城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二二年五月一五日          豊村臨太郎牧師
           マルコの福音書十四章一節〜九節
                  
 マルコの福音書連続説教17
 「ナルドの香油」
 
 1さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。2 彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」と話していた。
 3 イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(新改訳聖書第三版)
 
 おはようございます。マルコの福音書からイエス様の地上での最後の一週間をみています。この頃、イエス様は、夜はエルサレム郊外のベタニヤという町や、オリーブ山で過ごされ、日中はエルサレムに通っておられました。特に、神殿には何度も行って、人々に教えたり、病人を癒したり、宗教指導者たちと神学論争をされました。前回の12章で、イエス様は「ぶどう園」のたとえを話されましたが、その後も色々なの対話をされました。その度に、イエス様は知恵と権威に満ちたお答えをなさり、最終的に律法学者たちはイエス様に質問することをやめてしまいました。でも、彼らがイエス様を陥れることを諦めたかというと、けしてそうではありませでした。「イエスは自分たちの伝統やしきたりを壊そうとしている。群衆もイエスを英雄視している。」怒りと妬みに突き動かされ「イエスを殺してしまおう」と考え始めていたのです。
 そのような時に、一人の女性がイエス様にとても高価な香油を注ぎました。イエス様はその女性の行動を「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マルコ14・9)と、高く評価されたのです。
 今日はその出来事をご一緒にみていきましょう。
 
1 祭りの前夜に
 
 この出来事がいつ、どんな状況の中で起こったかというと、マルコ14章1節には、「過越の祭りと種なしパンの祭りが二日後に迫っていた」とかかれています。
 「過越の祭り」は、ユダヤ最大のお祭で、昔、イスラエルが主なる神様によってエジプトから助け出された事を記念するお祭りでした。「種なしパンの祭り」は、収穫感謝祭です。もとは秋に行われていましたが、イエス様の時代には過越の祭りとあわせて春に行われていたようです。
 その盛大なお祭りが「二日後」に迫っていました。当時のユダヤの数え方では、その日を「一日目」と数えます。つまり、「二日後」というのは、私たちの感覚で言えは「翌日」のことです。
 この時、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか、とけんめいでした。ヨハネ11章には、「祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。」(ヨハネ11・57)と書かれています。神様から与えられた「いのち」に感謝する素晴らしい祝いの時に、イエス様のいのちを奪う計画が練られていたのです。そのような状況の中で、まるで一筋の光のように、このナルドの香油の出来事がおこったのです。
 
2 ベタニヤで
 
 マルコ14章3節には、この出来事が「ベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家」で起こったと書かれてあります。「べタニヤ」は、エルサレムから3キロほど離れた場所です。イエス様がエルサレムを訪れる時は、べタニヤの支援者のところに滞在されたようです。その度に人々が集まり共に食事をしていたのでしょう。
 「ツァラアト(重い皮膚病)に冒された人シモン」は、詳しくは分かりませんが、おそらくこの時点で病だったわけではなく、以前イエス様に癒され、自分の家にもどることができたようです。イエス様を招いて感謝の夕食会が開かれていたのでしょう。
 そして、同じ出来事が書かれているヨハネの福音書12章を読むと、この食卓にマルタ、マリヤ、ラザロたち兄弟姉妹がいたと記されています。このラザロは、イエス様によって死から蘇らされた人です。
 以前、ラザロが病気になり、イエス様の到着を待たずに死んでしまいました。しかし、イエス様は、マルタとマリヤに、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネ11・25)とおっしゃいました。そして、ラザロのからだが納められている墓の前に立ち、大声で叫ばれました。「ラザロよ。出てきなさい。」すると、ラザロが墓から出てきたのです。それは、イエス様が永遠のいのちを握っておられること、死さえも支配することのできるお方であることを示す大切な出来事となりました。
 その家族がシモンの家にいたのです。マルタは、晩餐の用意をし「給仕して」(ヨハネ12・2a)いました。ラザロは「イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じって」(ヨハネ12・2)いました。そして、「マリヤ」が、「ナルドの香油」を注いだ「ひとりの女」でした。
 
3 ナルドの香油を注いだマリヤ
 
 マリヤは、イエス様に近づいて、「純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注」ぎました。
 この「ナルドの香油」は、ヒマラヤ原産で、インドを通って運ばれた、大変高価なものでした。その香油の入った壺を割り、イエス様の頭に注いだのです。ヨハネの福音書では、300グラムとかいてあります。たっぷりですね。当然、家じゅうに香油の香りが広がりました。どんな反応がおこったでしょう。
 何人かの者が憤慨して言ったのです。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」きびしくマリヤを責めた人々の中心にいたのは、十二弟子の一人、後にイエス様を裏切る「イスカリオテのユダ」(ヨハネ12・4)でした。
 彼は言った「これを売れば、貧しい人を助けることができます。」という言葉は、一見、正論のようですが、実は違ったのです。ユダはイエス様一行の財布を預かる会計係をしていました。そして、彼はそのお金を使い込んでいたんです。「ナルドの香油を売れば、自分が使い込んだお金の補填できたかもしれないのに。」そんなユダから湧き上がった思いが、批判の言葉となって発せられたのです。批判的な言葉というのは、人から人へと伝染しやすいですね。この時も、ユダから発せられた批判が、弟子たちに広がり、マリヤを非難する雰囲気がその場に広がりました。
 しかし、それを断ち切るかのように、イエス様が口を開かれました。
 「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」イエス様は、そう言われたのです。
 
