城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二二年六月一九日            豊村臨太郎牧師
           マルコの福音書一四章二二節〜二五節
                  
 マルコの福音書連続説教18
 「最後の晩餐」
 
 22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
23 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。
24 イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。
25 まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(新改訳聖書)
 
 おはようございます。マルコの福音書からイエス様の地上での最後の一週間の出来事をみています。今日はイエス様と弟子たちとの「最後の晩餐」です。イエス様は十字架につけられる前に弟子たちとともに最後の食事を取られました。「最後の晩餐」と聞くと、レオナルド・ダ・ビンチが描いた、イエス様と12人の弟子たちがテーブルについている画を思い浮かべるかもしれません。実際には当時のイスラエルではテーブルと椅子に座るのでなく、床に肘をついて半分寝そべったようなスタイルだったと言われています。またこの食事についての理解も、イエス様と弟子たちとの「お別れ会」のように考える人がいますがそうではありません。マルコ14章16節を見ると、この食事が「過越の食事」だったことが分かります。これは、イスラエルの人たちが毎年祝うユダヤ最大のまつり「過越の祭り」の時に食べる伝統的な食事でした。ユダヤ人は今でもこの祭りをお祝いし、家族や親戚で集まって食事をします。
 
<過越の祭り>
 
 「過越の祭り」のきっかけとなった出来事は、旧約聖書の出エジプト記に書かれています。今からおよそ三千四百年も前ですが、イスラエルはエジプトで過酷な奴隷生活を強いられていました。その民を救うために、神様はモーセという人物を選びました。「あなたはイスラエルをエジプトから導き出して、わたしが示す地に連れて行いきなさい」と命じられたのです。なんとモーセが80歳の時です。「私には無理です。」と、モーセは何度も何度も辞退するのですが、神様は「わたしがあなたといるから大丈夫だ。」と励ましてくださいました。そこでモーセはお兄さんのアロンとともにエジプトの王パロのもとに行き「民をエジプトから出してください」と直談判したのです。
 しかし、エジプトの王パロはイスラエルという大きな労働力を失うわけにはいきませんから、モーセの言葉に耳を傾けようとしません。それどころかもっと過酷な労働を課して苦しめたのです。そこで神様はエジプトに十の災いを次から次へとくだされました。「ナイル川の水が血に変わる」今で言えば赤潮のようなものですね。「かえるの災い」「ぶよの災い」「あぶの災い」と、まあ色々な災いがエジプトを襲ったのです。でも、パロの心は相変わらず頑ななままでした。
 ついに、最後の災いが下されることになりました。それは、エジプト全土の全ての初子が一晩のうちに死んでしまうと言う災いです。しかし、モーセはイスラエルの民にこう言いました。「主がエジプトのすべての初子を殺そうとなさっておられる。しかし、子羊を屠り、その血を家の鴨居と門柱に塗っておくなら、主はその血をご覧になって、その家を過ぎ越され、その家に災いが下ることがないようにする。」そこで、イスラエルの民は神様のことばの通りに子羊を屠り、その血を家の門柱と鴨居に塗りました。さあ、真夜中です。主はエジプトの全て、パロの初子から牢に捕らわれている捕虜の初子まで、また、家畜の初子まで打たれたのです。しかし、子羊の血が塗られていたイスラエルの人たちの家は無事だったのです。神様はその血を見て災いを過ぎ越されたというわけです。この災いの結果、パロはついに「もういい、出て行け」とイスラエルの民を解放しました。そして、イスラエルの民はエジプトから脱出し、神様に導かれながら約束の地に向かってゆくことになったのです。
 この出来事を記念して行われるのが「過越の祭り」です。そして、そのお祭の時にみんなで食べる食事が「過越の食事」だったわけですが、その時、テーブルに置かれた食事の内容は、当時の出来事を思い起こすためのものでした。
 
