城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年八月十五日           豊村臨太郎牧師
                 マルコ八章二二節〜三三節
 マルコの福音書連続説教10
 「少しずつ、はっきりと」 
 
 22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が盲人を連れて来て、彼にさわってくださるよう、イエスに願った。
23 イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両目につばきをつけ、両手を彼に当てて「何か見えるか」と聞かれた。
24 すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。
25 それから、イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。
26 そこでイエスは、彼を家に帰し、「村に入って行かないように」と言われた。
 27 それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
28 彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」
29 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」
30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。
 31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
32 しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
 
 みなさん、おはようございます。マルコの福音書からイエス・キリストの生涯を学んでいます。今日は8章に入りました。
 マルコの福音書は全部で16章あります。大きくわけると1章から8章まで、そして、9章から16章までの二つに分けることができます。
 前半の1章から8章では、主に北のガリラヤ地方を中心としたイエス・キリストの活動です。後半の9章から16章には、イエス・キリストの一行が南のエルサレムに向かう道のり、そして、十字架と復活の出来事が記録されています。
 今日、ご一緒に読む箇所は、丁度、前半部分、北のガリラヤ地方でのイエス・キリストの活動が、いよいよ終わりに近づいていた時の出来事です。さっそく見ていきましょう。
 
1.目の不自由な人の癒し
 
 この時、イエス・キリストの一行は、ガリラヤ湖の北部にあるベツサイダという町にやってきました。この場所は、以前、イエス様が「五千人の給食」の奇蹟をされた場所の近くです。イエス様が来られたという知らせを聞いて、大勢の人が集まっていました。そこへ、一人の目の不自由な人が、イエス様のもとに連れられて来たのです(22節)。
 当時のパレスチナ地方は、今よりも衛生的な意識が低く、空気が乾燥し砂埃も多く、目の病が多かったといわれています。8章24節で、この人は、目が少し良くなったとき「木のようにみえます」といっていますから、木を見たことがあったということですね。つまり、生まれつき目が見えなかったのではなく、以前は見えていて、どこかの段階で目の病になり、見えなくなってしまったのです。
 イエス様は、7章の「耳が聞こえず、口のきけない人」を癒された時と同様に、その人の手を取って村の外に連れて行かれました。人々が奇蹟をみて騒ぎたてないようにされたのです。そして、この人と一対一で、個人的に向き合われました。
 イエス様は、彼の両目につばきをつけられ、両手を彼の目に当てて「何か見えるか」と聞かれました(23節)。すると、彼は「人が見えます。でも、木のように見えます」と答えました(24節)。まだ、ぼんやりとしか見えなかったのです。イエス様は、もう一度、彼の両目に両手を当てて「今度はどうか」とお尋ねになりました。すると、今度は、はっきり見えるようになったというのです(25節)。
 7章の癒しでは、イエス様が「エパタ!」と言われると、すぐに癒されました。でもここでは、瞬時にではなく段階をおって、時間をかけて良くなっていったのです。
 今、私たちは「早さが求められる時代」に生きていますね。瞬間接着剤に、瞬間湯沸かし器、そんな商品が沢山あります。ネットショッピングでも、朝注文したものが夕方に届きます。それは、すごく便利でありがたいのですが、一度、その早さを経験すると、そうでない時、すぐにイライラしてしまう自分に気がつきます。 
 そのような忍耐のない時代に生きている私たちは、いつのまにか神様に対しても、瞬時の効果を期待してしまいますね。神様を信じたらすぐに問題が解決しないと意味がないと思ってしまいます。祈って、すぐに答えがないと「なぜだろう?」と失望したりします。
 ですから、今日、私たちは「目の不自由な人の癒やし」を通して、イエス様がすぐに癒やしてくださるだけでなくて、段階的に癒やしてくださることもあるのだということを覚えたいのです。聖書の神様は、時間をかけて段階的な解決を与えてくださることもあるのです。そして、そのプロセスの中で、私たちに色々な恵みを教えようとしてくださっているのです。
 今日は、特に二つのことをご一緒に覚えたいのです。神様が私たちに教えようとしてくださっている恵み、その一つは、「祈り続ける恵み」です。そして、もう一つは、「信仰生活を続ける恵み」です。
 
