城山キリスト教会夕拝説教
二〇二三年二月五日          豊村臨太郎牧師
聖書人物シリーズ16「アブラハム8−イサクの誕生−」
創世記二一章一節〜七節
 
 1 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。
2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。
5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。
6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」
 
 「信仰の父」と呼ばれているアブラハム生涯から学んでいます。アブラハムはけして完璧な人だったわけでも、失敗がなかったわけではありません。生涯において、いつも神様の約束を信じ切ることができていたかというと、そうではありませんでした。神様を疑うことがありました。自分の考えだけに頼ってしまうこともありました。そんな彼の姿を聖書は赤裸々に記録しています。
 前回は、そんなアブラハムに神様が「契約の再確認」として三つの出来事をお話しました。
 一つは「改名」でした。神様が「アブラハム」という新しい名前を与えてくださって、「わたしが約束した通り、あなたは多くの国民の父となる。祝福の源となる。」と、彼に語ってくださいました。
 二つ目は、「割礼」でした。神様の民として、神様の愛に応答し、その守りの中に生きていくことの「しるし」としてアブラハムは「割礼」を受けたのです。
 三つ目は、神様が見える姿で現れてくださいました。「来年の今頃…妻サラに男の子ができている。」そうのようにはっきりと約束してくださったのです。
 
1 イサクの誕生
 
 そして、一年後についに約束の子が生まれました。アブラハムが最初に神様の約束を聞いてから25年後のことです。アブラハムは100歳、サラは90歳でした。神様は二人に男の子を与えてくださったのです。
 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。(創21・1−2)
 
 (1)「約束されたとおり」
 
 アブラハムもサラも、神様のことばに信頼することができないときがありましたし、自分たちの考えで失敗したこともありました。でも、「主は、約束されたとおりになさってくださったのです。」
 アブラハムが真実だったら、彼が熱心だったから、特別に頑張ったからではなくて、ただ真実な神様の約束によって、イサクは生まれたのです。
 この理解は、私たちの信仰生活にとっても、大切なことでですね。私たちは時々、自分の弱さや不真実さやを感じることがあるかもしれません。「神様、あなたを信じます」と告白しながらも、神様を疑ってしまうことがあります。「神様、あなたを賛美します」と言いながら、不平不満ばかりが口からでてしまうことがあります。そういった点でわたしたちは「不誠実」な存在といえます。そんな自分に落ち込んでしまうこともあります。
 でも、聖書は、私たちの状態にかかわらず、真実な神様の愛と恵みが注がれていると約束しています。そして、その約束は、神様の真実さが土台となっています。
 新約聖書の第二テモテ2章に「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(2テモテ2・13)とあります。神様が真実なお方で、ご自分を否むことができないお方だから、聖書の約束は確かなのです。「あなたがどんな状態でも、わたしはあなたを愛している」という聖書のメッセージは、たとえ私たちにがどんな状態でも、自分に弱さがあっても、神様を疑ってしまうようなことがあったとしても、変わることがないのです。だから、私たちは何度でも神様に立ち返って、聖書にことばを信頼していきていけばいいのです。
 