<過越の食事の内容>
 
 6つあったそうです。まず、@「子羊の肉」です。子羊を屠って、その血と鴨居と門柱に塗ったことで、神様が災いを下さずに通り過ぎてくださったことを思い起こすためです。A「ぶどう酒」は、子羊の血を連想させるものですし、ぶどうは神様の恵みと祝福を表すものでした。B「種をいれないパン」は、イースト菌の入っていない膨らまないパンです。エジプトから慌ただしく脱出したので、パンを発酵させる時間がなかったことを思い出すためでした。また、種なしパンは味気のないものですから、それをを食べることでエジプトでの苦難を思い出すためでもありました。C一鉢の「塩水」もありました。エジプトの奴隷生活の中で流した沢山の涙を象徴していました。また、神様が海を二つに割って助けてくださったことを覚えるためでもありました。D「苦菜」がありました。苦い野菜です。エジプトでの奴隷生活の苦しみを覚えるために食したのです。E「練り物」もありました。イスラエルの人々がエジプトで「煉瓦造り」をさせられたことを連想させるものです。これらが食卓に置かれ、家長がその意味を話しながら食事をし、昔、先祖たちが経験した救いを記念する、喜びの宴となっていったのです。それが過越の食事でした。
 ところで私たちが聖書(特に旧約聖書)を読むときに、是非知っていただきたいことがあります。それは、旧約聖書の出来事というのは、新約聖書で明らかにされる真理をあらかじめ象徴的に示していることがとても多いのです。つまり、子羊の血によって災いが過ぎ越され、エジプトの奴隷状態から救い出され、約束の地へ向かうことができるようになったという過越しの出来事は、新約聖書の世界から見るならば、私たちがイエス・キリストの十字架の血によって、本来、罪の奴隷のような人生だったのに、そこから解放されて天の御国に向かって旅をするようになるということを象徴的に示したものとして、聖書は「過越し」の出来事を記しているのです。ですから、イエス様の「最後の晩餐」は、「過越し」の出来事を記念するという意味から、これからイエス様がなされる「十字架による救いのみわざ」を記念する食事という風に、ここから意味が変わっていったのです。
 イエス様は「最後の晩餐」で、弟子たちに過越の出来事を語られたでしょう。でも、それだけはなく、今日のマルコの箇所を読むと、イエス様は「十字架の救い」を示す内容も語っておられます。イエス様が語られた三つのことから、今日は共に学んでいきましょう。
 
1 「取りなさい。これはわたしのからだです。」
 
 まず、イエス様はパンを祝福し裂いたあと、「取りなさい。これはわたしのからだです。」とおっしゃいました。「過越の食事」の時、家長がパンを祝福して配るのは普通のことでした。でも、イエス様はその時にパンを指して「これはわたしのからだです。」パンなのに「からだだ」とおっしゃったのです。
 そういえば、福音書の中でイエス様はご自分をパンにたとえることがありましたね。例えば、ある時、イエス様は「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ6・35)と言われました。別のところでは、「わたしは、天から下って来た生けるパンです。…わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたし
の肉です」(ヨハネ6・51)と言われました。ですから、弟子たちは、イエス様が「取って食べなさい。これはわたしのからだです」と言われたとき、イエス様の言葉を思い出したかも知れません。「最後の晩餐」の席で、イエス様はご自分をパンにたとえて、パンを割かれました。つまり、これから十字架でご自分のからだが裂かれるということを象徴するものでした。また、裂かれたパンを弟子たちに分け与えるというのは、「ひとりひとりにイエス様のいのちが与えられる。それを受け取ることの象徴でもあったのです。でも、ある方は、「ちょっとまってください。出エジプトの時は、子羊が屠られたのでしょ。それなら、パンじゃなくて、子羊の肉を配ればよりいいじゃないですか。なんで、味気ないパンなんですか。子羊の肉の方がいいじゃないですか。」そう思われるかもしれません。
 実は、当時の「過ぎ越しの食事」で、家長がパンを渡すときには、パンに羊の肉と苦菜を挟んで配るのが一般的だったそうです。つまり、イエス様がここでパンを配られましたが、パンというのは屠られた子羊も含む「過ぎ越しの食事」そのものを表していたのです。「過越の食事」の中心的な意味は、「初子の身代わりのために子羊が屠られて、神様のさばきから救われた」これがメインテーマです。そして、イエス様が、「このパンを取って食べなさい。」と言われたのは、「わたしがすべての人の身代わりとなって十字架で死ぬことによって神の裁きから救われるのだ。それを受け取りなさい。」つまり、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストのいのちを自分の物としてうけとりなさいということをイエス様はおっしゃるわけです。
 
