城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二一年十一月二一日          豊村臨太郎牧師
                  マルコ十章一節〜十六節
 
 マルコの福音書連続説教13
「イエス様のまなざし〜最も弱い存在へ〜」
 
1 イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群衆がまたもみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。
2 すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。
3 イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」
4 彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」
5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。
6 しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。
7 それゆえ、人はその父と母を離れ、
8 ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。
9 こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
10 家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。
11 そこで、イエスは彼らに言われた。「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。
12 妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」
13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
 
 おはようございます。マルコの福音書の10章に入りました。ここまでイエス様は、主にガリラヤ湖周辺のガリラヤ地方を中心に活動されていました。ここからいよいよエルサレム(十字架)へと向かわれます。
 今日の箇所には、その途上(ペレア地方)での出来事が二つ記されています。一つは、パリサイ人たちがやってきてイエス様に「離婚」について質問したことです。もう一つは、大人たちが連れてきた子どもたちをイエス様が祝福されたことです。
 今日はこの二つの出来事から、イエス様が「離婚についてどのように語られたのか。」「子どもたちについて、何をお語りになったのか」それらをどのように理解したらよいのかということを考えていきましょう。
 
1 離婚について
 
 @パリサイ人たちの質問
 
 福音書の中では、パリサイ人たちがイエス様のところにやってきて質問する箇所が多くあります。でも、それは「イエス様から学びたい」「教えを受けたい」という純粋な思いではなく、ほとんどの場合、イエス様を罠にかけて陥れる為の質問でした。その質問に対して、イエス様がどう答えたとしても、イエス様の言葉尻を捉えて、なんとか貶めよう、亡き者にしようとしたのです。
 この時もそうでした。パリサイ人たちがイエス様のところにやってきて質問しました。「夫が妻を離別することは許されますか。」(マルコ10・2)。「離婚することはオッケーですか、ノーですか」という問いです。
 もし、イエス様が「イエス」と答えた場合、パリサイ人は「お前は、愛を説きながら離婚を許可するのか。俺たちのことを偽善者だといいながら、結局、同じじゃないか。何が救い主だ。」と非難しました。「ノー」の場合は、この後に出てきますが、旧約聖書でモーセが語っている「離婚状」の教えを否定することになりました。「お前は、神様から律法を授かったモーセを否定するのか!」と非難することができました。つまり、どちらに答えても、イエス様を陥れることができる質問を投げかけたのです。
 
 Aイエス様の問いかけ
 
 そんな、彼らの思いを見透しておられるかのようにイエス様は逆に質問されました。「モーセは、なんと命じていますか」(マルコ10・3)パリサイ人たちは、「引っかかった!」と思ったのでしょう。ここぞとばかりに答えました。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」(マルコ10・3)
 この言葉の背景には、旧約聖書の申命記24章1節があります。次のような内容です。「人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女に手渡し、彼女を家から去らせなければならない」(申命記24・1)
 この箇所の本来の意味は、「離婚状を書くことによって、人が衝動的になって、簡単に離婚してしまうことを防ぐためのもの」でした。でも、読み方によっては、「妻に何か恥ずべきことを発見したら、つまり、夫が気に入らなくなったら離婚できる」とも理解できたのです。
 
 B当時の社会の状況
 
 そして、当時のユダヤ社会では、この「恥ずべき事」が拡大解釈されました。例えば、「この料理の味は俺の好みじゃない。恥ずべき事だ!」また、「妻が通りで男性と話していた。恥ずべき事だ!」さらに、ある極端な指導者は、「この規定は、自分の妻よりも美しい女性がいた場合にもあてはまる」そんなことまで言ったというのです。つまり、当時、夫の身勝手な理由で離婚され、苦しい状況に置かれる女性が多くいたのです。
 この時、パリサイ人たちはそんな女性のことなど一切考えていませんでした。ただ、目の前のイエスを陥れたい、亡き者にしたい、それしか頭にありませんでした。
 
