城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二二年二月二〇日            豊村臨太郎牧師
           マルコの福音書十一章一二節〜二〇節
                  
 マルコの福音書連続説教15
 「祈りの家」
 
 12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」18 祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。19 夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
 
 おはようございます。マルコの福音書からイエス様の生涯を学んでいます。前回までは、イエス様がガリラヤからエルサレムに向う旅の途中に起こった出来事を見てきました。11章から、いよいよイエス様はエルサレムに入られ、地上の生涯での最後の一週間を過ごされます。
 今日の箇所には、その一週間の中で、イエス様が最初に行われた「宮きよめ」と呼ばれる出来事が記されています。「宮」は「エルサレム神殿」のことですが、別にイエス様が神殿を綺麗に掃除してきよめたわけではありません。当時の神殿には、動物を売り買いする商売人や両替人がいたのですが、イエス様が彼らを神殿から追い出されたという出来事です。
 そして、その前後には「いちじくの木」が出てきます。葉っぱばかりが茂って実がないいちじくの木を、お腹が減っていたイエス様が枯らしてしまうという出来事です。ここだけを読むと、「イエス様らしくない」って思ってしまいそうですが、イエス様は理由もなく木を枯らしたわけではありません。
 実は、「宮きよめ」と「枯れたいちじくの木」この二つの出来事を通して、イエス様は当時そこなわれていた「神殿の本来の姿」を示されたのです。
 神殿は神様を礼拝する場所ですから、今日、私たちはこの出来事を通して、「礼拝」に対するイエス様の心を知ることができます。礼拝とはどういうものか、何を大切にし、どんな恵みを受け取ることができるのか、今日はそのことをご一緒に考えていきましょう。
 初めに、これまでの流れと出来事背景を振りかえります。
 
 エルサレム入城
 
 前回、イエス様はエリコの町外れで目の見えないバルテマイを癒されました。そこから、エルサレムに向かわれました。この時は、ちょうど「過越の祭り」の時期で、世界中からユダヤ人たちが集まっていました。
 11章1節から11節に書かれていますが、イエス様はエルサレムの近くまで来ると、弟子たちにロバの子を連れてこさせたのです。そしてロバの子に乗ってエルサレムに入られました。
 なぜ、ろばの子に乗られたかというと、旧約聖書で救い主がやってくる時の様子が預言されていたからです。ゼカリヤ書には次のように書かれています。「エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。(ゼカリヤ9・9)イエス様は、ご自分が旧約聖書で預言された「救い主なる王」であることを示す為にろばの子に乗られたのです。
 当時のユダヤの人たち皆、この預言を知っていましたから、ろばの子に乗ったイエス様の姿を見て、「この方こそ私たちに救ってくれる王だ!待ち望んでいた救い主だ!」そう叫んで、熱烈にイエス様をお迎えしたのです。でも、この時のユダヤの人々の熱狂は、「ローマ支配から解放してくれる王」という地上的な英雄を迎えるものでした。マルコは、人々の熱狂とは対象的に、静かで落ち着いたイエス様の姿を記しています。「イエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。」(マルコ11・11)
 
 1 枯れたいちじくの木
 
 その翌日、イエス様がエルサレムに向かう道中に「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見え」(マルコ11・13)ました。マルコはわざわざ「いちじくのなる季節ではなかったから」(マルコ11・13)と書いているので、余計にこの後のイエス様の行動に疑問を感じてしまうのです。お腹がへっていたイエス様がいちじくの木を見ると葉だけで実がなったいませんでした。季節じゃないのですからあたりまえですね。でも、イエス様はこう言われました。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように」(マルコ11・14)翌朝、いちじく木は根元から枯れてしまいました。私が弟子の一人だったら「イエス様、そんな理不尽な!」と思ったでしょう。
 これまで、マルコ福音書の中で、イエス様は決して自分のために奇蹟の力を用いられませんでした。荒野で誘惑を受けて、空腹を感じられたときも石をパンにかえませんでした。イエス様はいつも、病気の人や弱っている人に愛を示すために癒されました。神様の栄光すために奇蹟をなさいました。
 では、なぜ、この時いちじくの木を枯らされたのでしょう。
 実は、これはイエス様が大切なメッセージを伝えるための「象徴的な行為」だったのです。
 
