城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二二年九月二五日            豊村臨太郎牧師
        マルコの福音書一四章五四節、六六〜七二節
                  
 マルコの福音書連続説教21
 「ペテロの否認」
 
54 ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まで入って行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていた。
 66 ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、
67 ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」
68 しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」と言って、出口のほうへと出て行った。
69 すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です」と言いだした。
70 しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」
71 しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。
72 するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。
 
 イエス様は、十字架にかけられる前夜にゲッセマネの園で捕らえられた後、いくつかの場所に連れていかれました。四つの福音書を総合して見ると、イエス様が十字架にかけられる前夜、ゲッセマネの園で捕らえられた後に六回の審問を受けられたことが分かります。
 @前大祭司アンナスによる審問
 A現職の大祭司カヤパによる審問
 Bユダヤ最高議会「サンヘドリン」による公式裁判
 この三回の審問は、いわばユダヤ人による宗教裁判でした。ここで有罪にすれば、ユダヤの宗教指導者たちはイエス様を「石打ち」にして殺すこともできました。しかし、それではすませたくなかったのです。彼らはイエス様を当時のローマ社会で最も残酷だった十字架刑にし、旧約聖書に「木にかけられたものは呪われる」とあるように、人々の前でイエス様を呪われた者としたかったのです。そのために、彼らはローマの国家権力へとイエス様を送りました。
 Cローマ総督ピラトの審問
 Dガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの審問
 E総督ピラトのもとで二度目の審問
 イエス様は真夜中に捕らえられてから明け方までのわずか数時間の間、文字通り引きずり回されたのです。
 前回の説教では、二つ目の「大祭司カヤパの審問」を見ましたが、この審問はいい加減な不正な裁判でした。ユダヤの宗教指導者たちは初めからイエス様を有罪と決めつけて、偽りの証言をする者たちを集め死刑に定めようとしたのです。
 しかし、偽証ですからどれも決定的な証拠にはなりませんでした。審問が進めば進ほど、偽証そのものが成り立たなくなり、イエス様が正しいお方、罪のないお方であることが証明されていったのです。
 カヤパによる審問の間、イエス様はずっと沈黙を守っておられたのですが、唯一口を開かれた時がありました。それは大祭司カヤパが「あなたは神の子キリストなのか」と質問したときです。イエス様ははっきりと「あなたが言うとおり、わたしは神の子、救い主です。」と宣言されました。イエス様は、ご自分が神と等しい存在であって、聖書が約束している救い主であることをはっきりと宣言されたのです。
 それを聞いた大祭司カヤパは激怒し「イエスは神を冒涜している。死刑に値する」と結論を出したのです。すると周囲にいた人々はイエス様につばをかけ、こぶしでなぐりつけ、平手打ちをし嘲りました。
 しかし、イエス様は一切抵抗なさいませんでした。そのイエス様のお姿は旧約聖書が示す「救い主」そのものでした。つまり、この不正な裁判が、イエス様こそ聖書で預言された救い主であることをはっきりと証しするものとなったのです。
 
1 ペテロの否認
 
 さて、このイエス様の審問の様子を大祭司の庭で見ていた人物がいました。弟子のペテロです。彼はイエス様が捕らえられたあと一度は逃げたものの、こっそり後をつけていたのです。そして、大祭司の庭にはいって、そこにいた役人たちと一緒に座って火にあたっていました。ヨハネの福音書には、「…ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。」(ヨハネ18・18)とあります。ペテロが立ったり、座ったり、落ち着きなく様子を伺っていたことがわかりますね。
 
 (1) 一度目の否認
 
 すると、ペテロのそばに一人の女中がやってきて、ペテロをじっと見つめてこう言ったのです。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」(マルコ14・67)
 突然の質問にペテロはドキッとしたでしょう。「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」(マルコ14・68)そういってペテロはその場を立って出口のほうへと出て行ったのです。
 
 (2) 二度目の否認
 
 でも、また女中がいいました。「この人はあの仲間です」(マルコ14・69)焦ったペテロはもう一度打ち消します。マタイの福音書にはペテロが「誓って、『そんな人は知らない』と言った。」(マタイ26・72)と、書いてあります。「イエスなんてしらない」と堂々と嘘をついたのです。
 
 (3) 三度目の否認
 
 でも、そう言ったペテロの言葉、ガリラヤなまりを聞いた人たちが言いました。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」(マルコ14・70)「お前もイエスと同じガリラヤ出身じゃないか。言葉で分かるぞ。」すると、ペテロは、今度は呪いをかけて誓って言いました。「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」(マルコ14・71)
 「のろいをかけて誓った」というのは、「イエスを知らないというのは真実だ。もしウソであれば呪われてもかまわない」と言い切ってしまう強い言葉です。つまり、イエス様との絶縁宣言です。もう後戻りができない強い言葉です。
 結局ペテロはイエス様を三回も否認しました。
 @最初は、「何を言っているのか、私にはわからない」
 A次には、「そんな人は知らない」
 B最後は、「知っていたら呪われてもいい。」
 だんだんと強い口調になっていったのです。
 
