城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二二年一月三〇日           豊村臨太郎牧師
                マルコ十章四六節〜五二節
 
 マルコの福音書連続説教14
「バルテマイの信仰」
 
 46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。
47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。
48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。
50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。(新改訳第三版)
 
 皆さん、おはようございます。クリスマスと新年は別の箇所でしたが、今日からまたマルコの福音書に戻ります。今日の箇所は、イエス様がバルテマイという名の目が見えず物乞いをしていた人を癒された出来事です。最後の10章52節で、イエス様はバルテマイに「あなたの信仰があなたを救ったのです。」(マルコ10・52)と言われています。
 もちろん、バルテマイの目を癒し、彼を救われたのはイエス様です。でも、その癒しを受け取ったバルテマイのイエス様に対する姿をご覧になって「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃったのです。それでは、バルテマイの信仰とは、いったどのようなものだったのでしょうか。今日は、そのことをご一緒に考えていきましょう。
 
1 イエス様に叫んだバルテマイ(救い主への叫び)
 
 この時、イエス様は北のガリラヤから南のエルサレムへと旅をしておられました。いよいよ十字架に向かって進んでおられたのです。そして、エリコという町を通られたときにバルテマイに出会われました。エリコはエルサレムから約24キロ離れた場所です。徒歩で一日のほどの距離でした。この時は、過ぎ越しの祭りが近づいていたので、多くの人がエルサレムに向かって旅をし、エリコにも大勢の人がいました。目の不自由なバルテマイは沢山の人々が行き交う道ばたに座り込んで物乞いをしていのです。
 当時、目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、身体にハンディキャプのある人は、何らかの罪が原因だと考えられていました。「あの人や、その家族が罪を犯したからに違いない」と、宗教的に見下されていたのです。また、一般的な仕事にも就くことができませんでした。物乞いをすることだけが、バルテマイの唯一の生きる方法だったのです。しかも、町外れの道ばたです、おそらく人々からは邪魔者扱いされていたのでしょう。
 そんなバルテマイの耳に遠くの方から人々の声が聞こえたのです。
 「イエス様だー。ガリラヤからイエス様がきたぞー!」
 おそらくバルテマイは、既にイエス様の噂を聞いて知っていたでしょう。
 「ガリラヤのナザレにイエスという人物がいるらしい。彼は病人を癒し、盲人の目を開き、口のきけない人を話せるようにした。救い主に違いない。そのイエス様が来られた!」
 道端に座っていたバルテマイは大声で叫んだのです。
 「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください!」(マルコ10・47)
 
 @「ダビデの子」
 
 当時のユダヤ人は、旧約聖書の預言「救い主はダビデ王の子孫から生まれる」という約束を信じて待ち望んでいました。ですから、ここで言われている「ダビデの子」というのは「救い主」という意味です。バルテマイは「救い主、イエス様」と叫んだのです。
 このバルテマイの「ダビデの子」という叫びは、注目すべきイエス様への信仰告白です。当時の宗教指導者であるパリサイ人や律法学者たちは、旧約聖書に精通ししていました。一生懸命に学んでいました。にもかかわらず、イエス様を「ダビデの子」、「救い主」とは、けして認めなかったのです。また民衆たちも、イエス様の素晴らしさを認めつつ、それは自分たちをローマの支配から解放するヒーロー、英雄だと理解していました。
 しかし、バルテマイは目がみえない中で、きっと色々な人から噂をきいていたのでしょう。限られた情報の中で、イエス様をただのヒーロー、地上的な英雄として理解したのでなく、「ダビデの子、救い主に違いない」そう告白したのです。彼は聖書を特別に学んだわけでもなく、深い知識をもっていたわけではありませんでした。でも、目が見えないなかで、「イエスという人は、病人を癒し、目の見えない人の目を開かれた。」そのことを聞いた時に、「この人は、救い主だ」そう告白できたのです。
 時々、こう言われる方もおられますね。「自分はまだ聖書をよく知らないから信じることができない。」「もっと学ばないとクリスチャンになれない。」もちろん、聖書をしっかりと学ぶことは大切ですし、それを通して信仰を持たれる方もおられます。でも、バルテマイのように、たとえ僅かな情報や限られた回数や時間であったとしても、聖書のメッセージを聞きイエス様を自分の救い主と信じ告白することができるのです。
 
