城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年七月十八日            豊村臨太郎牧師
                 マルコ七章三一節〜三七節
 マルコの福音書連続説教9
 「エパタ!」 
 
31 それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。
32 人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるよう、願った。
33 そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。
34 そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ」すなわち、「開け」と言われた。
35 すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。
36 イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。
37 人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにされた。」
 
 みなさん、おはようございます。今日も聖書を開いて神様の豊かな恵みを受け取っていきましょう。
 マルコの福音書からイエス・キリストの生涯を少しずつ学んでいます。イエス・キリストは公生涯において沢山の働きをなされました。ヨハネの福音書の最後には「その一つ一つ全部を書き記すなら、世界もその書物を収めきれない。」とあります。
 それほど多くの働きをあえて二つに分けるなら、一つはイエス様が語られた「教え(説教)」です。
 前回読んだ箇所でも、イエス様は、外側の汚れを一生懸命に清めようとしているパリサイ人に対して、「外側から入って人を汚すものはない。むしろ、人の心の中から汚れたものがでてくるのです。」と教えられました。
 また、イエス様は多くの「たとえ」も話されました。以前ご紹介した「種蒔きのたとえ」もそうです。
 その他にも有名な「山上の垂訓」など、いろんな説教があります。イエス様はそれらを通して、神様を信頼して生きる大切さを教えられました。
 そして、イエス様の働きの、もう一つは「愛のみわざ」です。イエス様は言葉で教えを語るだけでなく、実際に行動で示されました。愛を語るだけではなく愛を実践されました。病気で苦しむ人々を癒やされました。イエス様はさまざまな「愛のみわざ」をなさいましたが、その究極が「十字架と復活」です。
 イエス様は、私たちすべての人の罪のために身代わりとなって十字架にかかってくださいました。ご自分の命を捨てるほど、私たち人間を愛してくださったのです。
 そして、墓に葬られ、三日目に甦られました。今もイエス様を信じる一人一人と共に生きてくださっています。今私たちはそのようなイエス様の救いの中に、イエス様の福音に生かされているのですね。
 
 今日の箇所には、イエス様の「愛のみわざ」を経験した「耳がきこえず、口のきけない人」が登場します。
 今日は、この人が体験した癒しの出来事を通して、イエス様の福音がどのようなものかを、ご一緒に考えていきましょう。
 
1 耳が聞こえず、口のきけない人
 
 この人がイエスの所に連れてこられた時、イエス様は「デカポリス地方のガリラヤ湖」付近におられました(7・31)。「デカポリス」と聞くと、なんだか刑事(デカ)とおまわりさん(ポリス)が沢山いそうな地名ですね。
 「デカポリス」は、ギリシャ語で「十の町」という意味です。この場所にギリシャ人たちが入植して十の都市をつくっていたのです。ですから、ユダヤ人から見ると異邦人が沢山住んでいた地域でした。
 福音書を読むと、イエス様はまずユダヤ人(イスラエル民族)に福音を宣べ伝えられました。しかし、その先には、あらゆる民族(全ての人)に福音を宣べ伝えるというご計画を持っておられました。ですから、三年半の公生涯で、イエス様は異邦人の地に行かれ、何人かの人を癒やされました。
 そして、イエス様の十字架と復活の後、弟子たちを通して、教会によって、さらに福音が全世界に広がっていきました。丁度、先週から関根先生が「使徒の働き」の連続説教を始められましたが、使徒の働きには、そのような福音の広がりが、詳しくダイナミックに記されています。
 
 さて、イエス様のもとに「耳が聞こえず、口のきけない人」が連れられてきました。人々は、「イエス様、彼の上に手を置いてください。癒やしてください」と願ったのです(7・32)。
 この人が、異邦人だったのか、ユダヤ人だったのか、どんな背景を持っていたのか、聖書には詳しく記されていません。おそらく生まれつき耳が不自由で、話すこともできなかったのでしょう。長い間、困難な人生を送っていたことが想像できます。
 先日、NHKの番組調査で「ろうあ者の方々の悩み」についてアンケートが紹介されていました。
 一番多かった悩みは、生活に必要な「情報が入ってきにくい」ということでした。二番目は、その反対で「自分の情報をスムーズに伝えられない」でした。手話や筆談、今はスマホやタブレットなどコミュニケーションの方法は増えていますが、それでも不便を感じることが多いとのことです。
 また、それによるコミュニケーションミスで「誤解されやすい」という悩みも上げられていました。
 この時、イエス様の所に連れられてきた人も、同じような困難を感じながら生きていたでしょう。もしかしたら、現代よりも、この時代の方がもっと大変だったかもしれません。
 そんな彼に対してイエス様はどうされたでしょうか。三つのことが書かれています。
 