 (1)「象徴的な行為」
 
 聖書の中には、神様が何かのメッセージを伝えるために、預言者を通して、象徴的な行為をさせるという記録があります。人目を引くようなパフォーマンス、皆ががそれを見て「どういうこと?」と、普通では理解しにくいことをあえてすることで、神様の真理に気づかせるという預言者的な手法です。
 例えば、預言者エレミヤは、ある時、神様から「亜麻布の帯を買ってきて、川の岩の割れ目に隠しないさい。」と命じられました。そして、だいぶ月日がたってから、神様はエレミヤに「もう一度、川へ行き、あの帯を取り出しなさい。」と言われたのです。エレミヤがその通りにすると、亜麻布の帯は腐ってボロボロになっていました。もう何の役にも立ちません。
 これは、当時のイスラエルの状態を象徴的に表していました。本来イスラエルは神様に選ばれた祝福の民としての役割が与えられていました。それは、神様に信頼し神様とともに生きることで、その素晴らしさを周囲の国々に証しするという役割です。
 でも、残念ながらエレミヤの時代、イスラエルは神様のことばに聞き従わず、他の国々の偶像を礼拝するような状態でした。その姿が腐ってボロボロの何の役にも立たない帯で象徴されたのです。
 では、イエス様が「いちじくの木」を枯らされたのは何を象徴していたのでしょうか。
 
 (2)「いちじくの木」
 
 聖書の中で「いちじく」は、イスラエルを象徴する植物です。実のない葉ばかりの「いちじく」は、見た目ばかりが立派で、本来すべきことをしていないイスラエルを表していました。特に、この場面では、彼らの信仰の中心だったエルサレム神殿の現状を表していたのです。
 当時のエルサレム神殿はとっても立派な建物でした。ユダヤを治めていたヘロデ大王は、ユダヤ人の歓心を買おうと紀元前20年頃から、大規模な増改築工事を始めました。莫大な財を投じて、大理石の柱を立て、神殿の正面を金箔で覆ったのです。当時の歴史家ヨセフォスが「神殿に太陽が反射すると目が痛くなってしまうほどで、真っ白な大理石は遠くから見ると、雪山のように見えた。」というほど豪華な建物でした。
 そんなエルサレム神殿の様子をイエス様は前日ご覧になっていたのです。そこで行われていた礼拝の現状もご覧になっていました。そして、いちじくの木を枯らすことで、「どんなに立派な神殿も、形ばかりで本来の姿を見失っているなら、いずれ崩れてしまう。」と預言的に示されたのです。
 それでは、当時のエルサレム神殿はどんな様子だったのでしょう。
 
 2 エルサレム神殿の現状
 
 神殿は、至聖所とよばれる中心から「祭司の庭」「イスラエル人の庭」「婦人の庭」「異邦人の庭」と区切られていました。そして、「異邦人の庭」に両替人や商売人がいました。
 
 (1)両替人
 
 当時、ユダヤ人の成人男性は、神殿の維持管理のために税を納めなければなりませんでした。しかも、神殿用の特別な銀貨に両替しなければならかったのです。そのための両替人がいました。もちろん、両替人の存在自体は悪くありません。でも、彼らは両替する際に10%から15%も手数料をとっていたのです。両替人たちは、神殿税を利用して私腹を肥やしていました。
 
