城山キリスト教会夕拝説教
二〇二三年三月一二日          豊村臨太郎牧師
聖書人物シリーズ「ニコデモ」
ヨハネ三章一節〜一五節
 
 1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
 
 新約聖書の中にはイエス様と出会った人が沢山登場します。今日は、その中から「ニコデモ」という人を取り上げます。
 
<ニコデモの訪問>
 
 この人がどんな人だったかというと、彼はユダヤ教の中で厳格な「パリサイ派」というグループに属していました。パリサイ派の人たちは、旧約聖書の律法や、細かい規則を、熱心に実行しようとしていた人たちです。「自分たちは普通の人たちよりも、宗教的に高いレベルの生活を送っている」そんな風に自負していました。
 当時、パリサイ人にとってイエス様の行動や教えは、彼らが大切にしていた掟を無視するものでした。例えば、イエス様は、安息日に病気の人をいやしたり、律法を守ることができない人々と飲み食いしたりしていました。だから、パリサイ人たちは「イエスは、神を冒涜している」と敵対するようになっていったのです。
 しかし、そんな中でもニコデモは、イエス様の人格や教えに興味を持つようになっていたようです。また、ニコデモは、「ユダヤの指導者」だったと書いてありますが、これはユダヤ最高議会「サンヘドリン」のメンバーのことです。サンヘドリンは70人の議員によって構成されていて、宗教だけでなくて、裁判や政治、教育などにも影響力をもっていました。今の日本の国会議員よりも力を持つ存在だったのです。
 ニコデモは裕福でもあったようです。ヨハネ19章には、イエス様の埋葬のときに「高価な没薬とアロエをもってきた」と書かれていますから、彼がお金持ちだったことがわかります。 
つまり、彼は地位や名誉、知識や権力といった人々が求めるあらゆるものを持っていました。人生の成功者と呼べる人だったわけです。そんな彼が、ある夜にイエス様の所にこっそり目立たないようにやってきました。どうしても聞きたいことがあったからです。
 
<ニコデモとイエス様の対話>
 
 イエス様のところにやってきた、ニコデモは最初にこう言いました。
 
「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(ヨハネ3・2)
 
 「イエス様あなたは素晴らしいお方です。」と、持ち上げたのです。ニコデモは、これまでイエス様について色々な噂をきいていたので、それに対する賞賛のコメントをいったのですね。イエス様はニコデモにこういわれました。
 
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3・3)
 
 実は、このイエス様のことばの中にニコデモが抱えていた問題がわかってきます。それは、「どうしたら神の国を見ることができるのか」ということでした。言い換えるなら、「どうすれば神様に受け入れてもらえるか」ということです。
 先ほど紹介したように、ニコデモは聖書の専門家です。人々に神様のことを教え、指導する立場です。でも、自分でもわからなかったのです。どんなに聖書を学んでも、努力して掟を守っても、「これでいいんだ」という確信をもてていなかったのです。「自分は、どうしたら神様の前に正しい者とされるのか」「どからきて、どこへいくのか」「このいのちが終わったら、いったい自分はどうなるのだろうか」次から次へと心に疑問がわいて、平安をうしなっていたのです。
 イエス様は、そんなニコデモの心をご存じで、彼の悩みの答えをズバリ、言われたのです。「あなたが求めている『神の国』それを見るためには、新しく生まれなければいけません」とおっしゃったのです。しかし、イエス様の言葉を聞いたニコデモは意味がさっぱりわかりませんでした。イエス様にこう言います。
 「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」つまり、「もう一度、生まれ変わって人生をやりなせということですか。そんなのできるわけないじゃないですか。イエス様のおっしゃることが理解できなかったのです。
 この時、イエス様が言われた「新しく生まれる」という言葉は、実は聖書が教える「救いとは何か」を教えることばなのです。
 イエス様が言われた「新しく」という言葉は、「上(神)から」と訳すことができます。つまり、「救い」というのは、人が下から頑張って頑張って上り詰める救いではなくて、上におられるお方、神様から「新しいいのち」があたえられることです。すると問題はどうしたら、「神様によって新しいいのちがあたえられるのか」ということですね。イエス様は続けて言われました。
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」
 
「水によって生まれる」
 
 イエス様は「水と御霊によって生まれなければならない」と言われましたが、この時、ニコデモが「水」と聞いて、すぐに思い浮かんだものがあったと思います。それは、当時、ユダヤ人たちが行っていた「水のきよめの儀式」です。彼らは、いつも「罪」「汚れ」をあらいきよめるために水で、自分たちの体をきよめていました。また、水を浴びることは、悔い改めを意味していました。悔い改めとは、神様に背を向けた生き方を反省して神様の方に向きを変えることです。ですから、イエス様が「水によって生まれなければ、神の国に入ることができない」と言われたのは、「悔い改めて罪をきよめなければ、神の国に入ることはできない」ということです。でも、人は、自分の力で罪、汚れを解決できません。ニコデモもよく分かっていたからこそ悩んでいたのです。
 
「御霊によって生まれる」
 
 だから、イエス様は「御霊によって生まれなければならない」と言われました。つまり、人が本当に悔い改め、清められ、新しくされるには、聖霊なる神様の働きが必要なのだということです。聖霊なる神様が、私たちの罪を自覚させ、救い主イエス様を示し、そのお方を信じる事ができるように助けてくださるのです。聖霊の働きなしには「新しく生まれることはできない」のです。そして、イエス様は、その聖霊について8節でこうもいわれています。
 
