城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年十月十七日           豊村臨太郎牧師
                   マルコ九章二節〜八節
 マルコの福音書連続説教12
 「ただイエス様おひとりだけ」 
 
2 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。
3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。
4 また、エリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていた。
5 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
6 実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。
7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。
8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。
 
 
 おはようございます。マルコの福音書からイエス・キリストの生涯を学んでいます。今日は9章に入りました。
 前回の箇所で、イエス様は弟子たちと群衆を呼び寄せて、こうおっしゃいました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8・34)
 「自分を捨てる」という言葉には、「自分の人生の所有権を手放す」という意味があります。イエス・キリストを信じる私たちは、すでに自分の人生の所有権を手放していて、神様のものとされています。そして、聖書は、神様は私たちを愛し、私たちの人生を守り、最善に導いてくださるお方だと教えています。私たちの人生が、そのような神様のものとされているということは、たとえ色々な不安や恐れがあったとしても、神様が守ってくださるのだという安心が与えられますね。
 また「自分の十字架を負う」ということは、私たちが、イエス様を信じて生きる時、それゆえに経験する苦しみや苦難があるということです。でも、イエス様の十字架が人の罪を赦し、人々に永遠のいのちを与えるものであるように、私たちが負う十字架もまた、人を生かし、人々の祝福へと繋がるものだとういうことを学びました
 
 さて、今日の箇所は、それからおおよそ一週間後の出来事です。イエス様はペテロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れて高い山にのぼられました。この出来事はマルコだけでなく、マタイの福音書とルカの福音書にも書かれています。ルカの福音書には「イエス様は祈るために山に登られた」と、山に登った目的が書いてあります。
 この「高い山」がどの山なのか正確にはわかりません。でも、この出来事の前にイエス様たちはピリポ・カイザリヤにおられたので、そこから北東二十キロにあるヘルモン山ではないかと考えられています。ヘルモン山は標高二八五○メートルの高い山です。みなさんの中でも山登りをされる方がおられると思いますが、イエス様たちもかなりの健脚だったようですね。
 また、この時イエス様が何故ペテロとヤコブとヨハネの三人を選ばれたのか理由はわかりません。三人が他の弟子より優れていたとか、熱心だったとか、イエス様のお気に入りだったというわけではなさそうです。福音書を読むと十二弟子みんなそれぞれ長所も短所もありました。イエス様が誰かを特別にえこひいきしたとは書いてありません。ただ、この三人は十二弟子の中でも最初にイエス様についていった古参のメンバーでした。
 一つ考えられるのは、旧約聖書の律法には、裁判などで何かを立証する時に二人か三人の証言が必要だという規定があります。おそらくイエス様は、この後、適切な時期が来たら、この出来事をはっきりと証言できる「目撃証言者」として古参のメンバーである三人を連れて行かれたのでしょう。
 さて、山に着くとイエス様は祈り始められました。すると、弟子たちは山に登って疲れてしまったようです。眠気を催してうとうとし始めました。その時、彼らの眠気を吹き飛ばしてしまう出来事が目の前で起こったのです。
 
1 真っ白に光り輝くイエス様
 
 なんと、イエス様が真っ白に光り輝く栄光の姿に変わられたのです。3節には「世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。」(マルコ9:3)と書いてあります。この世には存在しないほどの白さと輝きを放っておられたのです。
 聖書がイエス様について、私たちに教えている大切なことは、「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました」(ピリピ2章6節-7節)ということです。
 本来、イエス様は光り輝く栄光をまとわれたお方、神様と等しいお方です。にもかかわらず、イエス様は神の栄光を捨てて人として地上に来てくださいました。しかも、家畜小屋に生まれ、貧しい大工の子として育ってくださったのです。
 でも、イエス様の本来のお姿は、栄光に満ちた、まばゆいばかりの光に満ちておられる方です。この時、弟子たちは、初めてイエス様の神の御子としての輝かしい姿を目の当たりにしたのです。
 
2 モーセとエリヤとイエス様
 
 さらに、弟子たちは驚きました。なんと光り輝くイエス様のそばにモーセとエリヤが現れて、イエス様と話し合っていたからです。(マルコ9・3)
 
