城山キリスト教会夕拝説教
二〇二三年三月一九日          豊村臨太郎牧師
聖書人物シリーズ19「サマリヤの女」
ヨハネ四章三節〜二五節
 
3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。
7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」−−ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである−−
10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」
19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
 
 新約聖書には、イエス・キリストと出会って人生が変えられた人が沢山登場します。今日は、その中から「サマリヤの女」と呼ばれる女性をとりあげます。
 今日の箇所で、サマリヤの女性とイエス様は会話をされるのですが、実は、ここは、今、わたしたちがどんな場所でも、自由に神様を礼拝することができる、その原点となった聖書の箇所でもあります。今日はそのことをともに考えていきましょう。
 
1 サマリヤを通って
 
 福音書を読むと、イエス様の活動はガリラヤ地方で開始されましたが、時々、エルサレムがあるユダヤ地方にも足を運ばれたことがわかります。
 あるとき、イエス様はユダヤからガリラヤに戻られる途中、サマリヤを通られました。ユダヤからガリラヤに行くには、まっすぐに北上してサマリヤを通るのが一番の近道でした。でも、当時のユダヤ人たちは、わざわざ一度、東に向かってヨルダン川を渡り、ぐるっと迂回してからガリラヤへ入るルートを選びました。それは、ユダヤ人とサマリヤ人は対立し、特にユダヤ人はサマリヤ人を嫌って、「あの土地に足を踏み入れるなどもってのほかだ」と考えていたのでからです。その理由は、イスラエルの長い歴史にあります。
 イスラエルはダビデ王とその息子ソロモン王のあと、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいました。北イスラエルの首都がサマリヤです。
 北イスラエルは、紀元前721年にアッシリア帝国によって滅ぼされました。アッシリアは、そこに住む人たちの大部分をアッシリアにつれていきました。代わりに他民族を連れてきて移住させたのです。その結果、北イスラエルの人たちは混血の民となりました。また、いろんな国の偶像も入り込んできたのです。
 一方、南ユダも、紀元前586年にバビロニア帝国に滅ぼされ捕囚の民となりました。しかし、南ユダの人々は捕囚の地で、ユダヤ民族としての純血を守ったのです。そして、捕囚の後、エルサレムに戻って神殿を再建したのです。ですから、ユダヤ人は、「自分たち純血を守った。正しい礼拝の場所で主なる神様を礼拝している」と自負していました。そして、サマリヤ人に対しては、「彼らは汚れた偶像の民だ」と、忌み嫌うようになったのです。
 そのような背景の中で、ユダヤ人とサマリヤ人は交流を持つことはなかったのです。でも、イエス様は違いました。この時、何の躊躇もなくサマリヤを通られたのです。ヨハネ4章3節と4節には、「サマリヤを通っていかなければならなかった」と書いてありますが、なぜ、イエス様がそうなさったのか詳しい理由は書かれてないのでわかりません。
 でも、一つ言えることは、イエス様というお方は、何の偏見も差別もいっさいお持ちにならなかったということです。私たち人間は、個人のレベルでも国のレベルでも、どうしても乗り越える事の出来ない壁を作ってしまうことがあります。仲良くしたくても出来ない、受け入れたくても受け入れることができない。そういう弱さが人にはあります。でも、イエス様は、どんな場所にも、どんな人のところにも何の偏見も持たず、区別せず、等しく足を運んでくださるお方です。
 この時、サマリヤの地には、憎しみと争いがありました。でも、イエス様はそこにあえて入っていかれて、人生に渇きを覚えていた一人の女性と出会われたのです。ある意味で、その女性と出会うためにサマリヤを通られたと理解することもできます。
 