2「これはわたしの契約の血です。」
 
 でも、イエス様はそれだけで終わりませんでした。さらに、こう言われました。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」(マタイ26・27-28)イエス様はわざわざ杯を手にして「これはわたしの契約の血だ」と言うのです。ある人は、「いや、さっき体をもらったでしょ。体の中には、肉も血も入ってるじゃないですか」そう思うかも知れません。でも、あえて、イエス様はここで「血」だけを手にして弟子たちにお与えになったのです。なぜでしょうか。それは、イエス様がなそうとされる「救いのみわざ」が、確かなものであるということを私たちに教えるためです。
 
 @血を流すことなしに、罪の赦しはない
 
 聖書のレビ記の中には「いのちとして贖いをするのは血である」(レビ17・11)と書かれています。また、ヘブル9章にも「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(ヘブル9・22)とあります。だから、旧約聖書の時代にはたくさん動物の血が流されて罪からのきよめの儀式が行われました。でも、動物の血はどんなに流されても、罪を完全に解決することはできません。だから、罪を犯すたび、何度も繰り返しささげる必要がありました。
 しかし、イエス様が十字架で流された血は、ただ一度で完全な罪のゆるしときよめを成し遂げることができる血です。イエス様はそれを示すためにパンだけではなくて、血の象徴であるぶどう酒の杯を手にして「さあ、飲みなさい。いのちの贖いをするのは血によるのだ。私が流す血によって、あなたがたの罪は完全に赦されるのだ」そう、はっきりとここでおっしゃるのです。
 
 A血による契約
 
 そして、もう一つの意味は、「これはわたしの契約の血です。」とイエス様はおっしゃいました。みなさん、どうですが「契約の血」なんて今の日本では馴染みがないですね。任侠映画に「血判状」とかでてきますけど普通つかわないですね。
 でも、旧約聖書の世界で「契約の血」は、ものすごく馴染みがあるものです。例えば、エジプトを脱出したイスラエルの民はシナイ山という場所につきました。神様はそこで「律法」をお与えになりました。その時、神様はこうおっしゃったのです。「この律法を守り行うならあなたがは祝福される。しかし、律法に違反したら呪われる」すると、民は「主の仰せられたことはみな行います」と口々に誓いました。そのとき、モーセが何をしたか。雄牛を屠って、その血の半分を祭壇に注ぎかけ、残りの半分を民に注ぎかけました。そして、こう言いました。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である」(出エジプト記24章8節)
 みなさん。どういう意味かわかりますか。雄牛を裂いて、血の半分を祭壇に、半分を民にそそぐというのは、「もし、神様が契約違反をしたら(そんなことはありえないのですが)、この牛が引き裂かれたようにされてもいい。でも、もし自分たちが契約違反をしたら、この牛が引き裂かれたように、私もそうなってもかまいません。」という契約のしるしだったのです。つまり、契約を破ったら受けなければならい忌まわしい罰を「契約の血」は思い起こさせるのです。
 しかし、みなさん。ご存じのように、イスラエルは神様との契約を守ることができずに、何度も何度も違反を繰り返し続けました。でも、それは、イスラエルだけでなく私たちも同じですね。みんな律法を100%守ることはできません。聖書全体をとおして、人が自分の力で神様との契約を守ることは不可能だと語られています。だから、私たちはみんな血を流さなければばならい、罰を受けなければならない存在だと聖書は教えているのです。
 しかし、イエス様がおっしゃった「これはわたしの契約の血です」というのは、ルカの福音書ではこう表現されているのです。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」つまり、「新しい契約」というのは、罪も違反も犯すことのなかったイエス様の方だけが血を流す、一方的な契約だというのです。契約の責任を私たちに負わせるのではなくて、イエス様お一人がすべて負ってくださるのです。すべての責任をイエス様がかぶるという契約なのです。
 みなさん、普通はそんな契約したいと思いませんよね。そんな不平等な、自分に不利な契約ごめんです。だから、イエス様って本当にすごいお方です。「わたしはあなたと契約を結ぶ、わたしが一方的に、本来あなたが流すべき血を流す。あなたが受けるべき罰を全部わたしが受ける。」イエス様を信じる私たちの側は、罪の責任が一切ないのです。まさに一方的な恵みの契約ですね。イエス様は「この杯から飲みなさい」と言われました。つまり、「わたしがあたえる新しい契約、一方的な恵みの契約を自分のものとして、ただで受け取りなさい」というメッセージなのです。
 
