城山キリスト教会 夕拝メッセージ    
二〇二二年六月一二日            豊村臨太郎牧師
聖書人物シリーズ2「アダムA」創世記三章二一節
 
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(創世記3・21)
 
 みなさん、こんばんは。先週から新しいスタイルでの夕拝が始まりました。メッセージは、聖書に登場する人物を紹介しています。先週と今週で、神様に最初に造られた人「アダム」を紹介しています。
 
 @アダム、は「神様の配慮の中で」造られました。神様は、世界のすべてを創造し、人が生きるために必要なすべてのものを整えてくださったあと、アダムを造られたのです。そこに神様の配慮を知ることができます。
 
 Aアダムは、「土の塵から」造られました。人は弱い存在、そして、いつか土にかえる存在です。同時に聖書は、人の弱さの中に神様のすばらしさをあらわしてくださると約束しています。
 
 B さらに、アダムは神様から「いのちの息」を吹き込まれました。それは、人が神様と人格的にかかわることのできる存在であるこということです。神様を愛し、祈り、礼拝することのできる存在として造られたのです。
 そして、アダムから命を受け継いでいる、私たち一人一人もまた神様の配慮によって生まれてきたということです、また、人としていろんな弱さをもっていますが、その弱さの中にイエス様が生きてくださると聖書は約束しています。そして、私たちは、神様に祈り、賛美し、礼拝することができる者として、生かされているこということです。
 
 それが、前回お話したことですが、さて、今日はそんなアダムが残念ながら、神様に背を向けてしまったというお話です。でも、アダムを神様がなお愛してくださったということをお話します。人が過ちを犯したとしても、あきらめることのない神様の愛があるというメッセージです。
 
 今日の聖書を一箇所読みます。
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(創世記3・21)
 
1 神に背いたアダム
 
 先ほど、アダムが過ちを犯した、神様に背を向けたといいましが、具体的に何をしたのか。それは、神様との約束を破って、「善悪の知識の木を食べた。」ということです。神様がこの世界とアダムを造られた時、大切な約束をされました。
 
 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。(創世記2・9)
 
 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2・16-17)
 
 これは、人が神様と生きる上でのたった一つの約束でした。例えば、私たちも誰か友人と2人だけの約束をするとき、その約束は二人の絆を深めますよね。お互いの親密さを表すものになります。神様は人を愛し信頼し、親しい愛の関係の中で生きようとしてくださいました。でも、その後、どうなったかでしょうか。3章を読むと蛇がきてアダムを誘惑しました。
 聖書では、サタン(悪魔)が蛇の姿で登場します。サタンは、人を誘惑し、神様と人との麗しい関係を破壊し、人を神様から引き離して滅ぼしてしまおうとする存在です。
 
1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
 
 この時、蛇は神様に対して疑いを持たせました。愛と恵み豊かな神様を意地悪で窮屈な神だといざなっていきました。そして、女も男も木の実を食べてしまったのです。神様との関係が壊れてしまったのです。
 自分の失敗談をお話しますが、以前、本当に信頼しあう人がいた。その人との間に「これは守ってほしい」という約束があったのです。でも、ある時、自分の至らなさのために約束を破ってしまいました。取返しのつかないことをしてしまったのです。その人に謝罪しました。その人は謝罪を受け入れてくれたのですが、でも、私にこうも言ったのです。「赦すけれども、一度、失ってしまった信頼は元通りにはならない。そのことは理解してほしい。」
 約束を破ることは双方の関係を壊してしまうものです。この時のアダムが神様とのたった一つの約束を破ったことで、神様との関係は壊れてしまったのです。その結果、人との関係にも影響が及びました。アダムはエバのせいにしました。「蛇が、この女が…」自分を正当化したのです。神様との関係が壊れ、そして、その結果、人との関係も壊れてしまったのです。
 聖書は、それ「罪」と呼んでいます。アダムから命を受けついでいる、私たち人間はみんな生まれながらに、この「罪」があると聖書は教えています。どんなにかわいい赤ん坊でも、どんなにいい人でも例外がありません。
 新約聖書にはこんな言葉があります。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった」(ローマ5:12) アダムが犯した、最初の罪、みんなこれを引き継いでいるのです。
 
2 神に呼ばれたアダム
 
 でも、そこで終わらないのが聖書の福音です。神様に背を向けたアダムに対して、神様はどのように接してくださったのでしょう。創世記3章8節。
 
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3・8)
 
