城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年九月十九日           豊村臨太郎牧師
                 マルコ八章三四節〜三五節
 マルコの福音書連続説教11
 「自分を捨て、十字架を負って」 
 
34それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
 
 皆さん、おはようございます。マルコの福音書からイエス・キリストの生涯を学んでいます。今日は8章の最後の部分、短い箇所ですけれども、とても有名なイエス様のことばです。
 前回の箇所でイエス様は、ご自分がこれから苦しみを受けて殺されること、そして、復活されることを語られました。それを聞いた弟子のペテロは「イエス様、そんなこと言わないでください。死ぬなんて言わないでください。」そうイエス様をいさめてました。するとイエス様はペテロに対して「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と叱ったのです。
 この時ペテロはイエス様に「あなたは神の子救い主です。」と告白した直後でした。でも、彼はその告白の内容を十分に理解することができていなかったのです。彼は、「イエス様は自分たちユダヤ民族をローマの支配から解放するヒーローだ!」そのような地上の英雄として、イエス様を理解していたのです。
 また、ペテロが持っていたメシア観やイエス様に対する期待感は、当時、イエス様の周りに集まっていた群衆も、同じようにもっているものでした。「イエス様は素晴らしいお方だ。この人についていけば、自分たちが長年待ち望んでいたイスラエル王国が回復されるに違いない!」そのように期待する人も多かったのです。
 イエス様はそんな弟子たち、そして、群衆たちを呼び寄せてこう言われました。
 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8・34)
 これは、けして「甘い誘い文句」ではありませんね。イエス様は「私について来なさい。そうすれば、あなたたちが思うように、願っている通りになりますよ。」とはおっしゃいませんでした。もちろん、福音書を読んでわかるように、イエス様は愛と恵みに満ちたお方です。マタイの福音書11章28節でイエス様は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11・28)と言われました。イエス様と共に歩む人生には安らぎがあります。それと共に、イエス様に従う人生は、「自分を捨て、自分の十字架を負う」歩みでもあるのですね。今日はそのことをご一緒に考えていきましょう。
 
1 「自分を捨てる」
 
 イエス様が言われた「自分を捨てる」とは、どういうことでしょうか。
 クリスチャンは、自分の思いや願いを捨てて、やりたいことを諦めて、修行僧のように禁欲的な生活をするということでしょうか。決してそうではありません。聖書全体を読めば、食べ物にしても色々な楽しみにしても、神様が私たちに与えくださったものであって、感謝し受け取り、それらを喜んで生活して良いことが分かります。(コロサイ2・20〜23、1テモテ4・1〜3)
 また、私たちの思いや願いについても、ピリピ人への手紙には、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ2・13)とあります。つまり、私たちがイエス様を信じて歩む中で、神様が私たちの思いや願いを導いてくださるので、神様を愛して信頼しながら、自分の思いや願いも大切にして良いのです。
 それでは、ここで言われている「自分を捨てる」とは、具体的にどういう事でしょうか。「捨てる」という言葉には「所有権を放棄する」という意味があります。つまり、「私たちの人生の所有権を放棄する」ということですね。
 