 (2)「神が言われたその時期に」
 
 また、イサクの誕生は、「神がアブラハムに言われたその時期に」実現しました。真実で約束を守ってくださる神様は、神様の時期とご計画を持っておられるということがわかります。神様の時期があって、その時がくれば、神様のご計画が起こるのです。
 最近、ローマ人への手紙を読んでいたのですが、この手紙はパウロが第三回伝道旅行でコリントにいた時に書かれたものです。パウロはずっとローマにいきたと願っていました。ローマには多くのクリスチャンたちがいました。また、「すべての道はローマに通じる」と言われていたように、ローマにいけばそこから世界中に福音が広がっていく、そう考えたのでしょう。神様がパウロにそのような思いを与えてくださったのだと思います。また、後にイエス様も彼に「あなたはローマへいく」と語ってくださいました。
 ローマ人への手紙の最後では、パウロが「いよいよあなたたちの所にいきます。だた、その前に、一旦エルサレムへいってマケドニアの教会の献金を届けてから、ローマにいくから」と、語っています。
 実際はどうなったでしょうか。パウロが思っていたようにはいかなかったのです。エルサレムで暴動がおきました。パウロは捕らえられてしまいます。彼はローマ市民権をもっていましたから、ローマ皇帝に上訴してカイザリヤに輸送されました。二年待たされて、やっと船でローマに向かうのですが、嵐に遭いました。船は難波し命の危険を通り抜け、やっとローマにたどり着きました。でも、囚人としてです。そこでパウロはある程度の自由を与えながら、自費でかりた家で訪れる人に福音を宣べ伝えたのです。
 パウロのローマへの道のりは、パウロが当初考えていた計画や時とは違いました。でも、神様の不思議なご計画と時期に、確かにパウロはローマへと導かれたのです。
 旧約聖書の伝道者の書にはこうあります。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝3・11)
 神様はいろいろな出来事を起こされます。時に試練や苦しみかもしれません。なぜ、こんなことをと思うこともあります。でも、すべては神様の御手の中にあると、聖書は励ましています。
 イザヤ書55章にはこのように書いてあります。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。ー主の御告げ。ー天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55・8−9)
 また、エレミヤ書には、神様のご計画は私たちに将来と希望を与えるものだとも約束されています。
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。−−【主】の御告げ−−それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29・11)
 
2 アブラハムとサラの応答
 
 さて、子どもが与えられたアブラハムとサラはうれしかったでしょう。アブラハムは、以前神様が言われた通り、子どもに「イサク」と名付けました。そして、神様の祝福をこの子が受け継ぐ「しるし」として割礼を施しました。
 サラはどうだったでしょうか。彼女は「笑顔」に包まれました。イサクを抱いてこう言ったのです。
「『神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。』また彼女は言った。『だれがアブラハムに、「サラが子どもに乳を飲ませる」と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。』」(創21・6ー7)
 ほほえましいことばですね。ここには、三つの「笑い」があります。
 
 (1)神様の祝福の笑い
 
 ここでサラは、「神様が私を笑われた」といっています。以前、神様から「あなたは来年の今頃、男の子を産む」と聞いた時、サラは「そんなことあるわけないじゃないですか」と、あきれて笑いました。でも、一年後、今度は逆に神様がサラに「わたしがいったとおりになったでしょう」と微笑みかけてくださっているのです。
 
 (2)人々の祝福の笑い
 
 また、サラは「聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」と言っていますね。周囲の人々の喜びの笑顔です。神様の恵みを受けたサラを、周囲の人々も笑顔で祝福したのです。
 
 (3)サラの笑い
 
 そして、サラ自身も笑っています。こう書いてありますね。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」(創21・7)
 ここからサラの笑顔が想像できます。サラは、もう諦めていた約束の成就に、最終的には笑顔で応答することができたのです。ただ神様の恵み、真実さのゆえの「笑顔」です。
 
3 「イサク」と「イエス・キリスト」
 
 今日は「イサクの誕生」の箇所を読みました。「イサクの誕生」は、真実な神様が約束してくださって、何度も「再確認」されて、長い時間をかけて成就しました。人間の力ではなくて、神様の恵みと奇蹟によって成就しました。
 その点で、「イサクの誕生」は「イエス様の誕生」と重なります。イエス様も、旧約聖書で何度も約束され、神様が言われた時期に、この地上にきてくださいました。聖霊によって、処女マリヤを通して、神様の奇蹟の力によってお生まれになりました。
 そして、イエス様を信じ、聖霊によって新しく生まれた、私たちクリスチャンにも通じます。ヨハネ1章11節12節には、「この方(イエス様)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1・11−12)と書いてあります。今、私たちがイエス様を信じているのは、聖霊なる神様によって、神様の子とされているとうことです。
 そして、神様はそんな私たちを喜んでくださっているのです。イエス様を信じて救われた私たちの新しい誕生を、笑顔で「良く生まれたね。わたしはあなたを喜んでいる。愛しているよ」と語りかけ、満面の笑みで喜んでくださっているのです。
 その神様の喜びを微笑みのまなざしを感じながら生きる時、私たちにも喜びの笑顔が与えられますね。そして、その喜びは、サラが「聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」と言ったように、私たちの周囲の人々にも広がっていくと信じます。私たちの存在を、笑顔を持って喜んでくださっている、そのお方の愛に生かされている恵みを味わいつつ、この週も歩んでまいりましょう。