城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二二年一一月二〇日           豊村臨太郎牧師
マルコの福音書一五章四二〜一六章二〇節(抜粋)
       
                  
 マルコの福音書連続説教24(最終回)
 「福音は全世界へ」
 
 42 すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、43 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。…46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。
 1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。2 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。3 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。5 それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」8 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
 9 〔さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現された。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。10 マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた。11 ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。
 14 しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現れて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、18 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
 19 主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。20 そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
 
 マルコの福音書からイエス様の生涯を学んできました。今日が最終回です。前回、私たちはイエス・キリストの十字架の箇所を読みました。今日は、イエス様の葬りと復活です。
 
1 イエス・キリストの葬り
 
 十字架で死なれたイエス様は、その後、葬られました。「亡くなられたのだから、葬られるのはあたり前じゃないか」と思われるかもしれませんが、イエス様が葬られたという事実を確認することはとても大切なことです。なぜなら「葬り」は、その人が確かに「死んだ」ことの証明だからです。イエス様は十字架で気絶していたわけでも、一時的な仮死状態だったわけでもありません。十字架で死なれローマ兵によって死が確認され葬られました。そして、三日目に死を打ち破って蘇ってくださったのです。
 
 (1) アリマタヤのヨセフ
 
 イエス様の葬りは、アリマタヤのヨセフとういうユダヤの議員によっておこなわれました。マタイの福音書によると、彼は「金持ちで…イエスの弟子になっていた」人(マタイ27・57)です。ルカの福音書には「ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった」(ルカ23・50ー51)とありますから、彼がユダヤの最高議会の議員、イエス様を亡き者としようとしていたサンヘドリンの議員の一人で、彼自身はイエス殺害計画には同意していなかった人でした。しかし、彼はユダヤ人たちを恐れていたので、自分がイエス様の弟子であることを隠していた人でもありました。そんな彼がローマ総督ピラトのところにいって「どうか、イエスを葬らせてください」と願い出たのです。
 また、ヨハネの福音書によると、この埋葬の時にニコデモという人物が一緒に埋葬したと書いてあります。
 「ニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やってきた」(ヨハネ19・39)
 彼もユダヤの指導者の一人で、以前、夜にこっそりとイエス様のもとに訪れたことのある人でした。
 きっと、ヨセフもニコデモもイエス様の十字架を影からこっそり見ていて、本当に心に訴えかけられるものがあったのでしょう。彼らは、十字架の後にイエス様の遺体を引き取って手厚く埋葬しました。
 
 (2) 特別な葬り
 
 イエス様の葬りは特別なものでした。マルコ15章46節には、「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。」(マルコ15・46)と書いてあります。
 このような手厚い埋葬は、十字架刑を受けた人にとってはめずらしいものでした。普通、十字架刑で死んだ者たちは囚人用の共同墓地に葬られるか、野ざらしで放っておかれたからです。
 
 (3) 封印、見張り
 
 また、イエス様の墓はしっかりと封印されて、ローマ兵による見張りが立てられました。イエス様が亡くなって埋葬されたのは金曜の夕方でしたが、ユダヤの指導者たちはすぐにピラトのもとに行ってこう願い出たのです。
 「ピラト総督。イエスは、『自分は三日の後によみがえる』と言っていたのを思い出しました。ですから墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の場合より、もっとひどいことになります。」
 それを聞いたピラトは、おそらく「めんどうなことを言う奴らだ」と思いながらも、「早くこの出来事に終止符をうちたい」とも思ったのでしょう。「番兵を出してやるから、できるだけの番をさせるがよい」と答えました。そして、墓の入り口の石を封印しローマ兵に番をさせたのです。
 イエス様のお墓は、そのように特別に封印され厳重に管理されたのです。しかし、イエス様は三日目の朝、その墓を打ち破って復活されたのです。マルコは次のように記しています。
 
2 イエス・キリストの復活
 
「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。」(マルコ16・1ー2)
 
