に何か特別な信仰があったでしょうか。いいえ。ただイエス様に食べていただきたいと差し出したのです。まさか、自分が差し出した僅かな食べ物が大勢の群衆のお腹を一杯にするなど、夢にも思っていなかったでしょう。
 私たちも、「自分なんてたいした物を持っていない。」「クリスチャンとして、役に立つなんて思えない。」そんな風に思うかも知れません。でも、そうじゃありません。ただ単純に、イエス様を愛し、そのままをイエス様に差し出すなら、イエス様は祝福し豊かに用いてくださるのです。
 例えば、この毎週の礼拝もそうです。何かすごいことをしているかと言われれば、そうではありませんね。みなさん、お一人ひとりが、それぞれに時間をとって礼拝しています。その中で、私たちがイエス様の恵みを受け取り、神様の愛に生かされてゆくなら、不思議ですけれども、私たちを通して周囲の人々へ、イエス様の愛が、神様の祝福が流されていくのです。
 城山教会に来る前から、よく関根先生とお話していることですが、「城山教会は、とにかく礼拝が中心なんだよ。イエス様を愛する人がいて、礼拝をささげているなら、イエス様はそれを喜んで受け入れ、豊かに用いてくださる。そして、結果として、教会を通して沢山の人が福音を聞いて、イエス様と出会うことへ繋がっていく。」私も、そう信じて皆さんと共に礼拝をささげています。
 そして、最後、今日の三つ目のポイントです。
 
3 決してなくならない食物を与えてくださるイエス様
 
 イエス様は、人々を愛してあわれんでくださいました。現実の必要を満たしてくださいました。でも、イエス様は、ただ肉体的な満腹感を与えるためだけに来られたのではありません。決してなくなることのない食べ物をも与えてくださるお方です。
 
 Aいのちのパン
 
 ヨハネの福音書六章によると、このパンの奇跡の後、群衆たちは別の場所に行かれたイエス様を追いかけていきました。すると、イエス様はついて来た彼らに対して、次のようにおっしゃったのです。 
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。・・・わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(ヨハネ6・47ー51)
 ここで言われていることは、イエス様ご自身が「天から下ってきた生けるパン」「いのちのパン」として、私たちのところに来てくださったということです。
 そして、「いのちのパン」であるイエス様を食べる、つまり、それはどういうことかというと、イエス様を信じ受け入れるということです。私たちが、イエス様を信じ受け入れる時、「永遠のいのち」が与えられるという約束です。
 
 A永遠のいのち
 
 「永遠のいのち」とは、いったい何でしょうか。それは、今をずーっと生き、単に長生きするということではありません。聖書が教える「永遠のいのち」というのは、一つには、この地上の生涯を終えた後、イエス様を信じるものに与えられる復活のいのちです。
 イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハ11・25)
と言われました。聖書は、イエス・キリストを信じる者は、たとえ死んで、この肉体が滅んでも、それで終わりではない、やがて復活し、神様と共に生きると約束しています。
 そして、永遠のいのちはそれだけではありません。もう一つ、今、この地上で私たちを愛してくださっている神様を知り、キリストと共に生きるいのちです。
 ヨハネの福音書十七章三節に、「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17・3)と書かれています。聖書で「知る」というのは、単に知識を持っているという意味ではありません。親しい関係を持っているということです。
 例えば、子どもがお父さんのことを知っているというのは、「父」というタイトルの本を読んで、「お父さんとは、こうこうこういう人だ。」そのように理解することではないですね。お父さんと一緒に過ごし、遊び、生活し、「おとうさーん」と呼び、体験的に知るということですね。
 そのように「永遠のいのち」というは、イエス・キリストを通して、父なる神様を「おとうちゃーん」と呼ぶことのできる親しい関係の中に、神様の愛の中に生きるということです。イエス様は、そのような永遠のいのちを与えてくださったのです。
 今日の箇所で、五千人の人たちは、素晴らしい奇蹟を体験しました。イエス様にお腹一杯満たされました。でも、ほんの数時間たてば、またお腹は減ってしまいます。しかし、今、私たちが、イエス様を信じ受け入れることによって与えられる、永遠のいのちは、決してなくなることのない食物です。そして、今日、共に礼拝をささげるている、私たち一人一人に、この永遠のいのちが与えられているんです。礼拝の「招きのことば」で読まれました。ヨハネの福音書六章三五節のイエス様の約束の通りです。
「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ6・35)
 イエス様は、私たちを愛しあわれんでくださっています。私たちを決して飢えさせず、日々の糧を、現実の必要を与えてくださるお方です。そればかりでなく、死んで終わりではない復活のいのちを、この地上で私たちを愛してくださっている神様とともに生きる永遠のいのちを与えてくださっています。
 このお方に信頼し、日々養っていただきながら、感謝をささげ、今週も歩んでいきましょう。