城山キリスト教会夕拝説教
二〇二三年二月二六日 豊村臨太郎牧師
聖書人物シリーズ17「アブラハム9−主の山に備えあり−」
創世記二二章一節〜一四節
1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。
2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。
6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。
しばらくアブラハムの生涯から学んできましたけれども、今日が最後です。
今日の出来事は、「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた」ということばから始まります。どんな「試練」かというと、「あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。…全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創22・1)という試練です。
「全焼のいけにえ」というのは、全部を焼いて煙にすることですが、それが象徴しているのは、「神様に全てをささげる」ということです。つまり、アブラハムが経験したこの試練は、「あなたはすべてを神様の前に差し出すことができるのか?」というものでした。
アブラハムはイサクを心底愛していましたが、その子を自分のものとして握りしめるのではなく、手放して神様におまかせすることができるか、神様を第一とすることができるのかという試練だったのです。今日は、この出来事をご一緒にみていきましょう。
1 神様の呼びかけを聞いたアブラハム
創世記22章1節には、神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。(創22・1)と書いてあります。
これまで、アブラハムの生涯を見てきましたけれども、神様は彼の歩みの節目節目で、彼の名前を呼び、語りかけ、人生を導いてくださいました。同じように聖書の神様は、私たちの名前を個人的に呼びかけて、人生を導いてくださるお方です。神様の方から私たちに呼びかけてくださるお方です。私たちが初めて聖書の神様しり、イエス様を知ったときもそうです。また、イエス様を信じて歩む人生の中でもそうです。
個人的に聖書を読むとき、礼拝でメッセージを聞くとき、不思議ですけれども、聖書のことばが心に響いてくることがありますね。まるで自分に語りかけられているように、励まされ、一歩踏み出すことができる。そんな経験もします。
私たちは聖書を読み、礼拝で説教を聞くことを通して、神様の愛と恵みを知り、また、時には神様は、父がその子を訓練するように教え諭してくださいます。
だから、アブラハムがこの時、神様の語り語りかけに対して「はい。ここにおります」と答えたように、私たちも「わたしはここにいます。神様はおかたりください。」そんな思いをもってみことばを聞くことがでたら素晴らしいですね。
2 神様のことばを思い巡らしたアブラハム
この時、神様はアブラハムに語ってくださったのですが、その内容はショッキングなものでした。「息子を全焼のいけにえとして献げなさい」という内容です。愛する息子、待って、待って与えられたイサクを献げなさいという命令です。
これまで、アブラハムの歩みを振り返ると、彼は神様から「私の示す地に行きなさい」と言われたとき、すぐにその言葉にしたがいました。また、満天の星空の中で、「あなたの子孫をこのようにする」と言われたときも、「アブラハムは彼を信じました。」神様のことばを単純に信じて、素直に応答しました。そのような単純な「信仰の姿」を学ぶことができます。
同時に、この時のアブラハムは、神様のみことばを聞いた時、「なぜだろうか?」と思い巡らしたようです。なぜなら、「イサクをささげないさい」と言われた神様は、これまで確かに「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。イサクを通して人々が祝福される」(創21・17)と、はっきりと約束されたていたからです。
また、普通、「いけにえ」としてささげられるのは動物です。決して、人が「いけにえ」となることはありません。当時、異教の「モレクの神」というのがありましたが、そこでは幼児を犠牲にするという忌まわしい儀式がありました。だから、神様の命令をきいたアブラハムはきっと混乱したことでしょう。「なぜ神様は息子をささげよとおっしゃるのだろう?」
創世記では、アブラハムの行動は淡々としるされていますが、新約聖書のヘブル書11章17節には、もう少し詳しく書かれているのです。
「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。」(ヘブル11・17−19)
つまり、アブラハムは、このように考えたことが分かります。
「神様は『イサクをいけにえとして献げよ』とおっしゃった。」
「でも、これまで確かに神様は『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる』と言われた。この約束は変わらないはずだ。」
「そして、神様は人にいのちを与えるお方だから、死者の中からよみがえらせることもできるお方だ。ということは、イサクをきっとよみがえらせてくださる。」
アブラハムは、これまで自分に神様が語られた約束を思い出しました。そして、神様がどのようなお方であるのかを思い巡らしました。そして、神様は約束を守ってくださる真実なお方だから、このお方におまかせしようと思ったのです。