 (1) 三人の女性たち
 
 イエス様が葬られたのは金曜日、安息日の前日でした。安息日には、ユダヤの律法では遺体に触れることはできません。ですから、翌日、日曜の朝に三人の女性(マグダラのマリヤ、ヤコブの母、サロメ)が墓に向かいました。
 彼女たちは「ああ、イエス様が亡くなってしまった」と、悲しみにくれていました。それでも、「せめてお体に油と香料を塗りたい」そう思って、朝早く墓に向かったのです。
 でも、先ほど言ったように墓は封印され、厳重に警備されていたのです。勝手にあけて、イエス様の体に塗るなんて難しかったでしょう。入り口の大きな石は女性だけでは動かせません。
「早くいってイエス様に油と香料を塗りたい」「入り口の大きな石をどうしよう。ローマ兵に頼んだらあけてもえるかしら」そんな風に話しながら墓に向かい、朝日が昇るころに到着しました。すると、どうでしょう。封されているはずの大きな石がころがされて墓の入り口があいていました。
 女性たちが不思議に思いつつも墓の中に入ると、真っ白な長い衣をまとった青年が座っていました。神様の御使いでした。その人がこう言ったのです。
「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(マルコ16・6)
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」(ルカ24・5、6)「イエス様は復活し、生きておられるのです!」という知らせです。
 御使いは続けてこうも言いました。
「行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あながたより先にガリラヤへいかれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい」(マルコ16・7)
 それを聞いた女性たちは恐ろしくなって墓を飛び出してしまいました。突然のことで気が動転してしまったのです。でも、マタイの福音書を読むとこう書いてあります。
 「彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。」(マタイ28・8)
 「イエス様がよみがえられた!主は今生きておられる」その知らせは悲しみの中にいた彼女たちに大きな喜びをもたらしました。びっくりして気が動転して恐れましたけれども、それ以上の喜びが彼女たちに与えられたのです。彼女たちはイエス様の復活を弟子たちに伝えにいきました。
 
 (2) 弟子たちの反応
 
 弟子たちは部屋にとじこもって悲しんでいました。ユダヤ人たちを恐れていました。家に閉じこもり失望と恐れの中にいた彼らに、女性たちやってきて言いました。「聞いて下さい。イエス様の墓にいったけれども、おからだがなかったのです。御使いがいて、イエス様はここにはおられません。よみがえられたといいました。主は生きておられます。」それを聞いた弟子たちは「いったい何をいっているのだ。イエス様がよみがえられたなんて。」誰も信じることができませんでした。しかし、そんな彼らの真ん中に、復活されたイエス様が、現れてくださったのです。
 
 (3) イエス様の現れ
 
 「イエスは、その十一人が食卓についているところに現れて
彼ら不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。」(マルコ16・14)
 ここでイエス様が「彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった」と書いてありますけれども、これはけして「お前たち何をやっているのだ、しょうがない人たちだ」というような叱責のことばではありません。イエス様は、弟子たちの弱さをよくご存じでした。でも、それを責めたのではなく、悲しみや恐れ失望の中で「復活を聞いて、その事実に心を閉ざしている」状態に対して、そのままでいてほしくない、心を開いて信じて欲しいというイエス様の思いが込められたことばでした。
 その証拠にルカの福音書では、イエス様がご自分の手と足、十字架の傷が残る手と足を差し出されて「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。」(ルカ24・39)とおっしゃっています。イエス様の方から、恐れと不安の中に閉じこもって復活を信じる事のできない弟子たちに手を差し伸べ、ご自分が確かによみがえられたことを示してくださったのです。
 弟子たちにも大きな喜びが訪れました。イエス様の復活が、「主は今生きておられる」という事実が、恐れと悲しみ失望の中にいた弟子たちに大きな喜びを与えたのです。まさしく、「よろこびの知らせ」「福音」が訪れたのです。
 
3 福音は全世界へ
 
 そして、復活されたイエス様は弟子たちにこうおっしゃいました。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16・15)
 この「福音」の内容、「良い知らせ」とは何でしょうか。弟子たちはこの後、何を伝えていったでしょうか。それは、「イエス・キリストがよみがえられた」という事実です。「キリストは、今も、生きておられる」というメッセージです。
 そして、その「福音」を、「復活されたイエス様」を「信じる者には次のようなしるしが伴」うと、イエス様は語られました。「すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16・17ー18)
 ここにはいくつかのしるしが書いてありますけれども、その内容を見ると、この後の弟子たちの働きの記録である「使徒の働き」で、実際にこうしたことが起こったと書かれています。 そして、この「しるし」は「イエス様が、復活して、今も生きておられる」という「福音」の働きを表すものとして出てくるのです。
 