 @「私たちの所有権は神様のもの」
 
 私たちの人生の所有権は誰にあるでしょう。「そりゃ、自分の人生なのだから、所有権は当然、自分のものだ。」そう思うかもしれません。でも、聖書は、私たちの所有権は世界を創造された三位一体なる神様のものだと教えています。
 創世記2章7節には、「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」(創世記2・7)とあります。この世界を造られた神様が、私たちにいのちを与えてくださいました。
 また、詩篇24篇1節では、「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」(詩篇24・1)とあります。私たちは「自分の人生の所有権は自分にある」と思っていますね。でも、聖書は、「私たちの所有権は、この世界と私たちを創造された神様のものなのですよ」と教えているのです。
 そう聞くと、ある人は、「えっ、自分の人生の所有権は神様にある?」「自由がないな。窮屈だな。」そのように感じるかもしれません。でも、そうではありません。
 詩篇139篇には、「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」(詩篇139・16)と書かれています。「あなたの目」、つまり、神様のまなざしが、私たちが存在する前から注がれているのです。しかも、そのまなざしは「わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」とおっしゃった「愛のまなざし」なのです。
 ですから、私たちの人生の所有権を神様がもってくださっているということは、けして恐れや不安、窮屈さを与えるものではありません。「あなたの事を愛しているよ。あなたが行くにも帰るにも、わたしはあなたの人生を守るのですよ。」おっしゃる神様の愛と安息に満ちたものなのです。
 また、新約聖書でも私たちの所有権について、次のように述べられています。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」(1コリント6・20)「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。」(1コリント3・23)
 つまり、イエス・キリストを信じる私たちは、イエス様の十字架という代価によって買い取られたものなのです。
 少し考えてみてください。もし、自分が人生の「主」だと思い続けているなら、私たちの人生に「救い主」は必要ありませんね。私たちがイエス様を信じ「あなたは私の救い主です。」と告白したということは、自分の人生にイエス様をおむかえしているということです。つまり、既に自分の所有権を手放しているのです。自分の所有権を、三位一体なる神様、イエス様にお渡したからこそ、私たちは人生の救い主としてイエス様を受け入れているのです。ですから、今、あなたがイエス様を信じているなら、意識していても、意識していなくても、もうすでに「自分を捨てている」、その歩みが始まっているのです。
 でも、私たちは、この地上に生きているかぎり、いろんなものを握って生きています。それは物質的なものというよりは、むしろ内面的なもの、心の内側にあるものかもしれません。それらを、イエス様を信じて歩む日々の中で具体的に「捨て続ける」生き方へと、私たちは導かれているのです。それでは、具体的に何を捨てていくのでしょうか。
 
 A「具体的に何を捨てるのか?」
 
 イエス様がこの言葉を語られる直前、ペテロはイエス様に対するメシア観の誤りを指摘されました。それはペテロが持っていた願いや思い込みからくるものでした。
 でも、私たちも、ペテロと同じような思い込みを持っているかもしれませんね。例えば「信仰をもったら、いろんな問題がすぐに解決されて、人生がうまくいくはずだ。」そんな風に考えているかもしれません。もちろん、イエス様は私たちの人生をご存じです。いろんな問題を解決してくださいます。でも、時には私たちが願うようなタイミングや形では、解決が与えられないときもあります。
 また、私たちにはこんな思い込みもないでしょうか。「自分は、これまで沢山の過ちを犯してきたから、神様から愛される資格はないないんじゃないか」「礼拝を休んだら、神様から見捨てられてしまうじゃないか。」そのように私たちには、自分がこれまで考えてきた思い込みをもっていますね。「自分を捨て続ける」というは、そのような考えを手放して聖書から新しく教えられていく生き方なのです。
 第2テモテ3章には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(2テモテ3・16)と書かれています。私たちは、自分で自分の考え方の癖を変えることは難しいかもしれません。でも、聖書を読み、このように礼拝に集まって共に聖書のことばを聞く中で、イエス様から教えられ、聖霊なる神様が助けてくださって、少しずつかえられていくのです。
 先ほどの「神様が自分の人生の所有者だなんて、窮屈だ。」という思いも、私たちが持ちやすい神様像かもしれません。でも、聖書を読めば、「神様は、あなたを愛してくださっていますよ。あなたに愛のまなざしをいつも注ぎ、あなたが行くにも帰るにも守ってくださるお方ですよ。」そのような「神様の姿」を知ることができます。そうやって聖書によって、聖霊なる神様が私たちの心に光をあてて、少しずつ少しずつ古いものを捨て、新しいものを受け取っていくことができるように導いてくださるのです。
 パウロはその歩みを次のように言っています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(2コリント3・18)
 私たちはすでに、自分(の人生の所有権)を捨て、イエス様を心にお迎えしている一人びとりです。そして、自分を捨て続ける歩みというのは、聖書によって教えられて、聖霊によって日々新たにされていく歩みです。私たちはその歩みの中に生かされているのです。
 
2 「十字架を負う」
 
 そして、今日の大きな二番目「十字架を負う」とはどういうことでしょうか。
 「十字架」は、当時のローマで最も残酷な死刑の方法でした。縦木はあらかじめ死刑場に立てられました。死刑を言い渡された犯罪人は、死刑場まで自分で十字架の横木を背負わされたのです。では、文字通り、私たちも木で十字架を作って背負って歩きなさいということでしょうか。そうではありませんね。「十字架を負う」というのは比喩的な表現ですが、その意味の一つは、「イエス様を信じるゆえに生じる苦しみや苦難がある」ということです。
 