 @モーセとエリヤの示す意味
 
 「モーセ」は、イスラエルの民をエジプトから脱出させ、シナイ山で神様から十戒を授かった人物です。彼は、旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を編纂しました。モーセは、神様から授かった律法を人々に教えた人物ですから旧約聖書の律法を象徴する人物です。
 「エリヤ」は、紀元前9世紀に活躍した偉大な預言者です。彼は旧約聖書に登場する預言者たちの代表と見なされていた人です。
 また、当時のユダヤ人たちは、旧約聖書のことを「モーセと預言者たち」、または、「律法と預言者たち」と呼んでいました。つまり、律法を象徴しているモーセと預言者を象徴しているエリヤ、二人合わせて旧約聖書全体を表す人物だったわけです。ですから、ここでモーセとエリヤがイエス様と話し合っているのはとても象徴的な出来事でした。それは、旧約聖書の内容が、イエス様がこれからなされる働きと大切な関わりがあるということを象徴的に表す光景だったのです。
 
 A「ご最期」(エクソドス)
 
 では、モーセとエリヤとイエス様の3人は具体的に何を話し合っていたのでしょうか。ルカの福音書にはその内容が次のように書いてあります。
 「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」(ルカ9・31)
 みなさん、「ご最期」について話していたとありますけれども、ちょっと不思議ですね。イエス様の現在の働きやこれからのビジョンが話されたのではなく、「最期」について話されていたのです。
 私はまだ42歳になったところですし、昨年、城山教会に赴任したばかりです。関根先生が私を呼んで「君の最後について話し合おう…。」なんて言われたらドキッしますよね。
 では、イエス様たちが話していた「ご最期」とはどういうことでしょうか。
 「ご最期」と、訳されている言葉は、ギリシャ語で「エクソドス」と言います。これは「どこどこから抜け出す」という意味で、直訳は「脱出の道」です。そこから転じて「エクソドス」は「地上の人生から抜け出す」という意味があって、「人の死や最期」を表す言葉」しても使われました。つまり、ここで話し合われていたのは、「イエス様の地上の生涯の最期」、「十字架と復活」の出来事だったのです。
 
 B「出エジプト」(エクソドス)
 
 また、「エクソドス」という言葉は旧約聖書の出エジプトの出来事も指しています。
 出エジプトとは、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から脱出して、神様の約束の地に向かうという出来事です。
 私たちが旧約聖書を読むとき、その中には「救い主」がどのようなお方か、何をなさるのかを象徴的に表しているものがあります「出エジプト」の出来事もそうです。
 神様は、イスラエルをエジプトから脱出させるために、エジプトに様々な災いを下されました。でも、エジプトの王パロはなかなかイスラエルを解放しませんでした。そんな中、最後の決め手となったのは、一晩のうちにエジプト中の初子(最初に生まれた男の子)が死んでしまうというものでした。
 その前に、神様は、イスラエルの民にこう言われました。「子羊をほふって、その血を家の門柱と鴨居に塗りなさい。そうすれば、その家には災いが起こらない。」その神様の指示のとおりに家の門柱と鴨居に血を塗ったイスラエル人の家は無事でした。でも、エジプト中の初子は死んでしまったのです。そして、エジプト王はついにイスラエルが出て行くことを認め、イスラエルは奴隷状態から解放されました。
 「エクソドス」(出エジプト)の出来事は、「子羊の血によって滅びから免れて奴隷状態から脱出できた」というものでした。それは、将来「すべての人が救い主によって罪と死から脱出できるようになる」ということを象徴的に表していたのです。
 私たち人間は、自分の力で自分の罪を解決することはできません。もちろん、社会に生きる中で法律に触れることをすれば罰せられます。人に対して何か過ちを犯してしまったなら償うことも必要です。しかし聖書は、私たち全ての人間は神様に背を向け神様との関係が壊れてしまっていると教えています。その罪の状態、神様との関係が壊れてしまっていることから、色々な問題がでてきます。
 そして、その一番の問題は、ローマ人への手紙6章23節に「罪からくる報酬は死です。」と書いてある通り、全ての人は死に向かって生きているということです。誰一人として死から逃れることはできません。でも、救い主イエス・キリストの十字架の血によって、私たちのすべての罪は完全に赦され、神様との関係が回復されました。そして、イエス様が死から復活されたことによって、私たちを死の力から解放してくださったのです。私たちの地上の人生はいつか終わりを迎えます。でも、イエス様を信じる者は死んで終わりではない、やがて復活のいのちがあたえられると、聖書は約束しているのです。
 まさに、そのイエス・キリストの十字架による救い(エクソドス)が、ここで、モーセとエリヤとイエス様によって、話し合われていました。そして、「ご最期」について話しておられたイエス様は、「この世のさらし屋では、できないほどの白さ」を放っておられました。それは、イエス様が完全に罪のない聖いお方であるということです。そのイエス様だからこそ、私たちでは決して解決することのできない罪をきよめ、完全に解決し、救ってくださるのです。そのイエス様による完全な救いが、聖書全体を通して約束されているのです。
 