2.祈り続ける恵み
 
 この時、目の不自由な人は、イエス様に祈ったわけではありませんでした。でも、イエス様は、彼の目を徐々にはっきりと見えるようにして癒してくださいました。つまり、ここでイエス様は、時に私たちに段階的な解決を与えてくださるということを教えてくださっています。だから、私たちは継続して祈ることができるのですね。
 前回の箇所で、イエス様が私たちの「祈りの口」を開いてくださったことを学びました。「祈り」は、神様に対する応答です。神様は私たちを愛してくださっています。聖書を通して語りかけてくださいます。その神様に対する応答、神様との会話が「祈り」です。
 新約聖書のペテロ第一の手紙5章7節には、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ5・7)と書かれています。
 聖書は、神様が私たちのことを愛してくださり、心配してくださると教えています。ですから、私たちは神様に応答して何でも祈ることができるのです。
 また、ピリピ人への手紙4章6、7節には、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」と約束されています。
 素晴らしいですね。私たちが神様に応答して祈る時、神様の平安が私たちを覆ってくださいます。神様からの安心が心に与えられるのです。ですから、私たちはイエス様の励まし聞きながら、聖書の約束を受け取って、祈り続けることができるのです。
 また、私たちは自分自身のためだけではなく、家族や友人など他の人のためにも祈ります。健康のために、問題や困難から解決されるために祈ります。
 でも、どうでしょうか。祈ってすぐに、解決が与えられるということは、人生のなかでそんなに多くはありませんね。私も、これまでの歩みを振り返って、祈ってすぐに解決が与えられたという記憶は少ないです。
 それでもイエス様は、私たちに祈りつづけることの大切さを教え、励ましてくださっているのです。
 例えばマタイの福音書7章で、イエス様は、失望しないで祈り続けることを励ましながら、このようにおっしゃいました。
「自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。…天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7・9-11)
 天の神様は、父親が子どもに対するように、私たちを愛し、私たちに良いものを与えてくださいます。でも、同時に聖書は、それが私たちのタイミングでおこるとは限らない、神様の時があるということも教えています。
 旧約聖書伝道者の書3章には、「何事にも定まった時期があり…いやすのに時がある」「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」とあります。
 一つ私の経験をお話しますが、私は小学生の頃、歯並びがすごく悪るかったんですね。一番目立つ前歯二本が前後にずれていました。前歯の一本は、ちゃんと乳歯が抜けてから永久歯が生えてきたのですが、もう一本は乳歯が抜ける前に永久歯が後ろから重なって生えてきたんです。しばらくして乳歯が抜けたので二本の前歯がずれていました。
 歯医者にいくと「これは歯の矯正治療が必要ですね。費用は50万円くらいかかります。」と言われました。両親は困りました。牧師家庭で7人兄弟、9人家族ですから、一人の子の為に50万円もかけられません。両親が私にこう言ったこと覚えています。「よし。神様にお祈りしよう。そして、50万円が与えられたら、臨太郎の歯を矯正しよう。」
 その後、どうなったと思いますか?結果は、50万円は与えられませんでした。でも、ご覧ください。私の前歯、今は、きれいにそろっていますよね。歯の矯正は一切していません。いつの間にか、自分では気づかない間に治っていたのです。歯医者さんもびっくりです。
 もちろん、誤解しないでくださいね。私は、歯の矯正治療を否定しているわけではありません。当時、貧しい牧師家庭の為に神様の特別なご配慮だったと理解しています。
 神様は、「50万円ください。」という祈りには答えられませんでした。しかし、時間をかけて、少しずつちゃんと歯を治してくださったのです。私にとって生きて働かれる神様を体験した出来事です。「神様は、本当に生きておられるんだ!」「僕はあんまり熱心に祈らなかったけど、祈りを聞いて下さったんだ!」そう実感しました。
 「何事にも定まった時期があり…いやすのに時がある…神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」本当にその通りです。
 天の父なる神様は、私たちの必要を全てご存じです。その神様に私たちが祈るとき、神様の時に応えてくださるのです。
 時には、神様は病む人を回復させてくださいます。また、実際の病は癒されなくても、その人に平安が与えられることもあります。たとえ病や怪我が癒されなくても、それを受け入れて、イエス様にあって前向きな人生へと変えられていくことも癒しですね。
 ですから、私たちは、イエスが励ましておられるように、神様に祈りつづけることができるのですね。そして、お互い「私の為に祈ってください。」「あなたの為に祈ります。」と祈り合うことができるのです。本当に恵みです。
「神様。やっと、この状態が少し変わってきました。今はまだ、ぼやっとしていますけれど、祈り続ける中で、輪郭が少しずつ見えてきました。」そのように段階的かもしれませんが、祈りの答えを少しずつ、はっきりと見せていただくことができるのです。今日覚えたい一つは、そのような「祈り続ける恵み」です。
 
