城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二二年三月二〇日            豊村臨太郎牧師
           マルコの福音書十二章一節〜十二節
                  
 マルコの福音書連続説教16
 「礎の石」
 
 1 それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。2 季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。3 ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。4 そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。5 また別のしもべを遣わした。ところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。6 その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、最後にその息子を遣わした。7 すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』8 そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。9 ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。11 これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」12 彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った。 (新改訳聖書第三版)
 
 おはようございます。マルコの福音書からイエス様の生涯を学んでいます。今日は12章に入りました。イエス様の地上の生涯での、最後の一週間におこった出来事です。
 前回は「イチジクの木」が出て来ましたが、今日は「ぶどう」が出てきますね。なぜ、この時、イエス様はこのような「ぶどう園」のたとえをお話になったのでしょうか。少し、前回の内容を思い出してみてください。イエス様はガリラヤからエルサレムにやってきて神殿に入られました。当時の神殿は、イスラエル人の男性だけが入ることができる場所、女性だけの場所、また外国人改宗者が入ることができる「異邦人の庭」というように細かく区別されていました。そして、「異邦人の庭」には商売人や両替人がいました。当時の神殿では、神様に捧げる為の検査済みの動物が売られていました。また、特別な銀貨に両替して納めなければならない神殿税がありました。ですから、商売人や両替人がいたのです。その働き自体は悪くありませんが、彼らは法外な手数料をとり私腹を肥やしていたのです。
 その様子をご覧になったイエス様は「あなた方は『祈りの家』である神殿を『強盗の巣』にしている!」と言って、彼らを追い出されました。「宮清め」と呼ばれている出来事です。そのことを通して、イエス様は、様々な規定に縛られ、差別があり、特定の場所でしか礼拝することができない礼拝の時代が終わることを示されました。この後、イエス様が十字架にかかり、一度きりの完全ないけにえとしてご自分の命を捧げてくださり、復活されることによって、もう特別な動物を用意しなくても、どんな人も、どんな場所でも、自由に神様を礼拝することができる、新しい時代がきたのだということを示してくださったのです。
 だから、今、イエス様を信じる私たちも、何の規定に縛られることなく、特別なものを用意することもなく、ただイエス様を信じるだけで、自由に神様を礼拝することができる恵みの中に生かされています。
 
1 イエス様のもとに来た宗教指導者
 
(1)宗教指導者たちの質問
 
 さて、イエス様の神殿での行動を見て腹を立てた人たちがいました。当時の宗教指導者、祭司長、律法学者、長老と呼ばれる人たちです。当時、彼らは神殿に深く関わっていました。イエス様に対して「私たちが長い間大切にしてきた伝統を踏みにじられた!」「自分たちの利益を生む制度をめちゃくちゃにされた!」と腹を立てたのです。彼らはイエス様に問い詰めました。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたに権威を授けたのですか。」(マルコ11・28)彼らにしてみれば、「イエスはガリラヤの大工で正統な教育を受けたわけでも、ユダヤ当局から正式に任命された教師でない。そんなヤツが人々に教えを説き神殿で勝手なことするなんて、許されない!」と考えたのです。
 
(2)イエス様の問いかけ
 
 するとイエス様は彼らの質問に質問で返されました。「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」(マルコ11・30)「天から」というのは、「神様から」という意味ですから、「ヨハネは、神様が預言者として遣わされたのか?それとも、彼が自分勝手に『俺は預言者だ』といったのか、どちらだと思いますか?」という質問です。
 バプテスマのヨハネはマルコの福音書の始めの方に登場しましたね。彼は、人々が救い主イエス様を受け入れるための道備え(準備)をしました。人々に罪を自覚させ、悔い改めを説き、洗礼を授けました。当時、多くの人々が、ヨハネは神様から使わされた預言者だと信じ尊敬していたのです。
 
(3)宗教指導者たちの困惑
 
 ですから、イエス様の問いに宗教指導者たちは困惑してしました。彼らは、ヨハネを「神様から遣わされた者」と信じていなかったからです。でも、ヨハネを信じ尊敬する大勢の群衆の反応を恐れたのです。しかたなく、彼らはイエスに『わかりません』と言いました。自分たちにとって都合の悪い質問には答えようとしなかったのです。
 