このアブラハムの信仰の姿は、私たちにとっても大切なことですね。私たちは、ときどき聖書の一箇所だけを読んで、「これはどういうことだろうか?」と思うようなときもありますね。その時に大切なのは、聖書全体を通して神様が何をいっているのかということです。
聖書には、神様がどのようなお方であるのか、神様が私たちに約束してくださっていることが、書かれています。その中心は「神様の愛」です。神様が私たちをどれほど愛してくださっているのかが書かれています。その愛を土台としながら、聖書全体を読むことが大切です。
自分だけだと分からないこともあります。そんな時は、牧師に聞いて下さい。そのために牧師がいますから、また聖書をバランス良く理解するために助けになる書物もあります。
繰り返しになりますが、もちろん聖書のことばを単純に読み、そのメッセージを受け取って行動していくことが大切ですけれども、同時に聖書全体から神様のみ思いを知っていくことも大切です。
アブラハムは、神様が彼の人生の中で、神様が語ってくださったことばを思い巡らしました。そして、神様は真実なお方、神様はいのちを与えるお方、そして、最善をなしてくださるお方だと信じ、勇気をもって行動したのです。
3 神様に従ったアブラハム
彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。(創世記22・3)
アブラハムは神様が語られたことばの通り行動したのです。もちろん勇気が必要だったでしょう。でも、最善をなしてくださる神様に信頼して、勇気を持ってモリヤの山に向かったのです。
道中、イサクが言いました。「父さん、火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」「大丈夫、神様が用意してくださるから」アブラハムはどんな気持ちだったでしょう。二人は足をすすめます。その歩みは、愛する息子イサクを自分の手に握りしめるのではなく、それを手放しすべてを神様におゆだねるする一歩一歩でした。
モリヤの山についたアブラハムとイサク。アブラハムは石で祭壇を築き、そのうえにたきぎをならべました。そして、イサクを縄でしばったのです。この時点でイサクは気づいたでしょう。「ああ、そうか自分がささげられるのだ。」でも、彼は抵抗しませんでした。アブラハムに身を任せ祭壇の上に寝かされました。
目を閉じるイサク、刃物を振り上げたアブラハム…。その瞬間です。主の御使いの声が聞こえたのです。
「アブラハム。あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創22・12)
アブラハムが目を上げると、一頭の雄羊がやぶにひっかかっていました。神様ご自身が「いけにえの雄羊」をそなえてくださったのです。彼はその雄羊をつかまえて、全焼のいけにえとして、神様にささげたのです。
最初にいったように、この出来事は神様がアブラハムに与えられた「試練」でした。「神様に全てをゆだね、神様を第一にしていきていく」という試練です。この試練を通った、その先で、アブラハムは「すべてを備えたもう神様」を経験しました。 そして、アブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけました。「主の山の上には備えがある」という意味です。本当に苦しい試練でしたが、神様を信頼し、神様のことばに従った、この経験が「主がすべてを備えてくださる」という恵みにつながっていったのです。
今日は、アブラハムの試練の出来事を読みましたけれども、今、神様は、私たちに「全焼のいけにえをするために子どもをほふりなさい」とは決しておっしゃいません。聖書全体を読むとき、子どもは自分の所有物でなく、神様から託された大切な存在として、愛をもって育てるようにと教えられています。
また、神様は、礼拝の度に動物をささげよとも決して言われません。聖書は、イエス様があの十字架でたった一度の完全ないけにえとなってくださったと教えているからです。
この出来事を通して心に留めたいことは、私たちも、私たちを愛し最善を成してくださる父なる神様に、私たちの存在のすべてをおまかせすることができるということです。勇気をもって、「主よ、あなたは私を愛してくださっています。良いお方です。あなたに私の人生をおささげします。おまかせします。」そう告白しながら、与えられた自分の人生を生きていくとき、神様は恵みをもって「すべてを備えてくださる」のです。
イエス様も、父なる神様についてこのようにおっしゃいました。「あなたがたも、自分の子がパンを下さいというのに、だれが石をあたえるでしょう。子が、魚を下さいというのに、だれが、蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもによい物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないはずがありましょう。」(マタイ7・9−11)
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6・33)
神様は、聖書を通していつも語りかけてくださっています。その神様のことばに信頼して、私たちのすべてをおゆだねしていきましょう。「主の山に備えあり」と告白したアブラハムのように、「主が全てを備えてくださる」という恵みの中を歩ませていただきましょう。そのお方にすべてをおゆだねしつつ、この週も歩んでまいりましょう。