4 イエス様のことばから
 
 今日、私たちは。このイエス様のことばから、いくつかのことを学ぶことができます。
 
 ?「自分にできることを」
 
 マリヤがナルドの香油を注いだ時、イエス様は「この女は、自分にできることをしたのです。」と言われました。この時の、マリヤの行動は、誰かの真似をしたり、無理をしたものではありませんでした。マリヤは、イエス様に兄弟ラザロもを蘇らせてもらいました。本当にうれしかったでしょう。マリヤは、いつもイエス様のそばで、イエス様の語ることばに耳を傾けていました。イエス様の愛と恵みを体験することによって、きっとマリヤの内側から「自分にできること」が、湧き上がってきたのでしょう。イエス様はそれを「良いこと」と言われたのです。
 私たちも、「自分にできること」をイエス様におささげすればいいのです。みんながマリヤの真似をする必要はありません。特別に高価なものを献げる必要もありません。一人一人が、イエス様の愛と恵みに対して、自分にできることを通して、「イエス様、ありがとうございます」と、心からの感謝と賛美をあふれさせればいいのです。
 そして、この時、イエス様はマリヤの行動に対して「埋葬の用意にと、わたしのからだに前もって油を塗ってくれたのです。」言われました。マリヤはきっと驚いたでしょう。自分が埋葬の準備をしたなんて思っていなかったでしょう。目の前にイエス様は生きておられますから。でも、マリヤがイエス様に心からおささげした香油は、これからイエス様が成し遂げようとしておられる十字架のみわざを象徴的にあらわすものになりました。だからこそ、イエス様は、「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」と賞賛なさったのです。
 
 ?「人とは違う、イエス様の評価がある」
 
 マリヤは、イエス様に対する心からの感謝の思いを込めて香油を注ぎましたが、弟子たちは批判しました。イエス様は、マリヤの行動に対して、「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」と評価してくださいました。「りっぱな」は、「美しい」とも訳せることばです。
 私たちが、イエス様の為に何かを献げるとき、それが人の目に無駄に見えることがあります。例えば、私たちは、毎週こうやって、礼拝をささげていますが、「日曜日の午前中から礼拝して何になるのか。」そんな声があるかも知れません。また「献金して、いったい自分にどんなとくがあるのか。」「神様に祈ったからって、何か御利益があるのか。そんなの無駄だろう。」そう思われることもあるかもしれません。自分自身がそのように感じることもあるかもしれません。
 でも、イエス様の見方は違います。もし私たちが心から主にささげるなら、たとえ人の目に無駄だと見えることも、イエス様は「りっぱなこと」「美しいこと」と喜んでくださるのです。そして、そのことを通して、イエス様の素晴らしさを表してくださいます。
 
 ?「無駄をいとわない愛」
 
 マリヤがイエス様に「ナルドの香油」を注いだ時、人々は「なんのために香油をこんなに無駄にしたのか」といいました。「なんともったいない」ということです。確かに人間的に考えたらそうかもしれません。香油は、ほんの少し注いでもいい香りがするのに、一瓶まるまる注ぐなんて、非常識なことです。でも、私は、この聖書箇所を読むたびに、心に響いてくるのです。「こんな無駄なことを」「なんてもったいないことを」一番、それをしてくだったのは誰でしょうか、イエス様です。
 これまでマルコの福音書を読んできましたが、イエス様の姿には一見、無駄と見えることが沢山ありました。イエス様は、すぐにご自分から離れていってしまうような人々の為に、癒しをおこなわれました。お腹をすかせた五千人の人々にパンと魚を与えられた時には、みんなが満腹したのに、なお、十二のかごいっぱいになるほどパンが余りました。それほどのイエス様の恵みの豊かさをしめされました。また、イエス様は、たった一人のサマリヤの女と話をするために、わざわざユダヤ人が嫌っていたサマリヤ地方に足を運ばれたのです。たった一人の女性のためにです。当時の人々からすれば、イエス様の行動一つ一つが「何と無駄なことを」「なんて非常識な」そう思われたことでしょう。
 そして、イエス様は、私たちのために何をしてくだったでしょうか。イエス様に背をむけていた、イエス様を無視していきていた、私のために、身代わりとなって十字架で命を捧げてくださったのです。
 ローマ5章でパウロは、「キリストは不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5・6ー8)
 「私たちがまだ罪人であったとき」、つまり、ご自分を無視し、背を向け、逆らう人のために、イエス様は血を流し命をすててくださいました。ありえないことです。人の目には「無駄なこと」かもしれません。でも、イエス様の、無駄死にと思われた十字架の死が、すべての人々の罪を赦し、神様の愛を示す出来事となったのです。
 そもそも、父なる神様が私たちの為に、御子イエス様を与えてくださったこと自体、人の目から見たら大いなる無駄ですね。こんなもったいないことありません。でも、神様は、「あなたは、わたしの一人子のいのちを与えても惜しくないほどに大切な存在だ、あなたのためにイエスが十字架でいのちをさしだすことはけして無駄ではない。それほど、わたしはあなたを愛している」と語ってくださっているのです。
 ヨハネの手紙に、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子(イエス・キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4・10)と書いてあるとおり、無駄をいとわない愛を示してくださっているのです。
 そして、今、私たちにこの神様の愛が注がれています。「神様、ありがとうございます。イエス様、あなたを信じます」そう告白するだけで、この愛の中に生かされるのです。その恵みを感謝し、賛美をささげながら、この週も、ともに歩んでゆきましょう。