2 井戸のほとりで
 
 サマリヤに入られたイエス様はスカルという町の近くにこられました。そこには、イスラエルの先祖ヤコブが掘ったとされる「ヤコブの井戸」と呼ばれる井戸がありました。直径は2.3メートル、深さは23メートルもあった深い井戸だったそうです。
 旅で疲れていたのでしょう。イエス様は井戸のかたわらに腰を下ろして休憩されました。ユダヤの時刻の第六時、今で言えば正午、お昼十二時頃のことです。するとそこへ一人の女性が水をくみにやってきました。普通、水を汲むのは涼しい早朝か夕方の仕事です。でも、この女性はわざわざ人が来ない、暑い昼間にこっそり水を汲みにやってきたのです。
 イエス様が声をかけられました。
「わたしに水を飲ませてください」(ヨハネ4・7)
 彼女はびっくりしました。
「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」(ヨハネ4・9)
 当時、こんな風に男性が女性に声をかけることはタブーでした。ユダヤ人がサマリヤ人に親しく声をかけるなどありません。まして、同じ器で水を飲むなど絶対にないことです。
 でも、イエス様は続けて声をかけられました。
「もしあなたが、わたしが誰であるかを知っていたなら、あなたはわたしに求めたことでしょう。そして、わたしのほうからあなたに生ける水を与えたことでしょう。」(ヨハネ4・10)
 彼女は思ったでしょう。「この人はいったい何をいっているのだろう」そして、イエス様に言いました。「あなたは水を汲む道具すらもってないじゃないですか、どこから生ける水(湧き水)を手に入れるのですか。先祖ヤコブでさえ、この井戸を苦労してほったのですよ。あなたはヤコブより自分の方が優れているとでもいうのですか。」
 イエス様に対して、反発するような気持ちがわいてきたのでしょう。
 でも、そんな彼女に、イエス様はさらにこう言われました。
「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4・13−14)
 今、聖書を読んでいる私たちはイエス様のことばの意図を知ることができます。この時、イエス様が言われた「わたしが与える水」は、人の心の渇きを潤す水で、神様が与えてくださる「永遠のいのち」を意味しています。
 でも、この時の彼女はその意味がわかりませんでした。
「そんな水があったらいいですよね。暑い中、私がもうここまでくみに来なくてもよいように、そんな水があるなら私にも下さいよ。湧き水のでどころをしっているなら教えてください」
 冗談とも皮肉ともとれることばを返したのです。さっさと会話をきりあげて水を汲んで帰ろう、そう思ったのかもしれません。
 ここまでイエス様と彼女との会話は全然かみ合っていません。彼女のイエス様への感情は、無関心、あきれ、反発のようなものでした。
 でも、つぎのイエス様の一言で、彼女とイエス様の会話の流れがガラッとかわることになります。
 
3 問題の核心へ
 
 イエス様はおっしゃいました。
 「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(ヨハネ4・16)
 このことばは彼女の胸に刺さりました。この時、抱えていた問題の核心をつくことばだったからです。
 ヨハネ4章17節〜18節にはこう書かれています。
 女は答えて言った。『私には夫はありません。』
 イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことは本当です。』(ヨハネ4・17-18)
 この女性の問題は、ここに書いてあるように「夫が5人いたが、今、一緒にいるのは夫ではない」という現実でした。何度も結婚と離婚を繰り返したようです。なぜ今の男性とは結婚せずに同棲しているのか、理由は書かれていません。でも、おそらく彼女は周囲の人々から「ふしだら女だ」「関わらない方がいい」と思われていたでしょう。だから、わざわざ人目を避けて暑い時間に水を汲まなければいけませんでした。孤独だったでしょう。心の渇きを感じていたはずです。ひょっとしたら、もう渇いているのが当たり前で、自分の心の渇きにすら気づいていなかったかもしれません。イエス様は、そんな彼女のことをすべてご存じで、問題の核心を、渇きの元となっている根本を指摘されたのです。
 イエス様というお方は、全地全能の神なるお方です。人のすべてをご存じです。私たちの過去も、全ての歩みも、私たちが抱えている問題も、自分ですら気づいていない渇きさえもご存じです。
 詩篇139篇にはこう書かれています。
 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。(詩篇139・1-3)
 また新約聖書のヨハネ第一の手紙にもこう書かれています
 神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。(1ヨハネ3・20)
 神様が何もかもご存じときくと、なんだか見張られているような、窮屈な気持ちになるかもしれません。でも、けしてそうではありません。愛なる神様、私たちを造り、私たちの最善をおこなってくださる、主なる神様がわたしを知ってくだっさっているのです。イエス様は私たちをご存じです。そして、サマリヤの女性に語られたように、私たちにも語りかけてくださいます。
 時々、こんな経験がありますね。例えば、一週間の歩みを終えて礼拝に来た時、そこで読まれた聖書のことばが、今の自分の状況にぴったりだったこと。また牧師が語る説教が、まるで自分自身に語り変えられていると感じで時が、私にもあります。神様が私たちを知ってくださっているからです。
 