2 否認の理由
 
 なぜ、この時、ペテロはここまでイエス様を否認したのでしょうか。「自分も逮捕され、罰せられるのではないか」、そんな風に恐れていたのでしょうか。
 しかし、福音書全体を読むとわかるのですが、この時、弟子たちに対して逮捕の命令などは出ていませんでした。ユダヤ当局は、弟子たちなんて見向きもしてなったのです。捕らえるつもりはありませんでした。「とにかく、親分であるイエスさえ捕らえて抹殺すれば、子分である弟子たちは自然に消え去ってしまうだろう」そう思っていたでしょう。その証拠に、ゲッセマネの園でイエス様が逮捕されたとき、大勢の兵士がいましたが、弟子たちには目もくれませんでした。
 ですから、この時、女中やその場にいた人が「あなたもあのイエスと一緒にいましたね」と言ったぐらいで騒動が起こったり、ペテロが捕らえられることもなかったはずです。でもペテロは女中の些細なひと言や周囲の人の声にどんどん過剰反応して恐れたのです。
 おそらく、この時、彼の心には次のような思いがあったのでしょう。「なぜイエス様はあんなに簡単に捕らえられてしまったのですか。」「ローマを倒して、新しい国を打ち立てるのではなかったのですか」「一番弟子の自分も名誉と権力を得ることができるかもしれない。」そのようなイエス様に対する期待が崩れてしまったのだと思います。
 目の前であっさりイエス様が逮捕され、人々に馬鹿にされ、なすがままになっておられる様子をみて、ペテロの心を支えていたものが崩れてしまっていたでしょう。結果的に「イエスなんて知らない。自分とは関係ない」イエス様と絶縁宣言をしてしまったのです。
 
3 ペテロの気づき
 
 さて、イエス様を全否定したペテロですが、この後、自分の愚かさに気づかされ、自分に立ち返るきっかけが与えられます。それは「鶏の鳴き声」でした。
 
 (1) 鶏の鳴き声
 
 72節に、「するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。」(マルコ14・72)と書かれていますね。
 ペテロが、「イエス様なんてしらない。」と、三度目に否定した時に鶏が鳴いたのです。その時、ペテロはイエス様が以前おっしゃった「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」(マルコ14・72)ということばを思い出したのです。
 みなさん。鶏の鳴き声そのものは特別なものではありません。毎朝必ず鳴きます。当時の人々にとっては、時を知らせる時報のようなものです。でも、その鶏の声をきっかけに、ペテロはイエス様のことばを思いだしました。イエス様のことばが、絶縁宣言をしてしまったペテロの意識を、もう一度、イエス様の方へとむけたのです。
 ここで一つ注意して読んでいただきたいのは、マルコは「鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは…思い出した。」と書いています。つまり、一度目に鶏が鳴いた時には思い出さなかったけれど二度目の時には思い出したのです。なぜ、二度目の鳴き声を聞いたときに、ペテロはイエス様のことばを思い出したのでしょうか。
 その理由がルカの福音書には記されているのです。「ペテロは、『あなたの言うことは私にはわかりません』と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う』と言われた主のおことばを思い出した。」(ルカ22・60―62)
 ペテロがイエス様のことばを思いだしたきっかけは、イエス様が振り向いてペテロを見つめられたからです。「イエス様のまなざし」があったからです。ペテロを我に返らせたのは、「イエス様のまなざし」だったのです。
 
 (2) イエス様のまなざし
 
 この時、イエス様はご自分を否定したペテロを見つめられました。「お前、裏切ったな!」という叱責の目ではありませんでした。「ペテロ、やはり、わたしがいったとおりだったから」という失望落胆の目でもありません。悲しみの目でもありませんでした。なぜなら、イエス様は、以前ペテロのためにこう語っているからです。
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22章31ー32節)
 イエス様は、ペテロの弱さをご存じでした。逃げてしまうことも、裏切ってしまうことも、イエス様を否定することも、その全てを知っていてなお、ペテロの為にずっと祈っていてくださったのです。つまり、イエス様のまなざしは、愛と慈しみに満ちた祈りのまなざしだったのです
 