 (1) 束縛からの解放
 
 一つめは、「福音」は私たちをさまざまな束縛から解放します。「わたしの名によって悪霊を追い出し」とありますが、聖書の中で「悪霊」は、私たちの心に疑いをもたせ、私たちを神様の愛から離そうとする存在です。そして、私たちを神様以外のもので束縛しようとする力です。でも、「主が今生きておられる」から、私たちはイエス様の御名によって、そのような一切の束縛から解放されます。
 
 (2) 神様への賛美と祈り
 
 二つ目は、「新しいことばを語る」とありますが、私たちの口に神様への賛美、神様への祈りのことばが与えられます。考えてみれば、イエス様を信じるまで私たちは神様を賛美するなんて知らない者でした、どのように祈っていいかわかりませでした。でも、「主が今生きておられる」から、そんな私たちの口に「新しいことば」、つまり、主への賛美と祈りのことばが与えられます。
 
 (3) 神様の守り
 
 三つ目は、「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず」とありますが、もちろん、今、私たちは蛇にかまれたらすぐに医者に行く必要がありますし、毒を飲んだら解毒剤が必要です。でも、この言葉が象徴的に表しているのは、色んな危険や困難があったとしても「主が、今生きておられるから」その中で、さまざまな神様の守りがあるということです。
 
 (4) イエスの御名による癒しと回復
 
 そして、最後、「病人に手を置けば病人はいやされる」とあるように、「主が、今生きておられるから」、イエス様の御名によって祈る時、癒しと回復が与えられます。もちろん、「癒し」は神様の主権の中にあります。神様は私たちの最善をなしてくださる方で、どのような時に、どのような方法で癒されるかは神様がご存じです。だから、私たちは神様の癒やしと回復を期待しながら、イエス様の御名によって祈ることができます。
 「主が、今生きておられる」という「福音」は、このような豊かな働きを伴って力強く広がっていくのです。
 ですから、弟子たちは福音を「出て行って、至る所で(福音を)宣べ伝え」(マルコ16・20)ました。そして、主は、「みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」(マルコ16・20)のです。つまり、聖書の中でイエス様がお語りになったすべての約束の確かさが復活の事実によってもたらされたのです。
 だから、今、私たちは聖書を読んで励まされるし、主が今も生きておられるからこそ、イエス様の約束された一つ一つのことばが確かなものだと知ることができるのです。
 イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11・28)と言われました。なぜこのことばが信じられるのですか、「主が、今生きておられる」からです。
 イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11・25)と言われました。どうして、その言葉を信じられるのですか。「主が、今生きておられる」からです。
 イエス様は「わたしはあなたがたをすてて孤児にはしない」「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28・20)と言われました。なぜですか、「主が、今生きておられる」からです。
 だから「福音」は、これまで全世界に広がりをもってきましたし、今、私たちも届けられ、私たちはその中に生かされ、今日、こうやって礼拝をささげているのです。
 そして、「全世界にとどけられた福音」を、今、私たちが味わっているのだから、福音は広がっていくものですから、私たちもその福音を分かち合う一人一人とされているのです。私たちが一生懸命に生きているから、何か努力したから、それによって「福音」が広がるのではなく、「イエス様は今、生きておられる」という事実があるから「福音」それ自体が広がっていく性質をもっているのです。
 だから「福音」は私やあなただけにとどまらず、私たちを通して、他の人にも広がっていくのです。たとえ目に見える教会は大きくないかもしれないけれど、この広がりは福音がかたられるところには必ずもたらされます。なぜなら「主は今も生きておられる」からです。
 マルコの福音書は「イエス・キリストの福音のはじめ」ということばでスタートしました。そして、「福音は全世界へ」届けられ、これからも広がっていきます。私たちにとっての「全世界」それは家族かもしれない、お隣の人かもしれません。私たちがおかれている、それぞれの場が「全世界」です。「主は今いきておられる」という事実が、私たちを通して広がっていく、そのことを期待しつつ、イエス様と共に歩む幸いをこれからも味わっていきましょう。