 (2)商売人
 
 商売人は、神殿に捧げるための牛や羊や鳩を売る人々です。神殿に捧げる動物は「完全で、傷がなく、汚れがないものでなければならない」と決められていました。神殿に自分で動物を連れてきた場合は、当局から任命された検査官が検査しました。検査料が必要でした。もし、不合格なら神殿で動物を買わなければなりません。遠方の人は、結局、そこで売られる検査済みの動物や鳥を買った方がいいと考えました。そうせざる得ない仕組みになっていたのです。そして、商売人は一般市場よりはるかに高い値段で動物を売りつけていたのです。
 もちろん、こうして集められたお金は神殿の維持管理のためにも用いられたのですが、同時に、彼らは神殿を利用して大きな利益を得ていたのです。おそらく賄賂も送っていたのでしょう。祭司たちも彼らのやり方を黙認していたようです。両替人も商売人も祭司たちも、信仰の名を借りて、礼拝の場所を利用して、不正な利益を得ていたのです。
 だから、イエス様は「あなたがたは神殿を強盗の巣にしている」と激怒し、彼らを追い出されたのです。(マルコ11・17)
 昔も今も、宗教とお金は結びつきやすいものです。金儲けのために宗教を利用するのは愚かな行為ですし、それによって人は傷つき、混乱が起こります。
 残念ながら、キリスト教会の歴史を見ても、その誘惑はいつもありました。中世の時代、教会は「これのお札を買えば罪が赦される」と言って免罪符を売り、多大な利益を得ていました。サンピエトロ大聖堂建築費用の為、また、当時の教皇レオ10世の借金返済に充てるためとも言われています。もしイエス様がその売り場におられたら、やはり激怒して、免罪符を破り捨てられたでしょう。今も、私たちは注意が必要です。
 
 3 神殿本来の姿
 
 さて、神殿の現状を嘆かれたイエス様は、続いて神殿本来の姿を教え示されました。
 
 (1)神殿は、すべての人の祈りの家
 
 まず、イエス様は「神殿はすべての人の祈りの家」と言われました。誰も差別されることなく、神様に祈り、礼拝することのできる場所が神殿だと教えられたのです。『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』ということばはイザヤ書56章からの引用です。「主に連なる外国人は言ってはならない。『主はきっと、私をその民から切り離される』と。宦官も言ってはならない。『ああ、私は枯れ木だ』と。まことに主はこう仰せられる。『わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ』。」
 ここには、「外国人」と「宦官」が出てきます。当時、「外国人」でも、神様を信じた人は改宗者と呼ばれ、神の民の中に加わることができました。でも制限があったのです。神殿の一番外側「異邦人の庭」にしか入ることはできませんでした。「宦官」は、宮廷に仕える去勢された人たちです。「私は神様から枯れ木のようにしか見られていないのではないか」「自分は体に欠陥があるから神から疎んじられているのでは」そのように考えてしまうこともあったようです。
 でも、神様はイザヤを通して、「わたしは、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」言われました。つまり、外国人でも、宦官でも、誰でも、心から神様を求め礼拝に来るなら、神様に受け入れられる。「私なんてふさわしくない」そんな劣等感も、「いつか排除されるのではないか」という不安も持つ必要はないと、神様は語られたのです。
 だから、イエス様はここを引用して、「神殿本来の姿は、誰も差別されることなく、神様を礼拝できる場所。神様は、どんな人も受け入れてくださるお方であって、すべての人が、神様を礼拝し、祈り、楽しむことができるのが神殿本来の姿だ。」と教えられたのです。
 
 (2)神殿は、愛とあわれみをうける場所
 
 続いて、イエス様は、神殿は愛とあわれみをうけることのできる場所だということを行動で示されました。
 マタイの福音書にも「宮きよめ」の出来事が書かれていますが、マタイはこの時、「宮の中で、盲人や足のなえた人たちがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた」(マタイ21・14)と記しています。当時、目の見えない人や歩くことができない人たちは、神殿に入ることできず外に追い出されていたのです。でも、イエス様は彼らを迎え入れて、体を癒し、神様の愛とあわれれみを示してくださったのです。「神殿にいるべきなのは、今ここで苦しんでいる人々だ。彼らが愛とあわれみをうけとることが、本来の神殿の姿だ」と身をもって示されたのです。
 