2 イエス様の対応
 
 @その人だけを群衆の中から連れ出された。
 
 イエス様は、最初にその人だけを群衆の中から連れ出されました。どうしてでしょうか。
 一つ考えられるのは、、マルコ7章36節で「イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられた」(7:36)と書かれていますので、イエス様は、大勢の人の前で奇蹟を行うことを好まれなかったということです。なぜ、好まれなかったのでしょう。
 それは、福音書全体から分かることですが、イエス様は奇蹟によってご自分を宣伝しようとはけしてなさらなかったからです。奇蹟を見た人々が、イエス様を単なる「奇蹟を行う人」「スーパーマン」のような存在として理解することを避けられました。また、当時ユダヤを支配していたローマからの解放者として担ぎ上げることも避けられたからです。
 イエス様は、神様から与えられた本来の使命「人々を救い、罪から贖い出す」という使命を、人々が正しく理解できなくなるのを避けられたのです。
 また、イエス様が彼を群衆から連れ出された理由として、もう一つ考えられるのは、イエス様はいつも「一人の人を愛された」ということです。
 皆さんは、「シンドラーのリスト」という映画をご存じでしょうか。スティーブン・スピルバーグが監督した映画で、第二次世界大戦時に、ナチの収容所の人々を、自分の資産を用いて救い出したオスカー・シンドラーと言う人の物語です。
 元々、彼はドイツ人の悪徳企業家でした。ユダヤ人を低賃金で酷使できる労働力としか見ていませんでした。でも、ある日ナチの兵士たちが、ユダヤ人を殺戮する現場に出くわします。一人の小さな女の子が赤い服を来て逃げ惑う場面があります。シンドラーの目にその女の子が写った時、これまで安い労働力(群衆)としてしか見ていなかったユダヤ人に対して、初めて一人の人間として見る心が生まれます。
 そこから、彼はユダヤ人救出のために動き始めました。自分の工場に必要な労働者だという名目で多くのユダヤ人たちの命を救ったのです。戦争が終わって、ユダヤ人たちが解放されました。そして、一人のユダヤ人が彼に向かって言いました。「一人を救うものは、全世界を救う」と。
 シンドラーの、一人の女の子に対するまなざしが、多くの人の命を救うことにつながったのです。
 でも、イエス・キリストはそれ以上のお方です。イエス様は最初から一人の人を見つめてくださいました。聖書から知ることのできるイエス様の姿は、いつも一人の人に目を向け、個人的に関わり、愛のみわざを行ってくださる姿です。
 そして、「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」(ヘブル13・8)とあるように、イエス様は、今日も、あなた一人を愛し、見つめ、個人的に語りかけてくださいます。
 
 A両耳に指を差入れ、つばきをして舌にさわられた。
 
 さて、群衆から彼を連れ出されたイエス様は、続けて「彼の両耳に指を差入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられました。」(7・33)
 「唾をつけて舌にさわる」と聞くと、私たちは少し抵抗を感じるかもしれせん。実は、当時、「つばき」には癒す力があると考えられていました。ローマの歴史家スエトニウスと言う人の文献には、当時の癒しの方法として「つばきをつける」ことが紹介されています。
 もちろん、当時もその方法を信じない人もいたでしょう。でも、一般的に一つのいやしの方法として認識されていたのです。当時の人々にとって、病んでいる部分につばきをつけるという行為は理解できるものだったのですね。
 「耳に指を差し入れる」という行為も、耳が聞こえないこの人が、「これから自分に何をされるのか」ということを理解できるようにされたということです。
 きっと彼はイエス様に触れられる中で、「ああ、そうかこの方は、これから私の耳に何かをしようとしているのだな。私の舌を癒やそうとしておられるのだな。」そう容易に理解することができたでしょう。
 さらに言えば、彼はイエス様に触れていただくことで、「ああ、イエス様なら、自分の閉ざされた耳を開いてくださるかもしれない。話せるようにしてくださるかもしれない。」そのようなイエス様にへの期待(信仰)が引き出されたように、思うのです。彼の内側にイエスへの信仰が湧き上がってきたのではないでしょうか。
 
 B天を見上げて「エパタ(開け!)」と言われた。
 
 そして、イエス様は天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ」すなわち、「開け」と言われました(7・34)。
 「エパタ」は、「開け」そして「解き放たれよ」という意味があります。イエス様は、彼のずっと閉ざされていた耳に対して「開きなさい!」と言われました。もつれた舌に「解き放たれなさい!」と命じられたのです。
 その瞬間、「彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるように」(7・35)なりました。
 これは単に彼が肉体的に癒されただけではありませんでした。ずっと長い間、閉ざされていた彼の人生が、「エパタ!」というイエス様の声によって「開かれ」たのです。彼の身体が癒やされたと同時に、彼の人生そのものが、神様の愛と恵みに溢れる人生へと開かれたのです。
 
