城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年六月二十日            豊村臨太郎牧師
                  マルコ七章一節〜十五節
 マルコの福音書連続説教8
 「外側でなく内側を」 
 
 1 さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。
2 イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、
3 −−パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、
4 また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある−−
5 パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」
6 イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。
  『この民は、口先ではわたしを敬うが、
  その心は、わたしから遠く離れている。
7 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。
  人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
8 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」
9 また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。
10 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言っています。
11 それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、
12 その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。
13 こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」
14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。
15 外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
 
 おはようございます。月一回のペースでマルコの福音書から説教させて頂いています。今日は7章前半を読んでいただきました。この出来事は、当時、ガリラヤ地方を中心に活動されていたイエス様の所に、首都エルサレムからパリサイ人と律法学者たちが派遣されてきたところから始まります。
 ご存じのように、この頃イエス様の元には大勢の人々が集まっていました。前回読みましたが、この少し前にイエス様は五千人の人々の空腹を満たされました。病気で苦しんでいる人を癒やされ、人々の色々な必要にこたえられました。イエス様の評判は益々広がり、その噂は遠くエルサレムの宗教指導者のもとにまで届いたのです。彼らはこう考えました。
「このままイエスを放っておくわけにはいかない。」
「人々が惑わされ、これまで自分たちが守ってきた大切な教えや伝統が踏みにじられる。」
そして、エルサレムの宗教指導者たちは、イエス様を捕らえる口実を見つけるために調査団を送りました。それが、今日登場する「パリサイ人や律法学者たち」です。
今日の箇所には彼らとイエス様とのやりとりが記されています。今日は、大きく三つのポイントをご一緒に考えていきたいと思います。
 
1、「昔の人たちの言い伝え」とは何か?
2、パリサイ人や律法学者たちの信仰理解(信仰のとらえ方)
3、イエス様が語らえたメッセージ「外側でなく、内側を」
 
1 昔の人たちの言い伝え
 
 これは、当時ユダヤ人の中で口頭で伝えられていた教えです。モーセの十戒を中心とした旧約聖書の律法を解釈し、説明し、補足したものでした。聖書を解釈し、人々に教えることですから、そのこと自体は決して悪いものではありません。でも、次第に「言い伝え」の数が増えていきました。適応される範囲も広がりました。人々の生活の細かい事柄にまで及んでいったのです。旧約聖書の律法(神様の戒め)を守るために、まるで柵で取り囲むように、色々な「しきたり」が作られていったのです。
 もうだいぶ前になりますが、子どもがまだ赤ちゃんだった頃、だんだん自分で動けるようになったので、危険なものにふれないようにお店で、家の中で使える子どもの用の柵を買って囲みました。最初は小さな範囲でよかったのですが、成長に伴ってどんどん柵を買い足すことになりました。狭い部屋が囲いだらけになり、いつのまにか本人を囲んでいるのか、親が囲まれているのか、わからなくなってしまったことを思い出します。
 そのように、ユダヤの宗教指導者たちは、人々が律法を破ることがないように、近づかないように、安全な柵を設けていきました。それが「昔の人々の言い伝え」です。
 今日の箇所では、二つの「言い伝え」が出て来ます。一つは、「食事の前に手を洗う儀式」、もう一つは、「コルバン宣言」という「言い伝え」です。
 
 @「食事の前に手を洗う儀式」
 
 この時、イエス様のところにやってきたパリサイ人と律法学者たちは、イエス様を訴える為の口実を探していました。イエス様や弟子たちの言動をつぶさに観察し、一つの行動に目がとまりました。それはイエス様の「弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者」(マルコ7・2)がいるのを発見したのです。
 これは別に、「汚れた手のままで、食事するなんて汚いな…」というような、衛生的な意味ではありません。宗教的な意味での汚れを洗い流す儀式でした。それをしないで、イエス様の弟子たちが食事をしていたことを、彼らは非難したのです。
 当時、ユダヤの人々は、神様の前に自分が清くあるために、汚れたものを極力遠ざけて生活していました。7章3節と4節で、マルコはそのことをユダヤ人以外の読者に向けて解説しています。
 
「パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある」(マルコ7·3-4)
 例えばある人が外出したとします。市場に行けば、肉や野菜、色々なものが売っています。その中に、当時食べてはいけないとされていた動物の肉が混じっているかも知れません。知らないうちに汚れた物にさわってしまっているかもしれません。今の私たち、新型コロナウィルスが広がっている中で、少しその気持ちがわかるような気がします。
 そんなわけで、ユダヤの人々は外出して外から帰ると、実際、目に見える汚れが付いていても、ついていなくても、必ず手を洗いました。体も洗いました。また、食器なども洗ったと記されています。
 この「きよめの儀式」は、聖書に直接書いてあるわけではありませんでした。どこから作られたかというと、おそらくレビ記の中にある、「祭司が神様の前で特別な儀式をおこなう時は、水で体を洗うこと」という戒めが、もとになっていると考えられます。
 なるべく、その戒めに抵触しないように、まるで柵で囲うように、祭司だけでなく一般の人々も、特別な時だけでなく、日常の食事の前にも、「手を洗うきよめの儀式」をしなければならないと解釈が広がっていったのです。
 このように「言い伝え」が増えると、どうなるでしょうか。当然、自由が奪われます。束縛されることになります。人々は「言い伝え」を守ることに疲れ、だんだんと形だけを守る生き方へと傾いていってしまいます。
 
 A「コルバン宣言」
 
 また、当時のユダヤでは「言い伝え」を悪用するケースもあったようです。それが「コルバン宣言」という言い伝えです。あまり馴染みのない言葉ですが、「コルバン」には「ささげもの」という意味があります。
 例えば、ある人が礼拝に捧げ物を持って行ったとします。「神様、これはあなたへのコルバンです。(ささげものです。)」そう宣言したら、それは神様の所有物になり、取り消すことはできない。心変わりしてはいないという「言い伝え」でした。
 この「コルバン宣言」を自分勝手に悪用する人がいたのです。イエス様は、7章10節から12節で、そのことを批判されました。
「モーセ(の十戒)は、『あなたの父と母を敬え』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。」(マルコ7・10-12)
 どういうことかというと、ある人に年老いて生活に困っている親がいたとします。でも、その人はこう考えました。「親にお金を援助するのはいやだな。そうだ、コルバン宣言をしよう!」「私の財産はコルバンです。神様にささげたから、もう使うことはできません。」こういう具合です。
 つまり、「神様にささげたものを、ほかにもちいるべきではない」という、「言い伝え」を隠れ蓑にして、十戒の一つ、「あなたの父と母を敬いなさい」という「聖書のことば」を無視したのですね。もともと、聖書を守るために作られた「昔の人たちの言い伝え」が、結果的に「聖書のことば」を、空文化してしまっていたのです。聖書の理解を助けるためのものが、いつしか聖書と同等、それ以上になっていたのです。
 
 このことは、私たちも気を付ける必要がありますね。教会には色々な伝統や文化があります。もちろん、その中にはいいものもあります。でも、時にはそれが聖書からズレてしまうことがあります。ですから、いつも、「聖書がどう教えているのだろうか。」「聖書には何と書いてあるだろうか。」と確認することが大切です。
 
2 パリサイ人や律法学者たちの信仰理解(信仰の捉え方)
 
 さて、そのようなパリサイ人や律法学者たちの根底にあったものは何でしょうか。彼らはどのような信仰の捉え方をしていたのでしょうか。それは、自分の外側から入ってくる汚れをいかにしてきよめるか、ということです。もちろん、信仰者として正しく生きたいと願うこと、神様の前にきよくありたいと思うことは、悪いことではありません。
 パリサイ人や律法学者は、熱心に誠実に生きようとしていました。人々から尊敬もされていました。でも、問題は、その方法でした。自分たちが作った「言い伝え」を守ること、宗教的な行いをすることによって、きよくなると考えてしまうことでした。とにかく昔から伝わる「言い伝え」さえ、これさえ守っていれば自分をきよくできる、これが正しい信仰の姿なのだと考え、守らない人を批判したのです。パリサイ人がイエス様や弟子たちを批判したことがまさにそうでした。
 イエス様はそのような彼らに対して、イザヤ書のことばを引用して指摘されました。
「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」(マルコ7・6)
 つまり、表面的な「言い伝え」を守って外側をきよくし、神様に近づこうとしているけれども、心が神様から遠く離れてしまっているという指摘です。本当に大切なのは、外側の形を守ることではなく、内側の心がかえられること言われたのです。
 そして、イエス様は、外側をきよくすることに一生懸命だった律法学者たちとは、正反対のこと、心の問題について語られました。それが最後の三つ目のポイントです。
 