(4)イエス様の答え
 
 すると、イエスも「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」(マルコ11・33)と言われました。
 イエス様というお方は、イエス様に心を開き、純粋な思いをもって問いかけ、答えを求める人には答えてくださるお方です。ある時はことばで、またある時は働きを通して、答えてくださます。そして、イエス様の語りかけを聞くとき、また、イエス様がなされた働きを見るとき、イエス様が「神様の権威」をお持ちであることを知ることができます。
 マタイ28章18節で、イエス様は「わたしには天においても地においても、いっさいの権威が与えられています」とおっしゃった通りです。
 イエス様は、マルコの福音書二章で四人の友人に「中風の人」が連れて来られた時、「あなたの罪はゆるされました」と宣言されました。そして、彼の病を癒されることを通して、ご自分が罪を赦す権威、神様の権威を持つことを教えられました。ある時は、悪霊に束縛され苦しんでいる人を解放されました。人の人生を新しく造り変えることのできるお方であることを示されたのです。また、弟子たちと湖で嵐にあったとき、「嵐を静まれ」とひと言葉をもって嵐を静められました。自然の力をも治めることの出来る、世界を造られた創造主なのだということを、見せてくださったのです。
 残念ながら、宗教指導者たちは、イエス様を「亡き者にしよう!」「邪魔なやつだ!」イエス様に敵対する思いをもっていました。彼らは目の前におられるイエス様の権威がまったく見えなかったのです。
 しかし、イエス様は、そんな彼らをただ突き放されて終わりではなかったのです。続けて、今日の「ぶどう園」のたとえを話されました。
 
2 ぶどう園のたとえ
 
 ある時、一人の人が立派なぶどう園を作りました。主人は、それを農夫たちに貸して旅に出かけました。収穫の時期になったので、収穫を受け取るために、主人はしもべを農夫たちのところに遣わしました。ところが、農夫たちはしもべを袋だたきにして送りかえしてしまったのです。主人は何度もしもべを遣わしましたが、ある者は袋だたきにある者は殺されてしまいました。ついに主人は「私の息子なら敬ってくれるだろう」と考えて愛するひとり息子を遣わしたのです。しかし、農夫たちはその息子まで殺してしまったのです。最終的に主人は農夫たちを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまった、というお話です。
 実は、イエス様は「ぶどう園」のたとえを通して、旧約聖書の「イスラエルの歴史」を語られています。
 聖書の中で、ぶどうは(前回のイチジクと同様に)イスラエルを象徴する植物です。旧約聖書を読むと、イスラエルの民たちが周囲の国々に影響されて偶像礼拝をしたこと、また、様々な不正を行い、国が腐敗していったことが書かれています。そんな彼らに神様は預言者を遣わし「私に立ち返りなさい」と何度も語られたのです。でも、彼らは預言者たちの言葉に耳を傾けず、迫害し、時には殺してしまいました。イエス様は、そのように神様に背き続けたイスラエルの姿を「ぶどう園」のたとえで話されたのです。
 もちろん、宗教指導者たちは聖書の専門家ですから、そのことをよく知っていました。おそらくイエス様のたとえを聞きながら、「そうだ。その通りだ。何をわかりきったことを。」「昔の人々たちは、神様が使わした預言者に従おうとしなかった。」「でも、俺たちは違う!だから、今、神様の戒めを守って立派に生きているのだ!それをイエスよ、お前がかき乱しているのではないか。」途中までは、イエス様のたとえを頷きを持って聞いていたでしょう。
 でも、イエス様が、「主人が愛する息子を送った」と話された時に彼らは気がついたのです。「待てよ。こいつは自分のことを言っている。」「俺たちのことを『愚かな農夫』にたとえて、昔、預言者を迫害し殺した者と同じ扱いをしている。」「しかも、農夫が息子を殺すということは、今、俺たちがイエスよ、お前を排除し殺そうとしている企みに気がついているのだな!」彼らは、憤慨してイエス様を捕らえようとしました。でも、周囲には大勢の群衆がいたので、彼らの目を恐れて、イエス様の前から立ち去ってしまったのです。(マルコ12・12)
 この時、イエス様は「ぶどう園」のたとえを通して、先ほど彼らが問い詰めた「誰の権威でこんなことをしているのか?」という質問に対して、「わたしは、神様の権威によって遣わされた、神の愛するひとり子なのだ。」と答えておられます。でも、彼らはそれを受け入れることができませんでした。憤慨して立ち去ってしまったのです。
 また、ここでイエス様は、彼ら宗教指導者たちの高慢さや愚かさも浮き彫りにされていますね。彼らは途中までは「そうだ、その通りだ。昔の人々は神様に背いた。でも、自分たちは神様の前に正しく生きている。」そう考えました。しかし、実際はどうだったでしょう。目の前におられる、まさに神様が遣わされたイエス様を拒絶し排除しようとして立ち去っていったのです。イエス様が「あなたがたは他人の目の中の塵には気がつくのに、自分の目の中にある梁がわからない。」と言われた光景がそこにあったのです。
 