 Cイエス様の教え
 
 そんな彼らに対して、イエス様は旧約聖書の創世記を引用して教えられたのです。「結婚は、ふたりの人が一つに合わされることです。互いに相手を大切にし、助け合う関係です。神様が結びあわされたものを、引き離してはなりません。」
 ここで、イエス様は、結婚本来の意味を語り、当時の社会で当たり前になっていた「安易な離婚」に対して「ノー」と言われたのです。
 同じ出来事が書かれているマタイの福音書では、続けてこう言われています。「だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」(マタイ19・9)先ほど例に上げたような男性が自分勝手な理由で簡単に離婚し、苦しんでいる女性がいる社会の中で、イエスは「不貞以外は、離婚の理由になりません。」と言われました。
 それを聞いたイエス様の弟子たちは、こう反応しました。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」(マタイ19・10)これまでずっとイエス様と共に行動し、イエス様の教えを聞き、そばで御業を見ていた弟子たちですら、「結婚しても自由に離婚ができるのは、夫の当然の権利だ。そうでなければ結婚なんかしてらない」と考えていたのです。
 つまり、ここでイエス様が「不貞以外は離婚の理由にならい」と、ある意味で非常に厳格なことをおっしゃっているのは、当時の社会で蔓延していた安易な離婚を戒めることで、弱い立場にいた女性たちが守られていくという現実があったからです。
 イエス様のまなざしは、いつも「弱い者が守られる」という視点に立ったものでした。イエス様は、最も弱く苦しんでいる人を守るという心で、その人々の利益がそこなわれないという、まなざしをもって、何が最善かを語られているのですね。
 
 今も、いろいろな理由で離婚する場合がありますが、ここでイエス様は、すべての離婚が駄目だと頭ごなしに言われているわけではありません。もちろん、聖書が教えている結婚本来のあり方を守っていくことはとても大切です。でも、同時に「本当に弱く苦しんでいる存在がどうしたら、守られるのか。」私たちは、イエス様のそのような「まなざし」を知ることができます。
 ですから、「結婚生活を続けることによって、その人が守られるのか。」あるいは「離れることによって、その人が守られるのか。」よく考える必要があります。結婚を続けることが大切なケースもあって、そこで回復していく、守られることもあるでしょう。でも逆に、結婚生活を続けていったら、その人の心も体も更に深く傷ついてしまうこともあって、その場合は離婚することで守られるというケースもあります。
 いずれにせよ、「本当に立場の弱い人が、苦しんでいる人が、どのようにしたら守られていくのか」イエス様は、いつもそのことを大切にしておられたので、私たちも、そのようなまなざしをもって、考えていくことが大切です。
 今も、いろいろな事情で離婚を経験する方もおられます。その時は、けして自分自身を責めるのではなく、その傷をイエス様が癒し回復してくださることを信じながら、与えられている毎日を一歩ずつ進んでいくことができたら感謝ですね。
 
2 子どもたちの祝福
 
 さて、そのようなイエス様のまなざしは、当時のユダヤ社会の中で、女性よりも弱い存在だった子どもたちにも向けらました。
 この時、大人たちがやって来て、「イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れてき」(マルコ10・13)ました。今も昔も、親は自分の子どものために良いものを与えたい、少しでも良い場所に連れていきたいと思いますよね。この時もそうでした。親たちは自分の子供たちをイエス様の所につれていって祝福してほしかったのでしょう。「イエス様に祈ってもらったら健康になれる」「きっと頭が良くなる」そんな願いをもって子どもたちを連れてきたのでしょう。
 親に連れられてやってきた子供たちもイエス様の側に近づいていきました。子どもは不思議と優しい人のところに寄ってきますよね。でも、イエス様の弟子たちは彼らを叱って追い返そうとしたのです。だって子どもは邪魔ですから。当時のユダヤで子どもたちは半人前です。自分では何もできない、親の世話になるだけ役にたたない存在です。追い返すのも自然な行為でした。でもなんとイエス様は弟子たちにこう言われたのです。
 
 @「子どもたちをわたしのところに来させなさい。」(マルコ10・14)
 