3 イエス様のメッセージ「外側でなく内側を」
 
 7章15節でイエス様はこう言われました。
「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」(マルコ7・15)
 ここで、イエス様は、「外側から入って人を汚すものはない」とはっきりおっしゃいました。「内側から出るものこそが、人を汚すのだ。だから、内側が変えられなければ、どんなに立派に見えたとしても、むなしいのですよ。」そうに教えられたのです。
 では、人の心から出て来るものとはどういうものでしょうか。7章21節、22節にリストが上げられています。
「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ」(マルコ7・21-22)。
 このリストの内容は、どんな人にも何かしら当てはまるものですね。実際に、行動に移してはいなくても、心の中では、知らず知らずのうちに沸き上がってくる思いではないでしょうか。もうだいぶ前ですが、あるクリスチャンの中学生男子がこんな詩を書きました。
 
 「顕微鏡」
 もし僕の心を 顕微鏡でのぞけたら 
 真っ黒なヘドロのような罪でいっぱいだろう
 そんな心で自分なんて愛せるわけない
 まして人なんて愛せるわけない
 いったいどうすればいいの このヘドロのような罪
 どうすればとれるの 教えておくれ
 答えは一つだけ 
 あの人に 心をきれいにしてもらうだけ
 さあ 今 心開いて
 真っ白な 心になろう
 
 中学生だからこそ、とても純粋に、ストレートに自分の内面を見つめていますね。でも、大人でも、子どもでも、どんな人でも、自分の心を正直に見つめれば「良いものがでてこない、ヘドロのような罪でいっぱいだ」共通した思いではないでしょうか。それを自分で何とか消そうと思っても消すことはできません。どうすればいいのでしょうか。答えは一つだけです。あの人、イエス・キリストにきれいにしてもらうだけです。
 第一ヨハネの手紙1章7節には、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」と書いてあります。「すべての罪からきよめられる」ということは、「私達の内側がどんなに汚れていても、イエス・キリストが十字架で流された血潮によってすべての罪が洗い流される。」ということです。
 そして、第一ヨハネの手紙1章9節には、「私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とも書かれています。
 私たちは「言い伝え」を守って、宗教的な儀式によって、きよくなるのではありません。ただ、「神様、私は汚れています。自分ではお手上げです。どうか私の内側をきよめてください。」そのように単純に祈る時、イエス・キリストが十字架で流された血潮によって、真実で正しい神様が、私たちを完全に聖い者としてくださいます。まさに良い知らせ、福音です。
 それだけではありません。聖書は、イエス様を信じる私たちの内に、聖霊なる神様が住んでくださると約束しています。そして、ガラテヤ人への手紙5章22節、23節には、「御霊(聖霊)の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と約束されています。悪いものしか出てこないかった私たちの内側から、聖霊なる神様が良い実を豊かに産み出してくださるのです。
 
 今日の箇所で、イエス様は、「外側から入って人を汚すものは何もない」とおっしゃいました。イエス様がそういってくださるのですから、私たちは、何かによって、宗教的に汚れるというようなことから一切解放されています。「きよめの儀式」のような、何かをしなければ神様に受け入れられない、そんなこと一切ありません。
 私は、この説教を準備する中で、「この箇所には、聞きなれない用語も出てくるし、とても、難しい内容だな」と、思いました。そんな中で祈りつつ、何度も何度も読むうちに、この内容が胸に迫ってきました。
「本当に、イエス様を信じて生きることは、自由なんだな」
「クリスチャンライフは、本当に感謝だな」そう感じました。
 私たちは、自分で自分をきよめることはできないけれども、イエス様の十字架によって、すでにきよくされました。だから、ゆるされた者として、神様の目にきよい者として、歩んでゆくことができるのです。
 そして、内に住んでくださっている聖霊なる神様よって、「愛、喜び、平安」を、人に対する「親切、善意、誠実」そうした実が、本当に小さいかもしれないけど、少ないかもしれないけど、少しずつ少しずつ、私の人生の中で実っていくのですね。ほんとに感謝です。
 私たちのクリスチャンライフは、人の「言い伝え」に縛られることはありません。「あれしなければいけない、これしなければいけない」「これしちゃいけない、あれしちゃいけない」そのような人生の中に生きるのでもありません。イエス様は「誰でも疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとにきなさい。わたしが休ませてあげます。」とおっしゃってくださいました。その安息の中に生きることができるのです。そのような恵みを感謝し、神様に賛美を捧げ、聖霊なる神様に導いていただきながら、今週も共に歩んでいきましょう。