3 ペテロの反応と神様の語りかけ
 
  @ペテロの反応
 
 さて、その光景をみた弟子たちはどんな反応をしたでしょう。びっくりしたペテロが思わず言いました。
「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」(マルコ9・5)
 幕屋は、モーセがイスラエルの民を導いてエジプトから脱出していく途中に作った移動式のテントのようなものです。幕屋の中には契約の箱がおかれ、そこで神様と会い、神様を礼拝する場所でした。幕屋は、将来造られる神殿のひな形です。
 ペテロは光り輝くイエス様とモーセとエリヤを見たとき、とっさにこう思ったのではないでしょうか。
「こんな素晴らしい経験は二度とない。ここを特別の場所にしてモーセもエリヤも留まっていてほしい。イエス様も栄光の姿のままでいていただきたい。ここから離れたくない」。あるいは、「ここを特別指定区域にして保存すれば、いつでも同じ経験をすることができる」そのように考えたのかもしれません。
 
 A神様の語りかけ
 
 しかし、ペテロが話しているその言葉を遮るかのように雲がわき起りました。そして雲の中から神様の声が聞こえたのです。
「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」(マルコ9・7)
 神様は、「イエス様の言葉に耳を傾けなさい。」そう語られたのです。これは、弟子たちにとっても、私たちにとっても大切なことを教えています。
 神様は、驚くような素晴らしい経験をした弟子たちに、「ここに幕屋を造りなさい」とも「特別保存区域に指定しなさい」とも言われませんでした。ただ、「イエス様の言うことを聞きなさい」と言われたのです。
 私たちにとって大切なのは天にも昇るような経験でもなければ、不思議な体験でもありません。もちろん、イエス様を信じる中で素晴らしい経験をすることもあります。でも、何よりも大切なことは、生ける神の御子キリストであるイエス様の言葉を聞き、その言葉に信頼して生きていくことです。
 聖書を通して、イエス様が語られた言葉を聞き、イエス様がしてくださったみわざに表されている愛と恵みを受け取ることです。そのイエス様の恵みの中に憩いながら歩んで行けばいいのです。
 
4 「ただイエス様、おひとりだけ」
 
 神様の語りかけの後、最期に何が起こったでしょうか。
「彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。」(マルコ9・8)マタイの福音書では、「ただイエスおひとりだけであった。」(マタイ17・8)と書いてあります。
 まばゆいばかりの栄光はもうそこにはありませんでした。モーセもエリヤも消えました。しずかで薄暗く肌寒い山の上に弟子たちは立っています。そして、そこには、ただイエス様お一人だけがおられたのです。
 「ただイエスお一人だけ」とても、象徴的な言葉です。もう、特別な経験も特別な場所も必要ありません。イエス様がそこにいてくださる、それで十分だからです。イエス様のうちには、神様の栄光と力、愛と恵みが満ちています。そのイエス様が私たちのところに来て下さり、いつも共にいてくださるのです。今日、私たちは不安や恐れを感じているかもしれません。自分の弱さを覚えて落ち込むこともあります。「誰にも理解されない」そんな孤独の中に置かれることもあります。でも「ただイエス様おひとりだけ」は、私たちと共にいてくださるのです。
 イエス様は「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」(ヨハネ14・18)と言われました。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28・20)そう約束してくださっています。そのイエス様が、どのような恐れの中でも、孤独の中にあっても、いつも私たちと共にいてくださるのです。なんと幸いなことでしょうか。
 
 今日の山の上での出来事は、イエス様がどのような方であり、どんな目的をもって来られたのかということがはっきりと示されています。
 イエス様は、本来、神様の栄光に満ちた光り輝くお方です。そのお方が、私たちと同じ人となって来てくださいました。私たちのために十字架で血を流し、私たちが自分の力ではけして消すことのできない罪を真っ白にきよめてくださいました。そのお方が、私たちといつまでも共に歩んでくださいます。これは、確かな事実です。
 この出来事を目撃したペテロにとっても生涯忘れることのない経験として胸に刻まれました。ペテロは、彼の生涯の終えようとしている時に書いた手紙の中でこう語っています。
「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」(2ペテロ1・6)
 私たちもペテロと同じように、イエス様のお姿を胸に刻みながら、この週もイエス様の恵みの中を歩んでまいりましょう。お祈りします。