 この時、弟子は子どもたちを邪魔者扱い、半人前扱いしました。でも、イエス様は小さな存在である子どもたちに目を向け、彼らを御許に招かれたのです。
 イエス様は、どんなに小さな存在もけして邪魔者扱いされません。どんな人も、たとえ「自分は半人前だ、自分なんて邪魔になるだけだ、役に立たない」そう思ったとしても、イエス様は受け入れてくださいます。
 想像してみてください。この時、子どもたちは親に連れられてイエス様のところにやってきました。おそらく、子どもたちみんなが自分から望んできたわけではなでしょう。中には「イエス様?誰そのおじさん?」そんなことを言いながら渋々連れられてきた子もいたでしょう。でも、イエス様は子どもたちみんなを受け入れてくださいました。
 私たちも、それぞれに色々なきっかけで教会にやってきます。親に連れられて、友だちに誘われて、ふと立ち寄ってなど、経緯は様々です。でも、イエス様はたとえどんな形であろうと、イエス様のところに来る人をすべて受け止めてくださるお方です。教会というのはそういう場所です。
 
 A「神の国は、このような者たちのものです。」
 
 二番目にイエス様は、「神の国は、このような者たちのものです。」と言われました。
 「神の国」というのは「神の支配」という意味があります。「支配」と聞くと窮屈に感じる方がおられるかもしれませんが、けしてそうではありません。
 人は誰でも、何に支配されるかで生き方が全く変わってきます。例えば何か物に支配されるなら、物はいつか朽ちてしまいますし、なくなってしまいます。ですから、もし何かの物に縛られていたら、それがなくなると不安になってしまいますよね。また、特定の人物に支配されている場合は、その人に全部従わないと判断できなくなって、不安になってしまいます。人生がものすごく窮屈になります。
 しかし、神様は愛と真実なお方です。私たちの全てをご存じで、私たち愛し最善を成して下さお方です。共にいて守ってくださり、自由を与えてくださるお方です。「神の国」に入れられる、神様の支配の中に生きるというのは、そういう愛と守りの中に生かされることなのです。
 私たちの人生には色々な辛いこと、苦しいこと、不安もあります。でも、神様は「私はどんな時もあなたを捨てない。あなたを守る。」と約束してくださいました。そのような愛と恵みに満ちた神様のご支配の中に生かされることが、「神の国」の中に生きることなのです。そして、そこに入るためには、何の条件も付けられていません。
 
 B「子どものように」
 
 イエス様は、ただ「子どものように」と言われました。「大人のように」しっかりとでもなく、「学者のように」賢くでもなく、「宗教家のように」熱心にでもない、「子どものように」と言われたのです。
 皆さん、子どもはどのような存在でしょうか。子どもは、自分の願いを素直に伝えますね。欲しいものがあれば「ちょうだい。」とねだります。話を聞いてほしい時は「聞いて、聞いて。」わからないことは、「教えて。教えて。これ何、これ何。」と聞きます。時にはしつこいくらいに。また困った時は、「助けて!」と叫びます。そんな「子どものような」姿で、私たちは天の父なる神様に受け入れていただけるのです。
 私たちがイエス様の救いにあずかるのも同じです。その為に何の努力も必要ありません。何の自分の功績にもよりません。ただ「子どものように」イエス様を信じ救われるのです。エペソ書に「あなた方は、恵みによって、ただ信仰によって救われたのです。」と書いてあるとおりです。神様の前には、そういう安心感があります。子どものように、分からないときは分からない、辛いときは辛い、苦しいときは苦しいと、叫ぶことができるのです。詩篇の中でダビデも叫んでいますね。「主よ、いつまでですか!」「何故ですか!」「苦しいです!」「助けてください!」私たちも、同じように、父なる神様の前に子どものようになって、自らを注ぎ出すことができるのです。なんと幸いなことでしょうか。
 
 今日の箇所の最後でイエス様は、「子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福され」(マルコ10・6)ました。このイエス様の御手は、目には見えませんが、今日、私たちにも伸ばされています。イエス様は、私たちを抱き寄せ、あたたかい御手を置いて、一人ひとりを祝福してくださっています。
 旧約聖書イザヤ40章11節にはこう書かれています。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(イザヤ40・11)
 イエス様は、私たちの羊飼いなるお方です。どんな時も、私たちを守り、御手で抱き寄せ、優しく導いてくださるお方です。そのお方に信頼しながら、その愛と守りの中を、今週もご一緒に歩んでいきましょう。