3「礎の石」
 
 さて、イエス様は、今日の「ぶどう園」のたとえの最後を、次の詩篇の言葉でしめくくられています。
「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。」(詩篇118・22−23)
 「ぶどう園」と全く関係ない「礎の石」がでてきます。少し不思議な感じがしますね。なぜ、イエス様はここを引用なさったのでしょう。
 「礎の石」は、建物の基礎部分で一番重要なところに置かれる石です。また、ここで言われている「家を建てる者」とは神殿建築者たちです。神殿を建てる者たちが無価値だと思って「捨ててしまった石」が、一番大切な「礎の石」になった。なんという神様の不思議だろう、という歌です。また、この詩篇の歌は後に来られる救い主を指し示す預言のことばでもありました。
 つまり、なぜイエス様が「ぶどう園」のたとえを、この詩篇の箇所で締めくくられたかというと、「あなたたちが排除しようとしている存在が、大切な『礎の石』なのですよ。」「あなたがたが亡き者にしよう、殺そうとしている、この私こそが『救い主』なのです。」と宣言されているのです。
 実際、この言葉の通りに、この後、宗教指導者たちはイエス殺害計画を進めていきます。そして、最終的にイエス様を十字架につけて殺してしまうのです。
 でも、不思議なことに、十字架にかけられたイエス様、「捨てられた石」となったイエス様は、十字架で死なれて終わりではありませんでした。その後、復活されて信じるすべての人の「救い主」「礎の石」となってくださったのです。
 
 感謝なことに、今、私たちは聖書を通して、そのことを知っています。神様の不思議な御業によってイエス様の救いの中に生かされています。でも、以前はどうだったでしょうか。今日の宗教指導者たちのように憤慨まではしなくても、「イエス・キリストが自分の人生の土台になる」なんて考えもしない存在だったのじゃないでしょうか。
 私自身もそうでした。牧師の家庭に生まれたからといって自動的にクリスチャンになったわけではありません。表面的には神様に従っているようでいて、実は、神様に背を向け無視し自分勝手に生きているときがありました。でも、そんな私の為にイエス様が十字架にかかり、文字通り「捨てられた石」となったくださったことを知ったのです。不思議ですけれども、イエス様の十字架を自分のこととして信じることができました。聖書には「御霊なる聖霊のはたらきによる」と書いてありますが、聖書のメッセージを聞く中で、聖霊なる神様が私のうちに働いてくださって、「イエス様が私の罪の為に十字架に掛かってくださった」とわかり、イエス様を「救い主」として信じました。イエス様が、私にとって最も大切な「礎の石」となってくださったのです。
 考えてみてください。どんな建物も土台がしっかりしていなかったら、あっという間に崩れてしまいますね。逆に土台がしっかりしていたら、どんな揺れがきても壊れることはありません。私たちはどんな土台の上に、自分人生を建て上げているのでしょうか。ある人は、お金や財産かもしれません。それも大切です。ある人は、教育、仕事、名誉、もちろん素晴らしいことです。でも、それらが決して揺るがされないものかと問われたら、そうではないですね。いつかは無くなり崩れてしまう脆いものです。
 でも、聖書は、決して無くなることのない確かな土台があると教えています。私たちの人生を最終的に支えるもの、それは「礎の石」であるイエス・キリストだとはっきり語っているのです。
 新約聖書エペソ人への手紙二章20節でパウロは、「キリスト・イエスご自身がその礎石です。」と語っています。今日は讃美歌の280番を歌いました。
 
  我が身の望みは ただ主にかかれり 
  主イエスのほかには よるべきかたなし
  我が君イエスこそ 救いの岩なれ 
  救いの岩なれ
 
聖歌の歌詞だと折り返しはこうです。
 
  イエスこそ岩なれ 堅固なる岩なれ
  他は 砂地なり
 
 本当にそのとおりです。イエス・キリストという堅固なる「救いの岩」の上に、私たちは生かされています。なんと安心なことでしょうか。
 また、旧約聖書の詩篇40篇には「(主は)私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。」と書いてあります。
 誰が私を滅びの穴から、罪の泥沼から引き上げてくださったのでしょうか。誰が罪の束縛から自由にし「救いの岩」の置いてくださったのでしょうか。主なる神様です。
 私たちが、何か自分の力で修行して努力して一生懸命に上ったのではありません。私たちは、ただ単純にイエス様を信じただけです。父なる神様が力強い御手をもって、私たちをしっかりとつかみ、引き上げてくださったのです。
 神様の愛の御手が私たちを抱き、引き上げ、揺るがない確かな「礎の石」イエス・キリストの上に置いてくださったのです。なんと素晴らしいことでしょうか。
 パウロはその恵みを次のように告白しています。
「彼(イエス・キリスト)に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ9・33)
 口語訳聖書では「それにより頼む者は、失望に終ることがない。」と訳されています。イエス様に信頼する者は、決して失望に終わることがないのです。
 イエス様という、崩れることがない「礎の石」に私たちが置かれているというなら、確かに人生いろんなことがありますけれども、どんなことがあっても大丈夫です。決して失望に終わることがないのですから。
 私たちの人生が、イエス・キリストという尊い「礎の石」の上に、父なる神様によって置かれていることを感謝しつつ、聖霊なる神様の励ましの中を、この週もご一緒に歩んでまいりましょう。