4 解決を求めて
 
 サマリヤの女性は、自分のことを言い当てたイエス様を前にして最初は焦ったと思います。同時に「この人は私のことを言い当てた。ただものではない。」畏敬の念のようなものを感じたはずです。
 そして、彼女はずっと自分の心のうちにあった、一つの疑問を投げかけるのです。
 「先生。あなたは預言者だと思います。 私たちの父祖たち(サマリヤ人)はこの山で礼拝しましたが、あなたがた(ユダヤ人)は、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」(ヨハネ4・20)この彼女の問いは、「どこで礼拝したらいいのですか?」という質問です。
 彼女は「自分が今、抱えている問題の解決が礼拝にあるのではないか」と感じていたようです。
 彼女はサマリヤ人として生まれ育ちましたから、礼拝の大切さを当然教えられていました。荒れた生活「ふしだらな女」と思われるような生活を送っていましたし、何人もの男性とすごすなかで、神様に背を向けているという罪も感じていたでしょう。礼拝することで心の渇きが満たされたい問題が解決されたいとも願っていたでしょう。でも、この時、自分の知っている礼拝には解決がなかったのです。
 「この山」は「ゲリジム山」のことです。当時、サマリヤ人はゲリジム山に神殿を作って礼拝していました。ユダヤ人はゲリジム山の礼拝を認めませんでした。「エルサレムこそ神様が選ばれた場所で、この神殿こそが正統的な神殿だ」と自負していました。でも、エルサレム神殿の礼拝が正しいものだったかというと残念ながらそうではありませんでした。神殿では不当な商売がなされ、形式ばかりの心が伴わない礼拝となっていました。
 だから、彼女は「いったいどこが本当の礼拝なのか、どこに解決があるのだろう」と疑問をもっていたのです。そして、イエス様と出会ったときに、自分の問題をいい当てた方に「どこで礼拝すればいいですか。教えて下さい。」と尋ねたのです。
 
5 真の礼拝とは
 
 そんな彼女にイエス様はこう答えてくださったのです。
 「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。…神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4・21−24)
 イエス様のことばを要約するとこうです。
 「特定の場所に限定されず、どこにおいても礼拝できる時が来ます。今がその時です。霊とまことによる礼拝こそ、神様が求めておられる礼拝なのです」
 