4 ペテロの涙
 
 イエス様のまなざしを受けたペテロは泣きました。号泣しました。「ああ、イエス様を否定するなんて、自分はなんて愚かなのだ。」「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」「たとい死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」「そう大見得を切っていたのに、なんて酷いことをしまったのだ。」ペテロは、自分の愚かさ、弱さ、惨めさに、打ちのめされて泣き崩れたのです。
 後悔したでしょう。負い目を感じて苦しんだでしょう。ペテロにとっては、自分ではどうすることもできないお手上げ状態です。自分からイエス様を絶縁したのですから、こちらからは何もできません。自分でイエス様から背を向けてしまったのですから。
 そして、ペテロの苦しみは、少なくともこの後、イエス様が十字架に掛かり復活されるまでの三日間、続くことになります。部屋に閉じこもって落ち込みの日々が続いたのです。イエス様の愛がわかればわかるほど、「自分はなんて愚かなんだ。こんな私を見つめてくれたけど、もうイエス様は来てくれないだろう。」
 でも、そんなペテロに復活されたイエス様の方からきてくださいました。イエス様は弟子たちの前に現れ、共に食事をし、ペテロに「あなたは私を愛しますか」と、三度問いかけてくださいました。ペテロがイエス様を否定した回数と同じ回数です。そして、「わたしに従いなさい」と、イエス様の方からペテロを招き、絶縁宣言してしまったペテロとの関係を回復してくださったのです。復活されたイエス様によって、ペテロはもう一度立ち上がっていくのです。
 
 今、私たちもペテロと同じように、イエス様に背を向けてしまうような弱さがあります。自ら神様に背を向けて絶縁宣言してしまうような時があるかもしれません。イエス様の愛のまなざしを感じても、それゆえに自分の愚かさや、自分の罪に涙してしまうような時があるかも知れません。ペテロと同じように泣くしかできない、自分ではお手上げ、それが人間の姿です。
 でも、そんな私たちを、イエス様は「愛のまなざし」で見つめてくださっています。聖書の約束の中には、イエス様の私たちへのまなざしがこう書かれています。
 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43・4)
 そして、イエス様は、私たちを見つめるだけでなく、そのまなざしにすら背を向けてしまう私たちの罪の為に十字架に掛かり、復活してくださいました。そして、イエス様の方から私たちのところに来て「私を愛しますか」「わたし従いなさい」と声をかけ招いてくださっているのです。なんという恵みでしょうか。
 そして、その愛と恵みにとどまり続けることができるように、そこから私たちがけして離れることがないように、イエス様が私たちのためにとりなし祈ってくださっているのです。
 ローマ8章でパウロはこう言っています。
 死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが…私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。…私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、…そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8・34-39)
 私たちを主キリスト・イエスにある神の愛から、引き離すものは、何もないのです。
 今日は、讃美歌486番「ああ主のひとみ」を賛美しましたが、この歌詞は、今日の聖書の箇所から井置利男さんという牧師が書いたものです。
 実は、以前私がライフ・ラインの番組制作していた2012年に、井置先生を取材し讃美歌が生まれる経緯も直接お聞きしました。
 井置先生は、太平洋戦争の最中、海軍飛行予科練生に入隊し、その後、特攻要員として敗戦を経験された方です。終戦後、人生の意味と希望を見失う中で、生き甲斐を失っていた時、イエス様に出会い洗礼をうけました。でもクリスチャンになった後も、先生は悩まれたそうです。「イエス様を信じているのに、イエス様に従っていきたいと思っているのに従うことができない。」頑なな自分、そんなご自分にふがいなさを感じて落ち込んでいたそうです。
 洗礼を受けて一年ほどたったある日のことでした。夜の祈り会に出席するために、家を出てとぼとぼと重い足取りで教会への坂道を上っていきました。丁度、夕方で、あたりは真っ赤な夕日に包まれていました。遠くにある工場から「カーン、カーン」鉄を打つ音が響いてきました。その時、井置さんの心に聖書のことばが浮かんできたのです。
 「主はふりむいてペテロをみつめたもう」(ルカ22章61節)
 その聖書のことばとともに、「ああ、イエス様のまなざしが、自分にもそそがれていのだ。」井置先生はそう感じました。
 そして、「井置よ、もう自分を責め立てることはやめろ、そのお前の罪の全部をこの私が代わって負っているのだから、お前は赦されている者として生きなさい」そう呼びかけてくださるイエス様のお心を、その眼差しの中に見ることができたのです。
 「ああ、イエス様の十字架で、自分は赦されているんだ。愛されているんだ。」急いで教会に行き机に座って書き記しました。『ああ主のひとみ、まなざしよ。三たびわが主を否みたる、弱きペテロをかえりみて、赦すは誰ぞ、主ならずや』そして、この賛美歌が生まれました。
 ペテロに向けられたイエス様の愛のまなざしは、今、私たち一人一人にも向けられています。たとえどんな失敗をしても、挫折感の中にあっても。罪責感や恐れの中にあっても、イエス様が、「大丈夫。わたしがあなたの罪を十字架で背負い贖った。そして、復活し、今もあなたとともにいる。だから、わたしと生きていこう」そう呼びかけてくださっているのです。
 そのことを覚えながらこの讃美歌を歌い、この週もイエス様の愛と恵みに感謝し歩んでいきましょう。