 A「あわれんでください」
 
 続けて、バルテマイは「私をあわれんでください」と叫びました。「あわれんでください」の直訳は「同情してください」「気の毒に思ってください」です。バルテマイは、「どうか私の惨めな状態を見てください。私に同情する心ももってあわれんでください」と求めたのです。
 皆さん、普通はこんなふうに叫ぶような状態にはなりたくないですね。私たちはなるべく苦しいことは経験したくないですし、人々の前で「私は惨めです。憐れんでください。」などと叫ぶ状態にはなりたくありません。でも、時にはそう言わざる得ない出来事も経験します。自分ではどうにもならない状況に陥ることがあります。クリスチャンになっても、いろいろな試練を通りますし、「何て自分は惨めなんだろう」と叫びたくなるような時があります。
 しかし、同時にそれは自分の弱さを知る時でもありますし、神様の前に自分自身のありのままの姿を認める時でもあります。そして、そこからバルテマイのように「私をあわれんでください」という、イエス様への叫びがでてくるのです。
 詩篇の中にも、そんな叫びが沢山あります。ダビデも何度も何度も叫んでいます。「助けてください!」「この苦しみから救い出して下さい!」と。そして、詩篇の中には、神様がその叫びに答えてくださるとも約束されています。詩篇91篇15節、「わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。」(詩篇91・15)このことばにあるように、イエス様は私たちの叫びを聞いて答えてくださるお方です。
 実際、この時もイエス様はバルテマイの叫びを聞いて立ち止まられました。そして、「あの人を呼んで来なさい」と言われ(マルコ10・49)、バルテマイを御そばに招かれたのです。そして、バルテマイはイエス様の招きに応じて御許に近づいて来たのです。
 
2 イエス様の御許に来たバルテマイ(救い主への期待)
 
 「バルテマイの信仰」の二つ目は、イエス様の御許に来たということです。マルコ10章50節には、彼が「上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。」(10・50)と書いてあります。
 
 @「立ち上がった」
 
 さらっと書いてありますが、目の見えない人が立ち上がって前に進んでいくことはとても勇気がいることです。以前、テレビ番組「ライフ・ライン」で、盲導犬調教師の第一人者・多和田悟さんが紹介されました。その時、スタッフと一緒に関根先生も取材に行かれたのですが、アイマスクをして盲導犬と一緒に歩かれたのです。でも、目が閉ざされた状態では、関根先生はなかなかスムーズには歩くことができませんでした。多和田さんがこうおっしゃったんです。「盲導犬がいてくれるといっても、目が見えない状態で歩くのは怖いでしょう。だから、すぐには歩けないんです。練習が必要なんですよ。」目が見えない状態で一歩踏み出すのは本当に勇気が要ることです。
 この時、バルテマイもイエス様に叫んでみたものの、いざ招かれて地面から立ち上がるのは勇気が必要だったでしょう。でも、「救い主イエス様が自分を招いてくださった。このチャンスを逃したくない。」と、イエス様の招きに応えたのです。
 考えて見れば、私たちもそんな経験ありませんか。例えば、初めて教会の玄関に入る時、別に見える敷居は高くないのに、扉が物理的に重たいわけではなくても、とても勇気がいりましたよね。でも、勇気をもって一歩入ったからこそ、受け取ることのできるイエス様の恵みがありました。
 
 A「上着を脱ぎ捨てる」
 
 そして、バルテマイは「上着を脱ぎ捨て」ました。当時、「上着」は寒さをしのぐ服であると同時に、寝る時に敷く寝床でもありました。バルテマイの唯一の財産とも言えます。また、物乞いをしていた人は上着を地面に敷いて、そこに施しをもとめました。彼にとって日々の糧を得る大切な道具でもありました。バルテマイは、それを脱ぎ捨てイエス様のもとに近づいたのです。
 「今の自分にとって大切な上着、それ以上のものをこのお方が与えてくださるに違いない。」そのような期待がバルテマイの心に湧き上がってきたのでしょう。先ほどの「立ち上がって」という言葉ですが、ほかの聖書の訳では「踊り上がって」と訳されています。「イエス様は、自分の叫びを聞いてそばに招いてくださった。」「きっと、イエス様は今までの惨めな人生とは違うものを与えてくださるに違いない。」イエス様に招かれたことで、バルテマイの心には勇気と共に躍り上がるような「期待」が湧き上がったのです。
 マルコ福音書の中には、同じようにイエス様に対して期待し、御許に近づいた人々が登場します。例えば、マルコ2章に登場する「中風の人」の四人の友人です。
 
 B中風の人の癒し
 
 「中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました』と言われた。」(マルコ2・3−5)。
 「中風」というのは、身体の一部分が麻痺する病です。自分で動くことができませんから、四人の友人が、彼をイエス様のところに連れてきたのです。でも、家についたものの群衆がいっぱいで中に入ることができません。イエス様に声をかけるどころか、見ることもできません。私だったら諦めたかも知れません。でも、彼らは家の屋根に上って穴をあけて中風の人を部屋の中におられたイエス様の御許に降ろしたのです。その場にいた人は驚きました。「なんだこいつらは。」冷たい視線が突き刺さったでしょう。でも、イエス様は違いました。その四人の友人の「信仰を見て」、中風の人を癒されたのです。彼らの信仰はどんなものだったでしょう。「イエス様なら何とかしてくださるに違いない。どうなるか分からないけど、とにかく病気の友人をイエス様のところに連れて行きさえすれば、癒されるに違いない。」そんな期待です。イエス様はその期待に応えてくださったのです。
 