 (3)神殿に、動物のいけにえは不要
 
 そして、イエス様が商売人や両替人を追い出されたということは、神殿で礼拝するために、もはや動物のいえにえやお金は不要だということです。「これからはもう、神様を礼拝するために神殿に特別な動物を献げなくてもよい時がくる」「特別なお金を両替しなくてもよいい時が来る」ということを、イエス様は行動で示されたのです。
 なぜならこの後、イエス様は十字架でご自分の命を捧げることによって、全ての人の罪のために、神の子羊としていけにえになったくださったからです。
 ヘブル書9章11節から12節には、「キリストは…やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度…永遠の贖いを成し遂げられたのです。」とあります。
 ヘブル書10章14節から18節でも、「キリストは…一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。…罪のためのささげ物はもはや無用です。」と書かれている通りです。
 イエス様は、私たちの罪のために身代わりとなって十字架で死んで下さいました。何度も繰り返し捧げなければならなかった不完全な動物の犠牲ではなく、完全なイエス様ご自身が、私たちの罪を背負い、一度きりの贖いを成し遂げて下さったのです。ですから、もうささげ物は不要、必要ないのです。
 
 これが、今日、イエス様が「宮きよめ」を通して示された「神殿の本来の姿」です。神殿は、どんな人も分け隔てなく礼拝することができる「すべての人の祈りの家」です。イエス様の愛とあわれみをうけることができる場所です。そして、その為に、もはや何もささげ物は必要ないのです。
 そして、私たちは今日こうして礼拝を捧げていますよね。イエス様の思いは、この礼拝の中にも含まれています。当時の人々は、見えるところは、「こっちの庭には入れない」「なんでこんなにお金がかかるの」「神様を自由に礼拝することが難しい」そんな現実がありました。でも、今、イエス様はそれらを全部とっぱらってくださったのです。
 だから、今、私たちが捧げる礼拝も、ネット中継を通しても、会堂に集っても、CDやDVDであっても、どんな人も区別されず自由に神様に祈り礼拝することができます。男性はここ、女性はこちらというように座席がきまっているわけではないし、この職業の人は入れないなんて一切ありません。
 礼拝はどんな人もイエス様の愛とあわれみを受けることができる場所です。イエス様は、求める者に癒しを、私たちがそれぞれに抱えている問題に解決を、みことばをもって答えてくださると、私たちは信じて礼拝を捧げていますね。
 そして、今、私たちは礼拝を捧げるために何か特別なものを買って持ってくる必要も、何のささげ物も必要ないのです。なぜなら、すでにイエス様が十字架で一度きりの完全な永遠の犠牲を払ってくださったからです。だから、今、私たちは自由に大胆に神様の前に出て、礼拝を喜ぶことができる者とされているのです。
 もしかしたら、「今、教会に行けないこともあるし、一人だと礼拝できないじゃないですか。」そのように思われる方もいるかもしれません。でも大丈夫です。パウロはこう言っています。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられる。」(1コリント3・16)イエス様を信じる一人一人のうちに聖霊なる神様が住んでくださることによって、私たちは生ける神殿「祈りの家」とされているのです。
 だから、たとえ一人でも神様に祈ることができるし、どんな場所でも、イエス様の愛とあわれみを受けることができるし、神様を礼拝することができるのです。
 もちろん、私たちは、こうやって共に一つの場所に集まって礼拝することの大切さと恵みを知っています。でも、たとえ今集まることが難しかったとしても、それぞれの場所でも、自らが「祈りの家」として祈り、人々のためにとりなし合うことができます。その中で、イエス様の愛と恵みをうけることができる、そういう者として、私たちが生かされていることを喜びながら、この週も共に歩んでいきましょう。