 ここでイエス様がおっしゃった「霊による礼拝」とういうのは、神様は霊であるお方、目に見えないお方あるから、その神様を礼拝する「礼拝」は、目に見える場所にしばられることがない礼拝ということです。つまり、ゲリジム山であろうが、エルサレムであろうが、どこであっても特定の場所や方法にしばられずに献げることができる礼拝です。
 「まことによる礼拝」とはなんでしょう。「まこと」ということばの反対は「見せかけ」や「偽り」ということばです。当時、エルサレム神殿でおこなわれていた礼拝はいろんな儀式にしばられて神殿は商売の場所になりさがっていました。まさに「みせかけの礼拝」「偽りの礼拝」だったのです。つまり、「まことの礼拝」というのは、「真実なこころで」「まごころから」献げる礼拝のことです。
 イエス様はマタイの福音書でこう言われました。
 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22・37)主を愛するといのは、主を礼拝することと同じです。
 ですから、「霊とまことによる礼拝」というのは、どこであっても場所は関係ない、いけにえも必要ない、「神様あなたを礼拝します。あなたを賛美します。」そう心ををこめて神様を礼拝する、それが神様が求めておられる真の礼拝なのだとイエス様はおっしゃったのです。
 イエス様のことばを聞いて、彼女は「どういうことだろう」と思ったと思います。だって、これまで礼拝は「こころ」だけでは駄目だったからです。神殿に行かないといけなかった。いけにえも必要だった。特別な銀貨をささげなければならなかったからです。目に見える様々なことが礼拝には求められていたからです。
 でも、この時イエス様は「神様は目に見えない霊なるお方だから、目に見えるものはいっさい必要ない。心をこめて、私たちの霊をもって主を礼拝すればそれでいい」とおっしゃったのです。
 
6 今がその時
 
 そして、イエス様は「そのような新しい礼拝の時代がきたのです。」「今がその時です。」と言われました。なぜなら、救い主であるイエス様が来られたからです。救い主イエス様が来られて共にいてくださるから、私たちは、どこにおいても神様を礼拝することができるのです。
 だから、イエス様は、最後に、サマリヤ女性が、「私は、キリストと呼ばれる救い主が来られることを知っています。救い主がこられたらすべてのことを教えてくださるときいてます。」と言ったとき、「わたしがそれです」「このわたしが救い主」ですと宣言してくださったのです。
 このとき彼女はわかったはずです。「ああそうか、救い主がきてくださったから、もうこちら側でなにかする必要はない。」「私の目の前に、救いを与えてくださるお方がいるのだから、それだけでよいのだ」それがわかったとき、彼女の渇いていた心は潤され喜びで満たされたのです。
 彼女はせっかく水を汲みにきたのに水がめをおいて、いそいで町にもどっていきました。わざわざ人目を避けていたのに、今度は自分から人々のところに行っていいました。「みなさん。きいてください。わたしのことを言い当てた人がいるのです。この方は救い主に違いありません。ぜひ、この方にあってください」喜びに満たされてイエス様のことを知らせに行ったのです。サマリヤの女性は、イエス様と出会い、新しい礼拝をしり、心の渇きが潤され、人生が変えられたのです。
 
 私は、今日、「サマリヤの女」の箇所を読みながら、あらためて、私たちが今こうやって礼拝をささげているのはすごいことだなと感じました。救い主イエス様は目にはみえませんけれども確かにここにいてくださいます。私たちがどこにいても、エルレムでも日本でも、この会堂でもインターネットを通してでも、自由に礼拝をささげることができる。神様はそれを喜んでくだっています。すごいことです。
 イエス様は私たちに一人一人にも語っておられます。
 「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4章13節)
 このイエス様を礼拝する毎週の礼拝の中に、主の慰めがあり、励ましを受け、癒やしが与えられることを心から願っています。私自身これまでクリスチャン生活をおくるなかで、礼拝を通して沢山の慰めや励ましをうけてきました。時には一週間毎晩残業続きでくたくたで礼拝にいくので精一杯、そんな時もありました。でも、不思議に礼拝の中で神様と愛と恵みを受け取ることができるそんな経験があります。
 今も、説教かたらせていただきながら、神様に教えられはげまされています。ですから、どんな形であっても、皆さんと共にささげる礼拝を主が喜んでくださっていると確信していますし、さらに礼拝の恵みを深く味わうことができたらと願っています。「霊とまことをもって献げる礼拝がきました。今がその時です」といわれた救い主なるイエス様が、今もいきておられるから、救い主を礼拝する中に救いがある、満たしがある、癒やしがある、そのことを覚えてあゆんでいきましょう。