 罪を犯したアダムは、神様に背を向けて隠れました。でも、神様は彼に呼びかけてくださったのです。「あなたはどこにいるのか?」と。不思議ですね。神様は全知全能のお方ですから、本当はアダムがどこにいるのか、どんな状態かご存じでした。神様の方から引っ張り出すこともできたかもしれません。でも、神様はそうなさらなかったのです。あえて「どこにいるのか」そう呼びかけてくださったのです。私たちは、そこに神様の愛を見ることができます。
 先日、新聞の投稿欄にこんな投書がありました。68歳女性の方です。
 「「おい」から「ママ」そして、「ばあさん」。私の名前は「雅子」ですが、結婚生活40年の中で、夫から名前を呼ばれたのは一度だけ。32年前に家を建てたとき、友人知人など沢山の人の中で、遠くから私を「雅子」と呼びました。多分、「おい」では、気づかないと考えた末、名前で呼ぶことにしたのでしょう。…人生あと何年生きられるかわかりませんが、今更、「まさこ」と名前で呼んでとはいえず、願ったところで、呼んでくれそうにない夫。臨終の際に「まさこ!」と呼んでほしい。それが今の私の願い…。でも、やっぱり、生きているうちに呼んでほしいかな。」
 どんな人もみんな、自分の名を呼んでほしいと願いがありますね。それは、人がみんな人格的なかかわりを求めているからだと思います。聖書のイザヤ書を読むと、神様が「あなたの名を呼んで」くださるとあります。神様は私たち一人一人の名を呼んでくださるお方です。それは、私たち人間と、人格的な交わりを、親しい関係を回復したいと願っておられるからです。イエス様もそうですね。苦しんでいる人、嫌われている人、人々から疎外されている人のところに、イエス様の方から足を運んでくださいました。そして、ある時には名を呼んでくださいました。あのエリコの町で人々に嫌われ、名を呼ばれるどころか、「罪人」呼ばわりされていたザアカイに対して、「ザアカイ」と名を呼んでくださいました。聖書の神様は(イエス様は)、どんなに背を向け隠れているように生きている人がいたとしても、神様の側からイエス様の側から足を運び、探しだし声をかけて、名前を呼んでくださるお方です。
 
3 神に覆われたアダム
 
 続けて、神様がアダムにしてくださったことはなんでしょうか。今日のテーマの聖書のことばです。
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(創世記3・21
 神様は、アダムを皮の衣で覆ってくださったのです。アダムは、神様との約束を破り、罪を犯した結果として、この後、エデンの園から追放されてしまいます。それは罪の結果ですし、アダムが自分で選んだ道でもありました。でも、神様は彼を見放したのではなく、しっかりと守ってくださったのです。「皮の衣」を着せてくだったのです。アダムは、神様との約束をやぶり善悪を知る知識の木の実を食べてしまった結果、自分たちの姿をみじめに感じるようになりました。自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせて腰のおおいを作ったと書かれています。その場しのぎです。だから神様は、そんな彼らを守り保護する衣を着せてくださったのです。
 この衣は、皮で作られました。ということは、この衣が作られるために、動物のいのちが犠牲になったということです。血が流されたということです。つまり、皮の衣は、人の罪を覆うために、動物のいのちが犠牲になったということを象徴的に示しています。
 そして、この出来事の中には、神様が、将来、決して朽ちることも消えることのない衣を人のために用意してくださるということも暗示されているのです。パウロは、ガラテヤ3章27節でこう記しています。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」 アダムに皮の衣を着せてくださった神様は、私たちに、救い主であるイエス様を着せてくださいました。イエス様は、私たちの罪も恥も呪いもすべて背負って十字架についてくださいました。アダム以来、壊れたしまった神様と関係を回復してくださったのです。聖書は、そのイエス様を信じる私たちは、「キリストという衣を着た」というのです。
 だから、私たちは、神様の前に罪のない者と認められ、もはや神様を恐れることなく、隠れることもなく、自由に神様の前に出ることができるようになりました。神様の永遠のいのちによって生かされる者となったのです。
 わたしたちは、クリスチャンであろうとするとき、無意識に自分で自分をきよめようとしていないでしょうか。自分の恥を汚さを自分でなんとかしようとしてしまわないでしょうか。でも、その必要はないと聖書は語っています。あなたのそのままをイエス様が覆ってくださる。包み込んでくださる。ただ、「イエス様あなたを信じます」そう告白するとき、神様がイエス様という愛の衣でおおい、その衣を通して、神様は私たちを罪のない者として、見てくださるのです。なんという恵みでしょうか。この衣は、決して、一時しのぎの衣ではありません。永遠に続く愛の衣です。この愛の衣に覆われた人生、それがクリスチャンの人生です。その神様の愛と、イエス様の恵みの中を、今週も歩んでゆきましょう。