3 閉ざされた人生を開いてくださるイエス様
 
 今日の出来事の中でイエス・キリストがおっしゃった「エパタ!」ということばは、とても印象的で大切なことばです。なぜなら、イエス様によってもたらされる「福音」は、私たちの人生を「開く」ものだからです。
 聖書が教えるイエス様の福音は、閉ざされた人生を開くものです。「あー、自分はひとりぼっちだ…。」そんな孤独から解放するのが、福音です。自分の声しか聞こえないという狭い世界から、神様の愛の語りかけと恵みの中へと開くものです。人が自分の力ではどうすることもできない罪と死から解放し、天の御国、神様と共に歩む人生へと開かれていくのが、福音です。
 イエス・キリストを信じる私たちは、今、その福音の中に生かされています。イエス様は、あなたの人生を開いてくださいました。そして、父なる神様の愛に、神様との親しい関係の中に入れてくださったのです。
 
 では、具体的にどこが開かれているのでしょうか。今日は、最後に二つのことを上げます。
 
@心の耳が開かれた。
 
 一つは「心の耳」です。私たち人間は、生きる上で必要な情報が沢山あります。いろんなことを聞きながら、様々な情報に基づいて判断し、決断し、人生を歩んでいます。
 でも、聖書は、人にとって究極の情報、一番大切なものは神様のことばだと教えます。
 旧約聖書申命記8章3節には、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きる」(申命記8・3)と書かれています。
 イザヤ40章8節には「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」とあります。
 私たち人間が生きる上で一番必要なことばは、朽ちることのない、決して変わることのない、永遠の神様のことば(聖書)です。イエス様は、私たちが神様のことばを聞くことができるように、「心の耳」を開いてくださいました。
 私たちは今日、こうやって聖書を読んでいます。また、ともに礼拝を捧げています。神様の語りかけを聞くことができています。
 その中で、「イエス様。私の心の耳を開いてくださって感謝します!さらに開いて下さい。あなたが語ってくださっていることばを受け取ります。もっと聞きたいです!」そのように感謝し、更に求めるができたら、どんなに素晴らしいでしょうか。
 
 私たちの「心の耳」が開かれてゆく時、神様がどれほど私たちのことをご存じで、私たちを愛して、心配してくださっているのかを知ることができます。
 そこから何が生まれるでしょうか。「あー、神様、あなたは私のことをご存じなのですね。」そのような応答が生まれます。「神様、感謝します!」そのような祈りが生まれます。
 ですから、イエス様が開いてくださった二つ目は、「祈りの口」です。
 
A祈りの口が開かれる
 
 私たちはみんな「自分の気持ちを誰かに知ってほしい。自分のことを正しく理解してほしい」そのように願っているのでしゃないでしょうか。だから、それが出来ない時、とっても辛いですね。
 時には、「どうせ、自分のことを理解してくれる人なんていない」、「どんなに親しい人でも、この悩みだけは、わかりっこない」言葉にできない苦しみを感じる時もあります。
 でも、そんな私たちの口を、イエス様は「エパタ」といって、「開いて」くださいました。私たちが神様に祈ることができるようにしてくださったのです。
 新約聖書のペテロ第一の手紙5章7節には、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ5・7)と書かれています。神様は、私たちを心配してくださるお方です。祈りは、私たちを知り、私たちを愛し、心配してくださっている天の父なる神様との会話です。神様に自分自身の心の思いをお伝えすることです。神様はそれを聞いて正しく理解してくださいます。
 だから、私たちはどんなことでも、思いっきり祈ることができるのですね。時々私も誰にも聞こえない場所に籠もって、大声で叫びながら祈ることがあります。ダビデも詩篇でさけんでいますよね。
 ピリピ人への手紙4章6節、7節には、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」と約束されています。私たちが祈るとき、たとえどんな問題があっても、不安や恐れの中にいても、それら全てを覆う神様の平安があたえられるのです。
 「エパタ」と権威を持って語ってくださるイエス様は、私たちの口を開き、舌を解き放ち、神様への祈りを与えてくだいました。そして、開き続けてくださいます。
 
B「この方のなさったことは、みなすばらしい。」
 
 今日の箇所の最後で、イエス様の奇蹟を目の当たりにした人々はこういいました。「この方のなさったことは、みなすばらしい。」(7:37)イエス様への賛美ですね。
 イエス様は素晴らしいことをしてくださいました。そして、今日も、これからも素晴らしい愛のみわざをおこない続けてくださいます。
 今の新型コロナウイルスの感染が拡大している中でもそうです。まるで教会が閉ざされてしまうかのような状況の中でも、イエス様は確かに城山教会を守り導いてくださっています。私たち一人一人の生活の中で、イエス様は確かに働いてくださっています。
 イエス様は、私たちを愛し、個人的に見つめ「エパタ!」と語ってくださいました。私たちの人生を神様の愛と恵みへと開いてくださいました。今週もそのお方に信頼し、聖書のことばに耳を傾けながら、祈りと賛美をもってご一緒に歩んでゆきましょう。