 C長血の女の癒し
 
 マルコ5章に登場する長血の女性もそうでした。
「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」(マルコ5・27-34)
 この女性は、十二年もの間、婦人病に苦しみ、治療費で財産も失い、人からも拒絶され、誰にも頼ることができませんでした。彼女はイエス様の噂を聞き「イエス様にお会いしたい」と思いました。そして、「イエス様の衣に触れさえすば、きっと直る」と考え、群衆に紛れ込んでこっそりイエス様の着物に触れたのです。その瞬間、病が癒されました。イエス様は彼女に対しても、「あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われました。彼女が抱いた思い、それは「直るかもしれない」そんな淡い期待だったかもしれません。でも、イエス様はそれを「信仰」と呼んでくださったのです。
 彼らに共通しているのは、そこに何か「立派な信仰」や、「宗教的な行い」があったわけではなく、「イエス様ならなんとかしてくださるに違いない。」「イエスの御そばに近づきさえすれば、着物に触れれば直るかも知れない。」イエス様に対する期待がそこにあったのです。イエス様はそこに目を留め「あなたの信仰」と呼んでくださったのです。
 「イエス様ならきっと何とかしてくださる。」このような思いや期待を「信仰」と読んで下さるなら、私たちにも信仰がありますね。イエス様に対する期待なら持つことができます。
 今も、なかなか出口の見えないコロナ禍の中にありますけれども、私たちの考えを越えた神様の解決あるに違いないと信じます。皆さん、それぞれに問題を抱えているかもしれません。でも、「イエス様が何とかして下さる。」「きっと最善の方法で解決してくださる。」私たちはそうイエス様に期待することができるのです。
 
3 イエス様の問いかけに答えた(救い主への応答)
 
 「バルテマイの信仰」の三番目、彼はイエス様の問いかけに答えました。10章50節でイエス様は「わたしに何をしてほしいのか」そうバルテマイに問いかけられました。バルテマイは「目が見えるようになることです。」と、自分の望みを具体的に答えました。
 最初にイエス様に叫んだ時、バルテマイは「私をあわれんでください」と言いました。そこにはイエス様に対する「期待」が込められていましたが、同時に漠然とした願いでもありますね。イエス様は、彼の信仰を受け止めてくださった上で、さらに具体的に「あなたは、わたしに何をしてほしいのか。」と問いかけてくださったのです。
 今日もこの礼拝の中でイエス様は、聖書を通して、バルテマイとの対話通して、私たちに問いかけてくださっています。「あなたはわたしに何をしてほしいのですか?」だから、私たちはバルテマイのように素直に自分の願いをイエス様に祈りましょう。
「イエス様、今、私はこのことに困っています。この問題を解決してください。」
「こんな必要があります。」
「病気で苦しんでいます。癒してください。」
 パウロは、ピリピ人への手紙4章6節で「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4・6)と勧めています。もちろん、私たちの願い事のすべてが、祈ってすぐに答えられるわけではありませんね。時は祈りがきかれたと感じることもあるし、なかなか答えがないと思うこともあります。でも、聖書の約束は、イエス様が私たち願いと祈りを聞いて下さって、一人一人にあった最善を与えてくださるということです。
 実は、この「バルテマイの癒やし」の出来事の少し前、イエス様は十二弟子たちにも、同じように「わたしに何をしてほしいのか」と問いかけられているのです。でも、その時の弟子たちは「人よりも高い地位につきたい。偉くなりたい。」「イエス様が御国の王座に着かれるときには、右と左に座りたいです。」と見当違いの願いを持っていました。
 ですから、イエス様は彼らの願いをかなえるのではなく、「そうではないですよ。あなたがたの中で偉くなりたい者は、仕える者になりなさい。」と彼らにとって必要な教えを語り諭されたのです。
 イエス様は、私たちのことをとく存知です。最善をなしてくださいます。時には体が癒されることもあるでしょう。また癒されないこともあります。たとえ問題が解決されなくても、それを越えた神様の平安が与えられることも癒しですね。
 パウロが先ほどの箇所の続きで、「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4・6-7)と語っているように、神様は、私たちが色んな問題を、苦しみ抱えていたとしても、それを越えた神様の平安を与えてくださいます。
 バルテマイは「わたしに何をしてほしいのか」というイエス様の問いかけに応答し、「目が見えるようになることです。」と自分の願いを具体的に伝えました。イエス様は、そのような彼の信仰に答えて下さったのです。
 
 
 
 今日の最後10章52節には、イエス様に癒していただいたバルテマイが、「イエスの行かれる所について行った。」(マルコ10・52)と締めくくられています。新改訳2017の訳では「道を進むイエスについていった」です。
 長い間、暗闇の中で人生に希望も目的も持てずに、ずっと道ばたに座り込んでいたバルテマイに、イエス様と一緒に道を歩む人生が与えられたのです。
 「救い主イエス様、私をあわれんでください」と叫び、勇気をもって上着を脱ぎ捨てて立ち上がり、「イエス様なら何とかしてくださる」そんな期待をもって御許に近づいたバルテマイに、イエス様は「あなたの信仰が、あなたを救ったのです」とおっしゃいました。彼のイエス様に対する叫びが、期待が、応答が、イエス様と共に歩む人生へと開いていったのです。 
 私たちも、バルテマイのようにイエス様へ期待をもって、私たちの願いと祈りを捧げながら、時に叫びながら、イエス様と共に歩んでまいりましょう。