「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3・8)
 
 「風」は「聖霊」と同じことばです。風は直接見ることは出来ません。でも、木や葉っぱがゆれ、雲が動き、肌で風を感じることで、風が吹いていることを知ることができます。私たちは、いつ風が吹いて、どこから来て、どこへ行くのかは誰も知りません。風はその思いのままに吹くわけです。
 イエス様は、聖霊なる神様の働きも同じようなものだ、と言われました。私たちは、聖霊なる神様をこの目で見ることが出来ません。でも、聖霊が私たちの人生に豊かに働いてくださっている結果を体験することはできます。私たちがイエス様を信じたこともそうです。以前はイエス様を全く知らなかったのに、今は、こうしてイエス様を礼拝しています。聖霊によるからです。聖書を読むとき、それがまるで自分に語りかけているかのように感じることもあります。聖霊の風が吹いているからです。ちょうど風が吹くと木々が揺れるように、聖霊の働きの中で、私たちは、心に慰めや神様の愛を感じることができます。
 時々「神様は私には何もなさっていないのではないだろうか」と考えてしまうことがあるかもしれません。でも、聖霊は、風のように、いつもご自分の思いのままに自由に働かれておられて、どのように働かれるかを決めるのは私たちではなく、聖霊です。私たちが想像する以上の豊かな風を吹かせてくださるのです。だから、私たちの内に住んでくださる聖霊に、「聖霊なる神様、どうかご自由にお働きください」と祈りながら、歩んでいきたいと思います。
 
<青銅の蛇の話>
 
 さて、ここまでイエス様のことばを聞いたニコデモはどんな反応をしたでしょうか。彼はこう言いました。
 
「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」(ヨハネ3・9)
 
 やっぱり、イエス様のことばの意味が分かりませんでした。すると、イエス様はそんなニコデモが理解できるように、聖書から有名な話をされました。民数記21章の「青銅の蛇」の出来事です。
 昔、イスラエル民族をエジプトから率いたモーセが、イスラエルの民を連れてエジプトから脱出し荒野にいたときのことです。毒蛇が沢山あらわされて、沢山の人がかまれて亡くなりました。毒に苦しんでいる人も大勢いました。
 その時、神様がモーセに、民を救うための一つの方法を示されました。「青銅で蛇を作り、旗ざおの上につけなさい。そして、『すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる』と民に告げなさい。」モーセは、神様が言われた通り、青銅で蛇を作って旗ざおにつけて掲げました。「この蛇を仰ぎ見る者は救われます!」と叫んだのです。蛇にかまれて苦しんでいた人々がその青銅の蛇を見上げると、毒が消えていのちが助かったのです。
 どうして助かったのか理解できない出来事でした。でも、神様が教えてくださった救いの方法の通り、蛇を見上げた人は救われたのです。この話は旧約聖書の専門家であるニコデモは当然知っていたので、イエス様は、この出来事を引用してニコデモに言われたのです。
 
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(ヨハネ3・14-15)
 
 ここでイエス様が言われた「人の子」というのは、「救い主」のことです。イエス様はご自分が、神様が約束された救い主だと言われました。そして、「青銅の蛇」が旗竿の上に付けられて上げられたように、救い主は木に掲げなければならないと言われたのです。それは、イエス様が全ての人間の罪を背負って、十字架につけられることを指しています。「青銅の蛇」を見上げた人が生きたように、十字架に付けられたイエス様を仰ぎ見る人、ただイエス様を信じる人は、みな罪赦されて、「永遠のいのち」が与えられる。つまり、神様によって「新しく生まれることができる」というメッセージなのです。
 これは、とても大切なメッセージです。みなさん、なんでイエス様を信じるだけで、十字架を信じるだけで、罪許され、救われるのでしょう。説明せよといわれてもむずかしいですね。でも、神様がそう聖書で約束してくださっているのです。パウロは、エペソ2章8節でこう言っています。
 
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」
 
 だから、たとえ理解できなくても、十字架を見上げるなら、イエス様を心にお迎えするなら、どんな人も新しく生まれることができます。永遠のいのちがあたえられます。それは、聖霊なる神様の働きによるのです。私たちには、何の努力も必要ありません。私たちがすべきこと、それはただ十字架にかかられたイエス様を見上げるだけです。後は聖霊なる神様がしてくださいます。ヨハネ1章12節、13節にこう書かれている通りです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
 イエス様と対話したニコデモが、この後どうなったのか。3章では、はっきりイエス様を信じたとは書いてありません。でも、7章を読むと、彼がイエス様を罪に定めようとする議員たちの中で、慎重な態度をとるようにと抗議しています。また、19章では、十字架で死なれたイエス様を人々の前で手厚く葬っています。それらの箇所から、ニコデモがイエス様を救い主として信じたことを、私たちは知ることができます。
 私たちも、ただイエス様を信じるだけで、聖霊なる神様によって、新しくされています。神の国(神様の愛のご支配の中に)に入れていただいています。もちろん、クリスチャンとして生きる中でも、失敗したりつまずいたりもします。見た目は何も変わらないかもしれません。でも、神様の目から見たら、私たちは根本から新しくされています。そして、神の子として、神様の愛と恵みの中に生かされているのです。
 最後に聖書を一箇所読んでお祈りします。
 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。(2コリント5・17−18)