3「わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
 
 そして、三つ目にイエス様は言われました。「神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」これは、イエス様の十字架が間近に迫っていることを予告して言えることばでもありますが、実はそれだけはありません。大切なことが含まれています。
 
 @「過越の食事」はもう必要ない
 
 「ぶどうの実で造った物」は、「過越の食事」全体を指す表現です。つまり、イエス様が、「神の国で新しく飲むその日までは、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」と言われた意味は、「今まで、毎年毎年、この過越の食事をしてきたけれど、今日をもってこの食事は最後となった。もうこれから過越の食事はしない」と言うことです。だから、実際、今私たちは過越の食事をしていませんね。イエス様がしないとおっしゃったからです。イエス様の十字架による完全な罪の赦しと救いが成し遂げられたからです。もう、その象徴である過越の食事をする必要がないということなのです。
 
 A聖餐式
 
 でも、今私たちは「過越の食事」はしないけれども、していることがありますね。それは、「聖餐式」です。
 イスラエルの人たちが、「過越の食事」によっていつも神の救いを思い出したように、私たちは、「聖餐式」を通して、イエス様の十字架の救いを繰り返し繰り返し覚えるのです。ルカの福音書では、イエス様が「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい(行い続けなさい)」と言っておられます。つまり、この最後の晩餐は一回限りの出来事ではない、これからずっとこの食事をしなさいと言われたのです。だから、私たち教会は聖餐式を大切に行っているのです。
 パウロは、第一コリントでこう書いています。「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」(1コリント11・26)つまり、いつかはわからないけれども、イエス様が再び来られる日まで、この世の終わりまで、イエス様が十字架で裂いてくださった尊いからだをパンによって覚え、イエス様が一方的に流してくださった血をぶどう液を飲むことによって感謝して、その恵みを覚えて味わっていくのです。だから、イエス様と弟子たちとの「最後の晩餐」は、最後の「過越の食事」であるとともに、最初の「聖餐式」でもあったのです。
 
 B天の御国の宴がある
 
 また、イエス様は「神の国で新しく飲むその日までは…」とおっしゃいましたね。「それじゃ、天国にいったら、また過越の食事をするのか。」とも読むこともできますけど、そういう意味ではありません。天国でまっているのは、イエス様によって与えられた完全な救いを喜ぶ宴です。でも、みなさん、残念ながら、実際に食事をするのではなさそうです。パウロは、ローマ書で「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ14・17)といっています。だから、天国にいったらおそらく食事はしないでしょう。でも、もっとすばらしい喜びがあります。それは、「義と平和と聖霊による喜び」です。神様との親しい関係の中で、この人生にはいろんな不安や苦しみがあるけれども、それらが一切とりさられた完全な平和の中で、聖霊なる神様が味あわせてくださる完全な喜びの宴が待っているのです。どんな宴でしょうか。具体的にはわかりませんが、私たちこの世で味わう喜びや楽しみにも勝る、素晴らしい宴がまっていることは確かです。
 私たちはやがて、この地上での生涯を終える時がきます。でも、それで終わりではなく、天の御国でイエス様とともに喜びの中を生きることができるのです。そればかりか、今、この地上でも、信じる者の内に住んでくださる聖霊によって、また礼拝を通して、賛美の中で、天の御国の前味も味合わせていただいているのです。その恵みを感謝し、天の宴を待ち望みつつ、この週もともに歩んでゆきましょう。