 @「イエス様を信じるゆえに生じる苦しみや苦難がある」
 
 イエス様を信じて生きることは恵みです。同時に、それゆえに経験する苦しみや苦難もあります。ヨハネの福音書16章でイエス様は弟子たちに「あなたがたは、世にあっては患難があります」(ヨハネ16・33)と言われました。パウロもピリピ人への手紙1章でこういっています。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」(ピリピ1・29)
 私たちが、イエス・キリストを信じて生きていくとき、社会の中や生活の場で色々な困難な出来事を経験することがあるかもしれません。会社の中で学校や家庭で、理解されず葛藤を覚えることがあるかもしれません。苦しい中を通らされることもありますね。でも、それらはけして私たちの人生を押しつぶし駄目にしてしまうものではなく、神様はその中であっても私たちが生き抜く力と助けを備えてくださるのです。
 有名なことばですが、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(1コリント10・13)と、聖書は約束しています。この言葉に信頼して、イエス様と共に歩んでゆくことができたらなんと幸いでしょうか。
 また、イエス様はここで「自分の十字架を負いなさい」といわれていますから、人と比べる必要はありません。ガラテヤ書6章にも「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6・5)と書いてあります。だから、私たちは誰かを見て「あー、自分はあの人に比べて苦労がたりないな。」とか、またその逆も考えなくていいのですね。
 私たちは、生活している場所も、置かれた環境もさまざまです。それぞれに、イエス様を信じるがゆえに色々な出来事を経験するかもしれません。でも、神様は私たち一人一人に力を与えて助け導いてくださるお方です。
 
 A「人を生かし、いのちを生む福音に生きる。」
 
 そして、最後にもう一つ、「十字架を負う」ということの意味は、「人を生かし、いのちを生む福音に生きる」ということです。私たちが「十字架を負う」というのは、「人を生かし、いのちを生む福音に生きる」ことでもあるのです。
 なぜでしょうか。それは、イエス様の十字架が、人を生かし人にいのちを与えるものだからです。イエス様が背負われた十字架は、私たちの罪のための身代わりの十字架です。十字架は、全ての人に愛と赦しをもたらしました。イエス様の十字架によって、私たちに救いの道が開かれ、永遠のいのちが与えられました。ですから、十字架はイエス様が尊い命を捨てられた苦しみの場所であると共に、そこで終わりではなく、私たちを罪と死から救い永遠のいのちを与えた場所でもあるのです。
 イエス様は、ヨハネ福音書12章で、弟子たちにこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12・24)
 イエス様の十字架の死が、多くの人々に永遠のいのちをもたらし豊かな実を結んだように、もし、私たちが自分に死んで、つまり「自分の人生の所有権は、もう神様のものです」「私は、すでにイエス様のものとされているのだ」という視点に立って生きていくのなら、それは、私たちも「十字架を負って生きている」ことなのです。そして、その歩みは結果として豊かな実を結び、多くの人の祝福に繋がっていくのです。
 イエス様は、マルコ8章35節で「わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」といわれました。「福音のためにいのちを失う」というのは、「自分を捨て、十字架を負う」生き方です。それは、イエス様が与えてくださるいのちを得る生き方であり、人々の祝福へとつながっていくのです。ですから、私たちが「自分の十字架を負う」ことは、けして苦しみや苦難だけを負うのではありません。一人びとりが、人を生かすことのできるイエス様の福音に生かされているということでもあるのです。
 それは、私たちが困難の中で聖書のことばに励まされている姿が、他の人の励ましとなるということかもしれません。また、イエス様と共に歩む中で、自分を通して他の人がイエス様と出会うことかもれません。
 そのように「十字架を負って生きていく」ことは、私たちがイエス様の恵みに憩いながら、福音を託された者として生かされていくことなのですね。そして、私たちはもうすでにその中に生かされている一人びとりです。私たちを通して、イエス様のいのちが周囲の人々へと広がっていく生涯とされているのです。
 今日の箇所で、イエス様は、「誰でもわたしについて来たいと思うなら」と呼びかけてくださいました。私たちは、みんな「自分を捨て」神様のものとされている者です。私たちは、それぞれに与えられた「私の十字架を負って」生きています。そして、私たちは人を生かし永遠のいのちを与えるイエス様の福音を託された者として生かされているのです。そのことを信じて受け取りながら、この週もイエス様の恵みの中を共に歩んでいきましょう。お祈りします。