3.信仰生活を続ける恵み
 
 そして、もう一つは「信仰生活を続ける恵み」です。
 私たちはイエス・キリストを信じ、信仰生活を続ける中で、最初はぼんやりしていたことが、少しずつはっきりと見えてくるという経験をします。
 私は、クリスチャンになって30年以上です。もともと、私の性格は三日坊主もいいところで、家族からよくこう言われていました。「お前は飽きやすの好きやすや。」色々なことに興味を持って、始めるのですが、すぐに飽きてしまうのです。そんな「熱しやすく冷めやすい」私が、何十年も信仰生活を続け、しかも牧師になるなんて奇蹟です。そして、信仰生活を続けていくなかで、神様の恵みを、聖書の言葉の豊かさを少しずつ体験し、教えていただいています。
 そもそも、教会にきていきなり聖書の全てがわかったという人は誰もいませんね。聖書を一回読んだだけで、「神様のことがすべてわかった!」そんな人がいたら逆に怪しいです。
 今日の箇所の後半8章27節を読むと、目の不自由な人の癒しの後、イエス様はピリポ・カイザリヤの村々に出かけられました。そこで弟子たちに大切な質問をなさいました。「人々はわたしをだれだと言っていますか」(27節)。
 弟子たちは、こう答えました。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます」(28節)。
 すると、イエス様は「それでは、あなたがたは、わたしのことをだれだと言いますか」とお尋ねになりました。
 ペテロが答えました。「先生。あなたは、キリスト(救い主)です」(29節)。マタイの福音書では、ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです。」と答えたと書かれています。素晴らしい答えです。イエス様への信仰告白です。だから、イエス様はペテロの告白を褒められました。
 でも、ペテロは、その告白の内容を十分に理解できていたでしょうか。いいえ。できていませんでした。あの目の不自由な人が、「人が見えますけれど、まるで木が歩いているようです。」と言ったように、ペテロは、イエス様の姿をまだぼんやりとしか理解していなかったのです。
 ペテロが考えていた「救い主」とは、どんな存在だったでしょうか。それは、当時の多くの人々が理解していたように、ローマ政府を打倒し、イスラエルの民衆を解放する英雄(ヒーロー)でした。ペテロは、そういうヒーローを待ち望んでいたのです。そして、「自分はそのお方の一番弟子だ!」と自負していたのです。
 だから、8章31節でイエス様が「わたしは、苦しみを受け、殺される。しかし、三日目によみがえるのだ」と教え始められた時(31節)、ペテロはそれを受け入れられませんでした。「救い主が苦しみを受ける・・・、救い主が殺される・・・、冗談じゃない・・・」ペテロはイエス様をいさめ始めました(32節)。「イエス様。そんなことを言わないでください。あなたは救い主なのでしょう。苦しみを受け、殺されるなんて・・・、そんなことは言わないでくださいよ。どうぞ、今の発言を撤回してください。」と言ったのです。
 「あなたは生ける神の子キリストです」と、素晴らしい告白をしたペテロでしたが、本当のイエス様の姿を理解していませんでした。だから、イエス様は、「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とペテロを叱りつけられたのです(33節)。
 ペテロはシュンとしたでしょうね。もし、私がペテロだったら、ショックで落ち込んだと思います。
 でも、どうでしょう。私たちにもペテロと同じようなことがありますね。「イエス様を信じます。」と告白しても、その内容をどれだけ理解できているかと言えば、ぼんやりとしか見えていない・・・。そう思うことがあります。
 でも、安心してください。聖書を読み進めていくとびっくりします。この後、イエス様の十字架と復活の後、ペテロは大胆に主のしもべとして生きていくのです。「使徒の働き」を読むと、ペテロは、聖霊によってイエス・キリストの姿をはっきりと理解し、大胆に救い主キリストを宣べ伝えていきました。
 あの目の不自由な人が癒されて、少しずつ、はっきりと見えるようになっていったのと同じように、ペテロのイエス様に対する信仰も段階的でした。復活されたイエス様と出会って、聖霊が注がれ、少しずつ、はっきりと見えるように変えられていったのです。
 私たちも、聖書の理解がぼんやりしていると感じることがあります。イエス様の恵みが分かったようで、分かっていない時があるかもしれません。でも、イエス様は、そんな私たちを、けして諦めず、いつも共に歩んで下さっています。
 そして、私たちがイエス様に信頼し、信仰生活を続けていくなかで、信じる一人一人の内に住んで下さる聖霊の助けによって、「イエス様あなたは救い主です。」という、その告白の内容の通りに生かされて行くのです。
 ですから、私たちは一歩一歩、信仰生活を継続していけばいいのです。聖霊なる神様は、父なる神様の愛を、イエス様の恵みを、福音の理解を、少しずつはっきりと私たちに見せてくださいます。
 時々、このようにおっしゃる方がおられます。
「いや、自分はまだまだ聖書がわかってないので、クリスチャンになんてなれないですよ。洗礼なんて・・・。」
「キリスト教の内容がもっと理解しないと、信じることができません。信仰の告白なんてすることはできません。」
 そんなことないのです。私たちは、たとえ、今、聖書の理解が不十分であったとしても、ぼんやりとしていたとしても、「イエス様、あなたは私の救い主です。」そう告白し生きていくなら、目の不自由な人が、キリストの姿を少しずつ、はっきりと見ることができたように、イエス様が私たちをつくり変えてくださるのです。
 新約聖書コリント人への手紙第一でパウロはこう語っています。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」(1コリント13・12)
 今朝も、イエス様は私たちが祈り続けることを勧めてくださいます。イエス様に信頼し歩み続けることを励ましてくださっています。そのイエス・キリストとともに、今週も歩んで行きましょう。